表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第一章 佐和山の水

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/47

挿話 一湯 左近、汁を疑う

今回は挿話です。


関ヶ原まで、あと九十二日。

佐和山の朝、島左近が疑ったものは――まさかの味噌汁。


戦の気配が少しずつ近づく中、

湊一は今日も「もてなし」で佐和山を整えていきます。

挿話 一湯 左近、汁を疑う


 佐和山の朝は、湯気から始まる。


 井戸端では桶が並び、台所では味噌の香りが立ちのぼり、湯屋の方からは白い煙が細く空へ伸びていた。


 山城の朝にしては、どこか宿屋の朝に似ている。


 そう思っているのは、たぶんこの男だけだった。


「……足りない」


 石田三成――の身体で目覚めた白瀬湊一は、味噌汁の椀を前に腕を組んでいた。


 台所の者たちが、ぴたりと動きを止める。


「米でございますか」

「魚でございますか」

「塩でございますか」


「違う」


 湊一は椀をじっと見つめた。


「朝の汁に、気合いが足りない」


「……気合い」


 台所の者たちが、困ったように顔を見合わせる。


 無理もない。


 ここは戦国の城である。旅館の朝食会場ではない。


 だが、湊一にとっては違った。


 朝一番に口へ入れる汁は、その日の身体を起こすものだ。冷えた腹を温め、重たい気持ちを少しだけ前へ向けるものだ。


 宿屋の若旦那だった湊一は、それをよく知っている。


「味噌の香りは悪くない。けど、出汁が弱い。菜も刻みすぎだ。具が沈んで見えない。これじゃあ、飲んだ者が元気にならない」


「殿」


 台所頭が恐る恐る言った。


「いくさ前に、汁でございますか」


「いくさ前だから汁なんだよ」


 湊一はきっぱり言った。


 兵は腹が減れば荒れる。身体が冷えれば心も冷える。湯がなければ疲れは抜けず、飯が悪ければ人は帰る場所を信じられなくなる。


 天下をどうこうする前に、朝の一椀。


 そこを雑にして、何が佐和山再建か。


「いいか。朝の汁は、城の顔だ」


「城の……顔」


「そうだ。客――いや、兵も奉公人も、朝にこれを飲んで思うんだ。“ああ、今日もここは大丈夫だ”ってな」


 台所の者たちは、よく分からないながらも真剣にうなずいた。


 その時だった。


「ほう」


 背後から、低い声が落ちた。


 振り返ると、島左近が立っていた。


 腕を組み、片眉を上げている。


「殿自ら、汁の差配でございますか」


「左近。ちょうどいい。味見しろ」


 湊一は椀を差し出した。


 だが左近は、すぐには受け取らなかった。


「毒見でござるか」


「味見だ」


「この時節、味見と毒見は似たようなものにございます」


 台所の空気が、一瞬で固まった。


 湯気だけが、ゆらゆらと椀から上がっている。


 関ヶ原まで、あと九十二日。


 まだ誰もその名を口にしない。


 だが、大きな戦の気配は、湿った夏の空気のように佐和山へ入り込んでいた。


 誰が味方で、誰が敵か。

 誰が笑顔で近づき、誰が刃を隠しているか。


 左近の目は、それを疑う目だった。


「殿。この汁は、誰が作りました」


「台所の者たちだ」


「水は」


「裏の井戸」


「味噌は」


「蔵」


「具は」


「菜と豆腐」


「豆腐を運んだ者は」


「……お前、汁に対して疑いすぎじゃないか」


 湊一が半眼になる。


 左近は真顔だった。


「疑って損はござらぬ」


「朝飯がまずくなる」


「生きておれば、まずい飯も食えます」


「それは宿屋の若旦那として聞き捨てならない」


「若旦那?」


「いや、今のは忘れろ」


 湊一は咳払いした。


 左近は椀を受け取ると、まず香りを確かめた。


 次に湯気を見る。


 さらに椀の縁を指でなぞる。


「左近」


「は」


「汁を取り調べるな」


「殿の御身を守るためにございます」


「ありがたいけど、汁が怯えてる」


 台所の隅で、誰かが小さく吹き出した。


 左近は構わず、箸で菜を持ち上げる。


「毒を盛るなら、味の濃いものに混ぜまする」


「そうなのか」


「香りの強いものも危うい」


「味噌汁、完全に疑われてるな」


「殿。笑い事ではござらぬ」


 左近の声は低かった。


 その目は、本気だった。


 湊一は、それ以上茶化せなかった。


 左近は汁を疑っているのではない。


 三成を守っているのだ。


 疑うことで。

 先に怖れることで。

 誰よりも傷つく覚悟をすることで。


 この男は、守ろうとしている。


 佐和山も。

 主も。

 まだ見えない戦の先にある、何かを。


 湊一は、左近の顔を見た。


 目の下に疲れがある。頬も少しこけている。


「左近」


「は」


「お前、ちゃんと食ってるか」


 左近の動きが止まった。


「……何を急に」


「顔色が悪い。寝てないだろ」


「この時節、寝てばかりもおられませぬ」


「寝てばかりいろとは言ってない。食えと言ってる」


「拙者は問題ござらぬ」


「問題ある顔してる」


「これは元よりこういう顔にございます」


「便利な顔だな」


 台所の者たちが、また少し笑った。


 左近は渋い顔をした。


 湊一は新しい椀を手に取り、汁をよそった。


 湯気がふわりと立つ。


「毒が心配なら、俺が先に飲む」


「殿、それはなりませぬ」


「じゃあ、お前も飲め」


「なぜ、そうなります」


「これは命令じゃない」


 湊一は、椀を差し出した。


「もてなしだ」


 左近は言葉に詰まった。


 戦場では恐れられる男が、味噌汁一杯を前にして困っている。


 その姿が少しおかしくて、少しだけ切なかった。


 湊一は先に自分の椀へ口をつけた。


 味噌の塩気。

 井戸水のやわらかさ。

 菜の青い香り。

 豆腐の熱。


 腹の奥へ、朝が染みていく。


「うん。悪くない」


 湊一はうなずいた。


「次は左近だ」


 左近はまだ椀を見ていたが、やがて覚悟を決めたようにひと口飲んだ。


 ほんの少しだけ、眉間の皺が緩む。


「……悪くはござらぬ」


「だろ」


「されど、兵に出すなら、もう少し塩気があってもよろしいかと」


「疑ったうえに味の注文までつけるのか」


「兵は汗をかきますゆえ」


「なるほど」


 湊一はすぐにうなずいた。


「じゃあ、分けよう」


「分ける?」


「兵には少し濃いめ。城内の者には今の味。怪我人には薄め。年寄りには具を小さくする。子どもがいれば熱すぎないようにする」


 左近が、静かに湊一を見た。


「……汁を、そこまで分けるのでございますか」


「分ける」


 湊一は言った。


「人は、一椀でまとめられない」


 台所が、しんとした。


 大きな言葉ではなかった。


 天下だの、大義だの、勝敗だの。


 そういう言葉に比べれば、あまりにも小さな話だった。


 けれど左近は、その小ささの中に何かを見たようだった。


「殿は、変わられましたな」


「よく言われる」


「以前より、細かくなられた」


「そこかよ」


「されど」


 左近は、もう一度汁を見た。


「悪い変わりようでは、ござらぬ」


 その時、井戸端の方から小さな音がした。


 ちりん。


 鈴の音だった。


 湊一は思わずそちらを見た。


 白い髪の巫女の姿はない。


 ただ、井戸の水面が朝の光を返しているだけだった。


 けれど湊一には、その音がどこか懐かしく聞こえた。


 白那。


 名を呼ぶ前に、音は消えた。


 関ヶ原まで、あと九十二日。


 大きな流れは、もう止まらない。


 誰かが裏切るかもしれない。

 誰かが倒れるかもしれない。

 誰かが帰ってこないかもしれない。


 それでも。


 今日の朝の汁は、温かくできる。


 湊一は台所の者たちへ向き直った。


「今日から汁を三種類に分ける。兵用、城内用、怪我人用だ。水は汲みたて。味噌は古いものを混ぜてごまかすな。椀は欠けたものを出すな」


「は、はい!」


「あと、左近用は少し濃いめ」


「殿」


「なんだ」


「それでは拙者だけ、疑われ者のようでございます」


「今さらだろ」


 今度こそ、台所に笑いが広がった。


 左近は渋い顔をした。


 だが、椀を置くことはなかった。


 もう一口、汁を飲む。


 その横顔を見て、湊一は小さく息を吐いた。


 城を守るとは、石垣を積むことだけではない。


 腹を空かせた者に、温かいものを出すこと。

 疑いすぎて壊れそうな者に、少し笑える朝を渡すこと。

 帰ってきた者が、まだここにいていいと思える場所を作ること。


 それもまた、佐和山を守るということなのだ。


 井戸端から、また小さく鈴が鳴った。


 ちりん。


 湯が沸く前の合図のように、佐和山の朝へ溶けていった。

お読みいただきありがとうございます。


左近の警戒心と、湊一の若旦那らしい感覚を合わせた挿話でした。

戦の前でも、まずは温かい汁から。

佐和山は少しずつ「帰れる場所」になっていきます。


次回もよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ