第45話 目覚めない栞と、夢の番人
朝、目が覚めた最初の違和感は、コーヒーの匂いがしないことだった。
タワマンのリビングは、栞が俺より早く起きて勝手に淹れ始めるせいで、朝になると決まってコーヒーの匂いがする。
俺は文句を言ったことはなく、あの匂いで起きる方が目覚ましよりずっと楽だった。
だが、今日はしない。
廊下に出ると栞の部屋のドアが半開きになっており、嫌な予感がじわりと腹の底を撫でた。
急いでリビングに入ると、栞が昨日の服のままソファで目を閉じていた。
深藍色のローブを羽織ったままで、骨杖はソファの肘掛けに立てかけてあり、メイクも落としていない。
膝の上にタブレットが乗ったままスリープ状態で止まっているが、几帳面な栞がこんな寝方をするはずがない。
寝る前には必ずローブを脱いで洗面所で顔を洗って決まった時間に布団に入る彼女が、ソファで服のまま朝まで寝るなど一度もなかったのだ。
「栞」
呼んでみたが、反応がない。
肩を揺すっても、反応がない。
呼吸は正常で肌の色も悪くなく、胸が規則正しく上下しているので眠っているのは間違いないが、ただ深すぎて呼びかけが全く届いていない。
一時間待っても、二時間待っても、状況は変わらなかった。
タブレットを拾い上げて時間を確認すると、とっくにいつも起きている時刻を過ぎている。
「……おい、起きろって」
もう一度大きな声で呼んだが、静寂だけが返ってくる。
体調不良なら体温が上がるか逆に青ざめるはずだがどちらでもなく、外傷もないし昨日のダンジョンで被弾もしていない。
ただの疲労なら揺すれば反応するはずなのに、ピクリともしない。
これは絶対に普通じゃない。
最悪の想像が膨らむほど、腹の底の感触が重く冷たくなっていく。
◇
俺はソファの脇に腰を下ろして目を閉じ、夢の底にある『夢渡り』のスキルの輪郭を探った。
栞を思い浮かべて繋がりかけた次の瞬間、分厚い何かに弾き返される。
壁のように硬いのではなく、触れた瞬間に吸収されて無力化されるような不気味な柔らかさだった。
向こうに栞の気配はあり、静かで穏やかで、何かを丸ごと包み込むような幸福の気配がするのに、どこを探しても入り口の扉がない。
目を開けると、栞は動かないまま規則正しく呼吸を続けている。
俺の手持ちのカードでこれに対応できるものがなく、冷や汗が背中を伝った。
睡眠スキルで戦う相手ではなく、頼みの綱の夢渡りも弾かれ、鑑定をかけても栞自身に異常は出ない。
何かあっても俺のスキルでどうにかできるという前提が完全に崩れ去り、どうしていいか分からない焦燥感に心臓が嫌な音を立てた。
◇
俺はもう一度目を閉じ、今度は微かな灯りがともる石造りの廊下を思い浮かべて、別の相手へ『夢渡り』を繋いだ。
「……カルーン」
少しの間があってから、カルーンがこんな時間にどうしたと返事をしてきた。
「栞が目覚めない。夢渡りで入ろうとしたら弾かれたんだ」
必死に事情を説明すると、カルーンは少し長い沈黙の後で短く息を吐いた。
「夢甘蟲だ」
低い声で告げられたそれは、夢の世界に棲む捕食者の名前だった。
カルーンの説明によると、そいつは宿主を苦しめるどころか最高に心地よい夢を生成して意識を繭で包み、宿主は幸福なままゆっくりと衰弱していくらしい。
気づかれないのは痛くないからで、抵抗されないのは気持ちいいからだという。
外から見るとただ幸せそうに眠っているだけにしか見えないため、夢の世界では一番たちが悪いと言われているそうだ。
俺は栞の顔を思い出し、確かに今まで見たことがないほど眉間に皺一本ない安らかな顔をしていることに戦慄した。
「どうすれば入れるんだ!」
即座に叫ぶように聞くと、あの繭は外からの干渉をすべて吸収するため、壊そうとする力が強いほど逆に硬くなり正面からは入れないとカルーンは言う。
だが、一つだけ習性があった。
夢甘蟲が作る繭は完全に閉じているわけではなく、宿主の意識が繭の外に向いたほんの一瞬だけ表面に隙間が生まれるらしい。
そこにカルーンが楔を打ち込み、俺が潜り込むという強行突破だ。
栞の意識を外に向けるための唯一の鍵は、夢の外から繭の表面を通り抜けられる俺の声だった。
「分かった、やってみる」
俺は急いで接続を切った。
◇
目を開けるとリビングの空気は変わっておらず、栞がソファで穏やかな顔をしたまま眠っている。
立ち上がって栞のすぐ隣に腰を下ろし、間近で顔を見た。
普段の鋭くて容赦のない顔とは違う、ひどく安らかな寝顔だ。
俺は大きく息を吸い込んだ。
「……寝坊だぞ、観測手」
声は出たが、栞は動かない。
「今から迎えに行くから、ちょっと待ってろ」
それだけ言って目を閉じ、意識を落としてカルーンを指定し『夢渡り』を発動させる。
落ちる寸前、栞のいる方向から繭の表面にノイズが走る感触があり、微かなほんの一瞬の隙間が生まれたのが分かった。
同時に、カルーンの気配が動いた。
◇
石造りの冷たい廊下に着地すると、すでにカルーンが短刀を鞘から抜いて逆手に持っていた。
「来たか。隙間が走るのが分かったから、間に合うかと思ってな」
「ああ、どうやら声が届いたみたいだ」
短いやり取りの後、カルーンが廊下の奥へ向かって歩き出したので俺も続く。
向かった先は壁でも扉でもなく、通路の途中で空気が微かに揺れている一点だった。
近づくにつれて、その空気の揺れが静かに呼吸するように動く繭の外壁だと分かる。
その奥に、外の何も必要としていないような穏やかで深い栞の気配があり、それが余計に俺の焦りを加速させた。
「楔を打ち込んだ後、隙間が閉じるまでに猶予はあるか」
「短いからためらうな。中に入れば夢の空間が広がっていて、本体もそこに見えるはずだ」
栞は繭に包まれたまま意識はあるが、外に出る気がない状態だという。
カルーンが繭の前で止まり、短刀の切っ先を表面に当てた。
返事をする前にカルーンの短刀が繭の表面を鋭く叩くと、音はしなかったが表面に細い亀裂が走る。
「今だ」
カルーンの声を合図に、俺は亀裂の中へ思い切り踏み込んだ。
◇
光に包まれ、廊下の冷たい空気が別の温度に変わって足元の柔らかい感触に着地する。
見下ろすと公園みたいに短く刈り揃えられた青い草が広がっており、空には少し雲があるだけで均一な光が落ちていた。
風が少し吹く静かな空間の少し離れた場所に、白いベンチがある。
栞がこちらに背を向けてベンチに腰かけ、白銀の髪を風に揺らしながら膝の上に本のようなものを置いて普通に座っていた。
声をかけようとして、息を呑んで止まる。
栞の背中に、人間より小さい球体に近い胴体から細い脚が複数伸びた、光を吸い込む黒い影のようなものがぴったりと貼り付いて何かを吸っていたのだ。
音も振動もないが、繭の外壁で感じた穏やかで甘い気配があの塊から漏れ出している。
間違いない、あれが夢甘蟲だ。
隣でカルーンが舌を打ち、思ったより大きくて根が深くなっていると警戒する。
「速くやれ。繭が閉じたらお前は出られなくなるぞ」
「栞に当たらない位置から攻める。俺が引きつけるから、背後を取れるか」
「やる」
俺は迷うことなく地を蹴って走り出した。
◇
ここは栞の夢の中だから、いつものコマンド画面は出ない。
夢甘蟲が振り返り、顔に相当する部分に目はないが空気を揺らしてこちらを認識した。
栞も振り返り、純粋な驚きと戸惑いの顔で俺の名前を呼ぶ。
「動くな、栞!」
走りながら叫ぶと、夢甘蟲が栞から離れてこちらへ向いた。
コマンド画面も最適解を弾き出すシステムもなく、意識がある状態で自分で判断して動かなければならない。
夢甘蟲が複数の脚を広げて襲いかかってきた。
想像以上に速く、草を蹴って横に跳んだが、コマンド画面がない分だけ動きが一手遅れて肘掛けに掠り、夢の中でもしっかり痛覚があることに顔を歪める。
カルーンが背後に回って短刀を入れたが、夢の世界のものでないと通りにくいらしく甲羅に弾かれて舌を打った。
俺は懐に潜り込み、翠嵐の刃を抜いた。
夢の中でも刃は出現し、手にしっかりとした重さと感触がある。
脚の付け根に刃を入れると確かに通り、夢甘蟲の動きが一瞬止まって甘い気配が乱れた。
「効くぞ」
「続けろ」
カルーンの指示に頷き、俺は再び踏み込んだ。
◇
栞がベンチから立ち上がり、何が起きているのか問い詰めてくる。
「入らないと起きないだろ! 現実のお前は朝からずっと動いてないんだよ!」
俺が叫ぶと、栞は押し黙った。
夢甘蟲が体勢を立て直して横薙ぎに脚を振ってきたため、後ろに下がって躱すと草が削れる。
栞の骨杖が持ち上がり、弱点はどこかと冷静な観測手の声に戻った。
「中心部だ。甲羅の継ぎ目を抉れば崩れるが、位置が見えにくい」
カルーンが答えると、栞の魔法陣が展開された。
夢の中でも栞の支援魔法は機能し、速度アップが乗って身体がフワリと軽くなる。
栞は魔法陣越しに弱点を看破し、右から三本目の脚の付け根の奥だと指示を出してきた。
「私に見えるなら私が誘導する。右から二本目の脚を崩して重心を傾けなさい」
指示通りに翠嵐の刃を右から二本目の脚の付け根に入れると、夢甘蟲が傾いて甲羅の継ぎ目が一瞬だけ開く。
「今よ」
◇
カルーンの短刀と翠嵐の刃がほぼ同時に継ぎ目に入り、夢甘蟲が激しく震えた。
甘い気配が急速に萎んで塊が崩れ、黒い靄になって草の上に散って消える。
静寂が戻り、青い草と青い空と白いベンチだけが残された。
カルーンが短刀を鞘に戻して終わったと告げたので、俺は大きく息を吐き出す。
肘がズキズキと痛むが、現実に戻った時にどうなるかは分からない。
栞がこちらを見ていた。
「……ねえ、朝からずっと?」
「ああ」
「呼んでも起きなかったの、分かってたの?」
「気配は分かったけど、入れなかった」
「夢渡り、使ったの?」
「弾かれた」
栞がしばらく黙り込み、小さく「馬鹿ね」と呟いた。
「わざわざ迎えに来るから」
「迎えに来ないと起きないだろ。お前がいなきゃ俺はただの寝落ち野郎だ」
俺が真顔で言い返すと、栞は目を逸らした。
「……声、聞こえたわ」
「聞こえたのか」
「聞こえたから外が気になった。それだけよ」
そう言いながらも視線は草の上に落ちたままで、夢の中でも照れると耳が赤くなるんだなと少し安堵した。
カルーンが俺たちを交互に見てから静かに一歩引き、繭が消えたから現実でも目が覚めるはずだと言う。
「二人とも、戻れ」
その言葉と共に、俺の意識は再び深い闇へと落ちていった。




