第14話 石壁の向こう側
包丁2本で異世界転移した少女は、今日も敵を許さない
第一章 森の向こうの世界
第14話 石壁の向こう側
――ぽたっ。
冷たい水滴が、黒瀬莉央の頭に落ちた。
(……つめてっ!)
莉央は、思わず身体を縮めた。
目の前には、暗い石造りの排水路が続いている。
幅は、莉央の身体より少し広い程度。
天井は低く、人間なら腕を差し込むことさえ難しそうだった。
(……狭っ)
莉央は、前脚を伸ばした。
湿った石。
ぬるぬるした苔。
そして、鼻を刺す嫌な臭い。
(……あー、もう)
莉央は、心の中で悪態をついた。
(……異世界来てから、まともな場所歩いてねえぞ)
ゴブリンの集落。
森。
街道。
ベルクハイムの排水溝。
そして今度は、怪しげな施設の排水路。
(……私、何の罰ゲームやってんだよ)
隣では、小さなゴブリンの幽霊がふわふわと浮かんでいた。
「ギャ♪」
(……お前は汚れなくていいよな)
莉央が睨むと、ゴブリンは不思議そうに首を傾げた。
「ギャ?」
(……いや、何でもねえ)
莉央は、小さく息を吐いた。
そして、前へ進んだ。
* * *
排水路は、建物の基礎石の下を通っていた。
途中には、細かな砂利や落ち葉が溜まっている。
莉央は、なるべく水の少ない場所を選びながら進んだ。
やがて、前方に薄い光が見えた。
(……出口か?)
莉央は、慎重に近づいた。
石の隙間から、室内の様子が見える。
床は、粗く削られた石。
壁には、鉄製の燭台。
その奥には、木製の扉が並んでいた。
(……地下室?)
莉央は、首を傾げた。
どうやら、排水路は建物の地下へ続いているらしい。
ただし、出口には鉄格子がはめ込まれていた。
(……うわ)
莉央は、格子を見上げた。
鉄棒の間隔は狭い。
だが、一本だけ曲がっている。
その下に、小さな隙間があった。
(……いけるか?)
莉央は、身体を低くした。
前脚を伸ばす。
頭を押し込む。
――ぐにっ。
(……お)
頭が通った。
続いて、肩。
腹。
後脚。
――するっ。
(……よし!)
莉央は、格子の向こうへ抜け出した。
そこは、地下室の壁際だった。
石の床には、細い排水溝が続いている。
莉央は、その溝の中に身を伏せた。
(……さて)
目の前には、薄暗い通路。
左右には、木製の扉が並んでいる。
扉の一つには、小さな鉄格子がついていた。
(……牢屋か?)
莉央は、慎重に近づいた。
* * *
――カツン。
突然、靴音が響いた。
(……っ!)
莉央は、排水溝の底へ身体を押しつけた。
通路の向こうから、二人の男が歩いてくる。
どちらも武器を持っていた。
しかし、服装が違う。
一人は、粗末な革鎧。
もう一人は、金属製の胸当てを着けていた。
(……ん?)
莉央は、目を細めた。
胸当ての男は、姿勢がよかった。
歩き方も、妙に整っている。
腰の剣は、鞘の位置まできちんと調整されていた。
(……何か、兵隊っぽくね?)
男たちは、莉央のすぐ近くで立ち止まった。
「今夜の見張りは、ここまででいい」
胸当ての男が言った。
「奥の部屋は?」
「交代まで誰も入れるな」
「商会の連中もか?」
「許可がなければ通すな」
「……ずいぶん厳しいな」
革鎧の男が、肩をすくめた。
「ただの奴隷置き場だろ?」
胸当ての男は、答えなかった。
代わりに、低い声で言った。
「余計なことは聞くな」
(……ほう)
莉央は、目を細めた。
(……ただの奴隷置き場じゃねえってことか)
男たちは、再び歩き始めた。
靴音が遠ざかる。
莉央は、しばらく動かなかった。
(……よし)
完全に静かになってから、顔を上げた。
ゴブリンの幽霊が、壁の向こうから戻ってきた。
「ギャ」
(……何かあった?)
ゴブリンは、通路の奥を指さした。
(……あっちか)
莉央は、小さく頷いた。
* * *
通路の左側。
三つ目の扉。
その下には、わずかな隙間があった。
莉央は、扉へ近づいた。
中から、かすかな声が聞こえる。
「……水、もうないの?」
「少しだけ残ってる」
「……喉、渇いた」
(……っ)
莉央は、身体を硬くした。
聞き覚えのある声だった。
荷馬車に乗っていた少女。
(……ここか)
莉央は、扉の下を覗いた。
隙間は狭い。
頭は入らない。
(……クソッ)
莉央は、扉の横へ回った。
壁際には、排水用の小さな穴があった。
そこから、冷たい空気が流れてくる。
(……こっちは?)
莉央は、身体を低くした。
――するっ。
頭が入る。
前脚。
腹。
後脚。
――ぽてっ。
(……入れた)
莉央は、暗い部屋の中へ転がり込んだ。
そこには、四人がいた。
荷馬車に乗っていた人々だった。
二人の女性。
少年。
そして、小さな少女。
全員、壁際に座っている。
手首の縄は、まだ解かれていなかった。
(……いた)
莉央は、少しだけ安心した。
少なくとも、四人とも生きている。
そのとき。
少女が、莉央に気づいた。
「……あ」
(……やべ)
莉央は、動きを止めた。
少女は、目を丸くした。
「……カエル」
隣の女性が、顔を上げた。
「どうしたの?」
「……あのカエル」
少女は、莉央を指さした。
「馬車にいた子だよ」
(……覚えてたのか)
莉央は、少し驚いた。
少女は、ほんの少しだけ笑った。
「……ついてきたの?」
(……まあな)
莉央は、心の中で答えた。
少女は、ゆっくりと手を伸ばした。
だが、縄が邪魔で届かない。
「……こっち、おいで」
(……いや)
莉央は、少し迷った。
(……人間に捕まるの、怖えんだけど)
だが、少女の表情を見て考え直した。
怯えた目。
震える唇。
それでも、小さなカエルに笑いかけようとしている。
(……しょうがねえな)
莉央は、ゆっくりと跳ねた。
――ぴょん。
少女の足元へ。
少女は、嬉しそうに目を細めた。
「……かわいい」
(……いや、私、人間なんだけど)
莉央は、少し複雑な気分になった。
そのとき。
ゴブリンの幽霊が、少女の隣へ近づいた。
「ギャ♪」
もちろん、少女には見えていない。
少女は、莉央だけを見つめていた。
「……ありがとう」
(……ん?)
莉央は、首を傾げた。
「……来てくれて」
(…………)
莉央は、何も言えなかった。
いや、そもそも人間の言葉を話せない。
だが。
(……クソッ)
莉央は、心の中で呟いた。
(……そんなこと言われたら、逃げられねえじゃん)
* * *
しばらくして、通路から声が聞こえてきた。
「……例の件、どうなった?」
莉央は、反射的に壁際へ移動した。
扉の外で、二人の男が話している。
「領主府からの返事待ちだ」
「遅いな」
「国境の方が騒がしいらしい」
「またか?」
「ああ。西側の連中が動いてる」
莉央は、耳を澄ませた。
(……国境?)
男たちは、声を落とした。
「勇者召喚の話は?」
「……ここで喋るな」
「だが、例の娘は――」
「黙れ」
短い沈黙。
そして。
「……明朝、引き渡す。それだけだ」
靴音が遠ざかっていく。
(…………)
莉央は、扉を見つめた。
(……勇者召喚?)
聞き覚えのある言葉だった。
異世界。
勇者。
魔王。
そして、召喚。
(……おいおい)
莉央は、目を細めた。
(……まさか、私みたいな奴が他にもいるってことか?)
もちろん、確証はない。
ただ、今の会話には気になることが多すぎた。
領主府。
国境。
勇者召喚。
そして、例の娘。
(……何なんだよ、この国)
莉央は、ため息をついた。
そのとき。
ゴブリンの幽霊が、壁の向こうを見つめた。
「……ギャ」
(……ん?)
ゴブリンは、通路のさらに奥を指さした。
莉央は、少女たちを見た。
四人は、まだ壁際に座っている。
莉央は、少し迷った。
(……ここにいても、何もできねえ)
縄は切れない。
扉も開けられない。
だが、情報なら集められる。
(……よし)
莉央は、少女の方へ向き直った。
「ケロ」
少女が、顔を上げた。
「……行っちゃうの?」
(……ちょっと見てくる)
莉央は、心の中で答えた。
そして、壁際の穴へ向かった。
少女は、寂しそうに見つめていた。
「……また来てね」
(……ああ)
莉央は、振り返った。
(……絶対、戻る)
* * *
通路の奥。
石造りの階段。
そして、厚い木製の扉。
莉央は、排水溝に沿って進んでいた。
頭上では、誰かが歩いている。
――カツン。
――カツン。
金属製の靴底が、石床を叩く音。
(……兵士か?)
莉央は、壁際へ身体を寄せた。
ゴブリンの幽霊が、扉の向こうへすり抜けていく。
しばらくして、戻ってきた。
「ギャ!」
(……何だ?)
ゴブリンは、何かを伝えようとするように身振りをした。
だが、言葉は通じない。
(……分かんねえって)
莉央は、少し困った。
そのとき。
扉の向こうから、男の声が聞こえた。
「……召喚陣の準備は?」
莉央の身体が、ぴくりと動いた。
(……え?)
「まだだ。必要な触媒が揃っていない」
「国境を越えて運ぶのは危険だぞ」
「分かっている」
「……領主府は何と言っている?」
「予定通り進めろ、だ」
莉央は、息を呑んだ。
(……召喚陣?)
男たちは、さらに声を落とした。
「……それで、例の娘は?」
「明朝、引き渡す」
「適性は?」
「まだ分からん」
「……失敗すれば?」
短い沈黙。
そして。
「……次を探すだけだ」
(…………)
莉央は、動けなくなった。
(……次を探す?)
人間を。
何かの材料のように。
使い捨てる。
(……ふざけんなよ)
莉央は、前脚で石床を押した。
そのとき。
――カチャ。
扉の向こうで、鍵が回る音がした。
(……っ!)
莉央は、慌てて排水溝の陰へ身を伏せた。
――ギィ……。
厚い扉が開く。
男が二人、通路へ出てきた。
一人は、金属製の胸当てを着けた兵士。
もう一人は、長い外套を羽織った男だった。
外套の胸元には、見覚えのある紋章が刺繍されていた。
二つに分かれた塔。
(……あれ)
莉央は、目を見開いた。
(……裏門の書類と同じじゃん)
男たちは、莉央に気づかないまま通り過ぎていった。
外套の男が言った。
「……明朝までに、すべて整えろ」
「承知しました」
「失敗は許されん」
靴音が遠ざかる。
莉央は、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。
(……何だよ、これ)
単なる人身売買だと思っていた。
だが、どうやら違う。
領主府。
国境。
勇者召喚。
そして、あの少女。
(……まさか)
莉央は、暗い通路を見つめた。
(……あの子、何かに使われるのか?)
ゴブリンの幽霊が、莉央の隣へ戻ってきた。
「……ギャ」
莉央は、ゆっくりと頷いた。
(……分かってる)
まだ何もできない。
だが。
(……ここで何が起きてるか、絶対に突き止める)
莉央は、前脚を踏ん張った。
そして、扉の向こうを見つめた。
そこには、まだ彼女の知らない世界が広がっていた。
魔王討伐のために勇者を召喚する国々。
国境を巡って争う勢力。
そして、人間を売り買いする者たち。
そのすべてが、どこかでつながっているのかもしれない。
だが、今の莉央には知る由もなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
この施設では、明日の朝、何かが起ころうとしていた。
――第14話・完――
次のエピソードは…
領主府の紋章を持つ男たちが去ったあと、莉央は地下の奥に隠された部屋を発見する。そこには召喚術に関する資料と、国境を越えて運ばれてきた奇妙な道具が保管されていた。しかし、潜入を続ける莉央の前に、カエルの天敵ともいえる存在が現れる。明朝までに少女を救う方法を見つけられるのか――。




