第54話 二十個目
朝のタワマンのリビングで、テーブルの上に魔力回復薬や解毒薬、応急処置用のポーションといった消耗品を昨日より多めに並べて用意した。
栞がキッチンからコーヒーを持ってきて向かいに座り、「昨日より奥まで行けるな」と尋ねてきたので、「ええ」と頷いてそれだけ確認し、コーヒーを飲んだ。
収納の奥で道標の石が昨日より強く静かに脈を打っており、引き寄せる感触は昨夜から変わっていない。
「昨日の魔物の動き、もう頭に入ってる?」
「入ってる。二戦目からは手数が減るはずだ。最適解は一度見た動きの方が速く出る」
「それが今日の鍵ね」
「SP消耗をどれだけ抑えられるかで、最深部まで届くかどうか変わる」
栞がカップをテーブルに置き、「行きましょう」と立ち上がる。
「消耗品、多めに持ったか?」
「当然」
「じゃあ行くか」
◇
池袋ギルドの受付カウンターへ行くと、顔なじみの受付嬢が俺たちを見て昨日と同じように一拍だけ止まったが、今日は昨日より少しだけ覚悟が滲んでいるように見えた。
「本日もSランクへの入場を?」
「はい」
「……承知しました」
手続きを済ませて扉へ向かいかけた時、受付嬢が小さく「朝倉様」と声をかけてきた。
振り向くと受付嬢が昨日より深い角度で頭を下げて、「……行ってらっしゃいませ」と送り出してくれたので、俺は短く頷いて扉を押した。
◇
Sランクダンジョンの入口でドローンを起動すると、コメント欄が流れ始めた。
『また来た!』
『二日連続のSランクダンジョン』
『昨日よりSP管理できるかな』
『神城さんの顔が昨日より落ち着いてる』
『慣れてきてるのか……?』
扉に触れると指先がじんとする感触はまだあるが、昨日ほど驚きはしない。
「昨日より平気な顔してるわね」
「一度くぐれば慣れる」
「Sランクダンジョンに慣れるの早すぎない?」
「慣れないより慣れた方がいいだろ」
呆れたように息を吐いた栞とともに、扉を押し開けた。
◇
空気の重さは昨日と変わらないが、昨日一度この重さを体で覚えているため、入った瞬間の動揺がなかった。
それだけで違うのだ。
最初の遭遇戦で現れたのは昨日と同じ種類の暗紫色の甲殻を持つ四足の魔物であり、俺は目を閉じた。
◇
コマンド空間に落ちると、昨日見た動きのデータがあってシステムがそれを使っているため、最適解が出るまでの時間が昨日より明らかに短かった。
選択する。
ポン、と電子音が鳴った。
◇
翠嵐の刃が滑り、相手が昨日と同じ軌道で動く。
昨日より一手少なく、黒淵の紅刃が継ぎ目を捉えた。
倒れる。
パチリと目を開けた。
「手数、減ったな」
「ええ。昨日の三分の二ね。SP消耗が明らかに違う」
「このペースなら最深部まで届く」
コメント欄が沸いた。
『一日で適応してる!』
『昨日より手数少ない!』
『最適解が学習してるのか?』
『いや優馬が覚えてるんだろ』
『それもあるけど以心伝心のシステムが一段噛み合ってる気がする』
俺たちは前へ進んだ。
◇
遭遇戦を重ねて三体目、四体目、五体目と倒していくほど、体が馴染んでいくのが分かった。
手数が減ってSP消耗が落ちていき、昨日は六体目あたりで危険域に入り始めたが、今日はまだ余裕がある。
「ペース、悪くないわ」
「昨日の半分くらいの消耗で来れてる」
「膝枕なしで最深部まで行けそう?」
「……たぶん」
「また『たぶん』ね」
「言い切れないことは言い切らない主義だ」
「知ってるわよ」
栞が小さく笑い、収納の奥では道標の石の脈動が一段また強くなっていた。
◇
昨日引き返した地点を越えると通路の空気がさらに変わり、夢の気配が濃くなった。
足元の石畳の紋様が奥へ進むにつれて細かくなっており、誰か、あるいは何かがここを作ったような気配がある。
「……ここから先、昨日来てないな」
「ええ。でも道標の石は前を向いてる」
「俺もそれを感じてる。引っ張られてる」
視聴者が息を呑んでいるのか、コメント欄の流速が落ちた。
『空気が変わった』
『なんか画面越しでも分かる』
『ここより奥は誰も来たことないんじゃ』
『初心者マニア ◆fAnAtIc.Yu ……烈さんでも来たことないのか』
俺は前を見たまま歩いた。
◇
通路が開けて天井が高い広い空間に出ると、壁には古い彫刻が刻まれ、石畳の中央には大きな魔力紋があった。
ここが最深部のひとつ手前の空間だと直感で分かり、正面には今まで見てきたどの扉とも違うものがある。
黒石の素材は同じだがサイズが三倍はあり、表面に刻まれた紋様は複雑で、近づくだけで空気が変わる。
道標の石が火傷しそうな熱ではないが、ただ強く、確かに、今まで感じたことのない強さで脈を打った。
「……ここだ」
俺が言うと、栞も静かに「ええ。間違いない」と頷く。
扉に近づいて触れようとしたが、押しても引いても動かず開かなかった。
「鍵が必要みたいね」
栞が扉の紋様を観察しながら「……形が、白百合の花に似てる」と言うので、俺は収納の奥を探った。
銀色のエンブレム、白百合の花が精巧に彫り込まれたそれを取り出す。
「凛さんのエンブレムか」
「試してみなさい」
扉の紋様の中心にエンブレムを押し当てると、一瞬の静寂のあとに光が走った。
扉の輪郭に沿って白い光が広がり、石の継ぎ目が音もなく開いて、重い石の扉が押したわけでもないのに静かに内側へ動いていく。
コメント欄が止まった。
『エンブレムが鍵だった』
『天城さん……最初から知ってたんだ』
『「Sランクダンジョンに入った先の話」ってそういうことか』
『ずっと前から用意されてたんじゃないか』
開いた扉の向こうは暗いが、奥から夢の気配と同じ性質の淡い光が漏れているのが見えた。
「行くか」
栞が俺の隣に並び、「ええ」と答えた。
◇
扉の先は今まで潜ったどこよりも静かで、ダンジョンの深部には必ずある魔物の気配や水の滴る音、風の抜ける音などが全部なかった。
天井が見えないほど高い広い石造りの空間は、床に隙間なく刻まれた細かい紋様の一本一本から夢の気配と同じ性質の淡い光が滲んでおり、ここだけ世界の質が違う。
「……夢の気配が空気に溶けてる」
栞が静かに言い、「ダンジョンというより、夢の世界の入口みたいね」と続ける。
「似てる。カルーンと会った場所の空気に近い」
収納の奥の道標の石はもう熱くはないが、鼓動のリズムが心臓の音に重なるような静かな確かさで、今まで感じたことのない強さで脈打っていた。
コメント欄の流速が落ちている。
『空気が変わった』
『ここ、ダンジョンじゃない感じがする』
『夢の世界みたいって言われたら分かる気がする』
『誰も来たことないんじゃないか、ここ』
俺たちは前へ進んだ。
◇
空間の中央にいたそれは高さ三メートルを越え、全身が夢の気配でできているような存在で輪郭がはっきりせず、見ていると目の焦点が合わなくなる。
人の形をしているが人ではなく、関節の位置がおかしくて動くたびに輪郭が揺らいでいた。
鑑定をかけたが『夢渡りの番人』と出るだけで、他の情報が何も出ない。
「……鑑定が通らない」
「私も。ステータスが読めないわ」
骨杖を構えた栞が、「でも道標の石が反応してる。欠片を持ってる」と言う。
「分かってる」
番人が動き出し、輪郭を揺らぎながら足音もなく、空気の動きだけを伝えてこちらへ向かってくる。
「以心伝心、行くわよ」
「ああ」
俺は目を閉じた。
◇
真っ黒な空間に今まで何十回と見てきたコマンド画面が浮かんだが、今日は白枠がわずかに金色を帯びていて画面の色が少しだけ違った。
隣に立っている栞の声の届き方が、昨日より一段澄んでいる。
「ステータスが見えない相手。パターンで来る可能性がある。最初の動きで読む」
「分かった。翠嵐で削って動きを探る。黒淵は核が見えてから」
「バフは速度から入る。切り替えは任せて」
「ああ」
いつもより少しだけ澄んだ、ポン、という電子音が鳴った。
◇
現実に戻り、完全脱力した俺の身体が踏み込んだ瞬間、番人の輪郭が揺らいで形を変えた。
予測より長く腕が伸びる。
最適解が瞬時に修正し、軌道を変えた翠嵐の刃が伸びた腕の側面を薄く削った。
夢の気配が霧のように散り、輪郭の中心である胸の位置に近い場所に小さく光る点の核が見えた。
夢のコマンド空間で『核よ。胸の中央』と栞の声が届き、黒淵の紅刃を持つ手がそれを正確に狙う。
番人の輪郭が再び揺らいで核を覆い隠そうとするが、栞のデバフが動きを抑えて一瞬だけ核が露出した。
踏み込む。
黒淵の紅刃の切っ先が核を正確に捉え、夢の気配ごと断ち切る。
音もなく番人の輪郭が広がり、霧のように空間に溶けて消えた。
パチリと目を開ける。
静まり返った部屋の床に、何かが落ちていた。
◇
近づいてしゃがみ込むと、それは欠片だった。
だが今まで見てきたどれとも違い、ハート形ではなく複雑な多面体の形をしていて全面から均等に光が溢れている。
夢の気配と道標の石の鼓動が同じ周期で同期しているような不思議な感触があり、それを拾い上げた。
その瞬間。
今まで聞いたことのない、いつものポンという音ではないもっと深く重く静かなシステム音が鳴った。
『夢の欠片 20個達成』
『夢の扉まで:残り0』
『道標の役目が完了しました』
以心伝心の感触が変わり、栞の気配が今まで以上に近くなった。
ノイズが完全になく接続が完全に安定しており、これが欠片20個で完成するはずだった本当の以心伝心なのだと理解する。
収納に欠片を仕舞い込んだ瞬間、道標の石の鼓動が役目を終えたように静かに止まった。
◇
コメント欄が数秒間完全に止まった後、一気に流れ始めた。
『20個……達成した』
『夢の欠片20個達成した!!!!』
『長かった……初話から全部見てたわ』
『やっと……やっとだ』
『神城さんの顔が……』
『涙じゃないよな? 絶対涙じゃないよな?』
立ち上がって栞を見ると、骨杖を両手で持ったまま真っ直ぐ前を向いており、涙は出ていないが瞼が少しだけ赤くなっていた。
「……栞」
「何よ」
「泣いてるか」
「泣いてない」
「そうか」
「……泣いてないわよ」
二回言ったが、俺は何も言わなかった。
◇
空間の奥の光が収まった床の向こうに、今まで見えなかった石の台座が現れて何かが置かれている。
古びた金属製で、鍵というより鍵の形をした何かという感じがし、表面に細かく刻まれた紋様が道標の石と同じ性質の光をわずかに帯びていた。
近づいて手を伸ばし、拾い上げた瞬間にステータスボードに変化が出た。
『最後の鍵の在処:取得済み』
道標の石が収納の奥で一度だけ静かに脈打ち、それから完全に止まった。
「……取れた」
俺の声が静かな空間に吸い込まれる。
「ええ」
隣に並んだ栞が、「欠片が20個。鍵も取れた。全部揃ったわ」と続けた。
言葉にするとなんでもないことみたいに聞こえるが、ここまで来るのにどれだけかかったことか。
俺は特に感慨に浸るタイプではないが、今この瞬間だけは少しだけ立ち止まり、社畜時代に解雇されて二十時間眠り、スキルを手に入れて栞と組み、ダンジョンを潜り続けてカルーンと会い、欠片を集め続けてここまで来た道のりを思った。
「行くか」
俺が言うと、栞が短く「ええ」と答えた。
◇
最深部を出て扉を抜け、すでに来た時に魔物を倒した跡が残る新たな遭遇戦のない通路を引き返してダンジョンの入口まで戻ってきた。
扉を押し開けると夕方の外の光が差し込み、池袋の街がいつも通りそこにあり、人波やビルの灯り、遠くで聞こえる電車の音に迎えられる。
俺のスマホが震えたがギルドの通知ではなく、登録していない番号からの着信で、画面を見ると一言だけテキストが届いていた。
送信者:天城凛
『扉、開いたわね。おめでとう』
どこかで見ているらしい彼女に『エンブレム、使いました。ありがとうございます』と短く返すと、すぐに返信が来た。
『そのためにあげたのよ。最深部への扉は白百合の剣が封印管理してる。いつか使う人が来ると思ってたわ。まさかこんなに早いとは思わなかったけどね』
やっぱり最初から知っていたらしい。
栞が横から画面を覗き込み、「……用意周到ね、あの人」とこぼす。
「まあ、Sランクってそういうもんだろ」
「あなたも来年はSランクなんだけど」
「俺はもっとぼんやりしてる」
俺の返答に、栞が呆れたように笑った。
◇
並んで歩き出し、しばらく無言で歩いていると、夕暮れの池袋が後ろへ流れていく。
「ねえ」と栞が言い、「次は、夢の世界ね」と続けた。
「ああ」
少しの間があり、「怖い?」と聞かれたので俺は少し考えた。
「……怖くはないな。ただ、ちゃんと眠れるかどうかは、ちょっと気になる」
「夢の世界に行くのに眠れるかどうかを心配するの、あなたらしいわ」
「睡眠スキルが基本なんだから当然だろ」
栞が小さく吹き出し、「そうね。じゃあまず今日は飯にしましょうか」と提案してくる。
「そのつもりだ。何が食いたい」
「ラーメンでいい。あと餃子」
「それは普通に食いたいだけだろ」
「たまには普通でいいのよ」
俺は少しだけ口角が上がるのを感じた。
収納の奥で道標の石はもう脈を打っておらず、役目を終えた静けさがそこにある。
鍵が収納の中に収まり、欠片が二十個収まっている。
次は、扉を開けるのだ。
でも今夜は、ラーメンと餃子だ。




