第15話 地下室の番人
包丁2本で異世界転移した少女は、今日も敵を許さない
第一章 森の向こうの世界
第15話 地下室の番人
――カツン、カツン。
靴音が遠ざかっていく。
黒瀬莉央は、石床の排水溝に腹を押しつけたまま、しばらく動かなかった。
厚い扉から出てきた二人の男。
一人は兵士。
もう一人は、胸元に二つに分かれた塔の紋章をつけた男だった。
(……行ったか)
莉央は、ゆっくりと顔を上げた。
通路の奥には、先ほど男たちが出てきた扉がある。
扉は閉まっていた。
だが、鍵をかける音は聞こえなかった。
(……開いてんのか?)
莉央は、扉を見つめた。
木製の厚い扉。
下には、わずかな隙間。
しかし、カエルの身体でも通れそうにない。
(……ちっ)
莉央は、壁際を見た。
排水溝は、扉の手前で終わっている。
その先は、平らな石床だった。
(……どうすっかな)
そのとき。
ゴブリンの幽霊が、扉をすり抜けた。
「ギャ♪」
(……お前は便利だよな)
莉央は、少し羨ましくなった。
だが、幽霊は物に触れられない。
鍵を開けることも、扉を押すこともできない。
できるのは、向こう側を見ることだけだった。
しばらくして、ゴブリンが戻ってきた。
「ギャ!」
(……何かあった?)
ゴブリンは、両手を大きく広げた。
それから、何かを丸く囲むような仕草をする。
(……丸いもの?)
「ギャギャ!」
(……分かんねえって)
莉央は、困ったように首を傾げた。
だが、ゴブリンは諦めなかった。
今度は、床を指さす。
そして、扉の横へ移動した。
(……あ)
莉央は、目を細めた。
扉の横。
石壁の根元。
そこに、細い亀裂があった。
(……こっちか)
莉央は、慎重に近づいた。
亀裂は、石材の継ぎ目に沿って奥へ続いている。
その一部が崩れ、小さな穴になっていた。
(……いけるか?)
莉央は、頭を押し込んだ。
――ぐにっ。
(……お)
頭が通る。
前脚。
腹。
後脚。
――するっ。
(……よし)
莉央は、壁の向こうへ抜けた。
* * *
そこは、地下の保管室だった。
天井は低く、壁には棚が並んでいる。
木箱。
巻物。
革で綴じられた書物。
金属製の器具。
そして、見たことのない石や鉱物。
(……何だ、ここ)
莉央は、棚の下へ潜り込んだ。
部屋の中央には、大きな木製の机が置かれている。
その上には、紙が広げられていた。
複雑な円。
幾何学模様。
文字。
そして、いくつもの印。
(……魔法陣?)
莉央は、目を細めた。
机の上までは見えない。
だが、紙の端が垂れ下がっている。
そこに描かれた模様は、ゲームなどで見た魔法陣に似ていた。
(……マジかよ)
莉央は、少し興奮した。
(……本当にあるんだ、こういうの)
そのとき。
ゴブリンの幽霊が、机の上へ浮かび上がった。
「ギャ♪」
(……何が見える?)
ゴブリンは、紙を指さした。
そして、両手を広げる。
(……でっかい丸?)
「ギャ!」
(……それは見えてる)
莉央は、ため息をついた。
その直後。
棚の奥で、何かが動いた。
――カサ……。
(……ん?)
莉央は、顔を向けた。
暗い棚の下。
木箱の陰。
そこに、二つの小さな光が見えた。
(…………)
莉央は、動きを止めた。
光が、ゆっくりと近づいてくる。
そして。
――ニャア。
(…………)
(……猫!?)
* * *
大きな灰色の猫だった。
人間の目から見れば、普通の飼い猫かもしれない。
だが、カエルの莉央にとっては巨大な猛獣だった。
丸い目。
尖った耳。
鋭い爪。
そして、しなやかな身体。
(……おいおいおい)
莉央は、ゆっくりと後ずさった。
猫は、首を傾げた。
「……ニャ?」
(……頼む)
莉央は、心の中で祈った。
(……私に興味持つな)
だが。
猫の瞳孔が、細くなった。
前脚が、ゆっくりと持ち上がる。
(……あ)
――バシッ!
(……うわあああ!!)
莉央は、横へ跳んだ。
猫の前脚が、石床を叩く。
――パシン!
莉央は、棚の下へ逃げ込んだ。
だが、猫もすぐに追ってくる。
――ガサッ!
(……速え!)
莉央は、必死に跳ねた。
木箱の陰。
棚の脚。
壁際。
だが、猫は簡単に距離を詰めてくる。
(……クソッ!)
莉央は、方向を変えた。
その瞬間。
――バシッ!
猫の前脚が、莉央のすぐ横を叩いた。
(……危ねえ!)
莉央は、思わず声を出した。
「ケロォォッ!」
猫が、ぴたりと動きを止めた。
そして。
「……ニャ?」
(……何だよ)
莉央は、猫を睨んだ。
(……そんな顔すんな!)
猫は、再び前脚を持ち上げた。
(……やべっ!)
莉央は、棚の奥へ飛び込んだ。
* * *
――ガタン!
木箱が揺れた。
猫が、棚の下へ前脚を突っ込んでいる。
莉央は、壁際へ身体を押しつけた。
(……届くな、届くな)
猫の爪が、目の前の石床を引っかいた。
――カリカリ……。
(……怖えええ)
莉央は、息を潜めた。
そのとき。
ゴブリンの幽霊が、猫の前へ飛び出した。
「ギャッ!」
両手を広げ、威嚇する。
だが、猫は反応しなかった。
幽霊が見えていないのだ。
(……お前、気持ちは嬉しいけど!)
ゴブリンは、必死に手を振っている。
しかし、猫は莉央を見つめたままだった。
――カリッ。
爪が、さらに近づく。
(……クソッ)
莉央は、周囲を見た。
右には壁。
左には棚の脚。
後ろには木箱。
逃げ道がない。
(……詰んだ?)
そのとき。
ゴブリンが、突然壁の向こうへ消えた。
(……え?)
莉央は、目を丸くした。
(……おい、どこ行くんだよ!)
猫の前脚が、さらに伸びる。
莉央は、身体を縮めた。
だが。
次の瞬間。
――ガチャ。
保管室の扉が開いた。
「……何だ?」
男の声がした。
猫が、ぴたりと動きを止める。
「またお前か」
男は、猫を見下ろした。
「こんなところで何をしている」
猫は、何事もなかったように鳴いた。
「ニャア」
「……まったく」
男は、猫を抱き上げた。
「ここは入るなと言ってるだろ」
そして、猫を抱えたまま部屋を出ていった。
――バタン。
扉が閉まる。
(…………)
莉央は、しばらく動けなかった。
(……助かった?)
ゴブリンの幽霊が、壁の向こうから戻ってきた。
「ギャ♪」
(……お前)
莉央は、目を細めた。
(……もしかして、人が来るの分かってた?)
ゴブリンは、嬉しそうに頷いた。
「ギャギャ♪」
(……そっか)
莉央は、小さく笑った。
(……ありがとな)
ゴブリンは、照れたように頭をかいた。
* * *
しばらくして、莉央は保管室の奥へ進んだ。
そこには、大きな木箱が積まれていた。
箱の側面には、文字が書かれている。
莉央には読めなかった。
だが、印は見覚えがあった。
二つに分かれた塔。
(……また、あの紋章)
莉央は、木箱を見上げた。
その隣には、別の印もあった。
円の中に、三本の線。
そして、星のような図柄。
(……何だ、これ)
莉央は、首を傾げた。
ゴブリンの幽霊が、箱の向こうへすり抜けた。
しばらくして、戻ってくる。
「ギャ!」
(……何?)
ゴブリンは、両手を広げた。
そして、何かを持ち上げるような仕草をした。
(……重いもの?)
「ギャギャ!」
(……いや、分かんねえって)
莉央は、少し困った。
だが、木箱の一つには蓋が完全には閉まっていなかった。
その隙間から、青白い光が漏れている。
(……ん?)
莉央は、慎重に近づいた。
箱の中には、金属製の輪が入っていた。
大きさは、人間の腕輪ほど。
表面には、細かな文字が刻まれている。
そして、その中央には、青白く光る石が埋め込まれていた。
(……何だ、これ)
莉央は、目を細めた。
石は、弱く明滅している。
まるで、呼吸しているようだった。
(……魔道具?)
莉央は、少し興味を持った。
だが、触れる気にはなれなかった。
何が起きるか分からない。
そもそも、今の自分はカエルだ。
(……変なもん触って、さらに変なことになったら嫌だし)
莉央は、箱から離れた。
そのとき。
机の上に置かれた紙が、ふわりと揺れた。
(……ん?)
風は吹いていない。
だが、紙の端が、ゆっくりと持ち上がっている。
そして。
青白い石が、少し強く光った。
(……え?)
莉央は、身体を硬くした。
ゴブリンの幽霊も、驚いたように石を見つめている。
「ギャ……?」
莉央は、ゆっくりと後ずさった。
(……おいおい)
石の光が、もう一度強くなった。
――トクン。
まるで、心臓の鼓動のような音がした。
(……何だよ、これ)
莉央は、目を細めた。
その瞬間。
頭の奥に、冷たい声が響いた。
《異界反応を検知》
(…………)
莉央は、固まった。
(……は?)
声は、さらに続いた。
《未登録個体を確認》
《識別処理を開始します》
(……ちょっと待て)
莉央は、思わず後ずさった。
(……おいおいおい)
青白い石が、強く輝く。
そして。
《対象個体――黒瀬莉央》
(…………)
莉央は、目を見開いた。
(……何で)
この世界の誰にも、名乗っていない。
ましてや、こんな道具に名前を教えた覚えなどない。
(……何で私の名前、知ってんだよ!?)
青白い光が、莉央の身体を照らしていた。
ゴブリンの幽霊が、心配そうに近づいてくる。
「ギャ……」
莉央は、動けなかった。
そして、頭の奥に最後の言葉が響いた。
《召喚対象記録との照合を開始》
――第15話・完――
次のエピソードは…
青白い魔道具が、なぜか莉央の名前を認識した。さらに表示されたのは、彼女自身も知らなかった「召喚対象記録」という言葉。偶然この世界へ転移したはずの莉央と、各国が進める勇者召喚には何らかの関係があるのか。一方、施設では翌朝の引き渡し準備が進み、囚われた少女たちの運命も動き始める――。




