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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第一章 佐和山の水

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第五湯 佐和山、湯気立つ

第五湯です。


井戸の次は、湯。

佐和山に少しずつ「帰れる場所」の匂いが生まれていきます。

白那の幼児化と団子もあります。

第五湯 佐和山、湯気立つ


 井戸が戻ってから数日。


 佐和山の城下には、再び水を汲む音が響いていた。


 朝早くから桶を抱えた女たちが列を作り、子どもたちは水しぶきを上げながら笑い合う。


 濁っていた水は、もうどこにもない。


 けれど――。


「うっ……」


 石垣の陰で、人足の一人が顔をしかめた。


 肩へ担いだ丸太を降ろすと、その場へしゃがみ込む。


 額から流れる汗は土埃と混じり、腕には擦り傷が幾筋も走っていた。


「大丈夫か。」


 声を掛けたのは湊一だった。


「若旦那様……いえ、治部少輔様。」


 男は慌てて立ち上がろうとする。


「そのままで。」


 湊一は男の腕を見る。


 赤く腫れた傷。


 草鞋擦れで皮が剥けた足。


 日に焼けた肌には、小さな湿疹まで浮いていた。


 旅館で何度も見た。


 重労働を続ける者の身体だ。


「薬は?」


「こんな傷、唾でも付ければ治ります。」


 男は笑った。


 周りの人足も同じように笑う。


「働けるうちは働きます。」


「城が出来ねぇと、俺たちの飯も食えませんから。」


 その笑顔が、湊一には少し痛かった。


 井戸は救えた。


 だが、人までは救えていない。


 夕刻。


 城の普請場を歩く。


 石を運ぶ者。


 木材を削る者。


 炊き出しをする女たち。


 皆、汗と泥にまみれたまま働いていた。


 暑い。


 汚れる。


 疲れる。


 それでも身体を洗う場所がない。


「……そうか。」


 湊一は立ち止まる。


「足りなかった。」


 井戸だけでは。


 水だけでは。


 人は元気になれない。


 その時だった。


 耳元で、小さな鈴が鳴る。


 ――ちりん。


「ようやく気付いたか。」


 振り向けば、小さな少女が古井戸の縁へ腰掛けていた。


 白那だった。


 幼い姿のまま足をぶらぶらさせ、呆れたように見下ろしている。


「愚か者。」


「水は飲むだけでは終わらぬ。」


「洗い、清め、温まり、人はようやく明日も働けるのじゃ。」


 湊一は苦笑した。


「また先を越された。」


「当然じゃ。」


 白那は胸を張る。


「妾は千年、水を守ってきた。」


「そなたより水を知っておる。」


「それは認めるよ。」


「認めるなら供物を寄越せ。」


「話が早いなぁ。」


「当然じゃ。」


 白那は腕を組んだまま鼻を鳴らす。


「知恵には対価が要る。」


「団子三本。」


「高いな。」


「安い。」


 真顔で言い切る。


 湊一は思わず吹き出した。


 その笑いを聞きながら、白那は急に真面目な顔になる。


「見よ。」


 小さな指が普請場を示した。


 傷だらけの人足。


 泥にまみれた武士。


 炊き出しで火を起こす女中。


「皆、水は飲んでおる。」


「されど疲れは残る。」


「人は温まってこそ、生き返る。」


 その一言で、旅館時代の記憶が蘇る。


 仕事を終えた職人。


 長旅の客。


 疲れ切った家族。


 皆、まず風呂へ向かった。


 湯に浸かり、ようやく笑顔になる。


「……そうだ。」


 湊一はゆっくり頷いた。


「湯だ。」


「佐和山に必要なのは。」


 白那は満足そうに微笑む。


「ようやく、水守の話が分かるようになったか。」


「遅い。」


「まこと愚か者じゃ。」


 そう言いながらも、その声はどこか嬉しそうだった。


 湊一は普請場の隅にある、長く使われていない小屋へ目を向ける。


 壊れかけた壁。


 積まれた古い薪。


 隅には、大きな鉄の湯釜が埃をかぶって置かれていた。


「あれ……使えるかもしれない。」


 旅館の若旦那として培った知識が、一気につながる。


 井戸の水。


 薪。


 湯釜。


 小屋。


 足りないものは、ほんの少しだけだ。


 湊一の口元に、久しぶりに自信のある笑みが浮かんだ。


「治部湯を作ろう。」


翌朝。


 まだ朝靄の残る頃から、湊一は城内を歩き回っていた。


「左近。」


「ここにございましたか。」


 島左近はすぐに姿を現した。


「少し人を貸してほしい。」


「何をなさるおつもりです。」


 湊一は普請場の隅にある古びた小屋を指差した。


「あそこを使う。」


 左近は目を細める。


「あの物置を?」


「湯場にする。」


 一瞬、風まで止まったようだった。


「……湯場?」


「そう。」


「働く者が身体を洗い、湯に浸かれる場所だ。」


 左近は腕を組み、静かに考え込む。


「贅沢ではありませんか。」


「戦を控えた今、薪も人手も貴重です。」


 もっともな意見だった。


 周囲にいた奉行衆も顔を見合わせる。


「治部少輔様。」


「湯など武家屋敷にあれば十分では。」


「人足まで入れる必要がありますか。」


 湊一は首を横に振った。


「必要だ。」


「疲れは身分を選ばない。」


 誰も口を開かない。


「傷も。」


「病も。」


「汗も。」


「人足だから浅く、武士だから深い。」


「そんな傷は無い。」


 静かな声だった。


 それでも、その場にいた全員へ届いた。


「皆、この城を支えてくれている。」


「ならば、皆が同じように身体を休められる場所が必要だ。」


 左近は眉を寄せた。


「しかし。」


「武士と人足が同じ湯へ入るなど……。」


「前例がありません。」


「なら。」


 湊一は微笑んだ。


「佐和山が最初になればいい。」


 ざわり、と人々が息を呑む。


 そんな考えは、この時代には無かった。


 武士には武士の湯。


 身分の低い者には、それぞれ別の場所。


 それが当たり前だった。


 だが湊一には、旅館で見てきた景色がある。


 大工も。


 会社員も。


 子どもも。


 老人も。


 同じ湯に浸かり、


「今日は暑かったな。」


「肩まで浸かれ。」


 そんな何気ない会話を交わしていた。


 湯は、人を同じ顔にする。


「左近。」


「はい。」


「湯は身分を見るか?」


 左近は答えられなかった。


「水は。」


「傷を選ぶか?」


 左近は静かに首を振る。


「……選びませぬ。」


「なら、人が選ぶ理由もない。」


 長い沈黙が流れた。


 やがて左近は、ふっと笑う。


「敵いませぬな。」


「若旦那……いえ。」


 言い直して一礼する。


「治部少輔様。」


「また妙なことを思いつかれました。」


「褒め言葉?」


「半分ほど。」


 湊一も笑う。


「残り半分は?」


「困りものです。」


 その場に、小さな笑いが広がった。


「では。」


 左近は家臣たちを振り返る。


「使われておらぬ湯釜を運べ。」


「小屋を掃除せよ。」


「薪を集める者を出せ。」


 家臣たちが一斉に動き始める。


「桶も足りません。」


「城下の桶屋へ頼め。」


「脱いだ草履を置く棚も作ろう。」


「板が足りぬぞ!」


 普請場とは違う賑わいが、小屋の周りに生まれていく。


 その様子を見ながら、湊一は胸の奥が温かくなるのを感じていた。


 戦うためではない。


 人を休ませるために、人が働いている。


 その光景こそ、彼が見たかったものだった。


 ふと視線を感じる。


 井戸の縁では、白那が腕を組みながら工事を眺めていた。


「ふむ。」


「悪くない。」


 満足そうに頷いたかと思えば、次の瞬間には眉を吊り上げる。


「……ただし。」


「愚か者。」


「湯釜の据え方がなっておらぬ。」


 小さな水守の厳しい"湯番"が、いよいよ動き始めようとしていた。


 湯釜が据えられた。


 小屋の床は磨かれ、井戸から竹樋で水が引かれる。


 薪がくべられると、やがて釜の底で火が鳴き始めた。


 ぱちり。


 ぱちり。


 乾いた薪が爆ぜるたび、小屋の中へ木の香りが広がっていく。


「若旦那様。」


 左近が額の汗を拭った。


「これで、ひとまず形にはなりました。」


「ありがとう。」


 湊一は湯釜を見つめる。


 まだ湯気は立っていない。


 だが、この小屋はもう物置ではない。


 佐和山で初めて、人を癒やすための場所になろうとしていた。


 その時だった。


「どけ。」


 小さな声が、小屋いっぱいに響いた。


 いつの間にか白那が湯釜の前へ仁王立ちしている。


 幼い身体で腕を組み、職人たちを睨みつけた。


「水守の務めじゃ。」


「湯は妾が見る。」


 誰にも姿は見えていない。


 だから大工たちは、突然ひとりで湯釜へ近付く湊一を不思議そうに眺めているだけだった。


「白那。」


「頼むけど、あんまり無茶は──」


「黙れ。」


 ぴしゃりと言われた。


「そなたは湯を知らぬ。」


「湯は熱ければ良いものではない。」


 白那は柄杓で湯をひとすくいすると、指先へ一滴だけ落とす。


 すぐに顔をしかめた。


「熱すぎる。」


「人を煮る気か。」


 湊一は苦笑する。


「まだ沸き始めたばかりだよ。」


「だから見るのじゃ。」


 白那はもう一度柄杓を入れた。


「ぬるい。」


「今度は風邪をひく。」


「……どっちなんだよ。」


「どちらもじゃ。」


 真顔だった。


 湊一は思わず笑ってしまう。


「旅館でもここまで湯加減に厳しい人はいなかったな。」


「旅館?」


「妾より上手かったか。」


「いや。」


「ここまで細かい人はいなかった。」


「なら比べるでない。」


 白那はふんと鼻を鳴らした。


「湯は生き物じゃ。」


「熱すぎても死ぬ。」


「ぬるすぎても死ぬ。」


「人を包む温もりでなければ意味がない。」


 その言葉には、千年という時間の重みがあった。


 白那は両手を湯釜へかざす。


 さらさら、と水音が響く。


 井戸から流れる水が、目に見えぬ力に応えるように揺れた。


 湯気が、ゆっくりと立ち始める。


 湊一は息をのんだ。


「……きれいだ。」


 白い湯気が、小屋いっぱいに広がる。


 まるで朝霧がそのまま湯になったようだった。


 しかし。


 白那の肩が、小さく震えた。


「白那?」


「……ふん。」


 強がるように笑う。


「この程度。」


「水守には造作もない。」


 そう言って一歩下がった瞬間。


 ふらり、と身体が揺れた。


「おっと!」


 湊一は慌てて抱き留める。


 軽い。


 あまりにも軽い。


「また……。」


 白那は腕の中で顔をしかめる。


「少し、力を使いすぎたか。」


 その姿は、第四湯よりさらに幼くなっていた。


 肩まであった銀髪は少し短くなり、袖も余るほど身体が小さくなっている。


「だから無理するなって。」


「誰が無理をした。」


「これは……。」


 言いかけて、白那は黙った。


 代償だ。


 湊一には分かっていた。


 井戸を守り。


 水脈を繋ぎ。


 そして今、湯まで整えた。


 白那は、自分の力を削って佐和山を守っている。


「……ありがとう。」


 ぽつりと呟く。


 白那は顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。


「礼など要らぬ。」


「水守の務めじゃ。」


 少し間を置いて、小さな声で続ける。


「……その代わり。」


「団子じゃ。」


「やっぱりそれか。」


「供物じゃ。」


「毒見でもある。」


「務めでもある。」


 湊一は笑いながら、小さくなった白那の頭をそっと撫でた。


「帰ったら用意するよ。」


「三本。」


「二本。」


「三本。」


「……分かった。」


 白那は満足そうに頷いた。


 その時。


 小屋の外から誰かが叫ぶ。


「湯が沸いたぞ!」


 その一声に、人足たちが顔を見合わせた。


「……本当に入っていいのか?」


「俺たちまで?」


 誰も最初の一歩を踏み出せない。


 武士も。


 人足も。


 女中も。


 皆、遠巻きに湯小屋を眺めていた。


 湊一は小屋の入口へ立つ。


「今日は身分も役目も関係ありません。」


 静かな声が広場へ響く。


「この湯は、働く者すべてのための湯です。」


 ざわめきが起こる。


「ですが……。」


 一人の足軽が遠慮がちに口を開く。


「侍様と同じ湯など……。」


 その時だった。


「ならば。」


 左近が鎧の小手を外した。


「まずは私から入ろう。」


 周囲が息を呑む。


「左近様!」


「本当によろしいので?」


「治部少輔様がお決めになったことだ。」


 左近は穏やかに笑う。


「私に異論はない。」


 そう言うと、湯桶で肩へ湯を掛ける。


 ざあっ、と湯が流れ落ちた。


「……熱すぎぬ。」


 その声が聞こえた瞬間、人足たちの表情が少し緩んだ。


「入ってみるか。」


「せっかくだ。」


 一人。


 また一人。


 恐る恐る湯へ足を入れる。


「……あぁ。」


 誰かが小さく息を漏らした。


「気持ちいい。」


 泥だらけだった足が洗われる。


 傷へ温かな湯が染みる。


 肩まで浸かった男は、思わず天井を見上げた。


「こんな湯……生まれて初めてだ。」


 その一言に、小屋の空気が和らいだ。


 やがて笑い声が聞こえ始める。


「おい、背中を流してやる。」


「お前こそ泥だらけじゃないか。」


「今日は石を運び過ぎた。」


「だから腰が痛ぇんだ。」


 身分も役目も忘れたような笑顔だった。


 湊一は入口からその光景を見つめる。


 旅館の湯場。


 仕事を終えた人たちの笑顔。


 その景色が、四百年の時を越えて目の前にあった。


「若旦那。」


 左近が振り返る。


 もう自然と、その呼び方になっていた。


「これは……良い湯ですな。」


 湊一は照れくさそうに笑った。


「ありがとう。」


「俺一人じゃ作れなかった。」


「皆のおかげだよ。」


 その時。


 ――ちりん。


 鈴が鳴る。


 湯気の向こう。


 誰にも見えない場所で、小さな白い影が微笑んでいた。


「ようやく。」


 白那は湯気を見上げる。


「湯が、人を帰しておる。」


 その姿はさらに幼くなっていた。


 疲れたように柱へ寄り掛かっている。


 それでも、その顔は嬉しそうだった。


「白那。」


 湊一はそっと隣へ座る。


「無理したな。」


「愚か者。」


 白那は小さく笑う。


「水守とは、そういうものじゃ。」


「井戸を守り。」


「川を守り。」


「そして、人の笑う場所を守る。」


 湯気が二人を包む。


 その向こうから、子どもの笑い声が聞こえた。


 人足の笑い。


 女中たちの話し声。


 桶の音。


 湯を掛け合う音。


 そのすべてが混じり合い、佐和山へ久しぶりの"人の温度"が戻っていた。


 白那は目を細める。


「これが湯じゃ。」


「人を戦へ送るものではない。」


「帰すためのものじゃ。」


 その言葉が、湊一の胸へ深く残る。


 帰すための湯。


 帰る場所。


 それは旅館「白峰」で、自分がずっと守ろうとしてきたものだった。


 ふと、城の奥へ視線を向ける。


 あの向こうには、石田三成の妻・皎月院と、幼い子どもたちが暮らしている。


 記憶はある。


 だが、まだきちんと向き合えてはいない。


 戦が近づくほど、その存在は重くなる。


(……あの人たちも。)


(俺が帰る場所なんだ。)


 その想いを胸に刻んだ時――。


 湯気がふわりと揺れた。


 白那の姿は、もう薄く霞んでいる。


「おい。」


 湊一が慌てて振り向くと、白那は得意げに胸を張った。


「供物を忘れるでないぞ。」


「団子三本。」


「約束じゃ。」


 さっきまでの神々しい言葉が台無しだった。


 湊一は思わず吹き出す。


「はいはい。」


「忘れないよ。」


「当然じゃ。」


 白那は満足そうに頷くと、湯気の中へ静かに溶けていった。


 小屋には笑い声が満ちている。


 その笑いは、やがて城下へ広がり、人から人へ伝わっていく。


 後に人々は、この小さな湯場を親しみを込めてこう呼ぶことになる。


**――「治部湯」。**


 それは、戦のためではなく。


 働く者が、明日も帰って来られるように。


 佐和山に生まれた、小さな湯気の始まりだった。

お読みいただきありがとうございます。


第五湯は、佐和山に「湯場」が生まれるお話でした。

戦のための城ではなく、人が帰ってこられる場所へ。

湊一の若旦那感が、少しずつ佐和山を変えていきます。


白那は相変わらず偉そうですが、団子には弱いようです。


次回は、湯場の隣に飯場ができる予定です。

佐和山、さらに宿っぽくなっていきます。

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