第52話 観測手の、初めての剣
ギルド本部の特別試験フロアはAランク試験の時とは場所が違い、エレベーターを降りて地下二階に到着した瞬間、空気の質が変わるのが分かった。
音の吸われ方が違って足音が妙に短く消え、壁も床も天井も魔力を吸収する特殊な素材で作られているらしく、ダンジョンの深部に似た独特の重さが肌に張り付いてくる。
案内の職員が扉の前で立ち止まり、深く頭を下げた。
「試験官はすでに中でお待ちです。準備ができましたら、ノックせずにお入りください」
それだけ言って、職員は足早に引き返していく。
扉の前に二人で立つ。
「……行くか」
「ええ」
俺は取っ手に手をかけ、扉を押し開けた。
◇
Aランク試験の時の会議室とは比べものにならないほど広く、バスケットコートほどの広さがある石造りの空間には、天井に埋め込まれた魔力灯から白く均一な光が部屋全体に落ちている。
壁際に立っていた一人が、こちらを見て声をかけてきた。
「来たか」
神崎烈だ。
短く刈り込んだ黒髪で、腰の剣が鞘に収まったままでも気配だけで空気の密度を変えてくる。
まったく驚いておらず、最初からここにいたというより、ずっとここにいたような顔をしている。
「お待たせしました」
「待っていない。今来た」
いつも通りのやり取りをしていると、部屋の奥のソファに誰かが座っているのに気づいた。
脚を組んでコーヒーカップを片手に持ったままこちらを見ているのは、銀色の髪と切れ長の瞳に気さくな笑みを浮かべた人物だ。
「久しぶりね、ルーキー」
天城凛が、カップをテーブルに置きながら立ち上がる。
「随分と大きくなったじゃない」
Sランク探索者であり、白百合の剣のクランマスターにして平均同接六十万人のカリスマで、命の魔石を雑談のついでに渡してきた人だ。
久しぶりに目の当たりにしたその存在感は、記憶より大きく感じられた。
「……なんで二人いるんですか」
俺が聞くと、凛は楽しそうに笑う。
「Sランク試験はそういうものよ。ずっと楽しみにしてたわ」
烈が静かに口を開く。
「俺もだ」
コメント欄が、一気に濁流になった。
『寝落ちニキSランク試験キタ━━━━!!』
『試験官が烈さんと天城凛!?』
『日本のSランク二人が試験官って何事』
『これ試験じゃなくて処刑では??』
『いや待って神城さんもいる ダブル寝落ちSランク挑戦!?』
『こんな試験見たことない どうなってんだ』
俺は画面の端に流れるコメントを横目に、短く息を吐いた。
隣で栞が無言のまま、杖の握り方をわずかに変えた気配があった。
◇
試験の説明は「制限時間は十分。どちらかに有効打を入れるか、十分生き残れば合格」と短いものだった。
凛が笑顔のまま部屋の中央へ歩き出し、「ただし——」と言いながら一瞬だけ魔力を解放する。
部屋の空気が重くなって壁の一点にひびが入りかける音がし、俺の肌が粟立ち、栞の骨杖の先端に装着された翠緑の魔力結晶が反応して微かに光った。
凛は何事もなかったようにまた笑い、「本気でやるわよ。手加減したら失礼でしょ」と告げ、烈も静かに「俺も同じだ」と頷く。
コメント欄がまた爆発したが、視聴者が盛り上がれば盛り上がるほど凛のバフが上がるのだから、この試験はその構造からして既に理不尽だ。
栞が俺の袖をわずかに引き、「以心伝心、行くわよ」と声をかけてきたので、短く「ああ」と返して目を閉じた。
◇
真っ暗な空間に落ちたが、今まで感じたことのある静けさとは違ってノイズが一切なく、今まで薄くかかっていた霞が完全に消えた感覚がある。
欠片を十九個集めた耐性が、ここで初めて本当の意味で機能しているのだろう。
隣にはいつも通り栞が立っているが、声の届き方が違った。
「……澄んでる」
俺が思わず口にすると、栞も短く「ええ。今まで気づかなかったけど、ずっと少しノイズがあったのね」と頷く。
これが完全安定の以心伝心の本来の姿らしく、浮かび上がったコマンド画面の中で栞が即座に動き出した。
「凛さんのスキルは配信の熱狂がバフになる。長引くほど強くなる。速攻よ」
「分かった。役割を逆にする」
栞の動きが止まり、「逆?」と聞き返してくる。
「俺が凛さんを引き受ける。烈さんは栞に任せる」
「……私が烈さんの相手をするの」
「以心伝心で動ける。自分にも乗せれば渡り合える」
長い一秒の沈黙のあと、栞が答えた。
「分かった。やってみる。ただし——」
「自分にも乗せるか」
「当然でしょ」
ポン、と電子音が鳴り、続けてもう一つ鳴る。
一つは俺の選択で、もう一つは栞が自分自身へバフをかけた音だった。
◇
目を開けると部屋の中央に立っていた凛が笑顔のまま両腕を軽く広げ、「さあ、始めましょうか」と告げた。
直後、配信のコメント欄が爆発する。
『始まった!!』
『Sランク試験開幕!』
『寝落ちニキ頑張れ!!!』
『神城さんも!!』
室内の魔力密度が目に見えて跳ね上がり、視聴者の熱狂がそのままバフに変換される凛のスキルが機能して、笑顔の圧が一段増した。
◇
完全脱力した俺の身体が、翠嵐の刃を抜いて踏み込んだ。
凛の指先から魔力弾が放たれる。
一発じゃない。
十発。
二十発。
隙間を縫うように弾道が変わりながら、全方位から迫ってくる。
翠嵐の刃が音を殺して弾幕の最小の隙間を縫い、黒淵の紅刃が魔力そのものを断ち切りながら前進する。
『コメント数が!』
『凛さんのバフがまた上がった!』
『弾の数が増えてる!』
『寝落ちニキ縫ってる縫ってる!』
コメント欄が沸くたびに弾の密度が上がり、隙間が少しずつ確実に消えていく。
「面白い。でもこのまま時間を使えば私はもっと強くなるわよ?」
楽しそうに言う凛に俺は答えず、ただ前へ進み続ける。
夢のコマンド空間の底で、栞の声が届いた。
今よ。
タイミングが完璧すぎて言葉はいらない。
栞が凛への対処をやめ、全バフを一瞬だけ俺に集約した。
翠嵐の刃の速度が、跳ね上がる。
音が消えた。
弾幕の隙間が見えたその瞬間、俺の身体がそこへ滑り込む。
凛の魔力の盾が展開される。
黒淵の紅刃がそれを根こそぎ断ち切る。
翠嵐の刃が凛の懐へ滑り込む。
凛が初めて笑顔を止めた。
刃が首筋で静止する。
◇
同じ瞬間、部屋の反対側でも戦いが動いていた。
以心伝心発動中。
栞の身体が完全脱力しており、同時に速度強化や身体能力強化といった普段は前衛に叩き込む自己バフが全身に満ちる。
骨杖を構える姿勢はいつもと違っていた。
烈が静かに間合いを詰めてくる。
剣を抜く音すらしない。
一閃。
骨杖が軌道の外へ滑る。
紙一重だった。
烈の目が細くなる。
『……え』
『神城さんにバフ乗ってる』
『自分に支援かけてる……?』
『以心伝心+自己バフって、そういうことか』
『支援魔法使いが烈さんの剣を捌いてる』
二閃。
栞の身体がバフの速度で後退しながら骨杖を流す。
烈が速度を上げる。
三閃目。
栞が骨杖の先端を烈の剣の腹に当てて、軌道をほんの数ミリだけ弾いた。
自己バフが乗った腕の力があるから弾けるし、最適解の動きがあるから当てられるという、この二つが揃って初めて成立する一手だ。
その隙に。
骨杖の先端が、烈の首筋へ静かに滑り込んだ。
「……詰めたわ」
栞の声は震えていなかった。
◇
室内が完全に静まり返る。
翠嵐の刃が凛の首筋で止まり、骨杖の先端が烈の首筋に触れた状態で、四人が静止した。
コメント欄も止まっている。
凛が最初に「あははっ! やるじゃない二人とも!」と声を上げ、烈が静かに息を吐いて「……合格だ」と告げた。
凛が烈を見て意地悪く笑う。
「観測手が自分に乗せてくるとは思わなかったわ。烈、あなた油断したでしょ」
「……少しだけ」
烈がそれを認めるのを、俺は初めて聞いた。
◇
試験が終わり四人で向かい合ったところで、「一つ聞いていいですか」と俺が言うと烈は短く頷いた。
「烈さんを足場にするつもりだったんですが」
「知っている」
「なんで避けなかったんですか」
「栞が面白い動きをしていたから」
烈はそれだけ言って栞の方へ視線を向ける。
栞は無言で烈を見返しており、何も言わないが杖を持つ手が少しだけ強く握られているのが見えた。
凛が俺の頭をぽんと叩く。
「次は負けないわよ。Sランクダンジョンで会いましょう」
「……そのつもりです」
「楽しみにしてるわ」
ウィンクした凛が烈と並んで扉へ向かい、出ていく直前に烈が一度だけ振り返って「待っている」とだけ言い残し、扉が閉まった。
◇
俺と栞だけが残った部屋でスマホが同時に震え、ギルドの公式アプリからの通知が届いた。
『Sランク昇格試験 合格』
『朝倉優馬・神城栞 Sランク認定』
コメント欄が再び爆発する。
『合格!!!!』
『Sランクキタ━━━━!!』
『二人ともSランクになった!!』
『烈さんと凛さんに同時に詰めたの意味わからん』
『観測手が烈さんに詰めるって何??歴史的瞬間じゃないか』
『同接3人の頃から見てた俺が言う あいつは本物だった』
最後のコメントを見て栞が小さく息を吐いたが、俺も何も言わず、ただ通知を閉じて扉へ向かった。
◇
池袋の街へ出ると夕方の光が差し込んでおり、しばらく黙って隣を歩いていた栞が口を開いた。
「ねえ」
「何だ」
「烈さんに詰めた時、手が震えてたわ」
「……そうか」
「でも止めなかった」
「……それが観測手の仕事だろ」
栞が少しだけ早足になる。
耳が赤くなっているのが見えた。
少し歩いてから、栞が小さく言った。
「……次はもっとうまくやる」
言葉にしなくても十分だったので、俺は何も言わなかった。
収納の奥で、道標の石が静かに脈を打っている。
『夢の扉まで:残り1』
Sランクという肩書きより、まだ終わっていないことの方が頭にある。
「行くか」
「ええ」
歩き出すと、夕暮れの池袋が後ろへ流れていった。




