第10話 街道の下から見える世界
包丁2本で異世界転移した少女は、今日も敵を許さない
第一章 森の向こうの世界
第10話 街道の下から見える世界
朝。
黒瀬莉央は、木の根の下で目を覚ました。
(……寒っ)
身体を縮める。
湿った土の感触。
頭上には、複雑に絡み合った木の根。
そして、目の前には小さなゴブリンが浮かんでいた。
「ギャ♪」
(……おはよ)
莉央は、眠そうに前脚を動かした。
もちろん、声に出しても人間の言葉にはならない。
「ケロ」
ゴブリンは、嬉しそうに笑った。
莉央は、ゆっくりと外へ出た。
朝の森には、薄い霧が漂っている。
葉の先から落ちた水滴が、地面に小さな穴を作っていた。
(……さて)
莉央は、周囲を見渡した。
(……今日こそ道を見つけねえとな)
カエル化の残り時間は、まだ九日近くある。
人間の姿に戻るまで、この身体で生き延びなければならない。
(……十日って、長すぎだろ)
莉央は、ため息をついた。
そのつもりだったが、実際には喉が小さく鳴っただけだった。
「ケロッ」
(……クソッ)
* * *
森の中を進むこと、およそ一時間。
莉央は、地面の変化に気づいた。
(……ん?)
それまで柔らかな土と落ち葉ばかりだった足元に、細かな砂利が混じり始めた。
木々の間隔も広がっている。
そして、前方には不自然にまっすぐな空間があった。
(……何だ?)
莉央は、慎重に近づいた。
茂みの隙間から顔を出す。
そこには、一本の道が伸びていた。
踏み固められた土。
細かな石。
そして、平行に続く二本の溝。
(……おお)
莉央は、目を丸くした。
(……道じゃん!)
さらに近づく。
溝の底には、押しつぶされた小石が並んでいた。
(……これ、車輪の跡か?)
莉央は、顔を上げた。
道は、森の奥から続き、遠くの丘へ向かっている。
人間が使っている道。
つまり、その先には村や街があるはずだった。
(……やった!)
「ケロッ!」
思わず声が出た。
隣のゴブリンが、首を傾げる。
「ギャ?」
(……道だよ! 道!)
莉央は、前脚で地面を叩いた。
ゴブリンは、道を見つめた。
そして、少しだけ耳を伏せた。
「……ギャ」
(……ん?)
莉央は、ゴブリンを見上げた。
(……何だよ)
ゴブリンは、道の向こうを警戒しているようだった。
莉央は、しばらく考えた。
そして、気づいた。
(……ああ)
人間の道。
つまり、あの集落を襲った人間たちも通るかもしれない。
(……そっか)
莉央は、少しだけ声を落とした。
(……お前、人間が怖いんだな)
ゴブリンは、答えなかった。
ただ、莉央の隣へ戻ってきた。
(……大丈夫)
莉央は、心の中で呟いた。
(……今度は、私が気をつけるから)
* * *
莉央は、道へ出る前に周囲を観察した。
人間だった頃なら、何も考えずに歩き出していただろう。
だが、今はカエルだ。
道の端にある小石さえ、身体の半分ほどの大きさがある。
そして、車輪の跡は深い溝になっていた。
(……これ、横切るだけでも大変じゃん)
莉央は、溝の縁へ近づいた。
下を覗き込む。
(……うわ)
人間の靴なら、簡単に跨げる深さ。
しかし、カエルの莉央には小さな谷のようだった。
(……よし)
莉央は、後脚に力を込めた。
――ぴょん!
身体が宙へ浮く。
溝を飛び越える。
そして。
――ぽてっ。
(……おお!)
無事に着地した。
(……いけるじゃん!)
莉央は、少しだけ嬉しくなった。
だが、その直後だった。
――ゴト……。
(……ん?)
地面が、かすかに震えた。
――ゴトゴト……。
遠くから、重い音が近づいてくる。
(……何だ?)
莉央は、道の向こうを見た。
木々の間から、大きな影が現れた。
四本脚の動物。
その後ろに、木製の荷車。
(……馬車!?)
莉央は、目を丸くした。
馬によく似た動物が、荷車を引いている。
車輪は大きく、金属で補強されていた。
御者台には、中年の男が座っている。
(……すげえ!)
莉央は、思わず見入った。
異世界らしい光景だった。
しかし。
――ゴトゴトゴトッ!
馬車は、どんどん近づいてくる。
(……あれ?)
莉央は、足元を見た。
自分がいるのは、車輪の通り道だった。
(……ちょっと待て)
馬車の車輪は、莉央の身体よりもはるかに大きい。
あれに踏まれたら。
(……死ぬ!!)
莉央は、全力で跳ねた。
――ぴょん!
――ぴょん!
――ぴょん!
――ゴロゴロゴロッ!!
巨大な車輪が、すぐ後ろを通過した。
地面が震える。
砂利が跳ねる。
風圧で落ち葉が舞った。
(うわあああっ!!)
「ケロォォッ!!」
莉央は、道端の茂みへ飛び込んだ。
――ガサッ!
その直後。
――ゴトゴトゴト……。
馬車は、何事もなかったように通り過ぎていった。
(…………)
莉央は、茂みの中で固まっていた。
(……危ねえ)
心臓が、ものすごい速さで動いている。
(……マジで危ねえ)
ゴブリンが、心配そうに覗き込んだ。
「ギャ?」
(……大丈夫じゃねえよ)
莉央は、力なく答えた。
(……街道まで危険とか、聞いてねえぞ)
* * *
それから莉央は、道の中央へ出ることをやめた。
茂みの中。
草の陰。
石の隙間。
なるべく人間や馬車に見つからない場所を選んで進む。
道に沿って移動するだけなら、方向を見失う心配は少ない。
ただし、進む速度は遅かった。
(……あー、腹減った)
莉央は、落ち葉の上で動きを止めた。
カエルになってから、まともな食事をしていない。
ゴブリンの集落では、焼いた肉や木の実を食べていた。
しかし、今はそれもない。
(……何食えばいいんだよ)
莉央は、周囲を見渡した。
すると、目の前を小さな虫が横切った。
黒っぽい甲虫だった。
(…………)
莉央は、その虫を見つめた。
虫も、莉央を見つめた。
(……いや)
莉央は、ゆっくりと顔を背けた。
(……無理だろ)
そのとき。
身体が、勝手に反応した。
――ぴゅっ!
(……え?)
口から、長い舌が飛び出した。
虫を巻き込む。
そして、一瞬で口の中へ引き戻した。
(…………)
莉央は、固まった。
口の中に、何かがいる。
小さく硬いもの。
それが、まだ少し動いている。
(……う)
反射的に飲み込んでしまった。
(…………)
数秒。
そして。
(うわあああああっ!!)
「ケロォォォッ!!」
莉央は、地面の上で暴れた。
(虫食ったああああ!!)
ゴブリンが、驚いて近づいてくる。
「ギャ!?」
(違う! 今のは違う!!)
莉央は、必死に前脚を振った。
(私の意思じゃねえ!!)
ゴブリンは、しばらく莉央を見つめていた。
そして、嬉しそうに笑った。
「ギャギャ♪」
(……笑うなあああ!!)
莉央は、地面へ突っ伏した。
異世界へ来てから、いろいろなことがあった。
ゴブリンになった。
人間に襲われた。
カエルになった。
幽霊と一緒に旅をしている。
そして今。
虫を食べた。
(……もう嫌だ)
莉央は、しばらく動かなかった。
* * *
昼過ぎ。
莉央は、街道沿いの茂みで休んでいた。
道の向こうから、再び馬車の音が聞こえてきた。
今度は二台だった。
前を走るのは、荷物を積んだ商人の馬車。
後ろには、槍を持った護衛が乗っている。
(……また馬車か)
莉央は、茂みの奥へ身体を引っ込めた。
すると、馬車が近くで速度を落とした。
「……この辺りだったか?」
男の声が聞こえた。
(……ん?)
莉央は、耳を澄ませた。
「そうだ。昨日、荷車が襲われた場所だ」
「盗賊か?」
「分からん。魔物の仕業だって話もある」
「……物騒だな」
莉央は、少しだけ顔を出した。
御者台には、二人の男が座っている。
片方は中年の商人。
もう片方は、革鎧を着た護衛だった。
「そういや、南の森のゴブリンどもは片づいたらしいな」
護衛の男が言った。
(…………)
莉央の身体が、ぴくりと動いた。
「討伐隊が入ったんだろ?」
「ああ。村の連中が雇ったらしい」
「巣を一つ焼いたって話だ」
「……そうか」
商人は、特に驚いた様子もなかった。
「これで少しは安全になるかね」
「どうだかな。ゴブリンがいなくなったところで、盗賊まで消えるわけじゃない」
「そりゃそうだ」
二人は、笑った。
(…………)
莉央は、動かなかった。
ゴブリンの集落。
焼かれた住居。
倒れた小さな友達。
その光景が、頭の中に浮かんだ。
(……村の連中が、雇った?)
莉央は、ゆっくりと顔を上げた。
(……あいつら、頼まれて来たのか?)
昨日の襲撃者たち。
剣を持った若い男。
年配の男。
そして、ほかの人間たち。
彼らは、偶然集落を見つけたわけではなかったのかもしれない。
(……クソッ)
莉央は、前脚で土を押した。
(……何なんだよ)
馬車の男たちは、何事もなかったように話を続けていた。
「そういや、討伐の報酬は誰が出したんだ?」
「村の寄り合いだろ。領主の兵は動いてないって話だしな」
「ふうん」
「もっとも、誰が金を集めたかまでは知らんが」
莉央は、その言葉を聞き逃さなかった。
(……領主?)
知らない言葉ではない。
この世界にも、貴族がいるのだろう。
だが、今はそれよりも。
(……誰が金を出したんだ?)
莉央は、馬車を見つめた。
商人たちは、すでに別の話題へ移っていた。
「ベルクハイムには夕方までに着けそうか?」
「ああ。門が閉まる前には入れるだろ」
(……ベルクハイム?)
莉央は、目を細めた。
(……街の名前か?)
商人は、手綱を握り直した。
「じゃあ、急ぐぞ」
「おう」
――パシッ。
馬が歩き始める。
車輪が回り、荷馬車はゆっくりと動き出した。
(……待てよ)
莉央は、茂みから顔を出した。
馬車の後ろ姿を見つめる。
(……あれについていけば)
街へ行ける。
少なくとも、道に迷う心配はない。
(……よし)
莉央は、後脚に力を込めた。
――ぴょん!
馬車の後を追い始めた。
だが。
――ゴトゴトゴト……。
馬車は、どんどん遠ざかっていく。
(……あれ?)
莉央は、必死に跳ねた。
――ぴょん!
――ぴょん!
――ぴょん!
しかし、距離は縮まらない。
(……速っ!!)
人間なら歩いて追えるかもしれない。
だが、小さなカエルの身体では無理だった。
(……ちきしょう!)
莉央は、道端で立ち止まった。
馬車は、すでに遠くへ行ってしまっていた。
(……何なんだよ)
莉央は、ため息をついた。
そのとき。
ゴブリンの幽霊が、莉央の隣へ戻ってきた。
「ギャ?」
(……無理だった)
莉央は、力なく答えた。
「ケロ」
ゴブリンは、遠ざかる馬車を見つめた。
そして、何かを思いついたように耳を立てた。
「ギャ!」
(……ん?)
ゴブリンは、道の先を指さした。
(……何だよ)
莉央は、その方向を見た。
街道は、少し先で緩やかに曲がっていた。
そして、その先には、小さな石橋が架かっていた。
(……橋?)
莉央は、目を細めた。
橋の手前には、荷車が一台停まっている。
車輪のそばで、男がしゃがみ込んでいた。
どうやら、何かを修理しているらしい。
(……お)
莉央は、顔を上げた。
(……停まってるじゃん)
ゴブリンが、嬉しそうに頷いた。
「ギャギャ♪」
(……なるほどな)
莉央は、少しだけ笑った。
(……あれなら、追いつける)
そして、慎重に橋へ向かって跳ね始めた。
道の端。
草の陰。
石の隙間。
人間に見つからないように、少しずつ近づく。
荷車の下には、暗い空間があった。
車軸。
木の梁。
そして、荷台の底。
(……あそこなら)
莉央は、荷車を見上げた。
(……隠れられるかも)
だが、そのとき。
荷車の向こうから、別の声が聞こえた。
「……だから、早くしろって言ってるだろ!」
若い男の声だった。
「分かってる! 車輪の留め具が緩んでるんだ!」
「日が暮れるぞ!」
「なら、お前も手伝え!」
どうやら、二人の男が言い争っているらしい。
莉央は、荷車の下へ近づいた。
そして、ふと気づいた。
荷台の横には、厚い布が垂れ下がっている。
その下に、小さな隙間があった。
(……入れそう)
莉央は、身体を低くした。
前脚を伸ばす。
――するっ。
布の下へ潜り込んだ。
そこには、木箱が積まれていた。
箱の隙間には、乾いた藁が敷かれている。
(……おお)
莉央は、思わず目を丸くした。
(……入れた)
人間だったら、絶対に入れない場所。
だが、今の身体なら簡単だった。
(……これ)
莉央は、荷台の奥を見た。
(……ちょっと便利じゃね?)
その瞬間。
――ガタンッ!
荷車が、大きく揺れた。
(……うわっ!?)
莉央は、藁の中へ転がった。
外から男の声が聞こえる。
「よし! 直ったぞ!」
「やっとか!」
「乗れ! 出発する!」
(……え?)
莉央は、顔を上げた。
荷車が、ゆっくりと動き始めた。
――ゴト……。
――ゴトゴト……。
(……おお?)
莉央は、木箱の隙間に身体を押し込んだ。
揺れる。
だが、地面を跳ねる必要はない。
鳥に狙われる心配も、今のところはなさそうだった。
(……マジか)
莉央は、思わず笑った。
(……乗れたじゃん!)
荷車は、石橋を渡り始めた。
下を流れる川の音が聞こえる。
莉央は、藁の隙間から外を覗いた。
遠くには、森の向こうへ続く道が見えた。
その先に、人間の街がある。
(……よし)
莉央は、小さく頷いた。
(……ベルクハイム、だったっけ)
ゴブリンの幽霊が、荷台の横から顔を出した。
「ギャ♪」
(……お前も来たか)
莉央は、少しだけ笑った。
(……行くぞ)
荷車は、夕暮れの街道を進んでいった。
その荷台に、小さなカエルが一匹紛れ込んでいることを、男たちはまだ知らなかった。
そして、カエルの隣を小さなゴブリンの幽霊が漂っていることも。
黒瀬莉央、十六歳。
異世界転移から数日。
彼女は、ようやく人間の街へ向かう乗り物を手に入れた。
もっとも、本人はまだ知らなかった。
その荷車が、どんな荷物を運んでいるのか。
そして、街へ入るとき、どのような検査を受けることになるのかを。
――第10話・完――
次のエピソードは…
荷車に紛れ込んだ莉央は、夕暮れの交易都市ベルクハイムへ向かう。ところが、城門では荷物の検査が行われていた。さらに、積まれた木箱の一つから奇妙な物音が聞こえてくる。単なる商人の荷物だと思っていた莉央は、思いがけないものを目撃することになる――。




