第9話 小さな身体と、デカすぎる森
包丁2本で異世界転移した少女は、今日も敵を許さない
第一章 森の向こうの世界
第9話 小さな身体と、デカすぎる森
――ぴょん。
――ぴょん。
――ぴょん。
(……進まねえ)
黒瀬莉央は、湿った落ち葉の上で動きを止めた。
目の前には、一本の倒木が横たわっている。
人間だった頃なら、軽く跨いで終わりだっただろう。
しかし、今は違う。
(……何だよ、この壁)
見上げるほどの高さ。
苔に覆われた幹。
その向こう側は、ほとんど見えない。
莉央は、前脚を踏ん張った。
(……よし)
後脚に力を込める。
――ぴょん!
身体が宙へ跳ね上がった。
倒木の表面が近づく。
(……いける!)
だが。
――べちゃっ!
莉央は、苔の生えた幹に腹からぶつかった。
(……ぐえっ!)
そのまま、ずるずると滑り落ちる。
――ぽてっ。
(…………)
しばらく動かなかった。
そして。
(……クソッ!!)
「ケロォッ!」
森の中に、情けない鳴き声が響いた。
すぐ隣では、小柄なゴブリンの幽霊が浮かんでいた。
「ギャ?」
(……何だよ)
ゴブリンは、倒木を見た。
そして、何の苦労もなく幹をすり抜けて向こう側へ出た。
「ギャギャ♪」
(……お前なあ!)
莉央は、思わず前脚で地面を叩いた。
(こっちは通れねえんだよ!)
ゴブリンは首を傾げた。
どうやら、何が問題なのか分かっていないらしい。
(……ちきしょう)
莉央は、倒木の端を見た。
右も左も、木々の間へ長く伸びている。
仕方なく、幹に沿って跳ね始めた。
――ぴょん。
――ぴょん。
――ぴょん。
(……これ、街まで何日かかるんだよ)
* * *
焼け落ちたゴブリン集落を離れてから、しばらく経っていた。
莉央は、あの場所へ鞄を残してきた。
制服。
靴。
スマートフォン。
財布。
そして、二本の包丁。
どれも今の身体では持ち運べない。
ゴブリンの短剣も、焼け跡に残したままだ。
(……戻れるかな、あそこ)
莉央は、ふと振り返った。
だが、もう集落は見えなかった。
木々が重なり、どちらから来たのかも分からなくなりつつある。
(……やべえ)
少しだけ不安になった。
目印をつけようにも、カエルの前脚では木に傷をつけることも難しい。
石を積むこともできない。
(……まあ、戻るより先に生き残らねえとな)
莉央は、再び前を向いた。
倒木の端をようやく回り込むと、地面が少し低くなっていた。
そこには、小さな水たまりがあった。
(……お)
莉央は、水面を見つめた。
泥水ではない。
木々の葉が映り込んだ、比較的澄んだ水だった。
(……ちょうどいい)
カエルになってから、身体の乾きが気になっていた。
莉央は、水際へ近づいた。
前脚を水につける。
ひんやりとした感触が広がった。
(……あー)
思わず、身体ごと水へ入った。
(……気持ちいい)
人間だった頃なら、泥だらけの水たまりへ入るなど考えもしなかった。
しかし、今は違う。
冷たい水が、身体に心地よかった。
(……カエルって、こういう感じなのか)
莉央は、水面に浮かぶ自分の姿を見た。
丸い目。
平たい頭。
短い前脚。
そして、妙に発達した後脚。
(……うわあ)
改めて見ると、何とも言えない姿だった。
(……これが私かよ)
そのとき。
水面に、もう一つの影が映った。
小柄なゴブリンだった。
「ギャ♪」
(……お前、水に映るんだ)
莉央は、少し驚いた。
幽霊なのに、姿が映る。
だが、よく見ると水面にはゴブリンの輪郭がぼんやりと重なっているだけで、波紋はまったく生じていなかった。
(……変なの)
莉央は、少し笑った。
その直後だった。
――パシャッ!
(……っ!?)
水面が、大きく揺れた。
莉央は反射的に跳ね上がった。
何かが、水の中を横切ったのだ。
細長い影。
ぬめりのある身体。
そして、素早い動き。
(……何だ!?)
莉央は、水たまりから飛び出した。
振り返る。
水面の下に、黒っぽい生き物が見えた。
魚のようにも見える。
だが、口が異様に大きかった。
その口が、水面近くで開いた。
鋭い歯が並んでいる。
(……うわっ!!)
莉央は、慌てて後ずさった。
(……水の中も危ねえのかよ!)
ゴブリンが、水たまりを覗き込んだ。
「ギャ……」
(……おい、見るな! 行くぞ!)
莉央は、急いでその場を離れた。
* * *
昼を過ぎた頃。
森の上空で、鳥の声が響いた。
――キィィィッ!
(……ん?)
莉央は、顔を上げた。
木々の隙間。
青い空を、大きな鳥が旋回していた。
翼を広げた姿は、かなり大きい。
人間だった頃なら、珍しい鳥だと思って眺めていたかもしれない。
しかし。
(……あれ)
莉央は、身体を硬くした。
鳥の頭が、こちらへ向いた気がした。
(……いや)
まさか。
こんな小さなカエルを、あんな高さから見つけるわけがない。
そう思った瞬間。
鳥が、翼を畳んだ。
(……え?)
一直線に降下してくる。
(……おい)
速い。
想像以上に速い。
(……ちょっと待て!!)
莉央は、反射的に跳ねた。
――ぴょん!
次の瞬間。
――バサァッ!!
巨大な翼が、頭上をかすめた。
地面の落ち葉が舞い上がる。
(うわああああっ!!)
「ケロォォッ!!」
莉央は、必死に茂みへ飛び込んだ。
――ガサガサッ!
葉の間を転がる。
小枝に身体がぶつかった。
だが、止まっている暇はなかった。
鳥は、すぐに旋回して戻ってきた。
――キィィィッ!
(……クソッ!)
莉央は、木の根元へ向かった。
根と根の間に、狭い隙間がある。
(……あそこ!)
全力で跳ねる。
――ぴょん!
――ぴょん!
――ぴょん!
そして。
――ずぼっ!
身体が、木の根の下へ滑り込んだ。
直後。
――ガツンッ!!
鋭い爪が、地面を引っかいた。
土が飛び散る。
鳥の嘴が、隙間の入口へ突き込まれた。
(……ひっ!)
莉央は、さらに奥へ身体を押し込んだ。
嘴が、目の前をかすめる。
(……やめろやめろやめろ!!)
鳥は、何度か地面をつついた。
しかし、根が邪魔で奥までは届かない。
やがて。
――バサッ。
翼の音が遠ざかった。
莉央は、しばらく動けなかった。
(…………)
心臓が、ものすごい速さで動いている。
(……死ぬかと思った)
木の根の外では、ゴブリンの幽霊が心配そうに覗き込んでいた。
「ギャ?」
(……大丈夫じゃねえよ)
莉央は、力なく答えた。
(……全然、大丈夫じゃねえ)
* * *
鳥が完全にいなくなるまで、莉央は根の下から出なかった。
やがて、森に静けさが戻った。
莉央は、恐る恐る顔を出した。
(……よし)
周囲を確認する。
鳥の姿はない。
(……行ったか)
莉央は、ゆっくりと外へ出た。
そのとき。
ゴブリンが、突然耳を立てた。
「ギャ!」
(……ん?)
ゴブリンは、莉央の後ろを指さした。
(……何だよ)
莉央は振り返った。
木の根元。
湿った落ち葉の間で、細長いものが動いていた。
茶色い身体。
黒い斑点。
そして、二つに分かれた舌。
(…………)
莉央は、固まった。
(……ヘビ?)
蛇は、ゆっくりと頭を持ち上げた。
その目が、莉央を捉えた。
(……いやいやいや)
莉央は、後ずさった。
(……さっき鳥だったろ!?)
蛇が、身体をくねらせた。
(……次は蛇かよ!!)
莉央は、全力で跳ねた。
――ぴょん!
蛇の頭が動く。
――シュッ!
莉央のいた場所へ、蛇が飛びついた。
(……うわっ!)
莉央は、倒れた枝を飛び越えた。
蛇が追ってくる。
細長い身体が、落ち葉の間を滑るように進んでいた。
(……速っ!!)
莉央は、必死に跳ねた。
――ぴょん!
――ぴょん!
――ぴょん!
目の前に、細い溝があった。
雨水が流れた跡だろう。
(……あそこ!)
莉央は、溝へ飛び込んだ。
身体が滑り落ちる。
――ずるっ!
そのまま、泥の上を転がった。
(……うわっ!)
蛇が、溝の縁まで来た。
頭を下げる。
莉央を探している。
(……やべえ!)
だが、溝の奥には、さらに細い隙間があった。
莉央は、そこへ身体を押し込んだ。
蛇の頭が近づく。
舌が、何度も伸びた。
(……来んな……!)
莉央は、息を潜めた。
蛇は、しばらく周囲を探っていた。
しかし、やがて諦めたのか、ゆっくりと離れていった。
(…………)
莉央は、泥の中で動かなかった。
鳥。
蛇。
水の中の怪物。
そして、巨大な倒木。
まだ一日も経っていない。
それなのに、何度死にかけたのだろう。
(……ちきしょう)
莉央は、目を閉じた。
(……何なんだよ、この世界)
* * *
夕方。
莉央は、ようやく森の少し開けた場所へ出た。
そこには、細い流れがあった。
小川だった。
水は比較的澄んでおり、底の小石が見えている。
莉央は、慎重に近づいた。
先ほどの水たまりのことがある。
もう、何も考えずに水へ飛び込む気にはなれなかった。
(……大丈夫、だよな?)
しばらく観察する。
大きな魚の姿はない。
流れも、それほど速くなさそうだった。
莉央は、浅い場所へ入った。
冷たい水が、泥だらけの身体を洗っていく。
(……あー)
少しだけ、気持ちが落ち着いた。
ゴブリンの幽霊は、対岸の石の上に浮かんでいた。
「ギャ♪」
(……お前、楽しそうだな)
莉央は、苦笑した。
そのとき。
――ゴトッ。
遠くで、何かが動く音がした。
(……ん?)
莉央は、顔を上げた。
木々の向こう。
何か、大きなものが通ったようだった。
――ガサッ。
――バキッ。
枝が折れる音。
そして、低い鼻息。
――フシュウ……。
(…………)
莉央は、身体を硬くした。
(……まさか)
茂みの向こうから、黒褐色の大きな身体が現れた。
太い脚。
分厚い首。
長い爪。
そして、巨大な頭。
(……クマ?)
莉央は、ゆっくりと後ずさった。
獣は、小川へ近づいてきた。
どうやら、水を飲みに来たらしい。
莉央には気づいていない。
(……よし)
莉央は、音を立てないように後退した。
(……このまま……)
ぴょん。
小さく跳ねる。
ぴょん。
もう一度。
だが。
――パシャッ。
後脚が水を跳ね上げた。
獣の耳が、ぴくりと動いた。
(……あ)
大きな頭が、こちらへ向いた。
莉央は、固まった。
獣の目が、じっとこちらを見つめている。
(…………)
数秒。
長い沈黙。
そして。
――フンッ。
獣は、鼻を鳴らした。
莉央の方へ、一歩踏み出す。
(……いやいやいや)
莉央は、ゆっくりと後ずさった。
(……鳥、蛇、今度はクマ!?)
獣が、さらに一歩近づく。
(……もう嫌だ)
莉央は、踵を返した。
いや、カエルに踵などない。
とにかく、全力で跳ねた。
(……こんな森!!)
――ぴょん!
(……住めるかああああ!!)
「ケロォォォッ!!」
莉央は、茂みへ飛び込んだ。
ゴブリンの幽霊が、慌てて追いかけてくる。
「ギャギャッ!」
獣は、少しだけ莉央を目で追った。
だが、追いかけてはこなかった。
やがて、小川へ顔を戻し、何事もなかったように水を飲み始めた。
そんなことも知らず、莉央は必死に跳ね続けていた。
* * *
日が暮れる頃。
莉央は、倒れた木の根元に潜り込んでいた。
狭い隙間。
湿った土。
そして、頭上には太い根。
鳥も、大きな獣も、簡単には入ってこられない場所だった。
(……はあ)
莉央は、身体を縮めた。
(……もう無理)
隣では、ゴブリンの幽霊が浮かんでいる。
「ギャ?」
(……お前さ)
莉央は、ゴブリンを見た。
(……生きてた頃、よくこんな森で暮らしてたな)
ゴブリンは、首を傾げた。
「ギャ?」
(……いや、マジで)
莉央は、目を閉じた。
人間だった頃には、気づかなかった。
森には、こんなにも危険がある。
小さな生き物にとって、世界はあまりにも大きすぎた。
(……街)
莉央は、ふと呟いた。
(……絶対、街へ行こう)
街なら、少なくともクマが普通に歩き回っていることはないだろう。
鳥もいるかもしれない。
猫もいるかもしれない。
人間に踏まれる危険だってある。
それでも、建物がある。
隠れられる場所がある。
食べ物も、水も、探せるかもしれない。
(……よし)
莉央は、小さく頷いた。
(……明日こそ、街へ続く道を探す)
ゴブリンの幽霊が、莉央の隣へ近づいた。
「ギャ♪」
(……お前も頼むぞ)
「ギャギャ♪」
莉央は、少しだけ笑った。
そして、目を閉じた。
だが、その夜。
莉央が眠りについた後も、ゴブリンの幽霊は起きていた。
小さな身体を浮かせたまま、森の奥を見つめている。
そこには、青白い影が一つ。
さらに、その後ろにもう一つ。
木々の間を、ゆっくりと漂っていた。
《霊寄せ》。
その能力は、莉央が眠っている間も失われていない。
そして、森にいる霊的存在が、必ずしも友好的とは限らなかった。
ゴブリンは、莉央の眠る木の根元へ戻った。
小さな両手を広げ、青白い影たちの前に立つ。
「……ギャ」
いつもの陽気な声ではなかった。
静かで、低い声だった。
青白い影たちは、しばらくその場に漂っていた。
やがて、一つずつ森の奥へ消えていった。
ゴブリンは、ようやく耳を下ろした。
そして、眠る莉央の隣へ戻る。
「……ギャ」
その夜、莉央は何も知らずに眠っていた。
自分が、もう一度小さな友達に守られていたことも。
この森には、まだ自分の知らない存在がいることも。
そして、明日、森の向こうに人間の通る道を発見することになるということも。
――第9話・完――
次のエピソードは…
森を進む莉央は、地面に残された車輪の跡と、人間が使う古い街道を発見する。しかし、小さなカエルにとって、馬車の車輪や人間の足は新たな脅威。そんな中、莉央は荷馬車から聞こえてくる会話を耳にする。
そこには、ゴブリン集落を襲った人間たちにつながる、思いがけない情報が含まれていた――。




