第38話 重力の借り、返しに来た
池袋Bランクダンジョンの深部。
今日も俺と栞は、順調に階層を潰していた。
道標の石が、収納の奥でかすかに熱を持っている。ボスが欠片を持っている可能性が高い。今日中に取れれば、9個目だ。
足取りを緩めず通路の角を曲がろうとした瞬間、五感を底上げするスキルが、底のどす黒い魔力を拾い上げた。
魔物じゃない。
人間だ。
足を止める。栞も気づいたらしく、杖を持つ手が静かに変わった。
角の先から現れたのは、赤い革鎧の女と、特注の黒鋼の鎧を着た大柄な男だった。
見覚えがある。骨の髄まで、嫌というほど。
カレン。
そして——あの重力魔法使いのAランク探索者。
栞が俺の隣で、心底つまらなそうに目を細めた。
「……なるほど。あの時の」
男は俺を認識した瞬間、口元に薄い笑みを浮かべた。相変わらず特注の黒鋼の鎧。歩くだけで空気がびりびり震える、理不尽な格の重さ。
だが、カレンはそれより先に動いた。
「ちょっと、もしかして寝落ちニキじゃない!」
満面の笑みで駆け寄ってくる。香水のキツい匂いが通路を汚す。あの夜のことなど、どこかに捨ててきたかのような媚びた顔だ。
「最近すごいバズってるじゃない! Bランク最速記録でしょ? すごいわ、本当に。ねえ、改めて一緒に組まない? 私と組めばもっと伸びるって、絶対。今なら特別に——」
俺の数字が上がった途端、手のひらを返す。底が浅い。
男が後ろで、不快そうに鼻を鳴らした。
「カレン、てめえ俺の前で何言ってやがる。そのBランクの小僧、少し前まで俺が指一本で這いつくばらせたゴミだぞ」
「だってあなた、最近全然数字取れてないじゃない。こっちの方が絶対稼げるもの」
「……なんだと?」
男の眉間に、深い皺が刻まれる。
嫉妬と焦りが混ざった、制御を失いかけた怒気。かつて一方的に踏み潰したはずの格下に、今にも乗り換えられそうになっている屈辱。
俺は横目で、自分の斜め後ろに浮かぶドローンをひと目だけ確認した。
配信は回っている。同接は数万。
カレンの目的も、男の怒りも、全部録れている。
俺はカレンを正面から見据えて、表情を消した。
「残念ですけど、あなたの様な頭の悪そうな女の人に興味はありません。あなたには横にいる頭の悪そうな男がピッタリですよ」
カレンの媚びた笑みが、音を立てて剥がれ落ちた。
数万人の視聴者の前で、丁寧語で頭が悪いと切り捨てられた。虚栄心でできているプライドが、芯から砕ける音がした。
栞が、一歩だけ前に出る。
「あなたみたいなおばさんには興味が無いって、まだ分からないの? さっさとどっかに行って」
おばさん。
それが致命傷だった。
「は……? おばさん……? おばさんって言った!?」
カレンの顔が、怒りと屈辱でぐちゃぐちゃに染まる。唇が震え、歯を食いしばり、男の腕を狂ったように揺さぶった。
「ねえ、殺して! こいつらここで殺してよ!!」
男の顔から、最後の冷静さが消えた。
「……言われなくてもやってやる。Bランクごときが、いい気になりやがって」
男の手のひらに、重力魔法が集束し始める。
あの日と同じ感覚が、背中を這い上がってくる。
空気が泥になる。石畳が軋む。
俺は小さく息を吐いて、目を閉じた。
◇
強烈な睡魔が脳を殴り、意識が暗い底へ落ちていく。
真っ黒な空間。白枠のコマンド画面が展開される。
『たたかう 消費SP:10』
『まほう』
『どうぐ なし』
『スキル』
『にげる 消費SP:100』
スキルを開く。
リストの中に、引いてから一度も使っていない名前があった。
『瞬間加速 消費SP:50』
重力が完成するより先に、懐へ潜り込む。それが最適解だと、眠った頭が静かに告げている。
ポン、と軽い電子音。
『ユウマ の 瞬間加速!』
◇
ドローンの視界が、信じられないものを映した。
栞の極大の魔法陣が展開される。限界突破の支援バフが、優馬の全身を包む。
重力魔法が「完成する」——その瞬間。
優馬の姿が、消えた。
石畳に、砕けた跡だけが残る。
『重力きた! 前みたいになるぞ!』
『……消えた? どこにいる!?』
『え、瞬間移動??』
男が重力を解放した。
床がクレーター状に陥没する。轟音。粉塵が舞い上がる。
だが——その中心に、優馬はいない。
粉塵が晴れた。
男の懐。鎧の首元のわずかな隙間。そこに、漆黒の刃が正確に押し当てられていた。
『あ…… ニキ、もう懐にいる』
『重力の発動と同時に踏み込んでたのか!?』
『速すぎて目で追えなかった』
黒淵の紅刃が、鎧の隙間を静かに抉る。
男は自分が斬られた事実を、一拍遅れて認識した。白目を剥き、膝から崩れ落ちる。地響きを立てて倒れる巨体。魔力が霧散し、通路を圧し潰していた重圧がふっと消えた。
カレンが「えっ」と間抜けな声を漏らした瞬間、栞のデバフが四肢に叩き込まれ、石像のように固まった。
コメント欄が、狂ったように流れる。
『Aランクが……倒された』
『カレンが「殺して」って言ってる映像まで録れてる』
『ドローン全部回ってたんだが、これギルド案件じゃないのか』
『証拠バッチリすぎて草』
◇
パチリ、と目を開ける。
足元には、泡を吹いて気絶しているAランクの男。数メートル先では、カレンがデバフで固まったまま、恐怖で顔を引きつらせている。
俺は血のついた黒淵の紅刃を軽く振り、鞘に収めた。
息が乱れていない。
「……こいつら、どうする?」
栞が杖を下ろしながら聞く。
「ギルドの仕事だろ。俺たちはボスのところへ行く」
「そうね」
二人を跨いで、通路の奥へ向かった。
背後でカレンが何か叫んでいた。何を言っているのかは聞こえなかったし、聞く気もなかった。
◇
ボス部屋の前。
重厚な鉄扉に手をかけながら、栞が横目で聞いてきた。
「SP残量は?」
「十分ある」
「なら行きましょう」
扉を押し開ける。
広大な石室に、分厚い装甲をまとった巨大な獣が鎮座していた。
四足歩行。牛ほどもある体躯。全身を覆う鋼色の鱗は、ひと目で分かるほど硬い。Bランク上位の難敵、装甲獣だ。
だが道標の石が、収納の奥で強く熱を持っている。こいつが持っている。
俺は短く息を吐いて、目を閉じた。
◇
真っ黒な空間。
『装甲獣 が あらわれた!』
『たたかう 消費SP:10』
『まほう』
『どうぐ なし』
『スキル』
『にげる 消費SP:100』
迷わず選ぶ。
『たたかう 消費SP:10』
ポン、と軽い電子音。
◇
ドローンの視界。
栞が魔法陣を展開する。限界支援が全身に叩き込まれる。
完全に脱力した優馬の身体が、静かに前傾姿勢を取った。
装甲獣が咆哮する。分厚い前足が石畳ごと抉るように振り下ろされる。
だが優馬は、回避すら選ばなかった。
最短距離。
振り下ろされる巨腕の正面から、強化ミスリルナイフと黒淵の紅刃が同時に閃く。
『装甲絶対貫通』の付与が乗った漆黒の刃が、Bランク上位の装甲を薄紙のように裂き、そのまま魔力核ごと巨体を真っ二つに両断した。
ズバァァッ。
装甲獣の巨体が、崩れるように左右に分かれて倒れた。轟音。粉塵。
『えっ』
『開幕ワンパン!?』
『Bランクのボスだぞ!? 鎧ごとぶった斬った!?』
『今の火力がAランク越えてるだろ……』
『装甲獣 を たおした!』
陽気なファンファーレ。
◇
パチリと目を開ける。
倒れた装甲獣が光の粒子に変わっていく。素材と魔石が床に転がり、その中に——淡く光るハート形の石があった。
「……九個目」
拾い上げて、収納へ放り込む。道標の石の熱が、すっと落ち着いた。
「ええ」
栞が隣に立って、同じものを見ていた。
「順調ね」
「まあな」
◇
地上へ戻り、池袋ギルドへ向かった。
カウンターへ近づいた瞬間、顔なじみの受付嬢が立ち上がった。普段の営業スマイルではない。血相を変えた顔だ。
「朝倉様、神城様! 配信、本部でも確認しておりました。お怪我は!?」
「ないです。これ、原本データです」
端末にドローンの録画データを転送する。
「ありがとうございます。明確な殺害教唆と、Aランク探索者による悪質な魔法行使——以前、証拠がないと申し上げた件も含め、今回は確実に動けます」
受付嬢の目に、ほんの少しだけ安堵の色が混じった。
「……今回は、十分すぎるほどです」
その時だった。
ギルドの奥、Bランク以上の専用ゲートの方から、複数の怒号が響いてきた。
「離せ! 俺はAランクだぞ! あのクソ女が煽ったせいだ!」
「は? 私のせいにするの!? あんたの魔法がのろいから当たらなかったんじゃない!」
完全武装の保安部隊に両腕を拘束された男とカレンが、ロビーへ引きずり出されてきた。
意識を取り戻してゲートから逃げ帰ってきたところを、待ち構えていた部隊に押さえられたらしい。
大勢の探索者が見ている前で、二人は醜く責任をなすりつけ合っている。
あの夜、冷酷に俺を踏み潰した男の面影は、どこにもなかった。
「……行くか」
「ええ。見る価値もないわ」
俺たちは一瞥もくれず、受付嬢に軽く会釈をしてギルドを出た。
◇
夕暮れの池袋。人波をかき分けながら、マンションへ向かう。
しばらく黙って歩いてから、栞が口を開いた。
「すっきりした?」
俺は少し考えた。
「……思ったより、あっさりしてたな」
「そう?」
「もっとこう、何かあるかと思ってた。でも特に何もなかった」
「それが正解じゃないの」
栞がさらりと言った。
「あの二人はもう、あなたと同じ土俵に立てる相手じゃなかったってことよ。だから終わった瞬間に何も残らない」
俺は少し黙って、それから小さく頷いた。
「……そうかもな」
収納の奥で、道標の石がかすかに熱を持っている。欠片は九個。残り十一個。
「栞」
「何?」
「さっきのバフ、タイミングが完璧だった。あれがなかったら間に合ってなかったと思う」
栞が一瞬だけ黙った。
「……当然でしょ。観測手の仕事よ」
耳の先が、少し赤い。
「頼りにしてる」
「……知ってるわよ」
ぷいっと顔を背けて、少し速足になった。
俺はその背中を見ながら、小さく息を吐いた。
Aランクという存在が、かつては見上げるしかない壁だった。今日それは、通り過ぎるべき障害の一つに変わった。
ただそれだけで、次へ行ける。
「急ごう。欠片を集める方が先だ」
「ええ。明日もペース上げるわよ」
並んで歩く。夕暮れの雑踏が、後ろへ流れていく。
道標の石は静かに、次のボスを探し続けていた。




