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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第一章 佐和山の水

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第六湯 佐和山まかない帖

第六湯です。


湯が立った佐和山に、今度は飯の湯気が上がります。


戦の前に必要なのは、刀や兵糧だけではなく、温かい飯と、名前を忘れないこと。


そして水守様いわく、団子はおやつではなく供物だそうです。

第六湯 佐和山まかない帖


 湯を使えば、腹が減る。


 これは現代でも戦国でも変わらないらしい。


     ◇


「……腹が鳴っておるぞ」


「鳴っておりませぬ」


「妾には聞こえた。ぐう、と申した」


「それは白那の腹じゃないのか」


「愚か者。水守の腹は、鈴のように高雅な音しか立てぬ」


 湊一は、湯場の軒下で腕を組んでいた。


 その足元では、幼い姿の白那が同じように腕を組んでいる。


 長い白髪はまだ少し湿っており、頭の上からは湯気が立っていた。


 昨日、ようやく使えるようになった湯場には、朝から人が絶えなかった。


 泥まみれになって井戸を直した者。


 薪を運んだ者。


 湯桶を削った者。


 城門の番を終えた足軽。


 厩で馬の世話をしていた小者。


 皆、最初は遠慮していた。


 だが、一人が湯へ入れば、次の一人も恐る恐る足を入れる。


 やがて湯場には笑い声が響くようになった。


「生き返るのう」


「肩が軽くなった」


「殿が、我らに湯を使わせてくださるとはな」


 そんな声を聞くたび、湊一の胸には小さな火がともった。


 湯宿「白峰」で、客が湯から上がったときに見せる顔と同じだった。


 身分も時代も違う。


 それでも温かい湯に肩まで浸かった人間は、少しだけ素直になる。


 しかし――。


 湯場から出てきた男たちの腹が、次々と鳴った。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 まるで太鼓の稽古である。


「申し訳ございませぬ」


 若い足軽が、赤くなった顔を伏せた。


「朝から何も口にしておらぬのか」


「いえ。昨日の夕刻に、粟の粥を少々」


「それから何も?」


「我らは下の者ゆえ、残り物があれば頂けます。今日はまだ……」


 湊一は湯場を振り返った。


 湯気の中では、別の男たちが笑っている。


 身体は温まった。


 だが、腹は空のままだ。


 それでは半分しか生き返っていない。


「台所へ行く」


 湊一が歩き出すと、白那も短い足でついてきた。


「妾も行ってやる」


「腹が減ってるんだろ」


「違う。水の使い方を見張るためじゃ」


「台所に水守が必要なのか?」


「飯にも水を使うであろう。そなたは真に愚か者じゃな」


 もっともらしく言いながら、白那の視線はすでに台所の方へ向いていた。


     ◇


 佐和山城の台所は、戦場だった。


「米が足りぬ!」


「味噌樽を勝手に開けるな!」


「その菜は上役の膳に使うものじゃ!」


「鍋を空けよ! 汁が煮えぬ!」


 怒鳴り声と包丁の音が飛び交っている。


 竈から立ち上る煙で目が痛い。


 床には野菜の葉や皮が落ち、隅には欠けた椀が積まれていた。


 湊一の姿を見つけた賄方頭が、包丁を持ったまま飛んできた。


「治部少輔様! このような場所へ何用にございますか」


「働く者たちの飯を見に来た」


「は……?」


「湯場を使った者が腹を空かせている」


 賄方頭は困った顔で周囲を見回した。


「されど、まずは御前様方と重臣の膳を整えねばなりませぬ。その後に侍衆、足軽。残ったものを下働きへ回します」


「残らなければ?」


「食べられぬ者も出ましょう」


 それを当然のように言う。


 この時代では、それが普通なのだ。


 身分によって食べる物も、食べる時刻も違う。


 白い飯を食べる者がいる一方で、冷えた粥の底を分け合う者もいる。


 湊一は台所の中を歩いた。


 籠には、大根の葉。


 形の悪い芋。


 割れた豆。


 魚を下ろした後の骨。


 麦と粟。


 少し酸味の出始めた漬物。


 食べられない物ではない。


 ただ、上の者へ出せないという理由で、捨てられようとしている。


「この大根の葉は?」


「硬うございます」


「刻めば食える」


「魚の骨は?」


「身が残っておりませぬ」


「煮れば出汁が出る」


「この芋は」


「小さく、形が悪うございます」


「腹に入れば形など分からん」


 賄方頭が目をしばたたいた。


「治部少輔様は……台所仕事をご存じなので?」


「少しだけな」


 少しどころではない。


 湊一は幼い頃から、白峰の台所へ出入りしていた。


 宴会で余った野菜。


 切り落とした肉。


 形の崩れた豆腐。


 客へは出せなくとも、従業員のまかないなら立派な御馳走になる。


 むしろ料理人の腕は、まかないにこそ出る。


「大鍋を一つ空けろ」


「しかし、何をお作りになるので?」


「働いた者の飯だ」


 湊一は、大根の葉を手に取った。


「形の悪い芋と豆を煮る。魚の骨から出汁を取れ。味噌は香りをつける程度でよい。麦と粟を炊き、汁をかければ腹にたまる」


「それを、誰の膳に?」


「湯場を直した者、薪を運んだ者、厩で働いた者、門番をした者――今日、佐和山で働いた者全員だ」


 台所から音が消えた。


 包丁を持った者も、薪を抱えた者も、口を開けて湊一を見ている。


「全員……でございますか」


「身分にかかわらず?」


「同じ鍋の物を?」


 ざわめきが広がった。


 賄方頭は、恐る恐る口を開いた。


「さようなことをすれば、御家中のしきたりが乱れます」


「膳の場所まで同じにしろとは言わぬ」


 湊一は答えた。


「だが、働いた者が腹を空かせたまま倒れるような城では、いざというとき誰も働けぬ」


 これは情けだけではない。


 腹を空かせた兵は戦えない。


 疲れ切った下働きは水を運べない。


 食べられない者が増えれば、病も広がる。


「城を支えているのは、上役だけではない」


 湊一は台所にいる者たちを見渡した。


「飯を炊く者がいる。薪を割る者がいる。馬を世話する者がいる。井戸を守る者がいる。その誰か一人が欠けても、佐和山は動かぬ」


 賄方頭は、手の中の包丁を見つめた。


「残り物を……飯に変えよと」


「残り物ではない」


 湊一は首を振った。


「まだ誰も、うまく食べる方法を考えていない物だ」


 台所の入り口から、低い笑い声がした。


「これはまた、殿らしからぬ物言いですな」


 島左近が、柱にもたれて立っていた。


「兵の腹を満たして、何をお始めになるおつもりか」


「飯を食わせるだけだ」


「飯を食わせた兵ほど、命令をよく聞くものにございます」


「ならば一石二鳥だな」


 左近は一瞬だけ目を丸くし、それから鼻で笑った。


「やはり、以前とは違われた」


「悪い方にか?」


「さて」


 左近は大鍋を見た。


「味を見てから決めましょう」


「お前も食う気か」


「毒見にございます」


 足元で、白那の肩がぴくりと動いた。


「毒見……」


 どうやら便利な言葉を覚えてしまったらしい。


     ◇


「殿」


 静かな声に振り向くと、台所の入り口に妻が立っていた。


 その後ろから、長男と幼い娘が顔をのぞかせている。


「台所が大騒ぎだと聞き、参りました」


「すまない。勝手をしている」


「いつものことにございます」


 妻は穏やかに微笑んだ。


 湊一は少しだけ言葉に詰まった。


 石田三成の妻。


 この身体に残された記憶は、彼女の顔を知っている。


 声も、歩き方も、子供たちへ向ける眼差しも。


 だが、湊一自身はまだ、その温かさに慣れていなかった。


「母上、父上は料理もなさるのですか」


 長男が尋ねた。


「料理ではない。指図をしているだけだ」


「料理人にとっては、それが一番困るやつですな」


 賄方頭がぼそりと言い、台所に小さな笑いが起きた。


 三成を前にして家臣が笑う。


 それだけでも、以前なら考えられないことだったのだろう。


 妻は大根の葉を一枚手に取り、指先で確かめた。


「細かく刻み、塩でもめば、苦みが和らぎましょう。漬物も刻んで混ぜれば、麦飯が食べやすくなります」


「使えるか」


「はい。城の女たちは、少ない物を増やすことには慣れております」


 妻が袖をたくし上げる。


 それを見た娘も、真似をして短い袖を懸命にまくった。


「わたしも、お手伝いします!」


「では、椀を並べてくれるか」


「はい!」


 娘は嬉しそうに椀を抱えた。


 三つ運んでは一つ傾け、慌てて直す。


 長男は黙ってその後ろにつき、落ちそうな椀を支えていた。


「兄上、わたし一人でできます」


「できていないから手伝っている」


「できます!」


「なら、その椀を逆さに置くな」


「あっ」


 再び笑い声が起きた。


 妻が刻んだ菜を鍋へ入れる。


 賄方頭が魚の骨を煮出す。


 若い料理人が芋を切り、別の者が豆を洗う。


 さっきまで怒鳴り声ばかりだった台所に、不思議な調子が生まれた。


 刻む音。


 煮える音。


 人が行き交う足音。


 そして大鍋から、白い湯気が立ち上った。


 白那が、いつの間にか鍋のそばへ移動している。


「近いぞ。火傷する」


「妾を誰だと思うておる」


「腹を空かせた幼子」


「水守じゃ!」


 白那が声を上げた瞬間、腹が鳴った。


 今度は誰の耳にもはっきり聞こえた。


 台所が静まり返る。


「……鈴じゃ」


「腹だろ」


「鈴が鳴ったのじゃ!」


「白那の鈴は腰についてるぞ」


「愚か者! 水守には身体の内にも鈴がある!」


 白那は顔を真っ赤にして、湯気の向こうへ隠れた。


 ただし、鍋からは離れなかった。


     ◇


 昼過ぎ。


 湯場の前に、椀を持った者たちが並んだ。


 まず湯場と井戸を直した者。


 次に薪を割った者。


 城門の番を終えた者。


 厩の者。


 台所で働く者。


 最後には、様子を見に来ただけの左近まで列に加わっていた。


「毒見ではなかったのか」


「これほど大勢に毒見を任せるわけにはまいりませぬ」


 賄方頭が大鍋から汁をよそう。


 麦と粟の飯へ、芋と菜の入った熱い汁をかける。


 見栄えは決して華やかではない。


 肉もない。


 白米でもない。


 だが、湯上がりの腹には、その香りだけで十分だった。


「熱いうちに食え」


 湊一が言うと、皆は一斉に頭を下げた。


「いただきまする」


 最初は遠慮がちだった。


 だが、一口すすった途端、若い足軽の目が見開かれた。


「うまい……」


 隣の男も、夢中で椀をかき込む。


「芋が入っておる」


「菜も苦くないぞ」


「身体の中まで温まる」


「湯の後だから、余計にうまいな」


 あちこちから声が上がる。


 厩の老人は椀を両手で包み、立ち上る湯気をじっと見つめていた。


「どうした。口に合わぬか」


「いえ」


 老人は首を振った。


「城勤めを始めて長うございますが、殿と同じ鍋の物を頂く日が来ようとは……」


「俺はまだ食べていないぞ」


「では、殿も」


 差し出された椀を、湊一は受け取った。


 左近が眉を上げる。


 重臣たちも息をのんだ。


 湊一は構わず、その場で汁を口へ運んだ。


 魚の出汁。


 味噌の香り。


 芋の甘み。


 漬物の酸味。


 決して整った味ではない。


 だが、身体を動かした後なら、何杯でも食べられそうだった。


「うまい」


 その一言で、賄方頭の肩から力が抜けた。


「殿」


 彼は深く頭を下げた。


「次は、もう少しうまく作りまする」


「今日もうまいさ」


「いいえ。これは、まだ最初の鍋にございます」


 料理人の顔になっている。


 湊一は笑った。


「では、明日も頼む」


「はっ」


 それまで離れて座っていた者たちが、少しずつ言葉を交わし始めた。


「お前があの湯桶を直したのか」


「そちらこそ、井戸の石を運んでおったな」


「明日は俺が薪を割る」


「では、俺は芋を洗おう」


 飯を囲むだけで、人と人の距離が縮まっていく。


 城主と家臣。


 侍と足軽。


 料理人と厩番。


 すべての隔たりがなくなったわけではない。


 それでも、同じ湯気を見て、同じ物をうまいと言える。


 その小さな変化が、湊一には何より大切に思えた。


     ◇


 夕刻。


 妻が、小さな皿を湊一の前へ置いた。


 皿には、不揃いな団子が五つ並んでいる。


「余った粟をつき、少しだけ甘味を加えました」


「甘味なんて残っていたのか」


「子供たちの分に取っておいたものです」


 娘が胸を張った。


「わたしも丸めました!」


 なるほど。


 一つは丸い。


 一つは平たい。


 一つはどう見ても四角い。


「これは……団子か?」


「団子です!」


「立派な団子だな」


 娘は満足そうに笑った。


 長男が一つ取り、妻も一つ取る。


 湊一が手を伸ばしたとき、軒先で鈴が鳴った。


 ちりん。


 気づけば、皿の団子が一つ減っている。


 柱の陰から白い髪が見えた。


「白那」


「何じゃ」


「それは子供たちの団子だぞ」


 白那は両手で団子を抱え、堂々と胸を張った。


「妾への供物じゃ」


「誰も供えてない」


「湯と水を守った水守へ、佐和山そのものが差し出したのじゃ」


「ずいぶん都合のいい佐和山だな」


「毒が入っておらぬか、妾が確かめてやる。ありがたく思え」


 白那は大きな口を開け、団子へかじりついた。


 その頬が、わずかに緩む。


「……悪くない」


「おいしいんだな」


「悪くないと申した」


「もう一つ食べるか?」


「要らぬ」


 湊一が皿を引こうとすると、白那の小さな手が伸びた。


「要らぬとは申したが、下げてよいとは申しておらぬ」


 娘が、きょとんとして柱の方を見た。


 白那の姿は見えていないらしい。


 だが、水の鈴の音は聞こえたのだろう。


「父上」


「どうした?」


「お水の神様も、お腹が空くのですか?」


 湊一は柱の陰を見た。


 白那は二つ目の団子を、こっそり袖へ隠そうとしている。


「たぶんな」


「では、次はお水の神様の分も丸めます」


 白那の手が止まった。


 ほんの一瞬だけ、その青い瞳が娘へ向けられる。


「……余計なことを」


 そう言いながら、白那は団子を大切そうに抱え直した。


     ◇


 その夜。


 湊一は帳面を一冊用意した。


 今日使った麦。


 粟。


 芋。


 大根の葉。


 味噌。


 何人が食べたか。


 どれだけ残ったか。


 明日は何が必要か。


 一つずつ書き留めていく。


「殿、その帳面には何という名を?」


 妻に尋ねられ、湊一は筆を止めた。


 難しい名は必要ない。


 戦のための帳面でもない。


 年貢を取り立てるための帳面でもない。


 人が働き、湯へ入り、腹を満たすための記録だ。


 湊一は表紙へ、ゆっくりと書いた。


『佐和山まかない帖』


「これで、誰が食べたか分かるのですか」


 長男が帳面をのぞき込む。


「誰が、ではない」


 湊一は答えた。


「何人が食べられたかを残すんだ」


 身分も役目も書かない。


 必要なのは人数と、明日も食べられるかどうかだけだ。


 城を守るとは、石垣を高くすることだけではない。


 刀を増やすことでもない。


 働いた者が湯へ入り、温かい飯を食べる。


 そして夜になれば、帰ってくる。


 その当たり前を守ることなのだ。


 城門の方から、人の声が聞こえた。


「戻りました!」


 夜番を終えた者たちだろう。


 台所では、賄方頭が残しておいた鍋を温め直している。


 再び、白い湯気が立った。


「お帰り」


 誰かが答える。


 湯気の向こうで、その声が重なった。


 佐和山が城ではなく、人の帰る場所へ変わり始めていた。

お読みいただきありがとうございます。


第六湯は、佐和山のまかない回でした。


湯の次は飯。

戦国の城なのに、どんどん湯宿っぽくなってきました。


なお、白那様によると団子は供物です。

決しておやつではありません。たぶん。


次回もよろしくお願いいたします。

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