第55話 扉の向こう
タワマンのリビングに夜の静けさが落ちていた。
テーブルの上に、収納の中に収まっている二十個の欠片と、古びた金属製の鍵の形をした何かの二つのものを並べた。
欠片の存在感が、指先を通して伝わってくる。
栞がソファに腰を下ろして、その二つを静かに見ていた。
「いつ行くの」
「今夜」
即答すると、栞が少しだけ目を細めた。
「急ね」
「引き延ばす理由がない。カルーンの師匠が待ってる」
「……そうね」
栞が膝の上で手を組んだ。
「一つ確認していい」
「何だ」
「私も行ける? 夢の世界に」
俺は少し考えた。
今まで以心伝心は現実世界での戦闘中に使うもので、俺が夢のコマンド空間へ落ちる時も栞は現実にいるため、夢の世界へ物理的に入ったことは一度もない。
だが、欠片が二十個揃った今なら以心伝心は完全安定しており、夢の気配の中でも接続が切れないはずだ。
「以心伝心で繋いだまま落ちれば、行けるかもしれない」
「かもしれない、ね」
「試してみないと分からない。ただ、繋がったまま俺が扉を開ければ、栞も引っ張られると思う」
「引っ張られる、か」
「……嫌なら無理にとは言わない」
栞が少しの間黙ってから、骨杖を手に取った。
「行くわよ。当然でしょ」
声に迷いがなかったため、俺は頷いた。
◇
装備の確認は、腰に翠嵐の刃と黒淵の紅刃があり、手元に栞の骨杖があり、収納の中に消耗品があるという少ないものだった。
ダンジョンへ行く時と同じ確認をしながら、夢の世界へ行くのに装備チェックをしていることが少しだけ可笑しくなった。
「笑ってる?」
「装備確認してるのが、なんか普通すぎて」
「普通じゃないわよ」
「まあそうか」
栞がリビングの椅子に座り、骨杖を両手で立てて背筋を伸ばす。
「繋いだままにしてくれ」
「分かった。以心伝心、起動する」
栞が目を閉じた。
接続が繋がる感触が完全に澄んでいてノイズが一切なく、今まで何十回も感じてきた感触だが今夜はその質が違っている。
繋がったまま、ここに栞がいるのだ。
「繋がってる?」
「ええ。鮮明よ。声が届いてる?」
「届いてる」
俺はソファに腰を下ろした。
「じゃあ行くか」
「ええ」
目を閉じた。
◇
睡魔が脳髄を殴る。
いつもなら真っ黒な空間に落ちていきコマンド画面が展開されるが、今夜は暗い底へ落ちていく途中で世界が変わった。
天井の高い廊下に火の灯っていない燭台があり、青白い光がぼんやりと壁を照らしている石畳の道が広がっている。
カルーンと何度も会ってきたあの場所だ。
隣を見ると骨杖を持ったまま栞が現実の姿のままで立っており、自分の手を見て小さく息を吐いた。
「……来られた」
「以心伝心で繋いだまま来られるのね」
「ああ」
「ここが夢の世界?」
「入口に近い場所だ。カルーンとよく会ってた場所」
栞が周囲を見回して、「……夢の気配が全部ここに溶けてる。Sランクダンジョンの最深部よりさらに濃い」と青白い光に照らされた現実とは空気の質が違う静かな廊下についてこぼす。
「でも以心伝心は切れてないか」
「切れてない。むしろここの方が鮮明なくらい」
道標の石が収納の奥で一度だけ静かに反応し、役目は終わっていてもここへ来たことを認識しているような微かな感触があった。
「……鍵を使う場所はどこだ」
俺が呟いた瞬間、廊下の奥からコツ、コツと一定の速さで近づいてくる足音が聞こえた。
深い紺の上着に腰に短刀を差し、こめかみに鎖飾りをつけたカルーンの顔が見え、俺は自然と息を吐く。
「……カルーン」
カルーンは俺の顔を見て、それから栞を見て一瞬だけ目を細めた。
「……来たか」
「遅くなった」
俺が言うと、カルーンは短く首を横に振った。
「いや」
一拍置いて続ける。
「思ったより早かった」
珍しく素直な言い方だった。
◇
カルーンが俺たちを廊下の奥へ案内しながら、歩きながら現状を話してくれた。
「師匠は?」
「持ちこたえている。今は安定している」
「独裁者は」
「扉が安定した今、侵攻が止まっている。今がタイミングだ」
カルーンが足を止める。
廊下が開けた先に広い空間があり、扉があった。
今まで「近づくな」と言われて何度も気配だけ感じ、引き寄せられても近づけなかった扉だが、古びた木の扉に鉄の装飾があり表面に欠片と同じ性質の光が薄く滲んでいて、思ったより普通の大きさだった。
「……これか」
「そうだ」
カルーンが静かに続ける。
「お前が鍵を持っているのは分かっている。開けられる」
俺は収納から、手の中でかすかに光を帯びている鍵を取り出した。
扉に近づき、中央にあった鍵穴に差し込んで回す。
◇
音がなかった。
ただ光が広がり、扉の輪郭に沿って欠片と同じ色の光が走ると、木の表面の古びた装飾が内側から照らされるように輝いた。
扉が開き、向こうから現実の空気ともダンジョンの空気とも違う、もっと古くて深くて広い何かの匂いがする夢の気配を含んだ風が来た。
栞が俺の隣で静かに息を吸う。
「……広い」
扉の向こうに世界が広がっていた。
曇った空の下に荒れた大地があり遠くに山の輪郭が見え、空の色は灰色だが夢の気配が光の代わりをしていて完全な暗闇ではない。
独裁者に支配されかけた世界の痕跡があちこちに残って荒れているが、確かにそこにある。
「……カルーン」
俺が振り向くと、カルーンが扉のそばに立ったまま向こうの景色を見ており、その横に今まで見たことのない人物がいた。
白髪で背が高くなく、目を閉じているがそこにいるだけで存在感があり、夢の世界の住人特有の気配がカルーンより数倍濃いため年齢は分からない。
「師匠か」
俺が言うとその人物が目を開けた。
値踏みでも歓迎でもなく、ただ確認するような静かな目だった。
「……ようやく来た」
低い声で告げる。
「思ったより、若いな」
◇
師匠が俺を見たまま、もう一度だけ口を開いた。
「名前は」
「朝倉優馬」
「栞か」
今度は俺の隣を見たので、栞が短く頷く。
「神城栞です」
師匠は二人を見比べてから小さく頷き、それ以上は何も言わなかった。
カルーンが横から口を開く。
「師匠。こいつらが来た。約束通りだ」
「……ああ」
師匠の目が、扉の向こうの曇った空へ向いた。
「欠片は揃ったか」
「揃いました」
「鍵も」
「取れました」
「……そうか」
短い沈黙のあと、師匠が扉の向こうへ視線を向けたまま静かに言った。
「独裁者は、あの山の向こうにいる。扉が安定した今、向こうも気づいているはずだ。時間はない」
俺は扉の向こうの景色を見た。
遠くに見える山の輪郭が、灰色の空の下に黒く沈んでいる。
「今日行けるか」
「行ける」
カルーンが答えた。
「道は分かっている。案内する」
◇
夢の世界を歩き始めた。
石畳ではなく荒れた土の地面で踏むたびに夢の気配が漂い、現実のダンジョンで感じる魔力とは別の何かが空気に溶け込んでいるため、足元の感触が現実と違う。
「……歩けてるな」
俺が呟くと、栞が隣で「ええ。以心伝心、まだ繋がってる」と返す。
「ここでも切れない」
「むしろここの方が繋がりやすい気がする。夢の気配の中の方が、以心伝心が安定するのかもしれない」
カルーンが前を歩きながら振り返った。
「以心伝心とやらは、夢の技術に近い。夢の気配が濃いほど出力が上がる。ここではフル出力で使えるはずだ」
俺と栞は短く顔を見合わせた。
現実のSランクダンジョンで「今まで一番噛み合ってる」と感じた以心伝心がここではさらに上がるとは。
「……最高の場所じゃないか」
「そうね。私たちの庭みたいなものね」
栞が静かに言った。
◇
歩きながらカルーンが話してくれた。
「独裁者は形を持たない。現実のストレスや絶望が積み重なって生まれた存在だ。だから倒すには、核を断ち切る必要がある」
「核は」
「中心にある。見えない。ただ、お前の最適解なら見つけられるはずだ」
「今まで鑑定が通らない相手とも戦ってきた。核が見えれば行ける」
「一つだけ注意がある」
カルーンの声が少し低くなった。
「独裁者の攻撃は、眠りを奪う」
「眠りを」
「お前のスキルの根幹は睡眠だ。眠り続ける力を削られると、最適解が出なくなる。それが独裁者の唯一の対抗手段だ」
俺は少しだけ考えてから答えた。
「眠れなくなる前に仕留めればいい」
「そうだ」
「栞の支援があれば速度は上げられる」
「ええ」
栞が静かに答え、「速攻で行くわよ。長引かせたら不利なのは分かった」と続ける。
「分かった」
◇
山の麓まで来ると空気が変わり、荒れた大地がここから先だけ色が違って土が黒く、草が一本もない。
夢の気配ではなく別の何かが満ちているのだ。
Sランクダンジョンの圧とも違う、もっと根本的な息を詰まらせるような重さがある。
「……これが独裁者の気配か」
俺が言うとカルーンが頷いた。
「ここから先は俺は行けない。師匠も同じだ。夢の世界の住人は、独裁者の気配が濃い場所では身体が保たない」
カルーンが俺の目を見た。
「あとはお前たちだけだ」
「分かった」
短く返すとカルーンがわずかに口を開きかけ、何か言おうとして止まり、それからただ一言「……頼む」とだけ告げた。
感情を外に出さないこいつが今日だけは隠せなかったらしく、いつものカルーンらしくない言い方だった。
「任せろ」
俺は前を向いた。
◇
栞と二人で、黒い土の上を歩いた。
ドローンが夢の世界の住人を映せないのと同じようにここでは配信が届かないため、コメント欄は映らない。
初めて配信なしで戦うことが、妙にしっくりきた。
ここからは俺たちだけだ。
「栞」
「何?」
「以心伝心、準備してくれ」
「もうしてるわよ」
声が澄んでおり、今まで一番近く感じた。
◇
山の向こうに出た瞬間、それはいた。
形がなく巨大な影とでも言うしかないその存在は人の形に似ているが明確な輪郭がなく、縁が絶えず揺らいで周囲の空気を塗り替えていく。
近づくだけで胸の奥に何かが圧し掛かってくる重い感覚があり、絶望という言葉が形を持てばこういうものになるのかもしれない。
ステータスボードに『独裁者』と表示が出たが、レベルもHPも何も表示されない。
「……鑑定が通らないのは夢渡りの番人と同じか」
「ええ。でも、核はあるはずよ」
「探す」
俺は目を閉じた。
◇
コマンド空間に落ちた。
今まで見てきた真っ黒な空間ではなく、夢の世界の空と同じ灰色の空間だった。
栞が隣に今まで一番鮮明に立っている。
コマンド画面が浮かび、白枠が金色を帯びていた。
「ステータスが見えない。動かせてみる」
「分かった。私は速度から入る」
ポン、と今まで聞いてきた中で一番澄んだ電子音が鳴った。
◇
現実に戻り、完全脱力した俺の身体が踏み込んだ。
独裁者の影が動き、腕のような形が伸びてくる。
触れると眠りを削られる感覚がしたため、最適解が軌道を変えてその外へ滑る。
翠嵐の刃が影の端を削って霧のように散るが、核が見えない。
もう一度踏み込んで別の角度から削るとまた散り、散った場所に一瞬だけ何かが光った。
コマンド空間で『今よ。右の少し上』と栞の声が届き、黒淵の紅刃を持つ手がその方向を向く。
独裁者の影が覆い被さろうとした瞬間、栞のデバフが動きを重くした。
一瞬だけ小さく光る点の核が露出した。
これだ。
だが、踏み込もうとした瞬間、独裁者の影が今までとは違う動きをした。
腕ではなく影全体が広がり、周囲を塗り替えるように夢の空気を塗り潰していく。
眠りを奪う攻撃だ。
直撃はしなかったが端を掠め、脳髄の奥が一瞬だけ痺れて最適解の精度がほんの少し落ちた。
パチリと目が開き、俺は一歩後退した。
「優馬」
栞の声が届く。
「今の、掠ったわね」
「ああ。精度が少し落ちた」
「どれくらい持つ」
「あと何発かは耐えられる。でも長くはない」
「分かった」
栞の声が一段低くなった。
「次で決めるわよ」
「ああ」
俺は前を見た。
独裁者の影がまた形を変えながらこちらへ向かってくる。
次で決める。




