第七湯 湯気の向こうに、帰る声
第七湯です。
今回は、湯気の向こうにある「帰る場所」のお話です。
白那と妻子の小さなやりとりも、少しだけ入っています。
第七湯 湯気の向こうに、帰る声
「戻りました」
夜番の男が、湯場の戸をくぐった。
肩には夜露が降り、草鞋には泥がついている。
「お帰り」
台所から返った声に、男は少しだけ目を丸くした。
それから、照れくさそうに頭を下げる。
「……へい。ただいま戻りました」
昨夜までなら、それだけの言葉だった。
けれど今夜は、湊一の耳に妙に残った。
戻りました。
お帰り。
たった二つの言葉で、人の顔が少し和らぐ。
湯宿「白峰」でも、遅番の従業員が帰ってくれば、誰かが同じように声をかけていた。
旅館にとって、客を迎える言葉は大切だ。
だが、働く者を迎える言葉も、同じくらい大切だったのだ。
◇
「治部少輔様!」
穏やかな気分は、長くは続かなかった。
水番の男が、湯場の奥から慌てて駆けてくる。
「湯が、あふれかけております!」
「何?」
湊一はすぐに立ち上がった。
湯場へ入ると、石造りの湯船から熱い湯が縁を越え、洗い場へ細い川を作っていた。
白い湯気が、夜の天井へ立ち昇っている。
「水口を絞れ!」
「へ、へい!」
「排水の溝も確かめろ。布や木の葉が詰まっていないか見ろ!」
小者たちが一斉に動いた。
湊一も裾をからげ、湯船の脇へしゃがみ込む。
湯そのものが荒れているわけではない。
源から流れ込む湯の量が多すぎるのだ。
しばらくして水位が下がり始めると、湊一は息を吐いた。
「どうして、こうなった」
水番の男が青い顔で答える。
「今宵は、次の番の者が来ると思っておりまして……」
そこへ、先ほど戻ってきた夜番の男が口を挟んだ。
「おらは湯場の見回りは水番が続けるものと聞いておりました。城門の見回りを終えたら、交替するものと……」
「誰から聞いた」
二人は顔を見合わせた。
「……前の番の者から」
「おらもでございます」
湊一は眉間を押さえた。
人が増えた。
湯場を使う者も、飯を食う者も増えた。
それ自体は、喜ばしい。
だが、人が増えれば、口伝だけでは仕事が回らなくなる。
誰が、いつ、何を見るのか。
誰に引き継いだのか。
決めておかなければ、皆が働いているのに、肝心なところだけ抜け落ちる。
現代の旅館でも、よくある話だった。
「言ったつもり」
「聞いたつもり」
「誰かがやると思った」
その三つが重なると、たいてい事故が起きる。
「二人とも、怠けていたわけではないのだな」
「決して!」
二人は同時に頭を下げた。
「ならば、怒鳴っても仕方がない」
湊一は濡れた床を見回した。
「仕組みが悪い」
「仕組み……でございますか」
「ああ。人を責める前に、間違えにくい形を作る」
湊一は台所から板切れと炭を持ってこさせた。
板の上に線を引き、夜の刻を区切る。
そこへ、水番、夜番、湯場、井戸、城門と役目を書き込んでいった。
さらに、薄い木札を用意させ、それぞれの名を書く。
「番についた者は、自分の札をここへ掛ける」
湊一は板の左側を指した。
「交替する時は、次の者へ口で伝えるだけではない。次の者が札を受け取り、こちらへ掛け直す」
右側には、交替済みと書いた。
「札が動いていなければ、引き継ぎは済んでいない。誰が見ても分かるようにする」
水番の男が板をのぞき込む。
「これなら、聞き違えませぬ」
「字が読めぬ者もおりますが……」
「役目ごとに印をつければよい」
湊一は、水番の札には波線を、夜番の札には月を描いた。
「これなら分かるだろう」
「おお……」
男たちの顔が明るくなる。
湊一は、さらに小さな番帳を開いた。
「異変があれば、ここへ残す。湯の量、濁り、井戸の水位、壊れた箇所。字が書けぬ者は、書ける者へ伝えろ」
「そこまでせねばなりませぬか」
夜番の男が恐る恐る尋ねた。
「そこまでせねば、次の者が同じところで転ぶ」
湊一は濡れた足元を示した。
「今夜は床が濡れただけで済んだ。次も同じとは限らない」
二人は神妙にうなずいた。
その時だった。
ちりん。
どこからともなく、鈴の音がした。
湯船の中央で、湯気がくるりと渦を巻く。
「ようやく気づいたか、愚か者」
湯気の向こうに、白那が座っていた。
いつからいたのか。
湯船の縁に腰掛け、裸足のつま先で湯の表面をつついている。
「人は水より面倒じゃ。水は高きより低きへ流れるが、人は思い込みだけで明後日の方角へ走りよる」
「見ていたなら、早く言え」
「妾が何でも教えてやれば、そなたの頭は永遠に飾り物のままであろう」
「誰の頭が飾り物だ」
「そなたの頭じゃ」
即答だった。
周囲の者たちが、笑ってよいものか迷っている。
白那は小さく鼻を鳴らすと、湯へ手を触れた。
あふれかけていた湯が、すうっと穏やかになる。
水口から流れ込む音まで、心なしか柔らかくなった。
「今宵は妾が鎮めてやる。だが、次からは人の手で守れ」
「分かっている」
「本当に分かっておるのかのう」
白那は疑わしそうに湊一を見た。
その姿は、先ほどより少し小さい。
力を使ったのだ。
湊一が口を開きかけた時、廊下から足音がした。
「父上?」
湯気の向こうから、小さな顔がのぞく。
娘だった。
その後ろには、盆を持った妻もいる。
「まだお戻りにならぬと聞きましたので」
妻は静かに言った。
盆には握り飯と、温かな汁が載っていた。
そして端には、小さな団子の皿がある。
「夜の湯場は危ない。来てはいけないと言っただろう」
湊一が娘へ言うと、娘は妻の袖に半分隠れた。
「でも……父上が、まだ帰っていないから」
湊一は言葉を失った。
城の中にいる。
ほんの少し離れた湯場にいるだけだ。
それでも娘にとっては、父が戻っていない夜なのだ。
「すまなかった」
湊一が近寄ろうとすると、娘の視線が湯船の縁へ向いた。
「あっ」
白那が、さっと団子から目をそらす。
「白那さまも、いらしたのですね」
「当然じゃ。妾はこの地の水守ぞ」
白那は胸を張った。
幼い姿で胸を張ると、余計に小さく見える。
娘は盆から団子の皿を取った。
「白那さまも、召し上がりますか?」
「要らぬ」
白那はきっぱりと言った。
だが視線だけは、団子から離れない。
「これは父上の分ですけれど」
「要らぬとは申したが、下げてよいとは申しておらぬ」
「では、どうぞ」
「ふむ。水守への供物と申すなら、受け取ってやらぬこともない」
白那はもったいぶって団子を一つ取った。
口へ入れた瞬間、頬が緩む。
「……悪くない」
「おいしいのですね」
「悪くないと申した」
娘が笑う。
白那は不満そうに眉を寄せながら、もう一つ団子を取った。
「二つ目ではないか」
湊一が言うと、白那は冷たい目を向けた。
「毒見じゃ」
「一つ目で済んだだろう」
「一つ目と二つ目で毒が違うやもしれぬ」
「どんな団子だ、それは」
今度こそ、周囲の男たちから笑いが漏れた。
張り詰めていた湯場の空気が、湯気のようにほどけていく。
◇
夜番の男が、妻から汁を受け取った。
「我らの分まで……よろしいのでございますか」
「夜を守ってくださる方が、空腹では困ります」
妻はそう答えた。
水番の男も、恐る恐る握り飯を手にする。
「先ほど湯をあふれさせたばかりで……」
「だからこそ、食べてください」
湊一は言った。
「腹が減れば、注意も鈍る。失敗した者から飯を取り上げても、次の失敗が増えるだけだ」
「治部少輔様……」
「ただし、番札は必ず掛けろ」
「へい!」
二人の返事が、湯場へ響いた。
湊一は出来上がったばかりの番割りの板を、皆から見える柱へ掛けさせた。
水番の男が、自分の木札を取る。
波の印を確かめ、板の左側へ掛けた。
「水番、入りました」
次に夜番の男が、月の印の札を掛ける。
「夜番、戻りました」
台所の女が笑って応じた。
「お帰りなさい」
今度は、湯場にいた全員がその言葉を聞いた。
湊一は妻と娘を見た。
妻は静かにほほ笑んでいる。
娘は白那の隣に座り、団子の皿を二人の間へ置いていた。
「白那さま、これは半分ずつです」
「妾に分け方を命じるとは、そなたも偉くなったものじゃ」
「では、白那さまはいらないのですか?」
「そのようなことは申しておらぬ!」
白那が慌てて皿を抱え込む。
娘の笑い声が、白い湯気の中へ溶けていった。
戻りました。
お帰り。
その言葉を交わせる場所がある。
湯があり、飯があり、待つ者がいる。
それは城より小さく、国よりささやかなものかもしれない。
だが、人が明日も働くためには、きっと必要なものだった。
「父上」
娘が湯気の向こうから手を伸ばした。
「一緒に帰りましょう」
「ああ」
湊一は、その小さな手を取った。
「帰ろう」
ちりん、と鈴が鳴る。
振り返れば、白那も団子の皿を抱えたまま、当然のようについてきていた。
「何を見ておる。妾も戻るぞ」
「お前の帰る場所でもあるのか」
「愚か者」
白那は鼻を鳴らした。
「妾がおらねば、そなたは湯の一つも満足に守れぬではないか」
その言葉とは裏腹に、白那の小さな足取りは、どこか嬉しそうだった。
夜の佐和山に、湯気が昇る。
その向こうから、帰る者を迎える声が聞こえていた。
読みいただきありがとうございます。
白那と娘、そして長男との関係は、ここから少しずつ育っていきます。
団子一つから始まる縁ですが、後々大事なものになっていく予定です。
次回もよろしくお願いいたします。




