挿話 一湯 左近、汁を疑う
今回は挿話です。
関ヶ原まで、あと九十二日。
佐和山の朝、島左近が疑ったものは――まさかの味噌汁。
戦の気配が少しずつ近づく中、
湊一は今日も「もてなし」で佐和山を整えていきます。
挿話 一湯 左近、汁を疑う
佐和山の朝は、湯気から始まる。
井戸端では桶が並び、台所では味噌の香りが立ちのぼり、湯屋の方からは白い煙が細く空へ伸びていた。
山城の朝にしては、どこか宿屋の朝に似ている。
そう思っているのは、たぶんこの男だけだった。
「……足りない」
石田三成――の身体で目覚めた白瀬湊一は、味噌汁の椀を前に腕を組んでいた。
台所の者たちが、ぴたりと動きを止める。
「米でございますか」
「魚でございますか」
「塩でございますか」
「違う」
湊一は椀をじっと見つめた。
「朝の汁に、気合いが足りない」
「……気合い」
台所の者たちが、困ったように顔を見合わせる。
無理もない。
ここは戦国の城である。旅館の朝食会場ではない。
だが、湊一にとっては違った。
朝一番に口へ入れる汁は、その日の身体を起こすものだ。冷えた腹を温め、重たい気持ちを少しだけ前へ向けるものだ。
宿屋の若旦那だった湊一は、それをよく知っている。
「味噌の香りは悪くない。けど、出汁が弱い。菜も刻みすぎだ。具が沈んで見えない。これじゃあ、飲んだ者が元気にならない」
「殿」
台所頭が恐る恐る言った。
「いくさ前に、汁でございますか」
「いくさ前だから汁なんだよ」
湊一はきっぱり言った。
兵は腹が減れば荒れる。身体が冷えれば心も冷える。湯がなければ疲れは抜けず、飯が悪ければ人は帰る場所を信じられなくなる。
天下をどうこうする前に、朝の一椀。
そこを雑にして、何が佐和山再建か。
「いいか。朝の汁は、城の顔だ」
「城の……顔」
「そうだ。客――いや、兵も奉公人も、朝にこれを飲んで思うんだ。“ああ、今日もここは大丈夫だ”ってな」
台所の者たちは、よく分からないながらも真剣にうなずいた。
その時だった。
「ほう」
背後から、低い声が落ちた。
振り返ると、島左近が立っていた。
腕を組み、片眉を上げている。
「殿自ら、汁の差配でございますか」
「左近。ちょうどいい。味見しろ」
湊一は椀を差し出した。
だが左近は、すぐには受け取らなかった。
「毒見でござるか」
「味見だ」
「この時節、味見と毒見は似たようなものにございます」
台所の空気が、一瞬で固まった。
湯気だけが、ゆらゆらと椀から上がっている。
関ヶ原まで、あと九十二日。
まだ誰もその名を口にしない。
だが、大きな戦の気配は、湿った夏の空気のように佐和山へ入り込んでいた。
誰が味方で、誰が敵か。
誰が笑顔で近づき、誰が刃を隠しているか。
左近の目は、それを疑う目だった。
「殿。この汁は、誰が作りました」
「台所の者たちだ」
「水は」
「裏の井戸」
「味噌は」
「蔵」
「具は」
「菜と豆腐」
「豆腐を運んだ者は」
「……お前、汁に対して疑いすぎじゃないか」
湊一が半眼になる。
左近は真顔だった。
「疑って損はござらぬ」
「朝飯がまずくなる」
「生きておれば、まずい飯も食えます」
「それは宿屋の若旦那として聞き捨てならない」
「若旦那?」
「いや、今のは忘れろ」
湊一は咳払いした。
左近は椀を受け取ると、まず香りを確かめた。
次に湯気を見る。
さらに椀の縁を指でなぞる。
「左近」
「は」
「汁を取り調べるな」
「殿の御身を守るためにございます」
「ありがたいけど、汁が怯えてる」
台所の隅で、誰かが小さく吹き出した。
左近は構わず、箸で菜を持ち上げる。
「毒を盛るなら、味の濃いものに混ぜまする」
「そうなのか」
「香りの強いものも危うい」
「味噌汁、完全に疑われてるな」
「殿。笑い事ではござらぬ」
左近の声は低かった。
その目は、本気だった。
湊一は、それ以上茶化せなかった。
左近は汁を疑っているのではない。
三成を守っているのだ。
疑うことで。
先に怖れることで。
誰よりも傷つく覚悟をすることで。
この男は、守ろうとしている。
佐和山も。
主も。
まだ見えない戦の先にある、何かを。
湊一は、左近の顔を見た。
目の下に疲れがある。頬も少しこけている。
「左近」
「は」
「お前、ちゃんと食ってるか」
左近の動きが止まった。
「……何を急に」
「顔色が悪い。寝てないだろ」
「この時節、寝てばかりもおられませぬ」
「寝てばかりいろとは言ってない。食えと言ってる」
「拙者は問題ござらぬ」
「問題ある顔してる」
「これは元よりこういう顔にございます」
「便利な顔だな」
台所の者たちが、また少し笑った。
左近は渋い顔をした。
湊一は新しい椀を手に取り、汁をよそった。
湯気がふわりと立つ。
「毒が心配なら、俺が先に飲む」
「殿、それはなりませぬ」
「じゃあ、お前も飲め」
「なぜ、そうなります」
「これは命令じゃない」
湊一は、椀を差し出した。
「もてなしだ」
左近は言葉に詰まった。
戦場では恐れられる男が、味噌汁一杯を前にして困っている。
その姿が少しおかしくて、少しだけ切なかった。
湊一は先に自分の椀へ口をつけた。
味噌の塩気。
井戸水のやわらかさ。
菜の青い香り。
豆腐の熱。
腹の奥へ、朝が染みていく。
「うん。悪くない」
湊一はうなずいた。
「次は左近だ」
左近はまだ椀を見ていたが、やがて覚悟を決めたようにひと口飲んだ。
ほんの少しだけ、眉間の皺が緩む。
「……悪くはござらぬ」
「だろ」
「されど、兵に出すなら、もう少し塩気があってもよろしいかと」
「疑ったうえに味の注文までつけるのか」
「兵は汗をかきますゆえ」
「なるほど」
湊一はすぐにうなずいた。
「じゃあ、分けよう」
「分ける?」
「兵には少し濃いめ。城内の者には今の味。怪我人には薄め。年寄りには具を小さくする。子どもがいれば熱すぎないようにする」
左近が、静かに湊一を見た。
「……汁を、そこまで分けるのでございますか」
「分ける」
湊一は言った。
「人は、一椀でまとめられない」
台所が、しんとした。
大きな言葉ではなかった。
天下だの、大義だの、勝敗だの。
そういう言葉に比べれば、あまりにも小さな話だった。
けれど左近は、その小ささの中に何かを見たようだった。
「殿は、変わられましたな」
「よく言われる」
「以前より、細かくなられた」
「そこかよ」
「されど」
左近は、もう一度汁を見た。
「悪い変わりようでは、ござらぬ」
その時、井戸端の方から小さな音がした。
ちりん。
鈴の音だった。
湊一は思わずそちらを見た。
白い髪の巫女の姿はない。
ただ、井戸の水面が朝の光を返しているだけだった。
けれど湊一には、その音がどこか懐かしく聞こえた。
白那。
名を呼ぶ前に、音は消えた。
関ヶ原まで、あと九十二日。
大きな流れは、もう止まらない。
誰かが裏切るかもしれない。
誰かが倒れるかもしれない。
誰かが帰ってこないかもしれない。
それでも。
今日の朝の汁は、温かくできる。
湊一は台所の者たちへ向き直った。
「今日から汁を三種類に分ける。兵用、城内用、怪我人用だ。水は汲みたて。味噌は古いものを混ぜてごまかすな。椀は欠けたものを出すな」
「は、はい!」
「あと、左近用は少し濃いめ」
「殿」
「なんだ」
「それでは拙者だけ、疑われ者のようでございます」
「今さらだろ」
今度こそ、台所に笑いが広がった。
左近は渋い顔をした。
だが、椀を置くことはなかった。
もう一口、汁を飲む。
その横顔を見て、湊一は小さく息を吐いた。
城を守るとは、石垣を積むことだけではない。
腹を空かせた者に、温かいものを出すこと。
疑いすぎて壊れそうな者に、少し笑える朝を渡すこと。
帰ってきた者が、まだここにいていいと思える場所を作ること。
それもまた、佐和山を守るということなのだ。
井戸端から、また小さく鈴が鳴った。
ちりん。
湯が沸く前の合図のように、佐和山の朝へ溶けていった。
お読みいただきありがとうございます。
左近の警戒心と、湊一の若旦那らしい感覚を合わせた挿話でした。
戦の前でも、まずは温かい汁から。
佐和山は少しずつ「帰れる場所」になっていきます。
次回もよろしくお願いいたします。




