第48話 壁の向こう
朝のリビングでコーヒーを飲み終えた栞が、タブレットをテーブルに伏せてこちらを見た。
「今日、轟雷の回廊に行きたいんだけど」
俺が口を開く前に、栞の方から全く同じ提案をしてきた。
「……俺も、ちょうどそう思ってたところだ」
栞が少し目を細める。
「道標の石、昨夜からずっと落ち着かないでしょ」
「ああ、いつもの欠片の反応じゃなくて、明確な方向を指し示している気がする」
「あの壁よね」
「間違いないと思う」
収納の奥にある道標の石が、今朝から微かに熱を持ち続けているのだ。
ボスを持っているダンジョンに近づいた時のあの脈打つような感触とは違い、もっと静かで深いところから引っ張られているような気味が悪い感触だった。
「他に欠片の反応はあるか?」
「一ヶ所だけあるけど、今日はそこじゃなくてまずあの壁に行きたいわ」
「欠片の反応があるのに、後回しにするのか?」
俺が少し驚いて聞き返すと、栞はため息をついた。
「……あの壁が気になって仕方ないのよ。前に来た時から、ずっと引っかかってたんだもの」
「奇遇だな、俺もだ」
栞がタブレットを手に取る。
「なら、先にあっちへ行きましょう。欠片は帰りに拾えばいいわ」
◇
轟雷の回廊の入口に到着し、ドローンを起動するとさっそくコメント欄に文字が流れ込んでくる。
『来た!』
『今日は烈さんいないのか』
『二人だけで深層行くの?』
『まあいつも通りか』
相変わらず帯電した空気が肌を刺し、このダンジョン特有の細かい電流が全身の産毛を逆立てる感触には何度来ても慣れない。
今日はSランクの過保護な引率もなく、俺たち二人だけだ。
階層を下りながら、道中の魔物をいつも通りのベルトコンベア作業で処理していく。
眠って、選んで、起きて、拾う。
翠嵐の刃が空気に溶け込むように滑り、黒淵の紅刃が追撃を入れる前にボスすらも光の粒子に変わっていた。
『今日もえぐい速度だ』
『ボス戦3秒くらいじゃなかった?』
『二刀流が完全に馴染んでる』
ファンファーレが鳴るたびに先へ進み、足を止めることはない。
道標の石が、俺たちをあの奥へと指し続けているからだ。
◇
やがて、深層のドーム空間に出た。
円形の広い石室の床の中央には、直径五メートルほどの魔力紋が刻まれている。
前に来た時、他のチームが観測機器を並べてここを終点だと判断していた曰く付きの場所だ。
コメント欄の流れる速度が少し速くなる。
『ここ前に調査してたとこだ』
『あの時は壁に阻まれて先がなかったはずだけど』
『今日は何しに来たの?』
俺は迷わずドーム空間の端へ向かった。
道標の石の熱が一気に上がり、脈打つどころか握ったら火傷しそうなほど熱くなっている。
壁際の一点に立つが、見た目は何もなく、石畳と同じ素材のただの壁だ。
栞が骨杖をかざして目を細めた。
「魔力の層が厚いわ。三層以上も丁寧に重ねてあるから、観測機器で調べたらただの壁と同じ数値が出る仕組みね」
「だから、Sランクの連中も見つけられなかったのか」
「これだけ精密に隠してあれば、普通の方法じゃ絶対に気づけないわよ」
俺は壁に手のひらを当ててみた。
石の冷たい感触があるだけで、どう見ても物理的な行き止まりだ。
でも向こうから何かが強烈に引いており、引っ張るというより手招きして待っているようなおぞましい感触がある。
「……入れると思う」
「根拠は?」
「道標の石と、あとは俺の勘だ」
「……Sランクの調査隊が見逃した壁に、勘で突っ込むつもり?」
栞が呆れたように深いため息をついた。
「……分かったわ。行きましょう」
◇
俺が恐る恐る壁に手を押し込むと、まるで水面のように抵抗がなかった。
石の感触が消えて腕が消え、肘まで入り、肩まで入る。
「うおっ、マジで入れた……」
一歩踏み込むとドーム空間が背後に消え、栞がすぐ後に続く気配がした。
その直前、コメント欄が一瞬止まった後で爆発したのが見えた。
『は!?』
『消えた!? 壁に入った!?』
『今ひょいって壁に入っていったぞ!!』
『観測機器まで持ち込んで調査した場所だぞ!?』
『待って烈さんたちが行き止まりって判断した場所』
『Sランクが見つけられなかった隠し通路に素手で入っていった』
『どうやって気づいたんだ』
『勘ってことか!? 勘で見つけたの!?』
『寝落ちニキに見えてるものが俺たちには見えていない』
初心者マニア ◆fAnAtIc.Yu
『……道標があるからだろう。ずっと前から、こいつには見えているものがある』
『道標って何?』
『前からボス部屋の前で何か確認してるよな』
『Sランクを出し抜いた!? さらっとやばいことしてる』
『配信で一番のシーンじゃないか?』
『早く続きを見せてくれ』
しかし、その文字が突然ぐしゃりと崩れた。
ブツッという耳障りな音と共にホログラム全体にノイズが走り、コメント欄が完全に停止する。
最後に流れた文字が意味のない記号に変わって、通信はそれきり途絶えてしまった。
完全な静寂だ。
◇
隠し通路の中は狭くて暗く、天井が低かった。
壁に埋め込まれた雷属性の魔石が外のドーム空間より格段に密度が高く、足元の石畳から微弱な放電が絶えず走っている。
歩くたびに爪先からびりびりとした感触が上がってきて、不快指数が限界突破していた。
「コメント欄、完全に止まったな」
「映像は送れてるはずだけど、受信側が追いつかないのよ。この帯電の異常な密度が電波に干渉してるんだわ」
「蒼穹の刃の機材が使えなかったのも、この電波障害のせいか」
「たぶんね。数値が出るどころか、干渉で機器そのものが誤作動したはずよ」
誰にも届かない通路であり、配信が完全に止まった絶対の密室だ。
最高峰の観測機器を積んで調査に来た探索者たちが足を止めた場所の、その向こう側を俺たちは歩いている。
自分のしでかしていることの重大さに少し胃が痛くなってきたが、道標の石がここでも熱を持ち続けているため引き返すわけにはいかない。
欠片の反応が奥から届いており、脈が速く、確実に距離が近づいていた。
栞が先に歩き出し、杖の先が通路の石畳を軽く叩く音が響く。
「行きましょう」
「ああ」
俺が後に続くが、帯電した空気が肺に入るたびにぴりぴりとした違和感が残る。
ダンジョンの奥深くに来た感触ではなく、夢の世界の気配に近いあの特有の重さが空気に混じっていた。
やがて、通路の奥がほんの少しだけ明るくなっているのが見えた。
◇
通路の突き当たりで、唐突に空間が広がった。
そこは天井の高い円形の石室で、外のドーム空間よりは小さいが、四方の壁全面に雷属性の魔石が埋め込まれており、絶えず青白い電撃が走っている。
床から天井まで空気全体が明滅しており、石室に足を踏み入れた瞬間に首筋に強烈な電撃が走った。
「痛っ! なんだここ、巨大な電子レンジの中かよ!」
近づくだけでダメージが来るという、空間そのものが武器になっている最悪の環境だ。
そして中央に、それがいた。
体高は俺の倍以上あり、全身から絶えず青白い電撃が放電されていて輪郭すら定まらない、単眼の巨人だ。
腕の代わりに電撃の束が四方へ伸びており、触れれば即座に黒焦げになることは明白だった。
顔に相当する位置に、一つだけひどく明るい光が灯っている。
近くにいるだけで首筋に電流が走り、立っているだけでじわじわとHPを削られる感覚があった。
「常時放電してるわ。接触時間を最小にしないと、こちらの体が持たない」
栞が骨杖をかざしながら言い、数秒だけじっと巨人の放電パターンを観察している。
「一秒に一回だけ、束が緩む瞬間があるわ。その瞬間だけ近づける。ただし装甲はないから、核が露出する位置さえ分かれば一気に仕留められるはずよ」
「核の位置はどこだ」
「胸の中心よ。放電が緩む瞬間に刃を入れると光が漏れるはずだから、翠嵐で削って位置を特定してから黒淵で叩く。それしかないわ」
「翠嵐で核の場所を開けて、黒淵で断ち切るんだな」
「ええ。でも翠嵐で深追いしすぎると電撃に捕まって丸焦げになるから、一撃入れたら必ず離脱してちょうだい」
「了解、ヒットアンドアウェイだな」
俺は短く頷き、静かに目を閉じた。
◇
真っ黒な空間に移行すると、いつものように栞の気配が隣にある。
『単眼放電巨人 が あらわれた!』
コマンド画面が展開され、素早い作戦会議が始まった。
「放電が緩む直前に踏み込む。最初は翠嵐だけで入り、核の位置を確認するまでは黒淵は使わないわよ」
「分かってる。速度アップ最大と瞬間加速付与を同時に乗せてくれ。入ったら一撃で即離脱する」
「合わせるわ」
栞がスキルを開いて速度アップ最大と瞬間加速付与を選び、俺が『スキル』を選択する。
ポン、ポンと二つの電子音が重なった。
◇
目を開けると、石室全体が青白く光っていた。
電撃の束が四方八方へ伸びて床が焦げ、空気が焼ける嫌な匂いが充満している。
完全に脱力した俺の身体が、石畳を蹴った。
速い。
翠嵐の刃の迅雷加速と、栞の速度アップ最大に瞬間加速付与が重なった異常な踏み込みが、電撃の束が緩む一瞬の隙間へ滑り込む。
右手の翠嵐の刃が巨人の胸を走った。
電撃も装甲もなく刃が深く入る感触があったが、光は漏れず、核の位置がまだ分からない。
俺の身体はすかさず離脱のモーションに入った。
電撃の束が再び収縮する前に一歩引き、さっきまで立っていた場所の石畳に放電が走って黒く焦げる。
一撃目は空振り、核なしだ。
◇
再び真っ黒な空間に戻り、コマンド画面が展開される。
「右側じゃなかったわ。もう少し中心寄りよ」
栞の声が落ち着いていて頼もしい。
「次は角度を変えて左から入る」
「速度アップ最大、もう一枚乗せるわ」
ポン。
◇
現実に戻り、電撃が緩んだ瞬間に左から踏み込む。
今度は角度を変え、翠嵐の刃が胸の中心より少し左側へ入った。
傷口から青白い光が漏れ、一瞬だけ強くなる。
核の場所が分かったが、次の電撃が来る前に離脱しなければ丸焼きだ。
俺の身体が風のように後ろへ引くと、目の前の空気を電撃が焼いた。
二撃目、核の位置を確認完了だ。
◇
真っ黒な空間。
「核は胸の中心左寄り、三センチくらい左ね」
「次で完全に仕留める」
「防御ダウン最大を重ねるわ。黒淵で一気に入って」
「合わせる」
ポン、ポン。
◇
現実。
電撃の束が、最大に収縮した。
全身から放電が引いて巨人の胸の輪郭が一瞬だけはっきりしたその瞬間を待っていたかのように、俺の身体が黒淵の紅刃を握りしめて地を蹴った。
翠嵐の刃が前回まで付けた傷の上を正確に滑って道を作り、栞の防御ダウン最大が巨人の全身に走る。
そして、黒淵の紅刃が翠嵐の切り込みの奥へ吸い込まれた。
音は驚くほど軽かった。
魔力ごと断ち切る付与が核の内部で展開し、単眼の光がひときわ強く輝いた次の瞬間、ふっと消える。
青白い放電が止まり、四方の魔石の明滅が落ち着いた。
焦げた匂いだけが残る中、巨人の輪郭が崩れ始め、電撃の束が霧散して全身が光の粒子に変わっていく。
◇
パチリと目を開けると、石室が嘘のように静かになっていた。
放電がなくなり帯電が消え、ビリビリとした不快感も消え去っている。
床に転がった欠片が淡い光を放っており、拾い上げると指先に穏やかな鼓動が伝わってきた。
「これで十六個目だな」
俺が収納へ放り込むと、道標の石の熱がすっと落ち着いた。
栞が骨杖を下ろして、少し息を整える。
「翠嵐で核を開けて黒淵で断ち切るなんて、二刀流じゃないと絶対に成立しない戦い方ね」
「翠嵐だけじゃ仕留めきれなかったし、黒淵だけじゃ核まで届かなかったからな」
「そういうことよ」
俺たちはふと、石室の奥を見た。
まだ通路が続いている。
道標の石の熱はボスを倒して落ち着いたが、別の何かが奥から強く引いており、それは欠片の反応ではなくもっと重くておぞましい別の感触だ。
収納の奥の金属小箱に入った、封印強化された結晶片が、封印越しに微かに反応している。
向こう側に、夢の気配が濃い場所があるのだ。
「……これ、夢の世界への繋がりが近い場所だろ」
思わず声に出すと、栞がこちらを見た。
「感じるの?」
「結晶片が反応してる。何重にも封印してあるのに、それでも届くくらい近いってことだ」
栞が石室の奥を一度だけ見てから、冷静に視線を戻した。
「今は進まない方がいいわ」
俺も完全に同意だった。
「ああ、絶対に行かない」
理屈ではなく、ここから先は今の俺たちが踏み込む場所ではないという生物としての確信があった。
触らぬ神に祟りなしとばかりに、俺たちは即座に踵を返す。
◇
通路を足早に戻り、狭くて帯電した空間を抜けて魔力の隠蔽を通り抜ける。
ドーム空間の空気が肺に入ると、電撃がない広さに肌の粟立ちが落ち着いた。
地上まで戻ると、ノイズで届かなかった視聴者のコメントが溜まっていたダムが決壊したように一斉に流れ込んでくる。
『生きてたあああ!!』
『通路から出てきた!!』
『何があったんだ ノイズで全部見えなかったぞ』
『壁に入ってから何分経ったと思ってるんだ』
『欠片持ってる!? あの通路に欠片があったのか』
『ていうか全員無事?』
『烈さんに教えてあげてくれ頼む』
『裏ルート開拓してて草 誰も行ったことない場所だぞ』
初心者マニア ◆fAnAtIc.Yu
『……また一段、先へ行った。そのうちSランクでは済まなくなる』
コメント欄は凄まじい勢いで流れ続けている。
俺はそれを半目で眺めながら、収納の奥の道標の石の熱を確認した。
落ち着いており、欠片の反応も結晶片の共鳴も今は静かだ。
「あの奥に何があるか、分かった気がする」
歩きながら言うと、栞が前を向いたまま答える。
「夢の世界への近道かしら?」
「近道か最悪の罠か、どっちかだろうな」
少し間があった。
「……どちらにせよ、今の私たちには早すぎるわ」
「そうだな。命は大事にしよう」
夕方の光が池袋の街に伸びている。
欠片は十六個になり、残りはたった四個だ。
道標の石が、収納の奥で次の獲物を求めるようにかすかに熱を持ちはじめた。
「帰り道、もう一ヶ所だけ反応があるけど」
「寄るか。どうせなら今日中に終わらせたいしな」
「ええ」
俺たちは並んで、夕暮れの街を歩き出した。




