第35話 寝かせてくれない夜と、夢に触れた破片
池袋ギルドへ戻った時には、もう夕方だった。
新宿地下水道・深層から引き返す道中、コメント欄は最後まで復活しなかった。ドローンそのものは壊れていない。映像も拾っている。なのに、配信だけが途中で死んだまま。ギルドの受付前で停止処理をかけた瞬間、ようやくホログラムが正常化した。
遅れて一気に流れ込んできたコメントは、だいたい同じ内容だった。
『途中から映像死んだんだけど!?』
『ノイズ入ってから真っ黒だった』
『何があった!?』
『生きてる!?』
『ニキ! 神城さん! 無事か!?』
「……なんか、変に心配かけたな」
「むしろ、よくそこで済んだわよ。あの止まり方、普通の機材トラブルじゃないもの」
栞が淡々と言いながら、受付カウンターにギルドカードを差し出す。俺もそれに倣った。顔なじみの受付嬢は、俺たちの顔を見るなりほっとしたように息を吐いた。
「よかった……ご無事だったんですね」
「配信、やっぱり止まってました?」
俺が聞くと、彼女はすぐ頷く。
「はい。映像信号が途中で完全に途絶しました。ドローン本体の位置情報だけは辛うじて生きていたので、遭難扱いにはしていませんが……かなり珍しいケースです」
珍しいで済むなら、まあ、まだ平和な方かもしれない。
「それで、先方からも連絡が来ておりまして」
「先方?」
「蒼穹の刃です。もし戻られたら、可能な範囲で情報共有をお願いしたい、と」
まあ、そうなるか。
霧島の言い方からして、最初から向こうもある程度は織り込み済みだったのだろう。俺は栞と目を合わせた。全部を話すつもりはない。でも、全く何も返さないのも不自然だ。
「……ギルド内の応接室、借りられます?」
「はい。すぐに手配します」
◇
応接室に入ると、霧島はもう待っていた。
相変わらず、きっちりしたスーツに崩れない微笑み。昼間に会った時と同じ顔だ。こっちは地下水道帰りで普通に疲れてるのに、この人だけ時間の流れ方が違うんじゃないかと思う。
「お帰りなさい。ご無事で何よりです」
「無事ではあります」
「その言い方だと、穏便には済まなかったようですね」
穏便ではなかった。かなり不穏だった。
俺たちはソファに腰を下ろした。栞は最初から警戒を隠さない。霧島はそれを気にした様子もなく、テーブルの上に録音防止らしき小型端末を一つ置いた。淡い光が広がって、部屋を薄く包む。
「ここからは記録も傍受も入りません。話したくない部分は伏せていただいて構いません」
「便利ですね」
「大手ですから」
さらっと言うな。
俺は短く息を吐いてから、地下水道で起きたことを、ぼかせるところはぼかしながら話した。
異常領域の入口。調査隊の撤退痕。ドローンのノイズ。コメント欄の停止。障壁と再生を持つ変異種。そして奥で見つけた、夢の欠片に似た結晶片。
さすがに道標の石のことも、収納の中で熱を持ったことも、最後に見えた“亀裂の向こう”も、そこは言わない。
話を聞いている間、霧島は一度も口を挟まなかった。最後まで黙って聞き切ってから、ようやく静かに言う。
「……想定していたより進みましたね」
「想定って」
「我々の調査隊は、結晶片の手前で引き返しています。あの領域では、機材の異常と術式の乱れが酷くて、戦闘継続より情報確保を優先した」
「それで、今日の俺たちが試し斬り役ですか」
「そう受け取られるのは心外ですが、否定もしにくいですね」
霧島は苦笑した。あんまり悪びれてない。
栞が腕を組んだまま、冷たく言う。
「で? 情報を引き出したかったのは分かったけど、そちらは何を知ってるの」
「夢の道標という単語に近い現象記録を、いくつか」
霧島はさらっと返した。
「正式な名称ではありません。あくまで、過去の一部報告書に残っている俗称です。深層の極端な異常領域で、ごくまれに起きる。配信機器、観測魔術、位置座標、そういった“こちら側の基準”がまとめて狂う現象」
「原因は?」
「不明です」
「ずいぶん正直ね」
「分からないものは分からないので」
その言い方は妙に好感が持てた。変に知ったかぶりされるよりはずっといい。
「ただし」
霧島の目が少しだけ細くなる。
「その領域に長く留まった探索者の一部が、帰還後に共通した証言を残しています」
「……どんな?」
「見えていないはずのものを見た、と」
部屋の空気が、ほんの少しだけ冷えた気がした。
「空間の亀裂。黒い空。こちらを見ている何か。表現はまちまちですが、方向性は似ています」
「それ、全部正気の人間の話ですか?」
「そこが難しいところです。半分は混乱、半分は恐怖、残り半分は沈黙しました」
「半分多いんですけど」
「ええ。ですから、統計としても綺麗じゃない」
冗談みたいに言うけど、内容は全然笑えない。
俺はソファに体重を預けた。疲れてる時に聞く話じゃないな、これ。
「結晶片は、こちらで預かりましょうか」
霧島が言う。
「分析班に回せば――」
「それは断ります」
俺は即答した。
霧島は少しだけ眉を上げたが、特に不快そうにはしなかった。
「理由を伺っても?」
「……直感です」
「なるほど」
「笑わないんですね」
「異常領域の話をした直後に、勘を笑うほど私は鈍くありません」
そこで会話は一度切れた。
霧島はそれ以上踏み込まなかった。代わりに、新宿地下水道・深層の周辺地図と、蒼穹の刃側で判明している浅い範囲の観測データだけを共有してくれた。かなり有益だった。面倒だが、使えるものは使う。それは本当にそうだ。
「今日はもう無理をなさらない方がいい」
最後に霧島はそう言った。
「異常領域は、攻略の継続より、認識の継続の方が危険です」
「……意味が分かるような、分からないような」
「分からないままで結構です。体調が崩れたら、まず寝てください」
「それ、俺に言う?」
「ええ。あなたが一番よくご存じでしょう」
そこだけは、反論できなかった。
◇
タワーマンションへ戻ると、どっと疲れが来た。
シャワーを浴びて、簡単に夕飯を済ませて、テーブルの上に封印袋を置く。中には、地下水道で拾ったあの結晶片が入っている。袋越しなのに、見ているだけで妙に落ち着かない。
栞は向かいの椅子に座って、その袋をじっと見ていた。
「今のところ、外から見た限りじゃ普通の結晶片にしか見えないわ」
「でも普通じゃない」
「ええ。私もそう思う」
やっぱりそうか。
俺は収納を開いて、道標の石が入っている位置を確認した。今日は同じ場所に近づけていない。それでも、意識を向けると石の側が落ち着きなく熱を持っているのが分かる。結晶片と響き合っている、という感じが一番近い。
「これ、同じ部屋に置いて寝ても大丈夫だと思う?」
「思わない」
「だよな」
「でも、別の部屋に置いたところで変わらない気もする」
「それもそうなんだよな……」
嫌な二択だ。
しばらく二人で黙ったあと、栞が先に口を開いた。
「今日は私が起きてるわ」
「いや、そこは交代でいいだろ」
「あなた、どうせ何かあったら一番最初に巻き込まれるんだから、最初に寝て」
「雑な扱いだな……」
「合理的って言ってほしいわね」
「どっちでも、あんまり嬉しくない」
でも、たぶんそれが一番合理的だった。
結晶片は封印袋ごと、リビングの端にある金属製の収納ケースへ入れる。道標の石は収納の奥に固定。黒淵の紅刃は手元に置くか少し迷ったが、結局いつも通り収納へ戻した。起きてる間に考えても、答えは出ない。
「何かあったら起こして」
「うん」
「無理しすぎるなよ」
「それ、あなたに返すわ」
いつものやり取りをして、俺は自分の部屋へ入った。
ベッドに倒れ込む。身体は疲れているはずなのに、頭の芯だけが妙に冴えていた。霧島の話。黒い空。亀裂。結晶片。道標の石の熱。考えたくないのに、勝手に並んでくる。
「……寝るか」
目を閉じる。
いつもなら、そこで意識は素直に落ちる。深い眠りの底。黒い空間。三つの選択肢。睡眠ボーナス。
だが、その夜は違った。
◇
最初に聞こえたのは、ガラスを指で弾いたみたいな、細い音だった。
チリン。
音だけで、意識が引っかかる。
目を開ける。
立っていたのは、いつもの真っ黒な空間じゃなかった。
「……は?」
思わず声が出た。
空がある。
黒い。夜空みたいに高いのに、星がない。雲もない。ただ、果てしなく黒い。
足元には石畳が敷かれていた。幅の広い、古びた道。その両脇には、何もない。闇だけが広がっている。風もないのに、遠くで布みたいなものが揺れる気配だけがした。
そして道の先に、扉があった。
巨大だった。
門と言ってもいい。黒い石でできた、閉ざされた両開きの扉。その表面には、何本もの細い亀裂が走っていて、その隙間から赤い光が脈打つように漏れている。
まるで、無理やり閉じたまま、中で何かが呼吸しているみたいだ。
「……これ、夢か?」
聞いても誰も答えない。
だが、一歩踏み出そうとした瞬間――胸の奥で、いつものシステムが遅れて反応した。
視界の端に、青白いパネルがノイズ混じりで開く。
『睡眠時間:計測不能』
『睡眠ボーナス:取得失敗』
『警告:未確認領域との仮接続中』
「失敗って何だよ……」
今まで見たことのない表示だった。
もう一度、あのいつもの三択を探す。でも出ない。代わりに、画面の下に小さく一行だけ滲むように文字が浮かんだ。
『接続先の観測を優先しますか?』
「観測……?」
意味が分からない。
分からないのに、身体のどこかが“分かっている”みたいにざわつく。
その時だった。
巨大な扉の亀裂の一つが、ゆっくり広がった。
ほんの数センチ。
それだけの隙間。
なのに、そこから零れた気配に、全身の毛穴が開く。
見てはいけない。
近づいてはいけない。
でも、目が離せない。
亀裂の向こうで、何かが動いた。
人の形に近い。
でも、人じゃない。
暗すぎて輪郭は見えない。ただ、“こっちを見た”のだけははっきり分かった。
ぞわっ、と背骨に冷たいものが走る。
次の瞬間、視界の端に別の影が割り込んだ。
「優馬、下がれ!」
聞き覚えのある声。
振り向く。
「……カルーン!?」
道の横、闇の境目に立っていたのは、見慣れない世界の服を着た青年だった。深い紺の上着。腰の奇妙な短刀。こめかみの鎖飾り。夢の世界の住人、カルーン。
だが、いつもの落ち着いた顔じゃない。珍しく、はっきり焦っていた。
「なんでここにいるんだよ」
「説明してる時間がない! その扉はまだ早い!」
「早いって、何が――」
最後まで言えなかった。
扉の亀裂の奥から、細長い“何か”が伸びた。
腕に見えた。
だが、関節の位置がおかしい。指が長すぎる。影みたいに細いくせに、触れられたら終わると本能が叫ぶ。
それが、まっすぐ俺の方へ向かってくる。
カルーンが舌打ちして、腰の短刀を抜いた。
「見るな!」
同時に、俺の視界へ白い光が叩き込まれる。
キィン、と耳鳴り。
世界がぐしゃりと潰れた。
◇
飛び起きた。
「っ、は……!」
喉が熱い。心臓がうるさいほど鳴っている。全身に嫌な汗をかいていた。部屋は暗い。カーテンの隙間から、まだ夜の色が見える。
夢――じゃない、とは言い切れない。
でも、いつもの夢と同じ場所じゃなかった。
荒い呼吸のまま顔を上げる。
部屋のドアが半開きになっていた。そこから、栞が険しい顔でこちらを見ている。
「起きた?」
「……栞」
「今、部屋の温度が一瞬下がった」
「……マジか」
「ええ。しかもあなた、うなされるとかじゃなくて、いきなり跳ね起きた」
最悪だ。
俺は額を押さえた。夢の中の感覚がまだ残っている。黒い空。扉。亀裂。カルーンの声。伸びてきた腕。
「見たのね」
栞が静かに言う。
「……ああ」
「何を?」
「……たぶん、まだ言葉にしない方がいい気がする」
「そう」
栞はそれ以上、無理に聞いてこなかった。代わりに、リビングの方を振り返る。
「封印袋、さっき少しだけ光ったわ」
「やっぱりか……」
眠れる気がしない。
でも、たぶんもう一度眠らないと、確かめられないこともある。
そう思った瞬間、視界の端でホログラムが一瞬だけ点いた。
『未確認領域との仮接続を中断しました』
『次回接続までの推定猶予:不明』
「……は?」
表示は、それだけで消えた。
俺と栞は、しばらく無言で立ち尽くした。
夜はまだ明けない。
なのに、もう明日が来たら面倒どころじゃ済まない気がしていた。




