20,不幸中の幸いと河合の噂
「じゃあ、がんばってね」
A組の前でそう言われ、郁美と別れる。何をどうがんばればいいのかわからないし、がんばれる気もしないが、ともかく教室に行かなければと思い、葉菜は、とぼとぼと足を運ぶ。
一つだけ救いがあるとすれば、クラスの人たちは、すでに昨日の出来事を知っているということだ。今さら驚かれたり呆れられたりすることはない。
もっとも、それで救われる気持ちにはまったくなれないが。
葉菜は、うつむいたまま教室へと入って行く。誰も声をかけて来ないのは、今に始まったことではないので、どうということもない。
以前通っていた公立の高校のクラスでは、特に親しくしていなくても、クラスメイトとは朝の挨拶くらいは交わしていたのだが、ここではそういうこともない。このクラスには、吉尾先生も気づいているくらい、独特の緊張感が漂っている。
それはつまり、結城が言っていたように、河合が裏で牛耳っているせいなのではないか。だったら、葉菜が陥れられたことに気づいている者もいるかもしれない。
とはいえ、気づいているからといって、葉菜の味方をしてくれることはないだろう。危険を冒してまで、少し前に転入して来たばかりの葉菜を助けるメリットはない。
針の筵にいるような午前中が終わった。
国語の授業がなかったことは、不幸中の幸いだ。こんなときに、また朽木先生に下の名前で呼ばれたり、何か話しかけられたりしては、本当にシャレにならない。
教室を出ると、廊下で郁美が待っていてくれた。
「葉菜ちゃん、行こう」
肩を並べて、カフェテリアに向かう。郁美のクラスメイトたちは、一足先に行っているという。
「大丈夫だった?」
郁美が、うつむいたまま歩く葉菜の顔を覗き込むようにして言う。
「別に、いつも通り。友達、もとからいないし」
「そうか……」
カフェテリアに入って行くと、やはりみんながちらちらと葉菜のほうを見ては、こそこそと話し出す。一年生だけではなく、上級生もだ。
郁美とともに、料理を受け取ってテーブルに行くと、さっそく郁美のクラスメイトの一人が言った。
「昨日のこと、急速に広まっているみたいだよ」
ほかの子たちも、口々に言う。
「河合さんの取り巻きたちが、わざと広めているのかもね」
「もちろん、私たちは、そんなこと信じていないけど」
葉菜は、ため息をついて肩を落とす。昨夜から食欲もない。
すると、郁美が言った。
「葉菜ちゃん、食べよう」
「うん……」
食べながら、みんなに「まあちゃん」と呼ばれている子が、声をひそめて言った。
「私、河合さんと中学が一緒だったんだけど」
みんながまあちゃんに注目する。
「河合さんのお父さんって、手広く商売をやっていて、すごいお金持ちなの。河合さんは溺愛されていて、お金も使いたい放題らしいんだよね。
それで、取り巻きたちのこともお金で手なずけて、いろいろとやらせているみたい。中二のとき、文化祭のことで、あの人と対立した子がいて……」
そこで言葉を切ったまあちゃんに、郁美がじれったそうに言う。
「その子がどうしたのよ」
「私はクラスが違ったから、くわしいことはわからないけど、その子は仲間外れにされて、そのほかにもいろいろあったみたいで、学校に来なくなっちゃった」
ほかの子が言う。
「それで、その後どうなったの?」
「よその中学に転校したらしいよ」
みんな黙り込んでしまい、しばらくの間、食事に集中する。
やがて、まあちゃんが言った。
「こんなこと言ったら悪いけど、葉菜ちゃんと仲良くしていると、私たちも何かされたりしないかなあ」
「ちょっと、何言ってるのよ!」
厳しい声を上げたのは郁美だ。
「私は葉菜ちゃんの味方だよ。あんな人に何をされても平気」
「でも、あの人がどんなにひどいことをするかわかったでしょう? 朽木先生に気に入られたくらいで泥棒に仕立てられるんだから……」




