挿話十三湯 白峰さんの鈴
本編第五十四湯を終えましたが、この物語には、もう一つだけ描かなければならない時間が残っていました。
湊一にとっては、二月にも満たなかった佐和山の日々。
けれど、白那にとっては――四百年を超える「待つ時間」でした。
第一湯で鳴った鈴は、誰が、何のために鳴らしたものだったのか。
『佐和山若旦那録』、本当の最終話です。
鈴を送り出したあとも、白那はしばらく井戸の縁から手を離せなかった。
水面には、もう何も映っていない。
鈴は消えた。
水の道を通り、四百年先へ向かった。
そう信じて送り出した。
だが、白那には分からなかった。
鈴が無事に向こう側へ届いたのか。
湊一が、まだ生きているのか。
石田三成とともに死んだのか。
水の道へ落ちたあと、どの時代へ流されたのか。
何一つ、分からなかった。
井戸の石組みに、三本指の濡れた跡が一つ浮かんだ。
その横に、もう一つ。
水の底で、小さな泡が弾ける。
「案ずるな」
白那は胸を張った。
「妾は待つことには慣れておる」
河童たちから返事はなかった。
ただ、水面に小さな波紋が広がった。
白那は、誰も見ていないことを確かめてから、小さく呟いた。
「……少しくらい、急いでもよいのじゃぞ。若旦那」
それが、四百年の始まりだった。
◇
最初の一年、白那は日を数えた。
春が来れば、
「次の春までには帰るじゃろう」
夏が来れば、
「秋には帰るかもしれぬ」
木々が色づけば、
「雪の降る前には、鈴も届いておろう」
雪が千貫井の石を白く覆えば、
「この雪が解けるころには帰る」
そう言いながら、白那は井戸の石へ小さな印を刻んだ。
一日につき、一つ。
石の一面が印で埋まっても、鈴は鳴らなかった。
雨が印を削った。
苔が石を覆った。
やがて白那は、日を数えることをやめた。
廃城の日、白那の姿を見ることのできた娘は、その後も千貫井へ水を汲みに来た。
はじめは、父親のあとをついてきた。
父親が桶を下ろす間、娘は低い踏み石に座り、白那へ話しかけた。
「まだ、お殿様を待っているの?」
「殿様ではない。若旦那じゃ」
「いつ帰ってくるの?」
「じきに帰る」
白那は迷わず答えた。
「じきって、明日?」
「明日かもしれぬし、十日後かもしれぬ」
「十日も待つの?」
「十日など、瞬きする間じゃ」
娘は感心したように白那を見た。
「水の神様は、待つのが上手なんだね」
「妾は神ではない。水守じゃ」
娘は、その違いが分からないという顔をした。
やがて娘は、一人で桶を持ってくるようになった。
踏み石へ上がり、自分で水を汲み、柄杓を伏せ、白い布で石組みを拭いた。
父から教わった作法だった。
「まだ待っているの?」
「うむ」
「遅い人だね」
「帰ってきたら、妾がきつく叱ってやる」
「どれくらい?」
「まず、百年分じゃ」
「まだ百年も経っていないよ」
「もののたとえじゃ」
白那がむっとすると、娘は声を立てて笑った。
数年が過ぎた。
娘は髪を結い、赤子を背負って井戸へ来た。
「その童は何じゃ」
「私の子だよ」
「そなたが、子を産んだのか」
「そうだよ」
白那は、娘と背中の赤子を見比べた。
つい先日まで踏み石へ上がるのにも苦労していた娘が、もう母になっている。
白那には、それが不思議でならなかった。
「そなた、人の親になるには、まだ早いのではないか」
「白那さまは、ずっと同じ姿だから、そう見えるだけだよ」
「妾は白那さまと呼べと申した覚えはない」
「では、白那ちゃん」
「さまと呼べ」
娘はまた笑った。
白那は頬を膨らませながら、赤子の顔をのぞき込んだ。
小さな手が、白那の白い髪をつかもうとする。
だが、その指は白那をすり抜けた。
「この子には、私のように白那さまが見えないみたい」
「そのほうがよい」
「どうして?」
「見えぬものは、見えぬままのほうが幸せなこともある」
「私は、白那さまが見えてよかったよ」
娘はそう言った。
白那は答えず、井戸の水面へ目を戻した。
水面に鈴は映っていなかった。
◇
関ヶ原から十五年が過ぎたころ、一人の男が佐和山へ登ってきた。
かつての城道は草に覆われていた。
男は何度も足を取られながら、それでも千貫井までたどり着いた。
両腕には、黒い漆塗りの文箱を抱えていた。
角は擦れ、金具も黒ずんでいる。
白那は、男の顔を見つめた。
湊一ではない。
だが、その面差しには、石田三成の名残があった。
「そなたは……」
男には、白那の声が聞こえていない。
小祠の前へ膝をつき、文箱へ両手を添える。
「父上」
男の声が震えた。
「兄上が、十五年をかけて書き残したものでございます」
白那は息を呑んだ。
三成の三男だった。
「母上も、兄上も、弟妹たちも、生きました」
男は、ゆっくりと文箱を小祠の奥へ納めた。
「父上へ届かなかった文も、この中にございます」
風が、草を揺らした。
「父上が、いつか帰られたなら――お渡しください」
誰に頼んでいるのか、男自身にも分かっていないのだろう。
それでも三男は、井戸と小祠へ深く頭を下げた。
「どうか、父上へ」
白那は、男の前に立った。
「預かった」
男には聞こえない。
「妾が必ず、そなたの父へ返してやる」
三男はしばらく頭を下げたまま動かなかった。
やがて立ち上がり、何度も振り返りながら山を下りていった。
白那は小祠の中から文箱を取り出した。
鈴を送り出したときには、鈴だけを届ければよいと思っていた。
だが今度は、家族が生きた証しまで預かってしまった。
「まったく……」
白那は文箱を抱き締めた。
「石田の者は、妾へ物を預けすぎじゃ」
文箱は、幼くなった白那の腕には大きかった。
白那は衣の袖で、箱の表面についた土を拭った。
「安心せよ」
山を下りていく三男の背中へ呼びかける。
「これは必ず、あの男へ返す」
鈴に続いて、もう一つ。
白那には、四百年先へ届けなければならないものができた。
◇
時が流れた。
佐和山城は草木に覆われていった。
かつての曲輪には木が生えた。
埋められた堀には雨水がたまり、低い踏み石の角は、人の足と年月に削られ、少しずつ丸くなった。
それでも、千貫井を訪れる者は途絶えなかった。
水を汲む村人。
山仕事の途中で喉を潤す者。
熱を出した子のため、桶を抱えて登ってくる母親。
城跡を探しに来た旅人。
石田三成の名を知る者もいた。
知らない者もいた。
白那は、そのすべてを見ていた。
廃城の日に出会った娘も、変わっていった。
背負われていた赤子は、自分の足で踏み石へ上がるようになった。
その子が成長し、さらに子を連れてくるようになった。
娘の髪には、白いものが交じった。
腰は少しずつ曲がり、桶も小さなものへ替わった。
それでも白那の姿は、廃城の日とほとんど変わらない。
白い髪。
古びた衣。
幼い姿には似合わぬ、尊大な目。
変わっていくのは、周りの者だけだった。
ある冬の日。
老いた娘が、杖をついて千貫井へ来た。
息を切らし、何度も立ち止まりながら、ようやく小祠の前までたどり着いた。
「遅いぞ」
白那はいつものように言った。
「妾を待たせるでない」
「白那さまほどではありませんよ」
老婆は笑った。
その声には、踏み石へ座っていた幼い娘の名残があった。
老婆は踏み石へ足を掛けようとした。
だが、もう自分の力では上がれなかった。
白那は柄杓を取り、水を汲んだ。
器へ注ぎ、老婆の前へ置く。
老婆には、その器を誰が置いたのか見えていた。
「ありがとう」
「礼などいらぬ。妾は水守じゃ」
老婆は両手で器を持ち、少しずつ水を飲んだ。
「白那さまは、変わりませんね」
「妾は水守じゃからな」
「私は、すっかり年を取りました」
「見れば分かる」
「もう、長くはありません」
「妙なことを申すな」
白那は眉を寄せた。
「春になれば、また来ればよい」
老婆は静かに首を振った。
「白那さまの待っている人は、帰ってきましたか」
白那は答えられなかった。
老婆は、幼い白那の手へ、しわだらけの手を重ねようとした。
指先は触れ合わなかった。
それでも、二人の手の輪郭は、ぴたりと重なった。
「私が子どものころから、ずっと待っていましたものね」
「まだ、それほど待ってはおらぬ」
「そうですか」
「人の一生など、水の流れに比べれば短いものじゃ」
言ってから、白那は口を閉じた。
目の前に、その短い一生があった。
井戸の踏み石へ上がれなかった娘が、自分で水を汲めるようになった。
母になった。
子を育てた。
孫を連れてきた。
そして今、再び踏み石へ上がれなくなっている。
人の一生が、白那の待ち時間の途中で終わろうとしていた。
「帰ってくるといいですね」
老婆が言った。
「当たり前じゃ。若旦那は帰ってくる」
「ええ」
老婆はうなずいた。
「白那さまが待っているなら、きっと帰れます」
「なぜ、そう言い切れる」
「帰る場所というものは、建物ではないのでしょう?」
白那は老婆を見た。
「待っている人がいるところが、帰る場所なのでしょう?」
廃城の日、この娘が幼い声で口にした言葉だった。
白那は覚えていた。
城がなくなったからとて、帰る場所までなくなるわけではない。
帰る者は、城ではなく、待っている者を探す。
「生意気なことを申すようになったのう」
「白那さまに教わりました」
「妾ではない。若旦那が申したことじゃ」
「では、若旦那さまにお礼を言わなければなりませんね」
「帰ってきたら、妾から伝えておく」
「お願いします」
老婆は、白那へ笑いかけた。
「それでは、白那さま」
「うむ」
「また、春に」
「遅れるでないぞ」
それが、娘と交わした最後の言葉になった。
次の春、娘は井戸へ来なかった。
代わりに、その孫が水を汲みに来た。
白那が話しかけても、振り向かない。
孫には、白那の姿が見えていなかった。
それでも孫は、踏み石へ上がり、水を汲み、柄杓を決められた場所へ伏せた。
汚れた桶を井戸へ入れず、石組みを新しい白布で拭いた。
作法だけは、娘から子へ、子から孫へ受け継がれていた。
白那は、一人になった井戸の前で呟いた。
「……そなたまで、先に行ってしまったか」
一人の人間が生まれ、母となり、祖母となり、死んでいった。
それでも、湊一は帰らなかった。
まだ、四百年のうちの、ほんのわずかな時間だった。
◇
それから白那は、人と親しくなることを避けるようになった。
名を覚えれば、別れが来る。
顔を覚えれば、その顔が老いていく。
昨日まで走っていた子どもが杖をつき、やがて井戸へ来なくなる。
人にとっての一生が、白那にとっては待ち時間の途中でしかなかった。
「妾は、あと何人を見送ればよいのじゃ」
答える者はいない。
井戸の水音だけが続いていた。
百年が過ぎるころには、石田三成を直接知る者はいなくなった。
「昔、この山には城があったらしい」
人々は、そう語るようになった。
二百年が過ぎるころには、三成が井戸を守らせたことも、低い踏み石を置かせたことも、誰の記憶にも残っていなかった。
それでも、人々は踏み石へ上がった。
柄杓を伏せた。
汚れた桶を井戸へ入れなかった。
誰に教わったのかは忘れても、教わったことまでは失われなかった。
三百年が過ぎるころには、佐和山の道も変わっていた。
人々の着るものが変わった。
言葉の響きが変わった。
見たこともない道具を持った者が、山へ登ってくるようになった。
白那には、それが何に使うものなのか分からなかった。
だが、喉が渇けば水を飲む。
疲れれば低い石へ腰を下ろす。
それだけは、どの時代の人間も変わらなかった。
変わってしまったのは、白那の記憶だった。
湊一が、どのような声で笑ったのか。
どのような顔で自分の名を呼んだのか。
団子を渡すとき、右手を使ったのか、左手を使ったのか。
思い出そうとするほど、記憶は水面の影のように揺らいだ。
声だけが聞こえない。
顔の輪郭だけが霞む。
白那は怖くなった。
湊一が帰らないことよりも、帰ってきた湊一を、自分が見分けられなくなることが怖かった。
「若旦那」
井戸へ向かって呼びかける。
返事はない。
「若旦那」
もう一度、呼ぶ。
自分の声だけが、井戸の底から返ってくる。
白那は、かつて交わした会話を一人で繰り返した。
『白那、団子を食うか』
「食わぬ」
『本当か?』
「……一つだけなら、食うてやらぬこともない」
そこまで言って、白那は黙った。
次に湊一が何と答えたのか、思い出せなかった。
「違う」
首を振る。
「そなたは、そのようには言わなんだ」
だが、正しい言葉が出てこない。
白那は黒い文箱を抱き締めた。
文箱の中には、湊一が石田三成として生きた証しがある。
家族が生きた証しがある。
それを開けば、家族の言葉を読むことができる。
湊一のことを、何か思い出せるかもしれない。
白那は何度も紐へ指を掛けた。
そのたびに、手を離した。
これは、自分へ宛てられたものではない。
四百年待とうとも、最初に読むのは湊一でなければならない。
「妾は預かっただけじゃ」
白那は、自分へ言い聞かせる。
「これは、若旦那のものじゃ」
◇
長い年月の間には、大雨もあった。
山が崩れ、濁流が千貫井へ流れ込んだ夜もある。
白那は残された力で井戸と文箱を守った。
水を押し返し、崩れた土をせき止め、小祠へ迫る濁流の道を変えた。
力を使うたび、身体はさらに幼くなった。
袖は長くなった。
文箱は重くなった。
以前なら両腕で容易に抱えられたものを、いつしか地面を引きずらなければ運べなくなった。
そのたびに、河童たちが現れた。
三本指の小さな手で、文箱の底を支えた。
崩れた井戸の石を押し戻した。
白那が倒れれば、欠けた椀で水を運んできた。
「妾は平気じゃ」
そう言っても、河童たちは離れなかった。
「まったく、そなたらも物好きじゃのう」
白那は文句を言いながら、差し出された水を飲んだ。
だが、その河童たちも、少しずつ姿を見せなくなっていった。
一匹、また一匹。
水の奥へ帰ったのか。
別の川へ移ったのか。
人に見つからぬよう、さらに深い場所へ身を隠したのか。
白那にも分からなかった。
ある雨上がり。
井戸の縁に、三本指の跡が一つだけ残っていた。
白那は辺りを見回した。
「おるのか」
返事はない。
「隠れておらず、姿を見せよ」
水面に、小さな泡が一つ浮かんだ。
「若旦那が帰るまで、共に待つと申したではないか」
泡が弾けた。
それきり、長い間、三本指の跡は現れなくなった。
湊一だけではない。
共に待っていた者たちまで、白那を残して消えていく。
白那は、さらに小さくなった身体で文箱を抱えた。
「先に行くでない」
誰にも届かない声だった。
「妾一人を、ここへ残すでない」
雨上がりの山に、白那の声だけが消えていった。
◇
やがて白那は、最も考えてはならないことを考えるようになった。
鈴は届かなかったのではないか。
水の道の途中で失われたのではないか。
湊一は、石田三成とともに死んだのではないか。
あるいは四百年先へ帰り、自分のことなど忘れて、すでに別の一生を終えたのではないか。
もし、湊一がもういないのなら。
自分は、誰も帰ってこない場所で、文箱を抱いているだけなのではないか。
「もう……よいのではないか」
白那の口から、初めてその言葉が漏れた。
待つことをやめても、誰も責めはしない。
鈴は送り出した。
家族を逃がした。
井戸を守った。
文箱も守った。
水守としての務めは、十分に果たした。
小祠の前へ、文箱を置く。
白那は一歩離れた。
そして、山を下りる方角へ足を向けた。
一歩。
二歩。
三歩。
そこで、足が止まった。
脳裏に、廃城の日に出会った娘の声がよみがえる。
――白那さまが待っているなら、きっと帰れます。
白那は振り返った。
城はない。
湯殿もない。
皆で膳を囲んだ広間もない。
大一大万大吉の旗もない。
小さき湯番の笑い声も、左近の大きな背中もない。
それでも、文箱はそこにある。
千貫井には水がある。
低い踏み石も残っている。
そして自分も、まだここにいる。
白那は文箱のもとへ戻った。
「たわけ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
湊一へ向けたのか。
待つことをやめようとした自分へ向けたのか。
「帰ってこぬから、待つのをやめるのではない」
文箱を、もう一度抱き上げる。
「帰ってきたとき、一人にせぬために待つのじゃ」
それから白那は、二度と年を数えなかった。
昨日と今日の違いも考えなかった。
ただ水を守った。
文箱を抱いた。
そして、鈴が鳴るのを待った。
四百年という長さが苦しかったのではない。
次の一瞬には鳴るかもしれない鈴が、その一瞬ごとに鳴らないことが苦しかった。
もしかすると、次に山道を登ってくるのは湊一かもしれない。
次に井戸へ映る影が、湊一かもしれない。
次に水の底から聞こえる声が、湊一かもしれない。
期待しては、違った。
信じては、裏切られた。
それでも、次の一瞬を待たずにはいられなかった。
その苦しみを、白那は四百年、繰り返した。
◇
佐和山から遠く離れた場所に、古い井戸と小さな湯宿があった。
湯宿の名は、白峰といった。
ある朝、古井戸のそばに、小さな鈴が落ちていた。
誰が見つけたのか。
いつからそこにあったのか。
確かなことを知る者はいなかった。
井戸の底から浮かんできたのだという者もいた。
旅の修験者が置いていったのだという者もいた。
大水の翌朝、水辺の石に引っ掛かっていたのだという者もいた。
鈴は古びていた。
表面には時の色が浮かび、結ばれていた紐も擦り切れていた。
それでも、鳴らせば澄んだ音がした。
宿の者は鈴を捨てなかった。
古井戸のそばへ小祠を建て、そこへ鈴を結んだ。
ときおり、井戸の水面に白い影が映ることがあった。
白い髪をした小さな娘を見たという者もいた。
水面が白く光っただけだという者もいた。
鈴の音を聞いただけだという者もいた。
誰も、その正体を知らなかった。
いつしか宿の者たちは、小祠と鈴の主を、親しみを込めて「白峰さん」と呼ぶようになった。
白峰さんの鈴は、宿へ来る客を迎えた。
湯治を終えて帰る客を見送った。
そして、ときおり、風もないのに鳴った。
その音が、誰を呼んでいるのか。
誰も知らなかった。
◇
四百年目の、ある日。
白那は、いつものように千貫井のそばで文箱を抱えていた。
そのときだった。
水の底から、音が聞こえた。
りん――。
白那の指が動きを止めた。
顔を上げることができなかった。
聞き間違いかもしれない。
待ちすぎた自分の心が、鈴の音を作り出したのかもしれない。
これまでにも何度かあった。
水滴の音を、鈴だと思った。
枝の触れ合う音を、鈴だと思った。
遠くの寺から届く鐘を、あの鈴だと思った。
そのたびに井戸へ駆け寄り、何も映っていない水面を見つめた。
期待することに、白那は疲れていた。
「妾を……たばかるでないぞ」
水面へ言う。
返事はない。
「鳴るなら、もう一度鳴れ」
白那は文箱を抱く腕へ力を込めた。
「今度こそ本物であると申すなら――もう一度、鳴ってみせよ」
だが、鈴は鳴らなかった。
白那は目を閉じた。
「……そうか」
やはり、聞き間違いだった。
立ち上がろうとしたとき、井戸の水面が白く光った。
閉じかけていた水の道が、細くひらいていく。
水面に、見知らぬ若者の姿が映った。
二十五歳の白瀬湊一。
白那の知らない顔だった。
石田三成とは、似ても似つかない。
声も違う。
身体も違う。
それでも、白那には分かった。
水面の向こうにいる若者が、小祠の鈴へ手を伸ばす。
その目を見た瞬間、白那の胸の奥で、四百年間消えずに残っていたものが震えた。
「若旦那……」
声が漏れた。
水の道が大きく揺れる。
若者の身体が、水の向こうへ引かれていく。
白那は手を伸ばした。
「待て!」
届かない。
「そちらではない!」
湊一は未来から、過去へ流されていく。
白那がまだ湊一を知らなかった時代へ。
石田三成の身体で目を覚ます、あの日へ。
水面から、若者の姿が消えた。
だが白那は、もう絶望しなかった。
鈴は届いていた。
湊一は生きていた。
そして水の道は、閉じきっていなかった。
白那は、黒い文箱を抱き直した。
「そういうことか」
四百年待った自分が鈴を送り出し、その鈴に呼ばれた湊一が、四百年前の自分と出会う。
始まりと終わりが、水の輪のようにつながっていた。
「まったく……」
白那の目から、涙が落ちた。
水守である自分が、涙を流すなど認めたくなかった。
白那は乱暴に袖で目元を拭う。
「どこまで妾を待たせれば気が済むのじゃ」
四百年分の恨み言をぶつけるつもりだった。
きつく叱ってやるつもりだった。
一度くらい殴ってやろうとも思っていた。
だが、口から出たのは、それだけだった。
「遅いぞ……若旦那」
けれど、その声はまだ湊一には届かなかった。
水の道は彼を、白那がまだ湊一の名も、その声も知らなかったころへ送り届けた。
関ヶ原を迎える前の、慶長五年の佐和山へ。
そこで湊一は石田三成として目を覚まし、白那と出会った。
枯れた井戸を満たした。
湯を沸かした。
腹を空かせた者へ飯を出した。
城下の者が帰る家を直し、妻子が生きて逃げられる道を残した。
そして、勝てぬと知りながら関ヶ原へ向かい、最後には六条河原で命を終えた。
湊一にとっては、二月にも満たない日々だった。
だが、文箱を抱く白那にとって、それは四百年以上も前に終わった日々だった。
水の道の向こうへ消えていく湊一を見て、白那はようやく悟った。
石田三成の身体に宿っていた若旦那の、本当の姿を。
「そうか」
白那は、黒い文箱を抱き直した。
「あれが、そなたであったか」
まだ、文箱を渡すことはできない。
今、水の道を進んでいる湊一は、これから白那と出会い、これから佐和山で生き、これから別れの日を迎える。
そのすべてを終えた湊一が、もう一度こちらの時代へ戻ってくるまで、白那は水の道の前で待った。
やがて、六条河原で石田三成の生涯が閉じた。
その瞬間、四百年前と現代をつないだ水の道が、再びひらいた。
今度こそ、白那は見失わなかった。
黒い文箱を抱き、水の流れへ身を任せた。
鈴が待つ現代の白峰へ。
若旦那が帰る場所へ。
そうして二人は、四百年の時を越えて再会した。
白那は文箱を渡した。
湊一は、父へ届かなかった妻子の文と、長男が十五年をかけて残した記録を読んだ。
翌朝、湊一は湯宿「白峰」の二代目若旦那として歩き始めた。
そして一月後、白那とともに佐和山を訪れ、自分が残した水と帰り道を、その目で確かめた。
佐和山から白峰へ戻った、その夜。
◇
夜の白峰は静かだった。
客室の明かりは消え、廊下を歩く者もいない。
厨房の火も落ちている。
それでも、浴場の奥からは湯の流れる音が聞こえていた。
小祠の前に、湊一と白那が並んで座っていた。
黒い文箱は、もう小祠の中にはない。
四百年届かなかった文は、ようやく父へ届いた。
湊一は、古びた鈴を見上げた。
「なあ、白那」
「何じゃ」
「ずっと気になってたんだけどさ」
「申してみよ」
「どうして、ここは白峰さんって呼ばれてるんだろうな」
白那が眉を寄せた。
「妾に聞くでない。こちらの世の者どもが、勝手に名づけたのであろう」
「古井戸に、白い髪の小さな女の子が映ったって話が残ってる」
「ほう」
「風もないのに鈴が鳴って、そのあとに白い影を見た人もいたらしい」
白那は黙った。
鈴を水の道へ送り出したあとも、白那の思いだけは鈴へ残っていた。
遠い佐和山から、鈴を通して白峰の水面へ映ったことがあったのかもしれない。
湊一が鈴を見つけられるように。
水の道を見失わないように。
自分でも気づかぬうちに、四百年間、こちら側へ呼びかけ続けていたのかもしれない。
「じゃあ、白峰さんって――」
「妾は白那じゃ」
白那は先回りして言った。
「白峰さんなどという、年寄りじみた名ではない」
「でも、白い髪の女の子が井戸を守ってたんだろ」
「妾は童ではない」
「鈴を送ったのも白那だ」
「それがどうした」
「四百年、俺を待ってたのも白那だ」
「待ってなどおらぬ。文箱を預かっておっただけじゃ」
「……そういうことにしておくよ」
「何じゃ、その言い方は」
「だって、待ってなかった相手に『遅い』とは言わないだろ」
「それとこれとは別じゃ」
白那は不機嫌そうに頬を膨らませた。
その姿を見て、湊一は笑った。
「ずっと最初から、白那に呼ばれてたんだな」
「気づくのが遅い」
「鈴が俺を戦国へ送ったんじゃない」
湊一は、小祠の鈴を見つめた。
「白那が、俺の帰り道を見つけてくれたんだ」
白那は答えなかった。
古井戸の石組みに、小さな濡れ跡が浮かんだ。
三本の指。
その横に、もう一つ。
水面に小さな泡が三つ浮かび、弾けた。
白那が目を細める。
「遅いぞ、水の民よ」
責める声ではなかった。
四百年前と変わらぬ者たちからの、遅すぎる返事だった。
湊一は小祠の前へ座り直した。
そして、白那へ向かって頭を下げた。
「ただいま、白峰さん」
「妾は白那じゃと申しておろう!」
白那の声が、夜の古井戸へ響いた。
湊一は顔を上げる。
今度は、ふざけずに白那を見る。
「ただいま、白那」
白那の表情から、怒りが消えた。
四百年の間に見送った者たち。
名を忘れた者たち。
姿を消した河童たち。
守り続けた千貫井。
開けなかった文箱。
次の一瞬には鳴るかもしれないと、待ち続けた鈴。
そのすべてが、白那の幼い顔をよぎった。
白那は何かを言おうとした。
だが、すぐには声が出なかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……遅いぞ、若旦那」
「ああ」
「遅すぎる」
「ごめん」
「妾を、どれほど待たせたと思うておる」
「四百年」
「四百年余りじゃ」
「ちゃんと数えてたんじゃないか」
「黙れ」
湊一は笑った。
白那も、少しだけ笑った。
風はなかった。
誰も鈴には触れていなかった。
それでも、白峰さんの鈴が鳴った。
りん――。
その鈴は、誰かを戦へ送るために鳴ったのではない。
過去へ閉じ込めるために鳴ったのでもない。
四百年待ち続けた者が、帰るべき若旦那を呼ぶために鳴った。
「ただいま、白那」
「……おかえり、若旦那」
りん――。
白峰さんの鈴が、四百年越しの「ただいま」に答えた。
『佐和山若旦那録』――これにて、完結です。
◇
そして、水の物語は、まだ終わりません。
次なる舞台は、山から海へ。
近江国・佐和山から、肥前国・諫早へ。
元和七年。
海と川に挟まれ、水害と飢えに苦しむ土地へ流れ着いたのは、現代の河川・農地整備を知る、一人の青年でした。
その名は――白瀬湊一。
彼が出会うのは、水守の少女・澪と、三本指を持つ河童たち。
海を閉じれば、村は水害から守られる。
しかし、海を閉じれば、漁師たちは生きる場所を失う。
ならば、海を殺さず、海から新たな土地を生み出せるのか。
湯と井戸を守った物語の次は、海、川、干拓、河童、そして仲間たちと挑む国づくりの物語です。
次作、
『海から百万石』
現在、連載開始へ向けて準備中です。
開始時期などの詳細は、今後の活動報告でお知らせいたします。
佐和山から海へと続く、次の水の物語もお待ちいただけましたら幸いです。




