第6話 包丁と短剣と、迫るクソみたいな足音
第6話 包丁と短剣と、迫るクソみたいな足音
森の木々が夕日に染まり始めた頃、ゴブリン集落の外れでは、乾いた木の音が何度も響いていた。
――カンッ!
「うわっ!」
黒瀬莉央の手から、木の棒が弾き飛ばされた。
棒は地面を二度跳ね、近くの茂みに転がり込んだ。
「……またかよ!」
莉央は悔しそうに顔をしかめた。
向かいに立つ小柄なゴブリンは、手にした棒を下ろすと、何やら短く鳴いた。
「ギャ」
「分かってるって。力任せに振るなって言いたいんだろ?」
もちろん、相手の言葉が理解できたわけではない。
ただ、何度も同じ失敗を繰り返していれば、身振り手振りから何を伝えようとしているのかくらいは分かってくる。
莉央は茂みから棒を拾い上げた。
その棒は、彼女が持ってきた包丁とほぼ同じ長さに切り揃えられていた。
昼過ぎ、小柄なゴブリンがわざわざ作ってくれたものだった。
今の莉央にとって、包丁は決して扱いやすい武器ではない。
人間だった頃には何とも思わなかった重さが、ゴブリンの身体では腕にずしりとのしかかる。刃のある部分が長く、重心も手元から離れているため、振り回せば簡単に身体が引っ張られてしまう。
何より、刃物を使った実戦経験など一度もなかった。
学校の体育で剣道を習ったことはある。
だが、それも竹刀を持って基本動作を真似した程度である。
目の前のゴブリンが教えているのは、そんなものとはまるで違っていた。
「……よし、もう一回!」
莉央は棒を構え直した。
小柄なゴブリンが、軽く膝を曲げる。
そして、ゆっくりと近づいてきた。
莉央は相手の肩を見た。
右へ動く。
そう思った瞬間、棒が左側から伸びてきた。
「うおっ!?」
慌てて受け止める。
――カンッ!
今度は弾き飛ばされなかった。
だが、次の瞬間には相手の足が動いていた。
ゴブリンは莉央の横へ回り込み、棒の先を彼女の脇腹に軽く当てた。
「……あ」
「ギャ」
小柄なゴブリンは棒を引いた。
莉央は、自分の脇腹を見下ろした。
もし、あれが本物の短剣だったら。
「…………」
昨日、冒険者に追われたときのことが脳裏をよぎった。
剣士の振り上げた剣。
木に突き刺さった矢。
そして、身体の奥まで冷たくなるような恐怖。
「……クソ」
莉央は棒を握り直した。
「もう一回!」
小柄なゴブリンは、少しだけ嬉しそうに笑った。
* * *
稽古は、日が沈む直前まで続いた。
莉央がようやく一本取れたのは、二十回以上も打ち合った後だった。
相手の棒を受け止め、すぐに押し返すのではなく、一歩だけ横へ動く。
小柄なゴブリンが体勢を立て直す前に、莉央は棒を突き出した。
――コツッ。
先端が、相手の胸元に触れた。
「……あっ!」
莉央は目を見開いた。
「当たった!」
小柄なゴブリンは、自分の胸を見下ろした。
そして、顔を上げる。
「ギャギャ!」
両手を上げて喜んだ。
「やった! やっと当たった!!」
莉央も思わず笑った。
しかし、喜びすぎて足元がおろそかになった。
――ズルッ。
「うわっ!?」
――ドサッ!
尻餅をついた。
「……いってぇ」
小柄なゴブリンが、腹を抱えて笑い始めた。
「ギャハハハ!」
「笑うな!!」
莉央は地面の土を掴み、投げる真似をした。
ゴブリンは慌てて後ずさる。
「ギャッ!」
「へへっ、ビビった?」
莉央は笑いながら立ち上がった。
その様子を、集落の入口にいた年老いたゴブリンが眺めていた。
老人は、何かを確かめるように目を細めると、ゆっくりと焚き火の方へ戻っていった。
* * *
その日の夕食は、いつもより少し豪華だった。
大きな木の器には、細かく刻んだ肉と根菜が入った煮込み料理が盛られている。
どうやら、狩りに出ていたゴブリンたちが獲物を持ち帰ったらしい。
「おおっ!」
莉央は器を覗き込んだ。
「今日は肉多いじゃん!」
小柄なゴブリンが隣に座り、嬉しそうに頷いた。
「ギャ!」
莉央は木の匙を手に取った。
肉は少し硬かったが、噛めば脂が滲み出た。
根菜には独特の甘みがあり、煮汁には香草のような匂いがついている。
「……うま」
思わず呟いた。
日本にいた頃なら、見た目だけで食べるのを嫌がっていただろう。
しかし、今は違う。
朝から森を歩き、土を掘り、棒を振り続けていた。
身体が疲れている。
腹が減っている。
温かい食べ物が、こんなにありがたいものだとは思わなかった。
「……おかわりある?」
莉央は空になった器を持ち上げた。
小柄なゴブリンは首を傾げる。
「ギャ?」
「おかわり! もう一杯!」
莉央は器を指さした。
ゴブリンは理解したらしく、立ち上がった。
しかし、少し離れた場所にいた年老いたゴブリンが、何か短く声を上げた。
「ギャッ」
小柄なゴブリンは立ち止まった。
老人が、残りの煮込みを指さす。
そこには、まだ食事を受け取っていない子供たちがいた。
「…………」
莉央は、空の器を見つめた。
そして、ゆっくりと下ろした。
「……ああ」
小柄なゴブリンが振り返る。
「ギャ?」
「いいよ。もう腹いっぱい」
莉央は腹を軽く叩いた。
「ほら、いっぱい!」
ゴブリンはしばらく莉央を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「ギャ」
彼は器を受け取ると、子供たちの方へ歩いていった。
莉央は、その背中を眺めていた。
ここでは、食べ物が無限に出てくるわけではない。
誰かが多く食べれば、その分、別の誰かの取り分が減る。
そんな当たり前のことを、今さらながら理解した。
「……そりゃそうだよな」
莉央は小さく呟いた。
* * *
翌朝。
莉央は、集落の外れで包丁を握っていた。
「……重っ」
昨日まで使っていた木の棒とは、やはり感覚が違う。
包丁の刃は金属製で、重心が前に寄っている。
振り下ろすだけなら勢いがつくが、途中で止めたり、方向を変えたりするのが難しい。
小柄なゴブリンは、莉央の手元をじっと見ていた。
「ギャ」
「……何?」
ゴブリンは、莉央の腕を軽く押さえた。
そして、自分の短剣を取り出す。
刃こぼれした古い短剣。
それを構え、ゆっくりと動いてみせた。
肘を大きく振り回さない。
刃を身体から離しすぎない。
足を動かして距離を調整する。
「……ああ」
莉央は頷いた。
「こう?」
包丁を胸の前に構える。
小柄なゴブリンが、少し離れた場所に立った。
そして、木の棒を持ち上げる。
どうやら、実際に打ち合うつもりらしい。
「……マジ?」
莉央は包丁を見下ろした。
刃物で稽古するのは、さすがに危ない。
小柄なゴブリンも、そのことは理解していたようだった。
彼は首を横に振ると、莉央の包丁を指さし、地面を指した。
「……あ、置けってこと?」
「ギャ」
「……はいはい」
莉央は包丁を鞄に戻した。
代わりに木の棒を握る。
小柄なゴブリンは満足そうに頷いた。
「……お前、意外とちゃんとしてんだな」
「ギャ?」
「いや、何でもない」
稽古が始まった。
昨日より、莉央の動きは少しだけ良くなっていた。
相手の棒を受け止める。
横へ動く。
無理に追わない。
それでも、まだ何度も叩かれた。
――コツン!
「いって!」
――コツッ!
「くそっ!」
――カンッ!
「おっ!」
そして。
十数回目の打ち合いで、莉央は相手の棒を受け流すことに成功した。
小柄なゴブリンの腕が外へ流れる。
その隙に、一歩踏み込む。
――コツッ。
莉央の棒が、相手の胸に触れた。
「……やった!」
小柄なゴブリンは、自分の胸を見下ろした。
そして、満足そうに頷いた。
「ギャ!」
「へへっ!」
莉央は得意げに笑った。
「どうよ!」
だが、次の瞬間。
小柄なゴブリンが、莉央の足元を軽く払った。
「……え?」
――ドサッ!
「いってぇ!!」
見事に尻餅をついた。
「ギャギャギャ♪」
「てめえ!! 今の反則だろ!!」
莉央は地面に座ったまま怒鳴った。
ゴブリンは、楽しそうに笑っている。
その笑い声につられて、近くにいた子供たちまで笑い始めた。
「ギャハハハ!」
「ギャギャ!」
「お前らも笑うな!!」
集落の朝は、いつもと変わらず賑やかだった。
* * *
昼過ぎ。
莉央は、集落の端にある小さな水場で手を洗っていた。
昨日の稽古で擦りむいた手のひらが、少し痛む。
「……いてて」
水に触れると、傷口がひりついた。
それでも、泥を落としておかなければならない。
小柄なゴブリンが隣にしゃがみ、莉央の手を覗き込んだ。
「ギャ?」
「大丈夫だって」
莉央は手を振った。
「こんくらい、何でもねえよ」
ゴブリンは、少し不満そうな顔をした。
そして、どこかへ走っていった。
「……また薬草か?」
莉央は苦笑した。
あいつは、どうも世話を焼くのが好きらしい。
自分より小柄なくせに、何かと面倒を見ようとする。
最初は鬱陶しいと思っていたが、今では少しありがたかった。
「……変なやつ」
莉央は呟いた。
そのとき。
集落の入口から、慌ただしい足音が聞こえた。
「ギャアッ!!」
「……ん?」
振り返る。
森の方から、一匹のゴブリンが駆け込んできた。
肩で息をしている。
片手には、折れた木の槍。
もう片方の腕には、赤い傷が走っていた。
「……え?」
莉央は立ち上がった。
ゴブリンは集落の中央へ走り込み、何かを叫んだ。
「ギャッ! ギャギャアッ!!」
その声を聞いた途端、周囲のゴブリンたちの表情が変わった。
子供たちが住居へ押し込まれる。
年老いたゴブリンが、焚き火のそばから立ち上がる。
武器を持った若いゴブリンたちが、次々と集まってきた。
「……何?」
莉央は、呆然と周囲を見渡した。
昨日も似たようなことがあった。
だが、今回は違う。
明らかに、切迫している。
「……おい」
莉央は近くのゴブリンに声をかけた。
「何があったんだよ?」
相手は答えず、森の方角を指さした。
莉央も、そちらへ目を向ける。
木々の向こう。
遠くから、かすかな金属音が聞こえた。
――カァン。
――カァン。
そして。
人間の声。
「……あ」
莉央の顔から、笑みが消えた。
昨日、森で聞いた声。
自分を追い回した冒険者たち。
彼らが、また来たのだ。
「……マジかよ」
小柄なゴブリンが、莉央の隣へ駆け寄ってきた。
手には、いつもの短剣。
彼は莉央の腕をつかみ、小屋の方を指さした。
「ギャ!」
「……隠れろって?」
「ギャギャ!」
莉央は、その手を見つめた。
そして、ゆっくりと振りほどいた。
「……嫌だ」
ゴブリンが首を傾げる。
「ギャ?」
「……もう逃げんの、嫌なんだよ」
莉央は鞄を開いた。
二本の包丁が、布に包まれている。
そのうち一本を取り出した。
小さな手には、まだ重すぎる刃物。
だが、昨日よりは少しだけ、握り方が分かっていた。
「……私だって」
莉央は、包丁を握り直した。
「何もできねえわけじゃねえんだよ」
小柄なゴブリンは、しばらく莉央を見つめていた。
そして、短く鳴いた。
「……ギャ」
それが賛成なのか、反対なのか。
莉央には分からなかった。
ただ。
彼は、莉央の隣に立った。
森の奥から、人間たちの足音が近づいてくる。
集落のゴブリンたちは、粗末な武器を握りしめていた。
莉央も、包丁を構えた。
胸が激しく鳴っている。
手が震えている。
怖い。
今すぐ逃げ出したい。
それでも。
隣に立つ小柄なゴブリンを見たとき、莉央は足を動かせなかった。
彼は、昨日まで何度も自分を助けてくれた。
食べ物を分けてくれた。
怪我を手当てしてくれた。
そして、戦い方まで教えてくれた。
「……クソッ」
莉央は歯を食いしばった。
「……来るなら来いよ」
その声は、自分でも驚くほど小さかった。
森の向こうで、鳥たちが一斉に飛び立った。
次の瞬間。
――ガサガサッ!!
茂みの奥から、人間の男が姿を現した。
手には、抜き身の剣。
その後ろにも、複数の人影が続いている。
「いたぞ!」
男が叫んだ。
「ゴブリンの巣だ!!」
莉央は、息を呑んだ。
ついに。
人間たちが、集落へやって来た。




