第37話 扉の名前
石造りの廊下は、思ったよりも静かだった。
音がない。風もない。ただ青白い光が壁を伝うように漂っていて、その光が燭台の火の代わりをしている。遠くに何かある気配はするが、見えない。どこまでも続く通路が、ただそこにある。
カルーンは俺の前に立ったまま、俺の返事を待っていた。
「次にあの扉へ近づけば、今度は見るだけじゃ済まない」
さっきの言葉が、まだ耳の奥に残っている。
「……どういう意味だ」
「そのままの意味だ」
「もう少し具体的に頼む」
カルーンは一度だけ目を伏せた。珍しい。こいつがそういう間を作るのを、俺はあまり見たことがない。
「あの扉は、独裁者が作ったものだ」
「……独裁者が」
「正確には、独裁者が開けようとしているものだ。元々はそこにあった。扉そのものは古い」
「夢の世界への入り口か?」
「逆だ」
カルーンの声が少し低くなった。
「現実世界への出口だ」
俺は黙った。
「独裁者は現実へ侵食しようとしている。夢の世界を支配するだけでは足りない。現実のストレス、絶望、疲弊——それを直接喰いながら増殖する気だ」
「……それが開いたら」
「夢と現実の境が崩れる。部分的に融合する。完全に開く前に止めなければいけない」
嫌な話だ。全部嫌な方向に転がっている。
「結晶片は?」
俺は聞いた。
「あれは扉の破片か」
「そうだ」
即答だった。
「扉の亀裂から零れた欠片が、現実側に漏れ出たものだ。あれを持っているうちは、扉はお前を引き寄せ続ける」
「……捨てた方がいいか」
「捨てても消えない。一度共鳴した以上、繋がりは残る」
「最悪だな」
「そうだ」
否定してくれ。
俺は廊下の壁に視線を向けた。壁の向こうに何があるのか分からない。この場所がカルーンの夢の中なのか、それとも別の何かなのか、まだよく分かっていない。
「師匠は?」
「持ちこたえている」
「でも」
「……悪化はしている」
カルーンの声に、一瞬だけ何かが混じった。感情、というには薄い。でも、こいつがそれを滲ませた。
「急いでほしい」
「欠片か」
「ああ。ただ集めるだけでいい。優馬の睡眠スキルが欠片に触れるたびに、扉のこちら側が強くなる。正規の鍵で開けるための準備が整っていく」
「俺が集めることで、扉が安定するのか」
「そう思ってくれ」
なるほど。意味は分かる。
「分かった。急ぐ」
そう言った瞬間、廊下の空気が変わった。
青白い光が、少しだけ揺らぐ。カルーンが眉を動かす。
「時間だ」
「もう切れるか」
「この接続は長く保てない。次に来る時は、もっと短くなるかもしれない」
「了解」
「優馬」
カルーンが、珍しく名前を呼んだ。
「あの扉には近づくな。今の優馬には早すぎる」
「分かってる」
「……本当に分かってるか」
「……たぶん」
正直に答えたら、カルーンが小さくため息をついた。
光が広がる。
世界が白くなる。
◇
起きた。
「……っ」
喉に残る変な感触。夢の中の空気が、まだ少し肺に残ってる感じがする。
栞が向かいの椅子に座ったまま、こちらを見ていた。窓の外の光は、さっきと変わっていない。短かった。
「つながった?」
「ああ」
「カルーンと話せた?」
「話せた」
俺は身体を起こした。背中に変な疲れがある。眠っていた疲れじゃない。夢の中で緊張していた疲れだ。
封印袋の入った小箱を確認する。光っていない。今回は反応しなかった。
少しだけほっとした。
「どうだった」
栞が聞く。
「聞かせて」
俺は夢の中の会話を、できるだけそのまま話した。
扉の正体。独裁者の目的。結晶片の正体。捨てても消えない繋がり。師匠の悪化。タイムリミット。
栞は途中で一度も口を挟まなかった。最後まで聞いてから、静かに言う。
「つまり向こうにもタイムリミットがある」
「ある」
「独裁者が扉を開けるより先に、あなたが20個集めて正規の方法で開く必要がある」
「そういうことだ」
栞は少しの間、テーブルの上の小箱を見た。
「結晶片は封印のまま」
「それしかないな」
「鋼島さんに相談できる?」
「連絡してみる」
俺はスマホを取り出した。天城凛のエンブレムで繋いでもらった鋼島つむぎの連絡先。深夜というには中途半端な時間だが、急を要する話だ。
短く打つ。
『結晶片の封印強化を相談したい。近いうちに持ち込んでいいか』
送信する。
「欠片は」
栞が言う。
「集めるペース、上げる?」
「上げる」
即答した。
「カルーンの師匠が持ちこたえてる間に動く」
「そうね」
栞は頷いた。反対しない。というか、たぶん栞も同じ結論を出していたんだろう。
「Bランクダンジョン、全力で回す」
「ええ」
「一個一個丁寧にやってる時間はない」
「分かった。速度優先で組む」
スマホが振動した。
つむぎからの返信。早い。
『結晶片、見てみたいです。持ってきてください』
「つむぎさん、起きてた」
「鍛冶師は朝が早いか夜更かしのどっちかね」
「どっちだろ」
「どっちでもいいわ」
窓の外は、もう完全に朝だった。
道標の石が、収納の奥でかすかに熱を持っている。昨夜よりは落ち着いている。カルーンと話せたせいか、それとも夜が明けたせいか、どちらか分からない。でも、少しだけましになっているのは確かだ。
「行くか」
「ダンジョン?」
「まず飯。そのあとダンジョン」
「……そういう優先順位ね」
「腹減ってると思考が動かない」
栞は呆れたみたいに息を吐いたが、立ち上がってキッチンへ向かった。
俺はソファから腰を上げて、収納の中の道標の石を一度だけ意識した。かすかな熱。でも安定している。
欠片は今、六個。残り十四個。
カルーンの言葉が耳の奥に残っている。
「急いでくれ」
分かってる。
フライパンが火にかかる音がした。油が跳ねる音。卵が割れる音。
いつも通りの朝だ。でも、今日からペースが変わる。変えなければいけない。
◇
その日から、生活のリズムが少し変わった。
以前は一つのダンジョンを丁寧に攻略していた。ボスの動きを確認して、栞と戦術を詰めて、欠片が出れば儲けもの、という感覚で潜っていた。
それをやめた。
目標はシンプルだ。ボスを倒す。欠片を待つ。次へ行く。
「眠って、選んで、起きて、拾う」
それを繰り返す。
Bランクダンジョンの構造は、今の俺たちには慣れてきていた。新しい敵でも、一戦やれば動きが読める。栞のバフが乗れば、ボス戦は短い。
変わったのはペースだ。一日に複数のダンジョンを回す。移動が多い。疲れる。でも、疲れたまま眠れる。眠れれば戦える。
「あなた、最近よく眠れてる?」
ある夜、栞が聞いた。
「眠れてる。夢には入ってない」
「カルーン側からも来ない?」
「今のところ」
「……それはよかった」
结晶片の入った小箱は、つむぎに封印強化を頼んでから、反応が落ち着いた。まだ熱は持つが、強く引き寄せてくる感じが薄れた。つむぎの技術は本物だ。素材なしで封印を強化できるのは、純粋な技術があるからだと思う。
「鋼島さん、素材いらないって言ってたけど」
「腕を磨く機会だって言ってた」
「あの人らしいわね」
「鍛冶師って、そういうもんなのかもな」
道標の石が、日々少しずつ変化している。
六個目の欠片を手に入れた時より、明らかに反応が敏感になった。ダンジョンの深部に近づくと、熱を持つ。ボスが近い時は、熱が増す。まるで、何かを探す道具みたいな動きだ。
「これ、次の欠片に反応してる気がするんだけど」
「ガイドになってる可能性あるわね」
「欠片に近づくと熱くなる?」
「試してみる価値はある」
試した。
正解だった。
道標の石を持ったまま動くと、ボスが欠片を持っているかどうかが、なんとなく分かるようになっていた。全部が分かるわけじゃない。でも、熱の強さで「これは持ってる」という確率が上がる。
それだけで、周回の効率が変わった。
欠片を持っていないボスは一戦で終わらせて次へ。熱が強いボスには少し多く時間をかける。無駄が減った。
「これはカルーンが言ってた"正規の準備"の話と繋がってるかもな」
「欠片を集めるほど、道標が精度を上げていく」
「たぶんそう」
「便利になってきたわね」
「嫌な方向じゃなくて助かった」
栞が小さく笑った。
珍しい。最近、笑う回数が増えた気がする。
俺のせいか栞のせいか、分からないけど。
◇
それから一週間で、欠片が二個増えた。
七個目は池袋Bランクエリアの奥。八個目は新宿に近いBランク支部のダンジョンで。どちらも、道標の石が先に教えてくれた。
道標の同期率が、少しずつ上がっている。
数字は見えない。でも体感で分かる。欠片を手に入れるたびに、石の反応が一段鋭くなる。まるでシステムが「正しい方向に進んでいる」と言っているみたいだ。
八個目を手に入れた夜、タワマンのリビングで栞が言った。
「残り十二個」
「だいぶ来たな」
「まだ半分以下よ」
「それでもだいぶ来た」
俺はソファに背を預けた。一週間で二個。悪くない。でも、まだ足りない。
「ペースを維持する」
「そうね」
「疲れてる?」
「……少しだけ」
「俺も」
二人で黙った。
悪い沈黙じゃない。疲れているけど、前に進んでいる時の沈黙だ。
「つむぎさんの封印、もう少し持つかな」
「持つと思う。あの人の仕事は丁寧だから」
「素材なしでやってもらったの、申し訳なかったな」
「次に深部素材が出たら持っていきましょう」
「それがいい」
道標の石が、リビングの空気の中でかすかに脈打っている。
欠片、八個。残り十二。
独裁者の扉は、まだ閉じている。
カルーンの師匠が、まだ持ちこたえている。
急ぐ理由は変わらない。でも、今夜くらいは疲れたまま眠っていい気がした。
「寝るか」
「早いわね」
「疲れた」
「珍しく正直」
「いつも正直だろ」
「……まあ、そうかしら」
俺は立ち上がった。
「おやすみ」
「ええ。おやすみなさい」
部屋に戻って、ベッドに倒れ込む。
今夜は夢に入らないといいな、と思いながら目を閉じた。
道標の石が、収納の奥で静かに熱を持っている。
怖くはなかった。
ただ、急かされている感じだけが残った。
それを抱えたまま、俺は眠りに落ちた。




