第5話「森に入ってきやがったクソ人間たち(°_°)」
第5話「森に入ってきやがったクソ人間たち(°_°)」
朝靄が、森の低い場所に溜まっていた。
夜の間に冷えた空気はまだ湿り気を帯びており、木々の葉先から落ちる雫が、地面に積もった枯れ葉を小さく鳴らしている。
ゴブリンたちの集落では、すでに一日の営みが始まっていた。
焚き火の跡からは細い煙が立ち上り、昨夜のうちに集められた薪が、住居の脇に積み直されている。食料を保存するための穴倉では、年老いたゴブリンが木の実の入った籠を調べ、傷んだものを選り分けていた。
集落の端では、二匹の若いゴブリンが槍の穂先を研いでいる。
もっとも、槍といっても、先端を尖らせた木の棒に石片を括りつけただけの粗末なものだった。
そんな集落の片隅で、黒瀬莉央は盛大なくしゃみをした。
「……ぶえっくしょい!!」
鼻をすすりながら、莉央は両腕を擦った。
「さっむ……。昨日の昼はあんな暑かったのに、何なんだよ、この気温差」
異世界に来てから三日目。
そして、ゴブリンになってから二度目の朝だった。
正確な日付は分からない。スマートフォンの時計は動いているものの、この世界の一日が地球と同じ長さなのかさえ不明だった。
ただ、腹が減れば朝が来たと分かり、眠くなれば夜になったと分かる。
そんな生活にも、少しずつ慣れ始めていた。
「……って、慣れてどうすんだよ」
莉央は自分の手を見下ろした。
小さな緑色の手。
短い指。
黒ずんだ爪。
何度見ても、やはりゴブリンだった。
昨日はあまり気にしないようにしていたが、今朝になって、ふと気になることがあった。
「……そういや、あと何時間だ?」
莉央は小声で呟いた。
あの忌々しいルーレットには、持続時間が七十二時間と表示されていた。
つまり三日間。
発動したのは一昨日の夕方だから、まだ一日以上は残っている計算になる。
「長すぎんだろ……」
ため息をついたところで、背後から軽い足音が近づいてきた。
「ギャ!」
「……お前か」
振り返ると、いつもの小柄なゴブリンが立っていた。
彼は片手に木の棒を持ち、もう片方の手には、細長い布切れを握っていた。
「何それ?」
「ギャギャ」
ゴブリンは莉央の足元を指さした。
昨日、森で傷つけた足には、まだ葉っぱと布の包帯が巻かれている。
「ああ、交換してくれんの?」
莉央が足を差し出すと、ゴブリンはしゃがみ込み、古い布をほどき始めた。
動作は決して器用ではなかったが、傷を引っかけないように気をつけているらしい。
昨日より赤みが引いていることを確かめると、新しい葉を当てて布を巻き直した。
「……お前、こういうの慣れてんな」
「ギャ?」
「いや、ありがと」
意味は通じなくとも、声の調子で何かを感じ取ったのだろう。
ゴブリンは小さく笑い、持っていた木の棒を差し出した。
「……もうやんの?」
「ギャ!」
どうやら、昨日の約束を覚えていたらしい。
莉央は棒を受け取り、口元を歪めた。
「いいぜ。今日は一本くらい取ってやる」
* * *
集落の外れには、木々がまばらになった小さな空き地があった。
地面には短い草が生え、ところどころに踏み固められた土が露出している。ゴブリンたちが普段から道具を作ったり、狩りの練習をしたりする場所なのだろう。
莉央と小柄なゴブリンは、そこで向かい合っていた。
「……よし」
莉央は木の棒を握り直した。
昨日の稽古で分かったことがある。
今の身体は、以前とはまるで違う。
腕が短く、歩幅も小さい。人間だった頃の感覚で棒を振ると、届くはずの距離で空振りしてしまう。
その一方で、重心が低いせいか、しゃがんだ姿勢から動き出すのは意外と楽だった。
莉央は軽く膝を曲げた。
相手のゴブリンも、同じように棒を構える。
「……いくぞ!」
莉央が踏み込む。
棒を右から振る。
相手は半歩下がった。
昨日なら、ここで勢い余って転んでいただろう。
だが今日は、無理に追いかけなかった。
棒を引き戻し、相手の足元を見る。
小柄なゴブリンが左へ動いた。
「……そこ!」
莉央は棒を突き出した。
しかし、相手は軽く身体を捻って避けた。
次の瞬間、木の棒が莉央の肩に触れた。
――コツン。
「いって!」
「ギャギャ♪」
「……まだだ!」
莉央は距離を取り直した。
今度は相手の棒をよく見る。
相手が動く。
莉央も動く。
木の棒同士がぶつかり、乾いた音を立てた。
――カンッ!
「おっ!」
初めて、まともに受け止められた。
だが喜んだのも束の間、相手は棒を引くと同時に足を踏み替え、莉央の脇へ回り込んだ。
――コツン。
「……またかよ!」
小柄なゴブリンは、楽しそうに笑った。
莉央は悔しそうに唇を尖らせたが、昨日のように棒を振り回すことはしなかった。
相手が自分より上手い。
その事実を、少しずつ認め始めていた。
十数回ほど打ち合った頃には、莉央の息が上がっていた。
「はあ……はあ……」
汗が額から流れ、緑色の頬を伝う。
小柄なゴブリンは、まだ余裕があるようだった。
「……お前、何者だよ」
「ギャ?」
「いや、マジで」
莉央は苦笑した。
見た目は、自分と大して変わらない小さなゴブリンだ。
それでも、森を歩くことも、食べ物を見分けることも、棒を扱うことも、自分よりずっと上手かった。
彼にとっては、どれも特別な能力ではないのだろう。
この森で生きていくために、当たり前に覚えてきたことなのだ。
「……そりゃ、そうか」
莉央は棒を下ろした。
相手は生まれたときから、この世界で生きている。
自分とは、積み重ねてきた時間が違う。
そのとき、集落の方から甲高い声が聞こえた。
「ギャーッ!」
振り返ると、少し背の高いゴブリンが籠を抱えて立っていた。
昨日、一緒に森へ入った個体だった。
小柄なゴブリンが何やら返事をする。
二匹は短く言葉を交わし、それから莉央を見た。
「……何?」
背の高いゴブリンが籠を持ち上げる。
「ああ、また採集?」
「ギャ!」
「……はいはい」
莉央は棒を地面に置いた。
「今日は変な実、食わねえからな」
もちろん、言葉は通じていなかった。
* * *
午前の森は、昨日よりも明るかった。
木々の間から差し込む陽光が、苔むした岩や湿った地面にまだら模様を作っている。
莉央たちは、集落から少し離れた斜面を歩いていた。
先頭は背の高いゴブリン。
その後ろに莉央。
最後尾を、小柄なゴブリンが歩いている。
今日は木の実だけでなく、食べられる根や薬草も集めるらしい。
背の高いゴブリンは、ときどき立ち止まって地面を調べ、細長い木の棒で土を掘り返していた。
「……芋?」
掘り出されたのは、茶色い根だった。
大きさは人間の親指ほど。
いくつも連なっている。
「ギャ」
ゴブリンが根を差し出す。
「……これ食えんの?」
相手は頷くと、土を払い、籠へ入れた。
莉央も真似して掘り始めた。
だが、慣れない作業はなかなか上手くいかない。
根を途中で折ってしまったり、石に棒を引っかけたりする。
「……クソッ」
それでも、昨日よりは少しだけ要領が分かってきた。
土を大きく掘り返すのではなく、根の周囲から少しずつ崩していく。
そうすれば、途中で折れにくい。
「……おっ」
ようやく一本、きれいに抜けた。
「見ろよ!」
莉央は得意げに根を掲げた。
小柄なゴブリンが覗き込む。
「ギャ!」
「へへっ」
背の高いゴブリンも、満足そうに頷いた。
ほんの些細なことだった。
けれど、莉央にとっては、異世界へ来て初めて自分の手で食料を得た瞬間だった。
その後も、三匹は黙々と作業を続けた。
籠の底が見えなくなる頃には、太陽がだいぶ高くなっていた。
「……疲れた」
莉央は腰を伸ばした。
小さな身体とはいえ、長時間しゃがみ続けるのは楽ではない。
背の高いゴブリンが、そろそろ戻ろうと身振りで示した。
莉央も頷き、籠を持ち上げた。
そのときだった。
――カァン。
遠くから、金属の触れ合う音が聞こえた。
「……ん?」
莉央は足を止めた。
森の中では、あまり聞かない音だった。
木の枝が折れる音でも、石がぶつかる音でもない。
もっと硬く、澄んだ響き。
小柄なゴブリンが、突然莉央の腕をつかんだ。
「……え?」
彼は口元に指を当てた。
そして、低く身をかがめる。
背の高いゴブリンも、すでに籠を地面へ置いていた。
二匹の表情から、先ほどまでの気楽さが消えている。
「……何?」
莉央が小声で尋ねる。
小柄なゴブリンは答えず、茂みの向こうを指さした。
莉央も身体を低くした。
耳を澄ます。
しばらくして、人間の声が聞こえた。
「……この辺りだったはずだ」
莉央の背筋が冷たくなった。
聞き覚えのある声だった。
* * *
木々の向こうに、人影が見えた。
全部で五人。
革鎧を着た男が二人。
槍を持った男が一人。
弓を背負った男が一人。
そして、少し年配の男が、地面を調べながら歩いていた。
莉央は、そのうち二人の顔を覚えていた。
「……あいつら」
自分を追い回した冒険者たちだ。
剣士と、弓の男。
間違いない。
「昨日は、この辺りでゴブリンを見つけた」
剣士が言った。
「それで、巣はどこだ?」
年配の男が尋ねる。
「もう少し北だと思う。あのときは七匹ほど出てきた」
「足跡が多いな」
男はしゃがみ込み、湿った土を指でなぞった。
「小さいものも混じっている。子供がいるのかもしれん」
「だったら、なおさら早く片づけるべきだろう」
剣士が答えた。
莉央は眉をひそめた。
「……片づける?」
声が漏れそうになり、慌てて口を押さえた。
男たちは、さらに話を続けている。
「村長は、まず様子を見ろと言っていたぞ」
「分かっている」
「なら、勝手な真似はするな」
年配の男の口調には、明らかな警戒があった。
剣士は不満そうに鼻を鳴らした。
「魔物相手に、何をそんなに慎重になる必要がある?」
「森の中で無理をすれば、こちらが死ぬ。相手が何であろうと同じことだ」
その言葉に、剣士は返事をしなかった。
莉央は、茂みの陰から男たちを見つめていた。
魔物。
その言葉が、妙に耳に残った。
昨日までは、自分も普通に使っていた言葉だった。
ゲームの中で何百匹も倒してきた。
ゴブリンも、スライムも、オークも。
けれど。
今、その魔物たちと一緒に暮らしている。
朝飯を食べ、森で木の実を集め、怪我をすれば手当てしてくれる。
あの小柄なゴブリンも。
焚き火のそばにいた年寄りも。
木の棒を振り回していた子供たちも。
全員、魔物だった。
「…………」
莉央は、隣の小柄なゴブリンを見た。
彼は人間たちの動きをじっと観察していた。
耳が小刻みに動いている。
恐れているのか。
怒っているのか。
莉央には分からなかった。
ただ、彼が自分よりずっと冷静であることだけは分かった。
* * *
「……おい」
突然、弓の男が立ち止まった。
「どうした?」
「今、あっちで何か動いた」
莉央の心臓が跳ねた。
男が指さしたのは、こちらの方向だった。
「……っ!」
小柄なゴブリンが、莉央の肩を押さえた。
動くな。
そう言っているのだろう。
莉央は息を止めた。
弓の男が、ゆっくりと弓を構える。
――ギリ……。
弦の張る音が、静かな森に響いた。
「……何かいるぞ」
剣士が腰の剣に手をかけた。
莉央は、自分の胸が激しく上下していることに気づいた。
怖い。
昨日、矢を射られたときの感覚が蘇る。
あの鋭い音。
木に突き刺さった矢。
そして、剣を振り上げて迫ってきた男の顔。
「…………」
逃げたい。
今すぐ走り出したい。
だが、動けば見つかる。
小柄なゴブリンは、莉央の腕をしっかり握っていた。
そのとき。
――ガサッ!
少し離れた茂みから、一匹の小動物が飛び出した。
四本の耳を持つ、ウサギに似た生き物だった。
「……何だ、獣か」
弓の男が息を吐いた。
剣士も、剣から手を離した。
「無駄に驚かせるな」
「いや、確かに何かいたんだ」
「もういい。先へ進むぞ」
男たちは再び歩き始めた。
やがて、その姿が木々の向こうへ消えていく。
「…………」
莉央は、しばらく動けなかった。
小柄なゴブリンが、ようやく手を離した。
「……はあっ」
莉央は大きく息を吐いた。
「……マジで死ぬかと思った」
背の高いゴブリンが、何か短く告げた。
小柄なゴブリンが頷く。
二匹は、集落の方角を指さした。
「……戻るの?」
「ギャ」
莉央も頷いた。
「……そうだな」
しかし、立ち上がろうとした瞬間、ふと気づいた。
男たちが進んでいった方向。
それは、集落へ続く道と大きく違っていなかった。
「……あれ?」
莉央は振り返った。
背の高いゴブリンが、すでに急ぎ足で歩き始めている。
小柄なゴブリンも、その後を追った。
「……おい、待てよ!」
莉央は慌てて二匹についていった。
* * *
集落へ戻ると、普段とは違う空気が漂っていた。
背の高いゴブリンが何かを叫ぶと、周囲のゴブリンたちが一斉に顔を上げた。
何匹かが駆け寄り、森の方角を確認する。
年老いたゴブリンが、子供たちを住居の奥へ連れていった。
武器を持った若いゴブリンたちは、集落の入口へ集まり始めた。
「……何?」
莉央は、その様子を見つめた。
いつもの騒がしい集落とは違っていた。
子供たちの笑い声が消え、焚き火の周囲でも誰も大声を出さない。
小柄なゴブリンが、莉央を小屋へ連れていこうとした。
「……待って」
莉央は、その手を振りほどいた。
「何が起きてんの?」
「ギャギャ」
「人間が来たから?」
ゴブリンは、森の方を見た。
それだけで、十分だった。
「…………」
莉央は唇を噛んだ。
あの剣士たちは、集落を探していた。
そして、見つけたらどうするつもりなのか。
莉央には、何となく分かっていた。
「……あいつら」
昨日、自分を殺そうとした連中。
その相手が、今度はここへ来る。
そう考えた途端、腹の底から嫌なものが込み上げてきた。
「……ふざけんなよ」
小さく呟く。
小柄なゴブリンが、莉央の顔を覗き込んだ。
「ギャ?」
「……何でもねえ」
莉央は鞄を抱え直した。
中には、二本の包丁が入っている。
昨日までは、ただ持っているだけだった。
今の身体では重く、まともに扱えるかどうかも分からない。
それでも。
莉央は、鞄の口を開いた。
一本の包丁を取り出す。
小柄なゴブリンが、不思議そうにその刃を見つめた。
「……なあ」
莉央は包丁を握ったまま、彼を見た。
「もうちょっと、教えてくんねえ?」
「ギャ?」
「棒じゃなくてさ」
莉央は、集落の外れにある稽古場を指さした。
「こういうの、どう使うのか」
小柄なゴブリンは、莉央の顔と包丁を交互に見た。
しばらく考えるように首を傾げていたが、やがて自分の腰から短い刃物を抜いた。
刃こぼれした、古い短剣だった。
「ギャ」
そして、稽古場の方へ歩き出した。
「……よし」
莉央は、その背中を追った。
森の向こうでは、人間たちが動いている。
自分には、まだ何もできないかもしれない。
それでも。
何も知らず、何もできないまま逃げ回るのだけは、もう嫌だった。
* * *
同じ頃。
森の北側では、偵察に出ていた人間たちが足を止めていた。
年配の男が、地面に残された小さな足跡を調べている。
「……ここだな」
剣士が尋ねた。
「何か分かったのか?」
「足跡が増えている。何匹も通った跡がある」
「巣が近い?」
「おそらくな」
男は顔を上げた。
木々の隙間から、かすかな煙が見えていた。
「……あれを見ろ」
剣士の目が細くなった。
「煙か」
「ああ」
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて剣士が笑った。
「見つけたな」
年配の男は、すぐには答えなかった。
煙の昇る方角を見つめながら、低い声で言った。
「今日はここまでだ。村へ戻るぞ」
「何だと?」
「場所は分かった。これ以上近づく必要はない」
剣士は不満そうだったが、仲間たちが引き返し始めるのを見て、渋々従った。
ただし、その表情には、すでに次の行動を決めている者の確信があった。
木々の向こうで、細い煙がゆっくりと空へ昇っていた。
そこに暮らす者たちが、何を食べ、どんな話をし、どんな夜を過ごしているのか。
剣士は知らなかった。
知ろうともしていなかった。
彼にとって、あれはただの魔物の巣だった。
そして、魔物の巣とは。
見つけたら、潰すものだった。




