第46話 帰還と、コーヒーの匂い
目を開けると、タワマンのリビングの見慣れた天井があった。
体を起こそうとして、すぐ隣に気配があることに気がつく。
栞が昨日と同じ姿勢のままソファで目を閉じており、呼吸は正常だが、ほんの少し前まであの繭の中で夢甲虫に意識を飼われていたのだ。
俺はそのまま、祈るような気持ちで栞の顔を覗き込んだ。
昨日とは明らかに顔つきが違っている。
昨日は眉間の皺が一本もない安らかすぎる顔だったが、今は少し眉が寄ってまぶたがヒクヒクと動いていた。
俺の口うるさい観測手が、ようやく戻ってきている証拠だ。
栞のまぶたがゆっくりと開き、最初はぼんやりと天井を見てから、次に俺の顔を見た。
数秒の沈黙の後、眠そうな声だが確かな意識を持って口を開く。
「……なんで、あなたが隣にいるの」
「無事に戻ってきたか」
俺はそれだけ言ったが、内心では深い安堵で膝から崩れ落ちそうだった。
栞が起き上がろうとして頭がぐらついたのか、壁に手をついてゆっくりと体を起こす。
「……頭が重い」
「朝からずっと、長い時間同じ姿勢で寝てたからだろ」
「どのくらい」
「もう夕方だ」
栞が黙り込み、窓の外の夕方の光を見て絶句している。
少し長い沈黙の後、彼女はぽつりと呟いた。
「夢の中のこと、全部覚えてるわ」
俺も黙り込んだが、「全部」という言葉の重さが少しだけ空気に滲んだ気がした。
「……馬鹿みたいな夢を見てたわ」
栞が視線を膝の上に落としながら言い、声のトーンが普段と少し違ってどこか決まり悪そうな色がある。
何の夢かは聞かなかったし、俺自身が無事に彼女を取り戻せただけで十分だったから、これ以上野暮なことを聞く必要はないと思った。
◇
栞が「コーヒー淹れる」と言って立ち上がろうとしたが、足元がまだ覚束ず、キッチンへ向かおうとした一歩目でわずかによろめいた。
危なっかしくて見ていられないので、俺が「座ってろ」と先に立つ。
「……あなたが淹れると薄い」
「倒れかけてるくせに文句言うなら自分で淹れろ」
「足元がふらついてるのよ。座れって言ったのはそっちでしょ」
「じゃあ淹れ方を指示してくれ」
結局俺が折れる形になり、栞がため息をついてソファに座り直した。
お湯を沸かし、棚の右から二番目にある挽いてある豆を使い、引き出しの中の紙フィルターをセットしろと、ソファからの遠隔指示が飛んでくる。
沸騰してから三十秒待って九十度くらいに冷ませという細かい注文通りに、豆を量ってゆっくりと湯を注いだ。
コーヒーのいい匂いが、静かなリビングに広がっていく。
カップを二つ持ってソファに戻ると、栞がそれを受け取って一口飲んだ。
少しの間があった。
「……ちゃんと飲める味ね」
「そりゃこんだけ細かく指示されたらな」
俺が皮肉を言うと、栞が小さく笑った。
たった一日聞いていなかっただけなのに、ひどく久しぶりに彼女の笑い声を聞いた気がして、俺の口角も自然と上がってしまう。
俺もコーヒーを飲んだが、自分で淹れたのにうまいかどうかなんてよく分からなかった。
◇
「カルーンに報告しておく」
コーヒーを半分ほど飲んだところで言うと、栞が頷いた。
目を閉じて『夢渡り』のスキルを起動し、石造りの廊下に灯りがともるカルーンの夢へ繋がっていく。
「……終わったぞ」
俺が告げると、カルーンが短く「そうか」と言った後に栞の様子を聞いてきた。
「意識は正常に戻った」
「気をつけろ。夢甲虫は一度憑いた相手に再び寄りやすく、特に夢の入口に慣れた人間は標的になりやすいから、栞は今かなり危ない状態だ」
「対策はあるか」
「欠片だ。欠片が増えるほど宿主の夢が強固になって防壁が厚くなるから、今より速く集めろ」
一拍置いて、カルーンが「急いでくれ。理由が一つ増えた」と静かな声で続けた。
俺は頷いて接続を切る。
◇
目を開けると、栞がこちらを見ていた。
夢甲虫の再発リスクや欠片が防壁になることなど、急ぐ理由がまた一つ増えたことをすべて話す。
栞が話を聞き終えて、コーヒーカップをテーブルに置いた。
「再発する可能性があるなら、急ぐだけね」
ぐずぐずと文句や弱音を吐かないところが、本当に栞らしくて頼もしい。
少しの沈黙が落ちた。
「ねえ」
栞がカップを見たまま、ぽつりと言った。
「声、聞こえてたのよ」
俺は何も言わずに続きを待った。
「迎えに来るって言ったでしょ。ちゃんと聞こえてたわ」
また黙り込んだので、俺はゆっくりと口を開く。
「……だから外が気になって、それで繭に隙間ができた。そういうことだろ」
「そうだと思う」
栞が「そう」と短く言って窓の外に視線を向けたが、夕暮れの光が部屋の端まで伸びる中、彼女の耳の先が少し赤くなっているのを俺は見逃さなかった。
◇
夜になり、栞が「先に寝る」と言って寝室に引っ込んだのは九時を少し過ぎた頃だった。
一日中眠り続けていたはずなのにまだ眠れるらしいが、夢甲虫に意識を飼われていた時間は休んでいた時間ではなく、精神を削られていた時間なのだろう。
俺はリビングに一人残された。
栞がいつもタブレットを見ているソファが空のままあるのを眺めながら、何となくステータスボードを開いてみる。
Lv83。
見慣れた白枠の中の数字が少し前とは別物になっており、SPが五桁を超えていた。
最初に覚醒した朝はSP500で「これで潜れるのか」と絶望していたのに、今は当時の二十倍以上だ。
スキル欄を流すと、末尾に新しく刻まれた二つの名前があった。
『連撃強化』
『瞬殺 消費SP:200』
いつ引いたのかも正確には覚えていないが、毎朝おみくじを引いて毎晩潜って積み上げているうちに増えていたらしい。
「……気づかないうちに、随分強くなってるな」
誰もいないリビングに独り言が落ちたが、自分でもあまり実感がないままウィンドウを閉じた。
◇
自分の部屋に戻って、ベッドに横になった。
廊下に出る前に確認したが、栞の部屋のドアはしっかり閉まっていた。
昨日は半開きのままでそれが最初の違和感だったから、ドアが閉まっているという当たり前のことが、今日は少しだけ嬉しかった。
意識が深い眠りへ落ちていき、真っ黒な空間に移行する。
宝箱のシルエットが三つ、横一列に浮かんだ。
『睡眠時間:8時間を達成しました』
『睡眠ボーナス:夢の3択が発生します。1つを選択してください』
いつものように右を選ぶと、ポンと軽い電子音が鳴る。
『【身体能力強化Lv3】が強化されました』
悪くない当たりを引き、俺の意識はさらに深い眠りへと落ちていった。
◇
翌朝、コーヒーのいい匂いで目が覚めた。
リビングに出ると、栞がいつも通りソファに座っていた。
昨日の服ではなくちゃんと着替えてメイクもしており、タブレットを膝に乗せて画面をスクロールするいつもの光景だ。
テーブルの上に、俺の分のコーヒーが一杯何も言わずに置いてある。
「おはよう」
「遅い」
俺はコーヒーを手に取って一口飲んだが、昨日自分で淹れたのよりずっとうまかった。
やっぱり俺が淹れると薄いらしいが、あえて何も言わなかった。
栞も何も言わずに画面を見ている。
ソファの反対側に腰を下ろし、タブレットをスクロールする栞の横顔を眺めた。
昨日の夕暮れに赤かった耳のことは言わないし、言う必要もない。
「今日から再開するわよ」
栞がタブレットから目を上げずに、いつもの調子で発破をかけてくる。
「欠片、残り七個でしょ」
「ああ、分かってる」
俺は最高にうまいコーヒーを飲み干した。
俺たちのやることは変わらない。
眠って、選んで、起きて、拾う。
道標の石が、収納の奥でかすかに熱を持っていた。




