第50話 残り一つ
コンクリートの床が途切れ、古びた石畳に切り替わる境界線を越える。
ここから先は昨日も来て、撤退した場所だ。
「今日は奥まで行く」
「分かってる」
栞は杖を構え、真っ直ぐ前を見据えている。
狭く天井の低い通路に合わせてドローンが高度を下げる。
足元の石畳は乾き、地下水道の湿気はここには届いていないようだった。
その代わり空気の質が違っていて、重いとも薄いともつかない、ダンジョンの魔力とは別の何かが肌にじっとり張り付いてくるような不快感がある。
収納の中で脈打つ道標の石の感触は、昨日から変わっていた。
熱を帯びるのではなく、鼓動のようなリズムで静かに、着実に鳴っている。
それが何を意味するのかは分かっていた。
昨日で残り二個だった欠片が一個になったからだ。
残り一つ。
「コメント欄、止まってる」
栞の言葉通り、さっきまで流れていたコメントがぴたりと止まっていた。
ドローンは動いているから配信が落ちたわけではなく、ここへ来た途端に視聴者たちが息を呑んで黙り込んだらしい。
画面越しでも、この異様な空気が伝わっているのだろうか。
「構わない。進むぞ」
「ええ」
俺たちは通路の奥、闇が濃くなっている場所へと足を踏み入れた。
◇
五十メートルほど進むと、急に空間が広がった。
天井が高く床面積も広くなり、壁には意味の読めない規則的な彫刻が刻まれている。
通常のダンジョンの設計とは違い、誰かが明確な意志を持ってここを作ったような気配があった。
そして、部屋の中央に何かがいた。
高さ二メートル強の、不規則な形をした岩塊だ。
床から直接生えているように立っていて、最初は苔むしているのかと思ったが、よく見ると細かいひびが網の目のように走っている。
そのひびの隙間からは、夢の欠片と同じ性質のぼんやりとした光が滲んでいた。
ピクリとも動かず生きているのかすら分からないが、間違いなく俺たちを認識している気配がある。
「……また石ね」
「またな」
道標の石の鼓動が速くなった瞬間、【以心伝心】が起動し、同時にノイズが走った。
ブツ、と接続が揺れ、栞の気配が一瞬遠のく。
濃すぎる夢の気配が接続そのものに干渉する。以前にも起きた嫌な現象だ。
「——繋がってる?」
栞の声が少し遠く聞こえる。
「……薄いけど切れてはない!」
「こちらも同じ。行けるわ」
直後、岩塊が長い眠りから覚めるようにゆっくりと動き出した。
ひびから滲む光が強くなり、表面の石が剥がれ落ちていく。
中から現れたのは、腕も脚も頭もある、人の輪郭に似た何かだった。
ただすべてが石でできていて、関節の部位は夢の光が継ぎ目となって繋いでいる。
『夢石の守護者』
ホログラムに表示が出た直後、栞のバフコマンドが飛んできた。
だが、バフの出力がいつもの六割程度しかない。
接続のノイズのせいで伝達ロスが起き、栞が狙った数値を正確に叩けていないのだ。
くそ、やっぱり影響が出るのか。
それでも体の奥に熱が満ちてくる感触を確かめ、俺は短く息を吐いた。
「——行くぞ」
俺は目を閉じた。
◇
真っ暗な空間にシステムウィンドウが浮かぶ。
『夢石の守護者 が あらわれた!』
スキル選択画面。
いつもなら迷わずに入力できるはずなのに、コマンドの反応が心持ち遅かった。
夢の気配が濃すぎるとここまでシステムに影響が出るのか。
焦りが胸をよぎる中、脳が弾き出す最適解が僅かにブレていることに気づく。
いや、俺の思考がブレているんじゃない。
栞からのバフ出力が六割だから想定火力がずれていて、それをシステムが再計算しているせいで一手余分にかかっているんだ。
なら、それに合わせて俺がねじ込むしかない。
『翠嵐の刃 + 黒淵の紅刃』
『ユウマ の 二刀流連撃 が はつどう!』
◇
石の巨体に向かって踏み込み、翠嵐の刃で表面の石を削る。
岩の外装を一枚剥がすための最初の一撃は、バフが六割のせいかいつもより浅く感じた。
守護者の丸太のような腕が振り下ろされる。
一歩外へ逃げると回避補正が乗り、翠嵐の風属性が方向を補正して自動的に最小の動きで躱し切れた。
そのまま二撃目を入れる。
表面の石がさらに削れてひびが広がり、眩しい光が溢れ出した。
と同時に、守護者の動きが速くなる。
濃い夢の気配に満ちたこの場所に馴染んでいるせいか、動きの軌道が読みづらくてヒヤリとした。
その瞬間、栞からのバフ出力が六割から七割へと引き上げられた。
ひどいノイズの中で接続がブレているというのに、あいつは数値ではなく肌感覚だけで無理やり出力を合わせてきたんだ。
システムが瞬時に再計算を行い、俺の踏み込みがぐんと深くなる。
三撃目。
守護者の胸部中央、ひびの交差点めがけて黒淵の紅刃を叩き込んだ。
魔力ごと断ち切る刃が、関節を繋いでいた夢の光を根こそぎ両断する。
ズバァッ。
石が砕けるのとは違う、何かの繋がりが断たれるようなくぐもった音が響いた。
ピタリと守護者の動きが止まり、胸部のひびが爆発的に広がる。
全身から夢の光が溢れ出し、石の輪郭が内側からガラガラと崩れ落ちていった。
パチリ、と目が開く。
目の前で、守護者の残骸がサラサラと光の粒子に変わっていくところだった。
周囲は水を打ったように静まり返っている。
直後、ホログラムのコメント欄が一気に濁流のように動き出した。
『……え、終わった?』
『石ごと魔力を断ったのか』
『あの光、なんだったんだ』
『神城さんのバフが途中で変わったよな。ノイズ入ってたのに』
『あの二人、もう言葉いらないんじゃ』
俺と栞の連携を指摘する最後のコメントには、内心で返す言葉が見つからなかった。
光の粒子が散った床の中心に、小さなものが落ちている。
欠片だ。
いつものハート形ではなく、いびつで角があり、透明に近い。
だが、道標の石と同じ脈動を確かに発していた。
拾い上げた瞬間、道標の石の鼓動が一度だけドクンと強く跳ね、それからすっと静かになる。
「……十九個」
収納に欠片を放り込みながら呟くと、隣に並んだ栞が頷いた。
「ええ。石の反応、変わった?」
「ああ、脈が落ち着いた。なんか……待ってる感じがする」
「待ってる?」
「次の行き先を、知ってるみたいな」
栞は少しだけ沈黙し、静かに口を開いた。
「カルーンに確認が必要ね」
「今夜、呼んでみる」
通路を引き返す間も、道標の石は収納の中で脈を打ち続けていた。
そこに焦りのような熱はない。
ただ静かに、最後の目的地を指し示しているようだった。
タワマンに戻ったのは夕方だった。
シャワーを浴びて、栞が作ったパスタで簡単に夕飯を済ませる。
味は悪くなく、「うまい」と言うと「当然よ」と返ってくる、いつも通りのやり取りだ。
なのに、今日は少しだけ部屋の空気が張り詰めているように感じた。
道標の石がずっと静かに脈打っているのが、意識の片隅に引っかかっているせいかもしれない。
食器を片付けてリビングのソファに腰を下ろすと、窓の外には池袋の夜景が広がっていた。
向かいの椅子で脚を組んだ栞は、タブレットを持ったまま画面には視線を落としていなかった。
「寝るわよ」
「ああ」
いつも通りの合図で、俺は静かに目を閉じた。
◇
夢の空間の真っ暗な底に落ちる。
いつもなら三つの選択肢が浮かぶはずだが、今夜は見覚えのある石畳の道が広がっていた。
あの扉へと続く道だ。
だが今夜は扉までは行かず、道の途中でカルーンが待っていた。
いや、待っていたというより、俺たちがここまで辿り着くのを知っていたという顔をしている。
「来たか」
「ああ」
石畳の上に立ち、カルーンの顔を窺う。
いつもより顔色が悪いのは、夢の世界が不安定になっている影響なのか、それとも師匠の状態が限界に近いのか。
喉まで出かかった問いを飲み込み、俺は本題を切り出した。
「道標の石の反応が変わった」
俺の言葉に、カルーンは小さく頷く。
「分かっている。残り一つになったということだ」
「次はどこにあるんだ」
カルーンがわずかに間を置いた。
その沈黙が、答えの重さを物語っている。
「Sランクダンジョンの最深部だ。それ以外の場所には存在しない」
薄々分かっていたことだ。
かつてステータスに刻まれた『最後の鍵の在処:S級指定領域以上の魔力を検知』という一文を、俺はずっと忘れていなかった。
Sランクダンジョンの最深部。どうしても避けては通れない道だ。
「覚悟はあるか」
真っ直ぐに見据えてくるカルーンの問いに、俺は一秒も迷わずに答えた。
「ある」
カルーンは何も言わず、ただ安堵したように、あるいは別の感情を押し殺すように僅かに目を細めた。
「一つ、聞いていいか」
「なんだ」
「以心伝心が、夢の気配が濃いところで不安定になるんだ。Sランクの最深部なら、もっとひどいノイズが入る可能性がある。そうなったら致命傷だ」
焦る俺に、カルーンは静かな声で返した。
「……よく気づいた。だがその問題は、欠片が二十個揃ったとき同時に解消される」
「どういうことだ?」
「道標の石は欠片を集めるための案内役だが、役目はそれだけではない。お前が欠片を集めるたびに、石はお前の中に夢の気配への耐性を少しずつ刻み込んでいたのだ」
「耐性……?」
「そうだ。二十個目を取った瞬間、その耐性が完成する。以心伝心が夢の濃い場所でも揺らがなくなり、接続が完全に安定する」
なるほど、と腑に落ちた。
道標の石はずっと、俺の中に気づかないよう少しずつ対抗策を積み上げてくれていたんだ。
「つまり、最後の欠片を取った瞬間に一番必要なものが揃うってことか」
「そういうことだ」
カルーンがわずかに目を伏せ、一段低い声で紡ぐ。
「師匠は、まだ持ちこたえている」
その言葉に、胸のつかえが少しだけ下りるのを感じながら息を吐き出した。
「……待ってろ」
そう返すのが精一杯だった。
カルーンは何も言わず石畳の上に静かに立ち尽くし、白い光が滲んでゆっくりとその輪郭が薄くなっていく。
消えゆく直前、一度だけ視線が交差した。
言葉はなくても、それで十分だった。
◇
パチリ、と目が開く。
見慣れたリビングの天井と窓の外の夜景、ソファの感触が戻ってきた。
向かいの椅子では、タブレットをテーブルに置いた栞が俺を見つめている。
ずっと待っていたのだろう。
「カルーン、出た?」
「ああ」
俺は起き上がり、最後の欠片があるSランクダンジョンの最深部のこと、以心伝心のノイズが二十個目で解消されること、そして師匠がまだ持ちこたえていることを順に伝えた。
栞は途中で一度も口を挟まず、すべてを聞き終えると少しの間沈黙した。
「……そう。Sランクに行くのね」
「ああ」
「いつにする?」
また短い沈黙を挟んで発されたのは、たったそれだけの言葉だった。
必死に頭を回してこれからの手順を考える。
「烈に連絡する。Sランクの段取りは向こうが整えてくれるはずだ。つむぎには、Sランク素材を持ち帰る前提で話を通しておく」
「分かった。装備の最終確認と消耗品の補充は私がやっておくわ」
「頼む」
俺たちは感傷に浸ることも大げさな決意表明をすることもなく、ただ淡々と次にやるべき段取りを確認していった。
それがきっと、俺たちのやり方だ。
一通り話し終え、栞がガラスの向こうで光る池袋の夜景へと視線を移す。
「ねえ」
珍しく少し間を空けてから、栞はぽつりとこぼした。
「あなたが最初に眠った日。あの日から、私たちずっとここに向かって来てたのよね」
押しつけがましさのない、ただ確認するように声に出してみただけの響きだ。
「そうかもな」
冷めかけたコーヒーを一口飲み、俺は曖昧に同意する。
「長かった?」
「……いや、思ったよりあっという間だった気がする」
俺がそう返すと、栞は声に出るか出ないかくらいの小さな笑いを漏らした。
「そうね」
それだけ言って、彼女は再び外を見た。
リビングに静かな時間が流れる。
収納の中では、道標の石が静かに脈を打っていた。
どうしようもない焦りはないが、胸の奥で何かが燻るような落ち着かなさはある。
残り一つ。
最後の決戦の場所は、もう決まっているんだ。




