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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
最終章(第六章)「湯は、まだ沸いている」

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挿話十三湯 白峰さんの鈴

本編第五十四湯を終えましたが、この物語には、もう一つだけ描かなければならない時間が残っていました。


湊一にとっては、二月にも満たなかった佐和山の日々。


けれど、白那にとっては――四百年を超える「待つ時間」でした。


第一湯で鳴った鈴は、誰が、何のために鳴らしたものだったのか。


『佐和山若旦那録』、本当の最終話です。

挿絵(By みてみん)


 鈴を送り出したあとも、白那はしばらく井戸の縁から手を離せなかった。


 水面には、もう何も映っていない。


 鈴は消えた。


 水の道を通り、四百年先へ向かった。


 そう信じて送り出した。


 だが、白那には分からなかった。


 鈴が無事に向こう側へ届いたのか。


 湊一が、まだ生きているのか。


 石田三成とともに死んだのか。


 水の道へ落ちたあと、どの時代へ流されたのか。


 何一つ、分からなかった。


 井戸の石組みに、三本指の濡れた跡が一つ浮かんだ。


 その横に、もう一つ。


 水の底で、小さな泡が弾ける。


「案ずるな」


 白那は胸を張った。


「妾は待つことには慣れておる」


 河童たちから返事はなかった。


 ただ、水面に小さな波紋が広がった。


 白那は、誰も見ていないことを確かめてから、小さく呟いた。


「……少しくらい、急いでもよいのじゃぞ。若旦那」


 それが、四百年の始まりだった。


     ◇


 最初の一年、白那は日を数えた。


 春が来れば、


「次の春までには帰るじゃろう」


 夏が来れば、


「秋には帰るかもしれぬ」


 木々が色づけば、


「雪の降る前には、鈴も届いておろう」


 雪が千貫井の石を白く覆えば、


「この雪が解けるころには帰る」


 そう言いながら、白那は井戸の石へ小さな印を刻んだ。


 一日につき、一つ。


 石の一面が印で埋まっても、鈴は鳴らなかった。


 雨が印を削った。


 苔が石を覆った。


 やがて白那は、日を数えることをやめた。


 廃城の日、白那の姿を見ることのできた娘は、その後も千貫井へ水を汲みに来た。


 はじめは、父親のあとをついてきた。


 父親が桶を下ろす間、娘は低い踏み石に座り、白那へ話しかけた。


「まだ、お殿様を待っているの?」


「殿様ではない。若旦那じゃ」


「いつ帰ってくるの?」


「じきに帰る」


 白那は迷わず答えた。


「じきって、明日?」


「明日かもしれぬし、十日後かもしれぬ」


「十日も待つの?」


「十日など、瞬きする間じゃ」


 娘は感心したように白那を見た。


「水の神様は、待つのが上手なんだね」


「妾は神ではない。水守じゃ」


 娘は、その違いが分からないという顔をした。


 やがて娘は、一人で桶を持ってくるようになった。


 踏み石へ上がり、自分で水を汲み、柄杓を伏せ、白い布で石組みを拭いた。


 父から教わった作法だった。


「まだ待っているの?」


「うむ」


「遅い人だね」


「帰ってきたら、妾がきつく叱ってやる」


「どれくらい?」


「まず、百年分じゃ」


「まだ百年も経っていないよ」


「もののたとえじゃ」


 白那がむっとすると、娘は声を立てて笑った。


 数年が過ぎた。


 娘は髪を結い、赤子を背負って井戸へ来た。


「その童は何じゃ」


「私の子だよ」


「そなたが、子を産んだのか」


「そうだよ」


 白那は、娘と背中の赤子を見比べた。


 つい先日まで踏み石へ上がるのにも苦労していた娘が、もう母になっている。


 白那には、それが不思議でならなかった。


「そなた、人の親になるには、まだ早いのではないか」


「白那さまは、ずっと同じ姿だから、そう見えるだけだよ」


「妾は白那さまと呼べと申した覚えはない」


「では、白那ちゃん」


「さまと呼べ」


 娘はまた笑った。


 白那は頬を膨らませながら、赤子の顔をのぞき込んだ。


 小さな手が、白那の白い髪をつかもうとする。


 だが、その指は白那をすり抜けた。


「この子には、私のように白那さまが見えないみたい」


「そのほうがよい」


「どうして?」


「見えぬものは、見えぬままのほうが幸せなこともある」


「私は、白那さまが見えてよかったよ」


 娘はそう言った。


 白那は答えず、井戸の水面へ目を戻した。


 水面に鈴は映っていなかった。


     ◇


 関ヶ原から十五年が過ぎたころ、一人の男が佐和山へ登ってきた。


 かつての城道は草に覆われていた。


 男は何度も足を取られながら、それでも千貫井までたどり着いた。


 両腕には、黒い漆塗りの文箱を抱えていた。


 角は擦れ、金具も黒ずんでいる。


 白那は、男の顔を見つめた。


 湊一ではない。


 だが、その面差しには、石田三成の名残があった。


「そなたは……」


 男には、白那の声が聞こえていない。


 小祠の前へ膝をつき、文箱へ両手を添える。


「父上」


 男の声が震えた。


「兄上が、十五年をかけて書き残したものでございます」


 白那は息を呑んだ。


 三成の三男だった。


「母上も、兄上も、弟妹たちも、生きました」


 男は、ゆっくりと文箱を小祠の奥へ納めた。


「父上へ届かなかった文も、この中にございます」


 風が、草を揺らした。


「父上が、いつか帰られたなら――お渡しください」


 誰に頼んでいるのか、男自身にも分かっていないのだろう。


 それでも三男は、井戸と小祠へ深く頭を下げた。


「どうか、父上へ」


 白那は、男の前に立った。


「預かった」


 男には聞こえない。


「妾が必ず、そなたの父へ返してやる」


 三男はしばらく頭を下げたまま動かなかった。


 やがて立ち上がり、何度も振り返りながら山を下りていった。


 白那は小祠の中から文箱を取り出した。


 鈴を送り出したときには、鈴だけを届ければよいと思っていた。


 だが今度は、家族が生きた証しまで預かってしまった。


「まったく……」


 白那は文箱を抱き締めた。


「石田の者は、妾へ物を預けすぎじゃ」


 文箱は、幼くなった白那の腕には大きかった。


 白那は衣の袖で、箱の表面についた土を拭った。


「安心せよ」


 山を下りていく三男の背中へ呼びかける。


「これは必ず、あの男へ返す」


 鈴に続いて、もう一つ。


 白那には、四百年先へ届けなければならないものができた。


     ◇


 時が流れた。


 佐和山城は草木に覆われていった。


 かつての曲輪には木が生えた。


 埋められた堀には雨水がたまり、低い踏み石の角は、人の足と年月に削られ、少しずつ丸くなった。


 それでも、千貫井を訪れる者は途絶えなかった。


 水を汲む村人。


 山仕事の途中で喉を潤す者。


 熱を出した子のため、桶を抱えて登ってくる母親。


 城跡を探しに来た旅人。


 石田三成の名を知る者もいた。


 知らない者もいた。


 白那は、そのすべてを見ていた。


 廃城の日に出会った娘も、変わっていった。


 背負われていた赤子は、自分の足で踏み石へ上がるようになった。


 その子が成長し、さらに子を連れてくるようになった。


 娘の髪には、白いものが交じった。


 腰は少しずつ曲がり、桶も小さなものへ替わった。


 それでも白那の姿は、廃城の日とほとんど変わらない。


 白い髪。


 古びた衣。


 幼い姿には似合わぬ、尊大な目。


 変わっていくのは、周りの者だけだった。


 ある冬の日。


 老いた娘が、杖をついて千貫井へ来た。


 息を切らし、何度も立ち止まりながら、ようやく小祠の前までたどり着いた。


「遅いぞ」


 白那はいつものように言った。


「妾を待たせるでない」


「白那さまほどではありませんよ」


 老婆は笑った。


 その声には、踏み石へ座っていた幼い娘の名残があった。


 老婆は踏み石へ足を掛けようとした。


 だが、もう自分の力では上がれなかった。


 白那は柄杓を取り、水を汲んだ。


 器へ注ぎ、老婆の前へ置く。


 老婆には、その器を誰が置いたのか見えていた。


「ありがとう」


「礼などいらぬ。妾は水守じゃ」


 老婆は両手で器を持ち、少しずつ水を飲んだ。


「白那さまは、変わりませんね」


「妾は水守じゃからな」


「私は、すっかり年を取りました」


「見れば分かる」


「もう、長くはありません」


「妙なことを申すな」


 白那は眉を寄せた。


「春になれば、また来ればよい」


 老婆は静かに首を振った。


「白那さまの待っている人は、帰ってきましたか」


 白那は答えられなかった。


 老婆は、幼い白那の手へ、しわだらけの手を重ねようとした。


 指先は触れ合わなかった。


 それでも、二人の手の輪郭は、ぴたりと重なった。


「私が子どものころから、ずっと待っていましたものね」


「まだ、それほど待ってはおらぬ」


「そうですか」


「人の一生など、水の流れに比べれば短いものじゃ」


 言ってから、白那は口を閉じた。


 目の前に、その短い一生があった。


 井戸の踏み石へ上がれなかった娘が、自分で水を汲めるようになった。


 母になった。


 子を育てた。


 孫を連れてきた。


 そして今、再び踏み石へ上がれなくなっている。


 人の一生が、白那の待ち時間の途中で終わろうとしていた。


「帰ってくるといいですね」


 老婆が言った。


「当たり前じゃ。若旦那は帰ってくる」


「ええ」


 老婆はうなずいた。


「白那さまが待っているなら、きっと帰れます」


「なぜ、そう言い切れる」


「帰る場所というものは、建物ではないのでしょう?」


 白那は老婆を見た。


「待っている人がいるところが、帰る場所なのでしょう?」


 廃城の日、この娘が幼い声で口にした言葉だった。


 白那は覚えていた。


 城がなくなったからとて、帰る場所までなくなるわけではない。


 帰る者は、城ではなく、待っている者を探す。


「生意気なことを申すようになったのう」


「白那さまに教わりました」


「妾ではない。若旦那が申したことじゃ」


「では、若旦那さまにお礼を言わなければなりませんね」


「帰ってきたら、妾から伝えておく」


「お願いします」


 老婆は、白那へ笑いかけた。


「それでは、白那さま」


「うむ」


「また、春に」


「遅れるでないぞ」


 それが、娘と交わした最後の言葉になった。


 次の春、娘は井戸へ来なかった。


 代わりに、その孫が水を汲みに来た。


 白那が話しかけても、振り向かない。


 孫には、白那の姿が見えていなかった。


 それでも孫は、踏み石へ上がり、水を汲み、柄杓を決められた場所へ伏せた。


 汚れた桶を井戸へ入れず、石組みを新しい白布で拭いた。


 作法だけは、娘から子へ、子から孫へ受け継がれていた。


 白那は、一人になった井戸の前で呟いた。


「……そなたまで、先に行ってしまったか」


 一人の人間が生まれ、母となり、祖母となり、死んでいった。


 それでも、湊一は帰らなかった。


 まだ、四百年のうちの、ほんのわずかな時間だった。


     ◇


 それから白那は、人と親しくなることを避けるようになった。


 名を覚えれば、別れが来る。


 顔を覚えれば、その顔が老いていく。


 昨日まで走っていた子どもが杖をつき、やがて井戸へ来なくなる。


 人にとっての一生が、白那にとっては待ち時間の途中でしかなかった。


「妾は、あと何人を見送ればよいのじゃ」


 答える者はいない。


 井戸の水音だけが続いていた。


 百年が過ぎるころには、石田三成を直接知る者はいなくなった。


「昔、この山には城があったらしい」


 人々は、そう語るようになった。


 二百年が過ぎるころには、三成が井戸を守らせたことも、低い踏み石を置かせたことも、誰の記憶にも残っていなかった。


 それでも、人々は踏み石へ上がった。


 柄杓を伏せた。


 汚れた桶を井戸へ入れなかった。


 誰に教わったのかは忘れても、教わったことまでは失われなかった。


 三百年が過ぎるころには、佐和山の道も変わっていた。


 人々の着るものが変わった。


 言葉の響きが変わった。


 見たこともない道具を持った者が、山へ登ってくるようになった。


 白那には、それが何に使うものなのか分からなかった。


 だが、喉が渇けば水を飲む。


 疲れれば低い石へ腰を下ろす。


 それだけは、どの時代の人間も変わらなかった。


 変わってしまったのは、白那の記憶だった。


 湊一が、どのような声で笑ったのか。


 どのような顔で自分の名を呼んだのか。


 団子を渡すとき、右手を使ったのか、左手を使ったのか。


 思い出そうとするほど、記憶は水面の影のように揺らいだ。


 声だけが聞こえない。


 顔の輪郭だけが霞む。


 白那は怖くなった。


 湊一が帰らないことよりも、帰ってきた湊一を、自分が見分けられなくなることが怖かった。


「若旦那」


 井戸へ向かって呼びかける。


 返事はない。


「若旦那」


 もう一度、呼ぶ。


 自分の声だけが、井戸の底から返ってくる。


 白那は、かつて交わした会話を一人で繰り返した。


『白那、団子を食うか』


「食わぬ」


『本当か?』


「……一つだけなら、食うてやらぬこともない」


 そこまで言って、白那は黙った。


 次に湊一が何と答えたのか、思い出せなかった。


「違う」


 首を振る。


「そなたは、そのようには言わなんだ」


 だが、正しい言葉が出てこない。


 白那は黒い文箱を抱き締めた。


 文箱の中には、湊一が石田三成として生きた証しがある。


 家族が生きた証しがある。


 それを開けば、家族の言葉を読むことができる。


 湊一のことを、何か思い出せるかもしれない。


 白那は何度も紐へ指を掛けた。


 そのたびに、手を離した。


 これは、自分へ宛てられたものではない。


 四百年待とうとも、最初に読むのは湊一でなければならない。


「妾は預かっただけじゃ」


 白那は、自分へ言い聞かせる。


「これは、若旦那のものじゃ」


     ◇


 長い年月の間には、大雨もあった。


 山が崩れ、濁流が千貫井へ流れ込んだ夜もある。


 白那は残された力で井戸と文箱を守った。


 水を押し返し、崩れた土をせき止め、小祠へ迫る濁流の道を変えた。


 力を使うたび、身体はさらに幼くなった。


 袖は長くなった。


 文箱は重くなった。


 以前なら両腕で容易に抱えられたものを、いつしか地面を引きずらなければ運べなくなった。


 そのたびに、河童たちが現れた。


 三本指の小さな手で、文箱の底を支えた。


 崩れた井戸の石を押し戻した。


 白那が倒れれば、欠けた椀で水を運んできた。


「妾は平気じゃ」


 そう言っても、河童たちは離れなかった。


「まったく、そなたらも物好きじゃのう」


 白那は文句を言いながら、差し出された水を飲んだ。


 だが、その河童たちも、少しずつ姿を見せなくなっていった。


 一匹、また一匹。


 水の奥へ帰ったのか。


 別の川へ移ったのか。


 人に見つからぬよう、さらに深い場所へ身を隠したのか。


 白那にも分からなかった。


 ある雨上がり。


 井戸の縁に、三本指の跡が一つだけ残っていた。


 白那は辺りを見回した。


「おるのか」


 返事はない。


「隠れておらず、姿を見せよ」


 水面に、小さな泡が一つ浮かんだ。


「若旦那が帰るまで、共に待つと申したではないか」


 泡が弾けた。


 それきり、長い間、三本指の跡は現れなくなった。


 湊一だけではない。


 共に待っていた者たちまで、白那を残して消えていく。


 白那は、さらに小さくなった身体で文箱を抱えた。


「先に行くでない」


 誰にも届かない声だった。


「妾一人を、ここへ残すでない」


 雨上がりの山に、白那の声だけが消えていった。


     ◇


 やがて白那は、最も考えてはならないことを考えるようになった。


 鈴は届かなかったのではないか。


 水の道の途中で失われたのではないか。


 湊一は、石田三成とともに死んだのではないか。


 あるいは四百年先へ帰り、自分のことなど忘れて、すでに別の一生を終えたのではないか。


 もし、湊一がもういないのなら。


 自分は、誰も帰ってこない場所で、文箱を抱いているだけなのではないか。


「もう……よいのではないか」


 白那の口から、初めてその言葉が漏れた。


 待つことをやめても、誰も責めはしない。


 鈴は送り出した。


 家族を逃がした。


 井戸を守った。


 文箱も守った。


 水守としての務めは、十分に果たした。


 小祠の前へ、文箱を置く。


 白那は一歩離れた。


 そして、山を下りる方角へ足を向けた。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 そこで、足が止まった。


 脳裏に、廃城の日に出会った娘の声がよみがえる。


 ――白那さまが待っているなら、きっと帰れます。


 白那は振り返った。


 城はない。


 湯殿もない。


 皆で膳を囲んだ広間もない。


 大一大万大吉の旗もない。


 小さき湯番の笑い声も、左近の大きな背中もない。


 それでも、文箱はそこにある。


 千貫井には水がある。


 低い踏み石も残っている。


 そして自分も、まだここにいる。


 白那は文箱のもとへ戻った。


「たわけ」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。


 湊一へ向けたのか。


 待つことをやめようとした自分へ向けたのか。


「帰ってこぬから、待つのをやめるのではない」


 文箱を、もう一度抱き上げる。


「帰ってきたとき、一人にせぬために待つのじゃ」


 それから白那は、二度と年を数えなかった。


 昨日と今日の違いも考えなかった。


 ただ水を守った。


 文箱を抱いた。


 そして、鈴が鳴るのを待った。


 四百年という長さが苦しかったのではない。


 次の一瞬には鳴るかもしれない鈴が、その一瞬ごとに鳴らないことが苦しかった。


 もしかすると、次に山道を登ってくるのは湊一かもしれない。


 次に井戸へ映る影が、湊一かもしれない。


 次に水の底から聞こえる声が、湊一かもしれない。


 期待しては、違った。


 信じては、裏切られた。


 それでも、次の一瞬を待たずにはいられなかった。


 その苦しみを、白那は四百年、繰り返した。


     ◇


 佐和山から遠く離れた場所に、古い井戸と小さな湯宿があった。


 湯宿の名は、白峰といった。


 ある朝、古井戸のそばに、小さな鈴が落ちていた。


 誰が見つけたのか。


 いつからそこにあったのか。


 確かなことを知る者はいなかった。


 井戸の底から浮かんできたのだという者もいた。


 旅の修験者が置いていったのだという者もいた。


 大水の翌朝、水辺の石に引っ掛かっていたのだという者もいた。


 鈴は古びていた。


 表面には時の色が浮かび、結ばれていた紐も擦り切れていた。


 それでも、鳴らせば澄んだ音がした。


 宿の者は鈴を捨てなかった。


 古井戸のそばへ小祠を建て、そこへ鈴を結んだ。


 ときおり、井戸の水面に白い影が映ることがあった。


 白い髪をした小さな娘を見たという者もいた。


 水面が白く光っただけだという者もいた。


 鈴の音を聞いただけだという者もいた。


 誰も、その正体を知らなかった。


 いつしか宿の者たちは、小祠と鈴の主を、親しみを込めて「白峰さん」と呼ぶようになった。


 白峰さんの鈴は、宿へ来る客を迎えた。


 湯治を終えて帰る客を見送った。


 そして、ときおり、風もないのに鳴った。


 その音が、誰を呼んでいるのか。


 誰も知らなかった。


     ◇


 四百年目の、ある日。


 白那は、いつものように千貫井のそばで文箱を抱えていた。


 そのときだった。


 水の底から、音が聞こえた。


 りん――。


 白那の指が動きを止めた。


 顔を上げることができなかった。


 聞き間違いかもしれない。


 待ちすぎた自分の心が、鈴の音を作り出したのかもしれない。


 これまでにも何度かあった。


 水滴の音を、鈴だと思った。


 枝の触れ合う音を、鈴だと思った。


 遠くの寺から届く鐘を、あの鈴だと思った。


 そのたびに井戸へ駆け寄り、何も映っていない水面を見つめた。


 期待することに、白那は疲れていた。


「妾を……たばかるでないぞ」


 水面へ言う。


 返事はない。


「鳴るなら、もう一度鳴れ」


 白那は文箱を抱く腕へ力を込めた。


「今度こそ本物であると申すなら――もう一度、鳴ってみせよ」


 だが、鈴は鳴らなかった。


 白那は目を閉じた。


「……そうか」


 やはり、聞き間違いだった。


 立ち上がろうとしたとき、井戸の水面が白く光った。


 閉じかけていた水の道が、細くひらいていく。


 水面に、見知らぬ若者の姿が映った。


 二十五歳の白瀬湊一。


 白那の知らない顔だった。


 石田三成とは、似ても似つかない。


 声も違う。


 身体も違う。


 それでも、白那には分かった。


 水面の向こうにいる若者が、小祠の鈴へ手を伸ばす。


 その目を見た瞬間、白那の胸の奥で、四百年間消えずに残っていたものが震えた。


「若旦那……」


 声が漏れた。


 水の道が大きく揺れる。


 若者の身体が、水の向こうへ引かれていく。


 白那は手を伸ばした。


「待て!」


 届かない。


「そちらではない!」


 湊一は未来から、過去へ流されていく。


 白那がまだ湊一を知らなかった時代へ。


 石田三成の身体で目を覚ます、あの日へ。


 水面から、若者の姿が消えた。


 だが白那は、もう絶望しなかった。


 鈴は届いていた。


 湊一は生きていた。


 そして水の道は、閉じきっていなかった。


 白那は、黒い文箱を抱き直した。


「そういうことか」


 四百年待った自分が鈴を送り出し、その鈴に呼ばれた湊一が、四百年前の自分と出会う。


 始まりと終わりが、水の輪のようにつながっていた。


「まったく……」


 白那の目から、涙が落ちた。


 水守である自分が、涙を流すなど認めたくなかった。


 白那は乱暴に袖で目元を拭う。


「どこまで妾を待たせれば気が済むのじゃ」


 四百年分の恨み言をぶつけるつもりだった。


 きつく叱ってやるつもりだった。


 一度くらい殴ってやろうとも思っていた。


 だが、口から出たのは、それだけだった。


「遅いぞ……若旦那」


 けれど、その声はまだ湊一には届かなかった。


 水の道は彼を、白那がまだ湊一の名も、その声も知らなかったころへ送り届けた。


 関ヶ原を迎える前の、慶長五年の佐和山へ。


 そこで湊一は石田三成として目を覚まし、白那と出会った。


 枯れた井戸を満たした。


 湯を沸かした。


 腹を空かせた者へ飯を出した。


 城下の者が帰る家を直し、妻子が生きて逃げられる道を残した。


 そして、勝てぬと知りながら関ヶ原へ向かい、最後には六条河原で命を終えた。


 湊一にとっては、二月にも満たない日々だった。


 だが、文箱を抱く白那にとって、それは四百年以上も前に終わった日々だった。


 水の道の向こうへ消えていく湊一を見て、白那はようやく悟った。


 石田三成の身体に宿っていた若旦那の、本当の姿を。


「そうか」


 白那は、黒い文箱を抱き直した。


「あれが、そなたであったか」


 まだ、文箱を渡すことはできない。


 今、水の道を進んでいる湊一は、これから白那と出会い、これから佐和山で生き、これから別れの日を迎える。


 そのすべてを終えた湊一が、もう一度こちらの時代へ戻ってくるまで、白那は水の道の前で待った。


 やがて、六条河原で石田三成の生涯が閉じた。


 その瞬間、四百年前と現代をつないだ水の道が、再びひらいた。


 今度こそ、白那は見失わなかった。


 黒い文箱を抱き、水の流れへ身を任せた。


 鈴が待つ現代の白峰へ。


 若旦那が帰る場所へ。


 そうして二人は、四百年の時を越えて再会した。


 白那は文箱を渡した。


 湊一は、父へ届かなかった妻子の文と、長男が十五年をかけて残した記録を読んだ。


 翌朝、湊一は湯宿「白峰」の二代目若旦那として歩き始めた。


 そして一月後、白那とともに佐和山を訪れ、自分が残した水と帰り道を、その目で確かめた。


 佐和山から白峰へ戻った、その夜。


     ◇


 夜の白峰は静かだった。


 客室の明かりは消え、廊下を歩く者もいない。


 厨房の火も落ちている。


 それでも、浴場の奥からは湯の流れる音が聞こえていた。


 小祠の前に、湊一と白那が並んで座っていた。


 黒い文箱は、もう小祠の中にはない。


 四百年届かなかった文は、ようやく父へ届いた。


 湊一は、古びた鈴を見上げた。


「なあ、白那」


「何じゃ」


「ずっと気になってたんだけどさ」


「申してみよ」


「どうして、ここは白峰さんって呼ばれてるんだろうな」


 白那が眉を寄せた。


「妾に聞くでない。こちらの世の者どもが、勝手に名づけたのであろう」


「古井戸に、白い髪の小さな女の子が映ったって話が残ってる」


「ほう」


「風もないのに鈴が鳴って、そのあとに白い影を見た人もいたらしい」


 白那は黙った。


 鈴を水の道へ送り出したあとも、白那の思いだけは鈴へ残っていた。


 遠い佐和山から、鈴を通して白峰の水面へ映ったことがあったのかもしれない。


 湊一が鈴を見つけられるように。


 水の道を見失わないように。


 自分でも気づかぬうちに、四百年間、こちら側へ呼びかけ続けていたのかもしれない。


「じゃあ、白峰さんって――」


「妾は白那じゃ」


 白那は先回りして言った。


「白峰さんなどという、年寄りじみた名ではない」


「でも、白い髪の女の子が井戸を守ってたんだろ」


「妾は童ではない」


「鈴を送ったのも白那だ」


「それがどうした」


「四百年、俺を待ってたのも白那だ」


「待ってなどおらぬ。文箱を預かっておっただけじゃ」


「……そういうことにしておくよ」


「何じゃ、その言い方は」


「だって、待ってなかった相手に『遅い』とは言わないだろ」


「それとこれとは別じゃ」


 白那は不機嫌そうに頬を膨らませた。


 その姿を見て、湊一は笑った。


「ずっと最初から、白那に呼ばれてたんだな」


「気づくのが遅い」


「鈴が俺を戦国へ送ったんじゃない」


 湊一は、小祠の鈴を見つめた。


「白那が、俺の帰り道を見つけてくれたんだ」


 白那は答えなかった。


 古井戸の石組みに、小さな濡れ跡が浮かんだ。


 三本の指。


 その横に、もう一つ。


 水面に小さな泡が三つ浮かび、弾けた。


 白那が目を細める。


「遅いぞ、水の民よ」


 責める声ではなかった。


 四百年前と変わらぬ者たちからの、遅すぎる返事だった。


 湊一は小祠の前へ座り直した。


 そして、白那へ向かって頭を下げた。


「ただいま、白峰さん」


「妾は白那じゃと申しておろう!」


 白那の声が、夜の古井戸へ響いた。


 湊一は顔を上げる。


 今度は、ふざけずに白那を見る。


「ただいま、白那」


 白那の表情から、怒りが消えた。


 四百年の間に見送った者たち。


 名を忘れた者たち。


 姿を消した河童たち。


 守り続けた千貫井。


 開けなかった文箱。


 次の一瞬には鳴るかもしれないと、待ち続けた鈴。


 そのすべてが、白那の幼い顔をよぎった。


 白那は何かを言おうとした。


 だが、すぐには声が出なかった。


 やがて、小さく息を吐く。


「……遅いぞ、若旦那」


「ああ」


「遅すぎる」


「ごめん」


「妾を、どれほど待たせたと思うておる」


「四百年」


「四百年余りじゃ」


「ちゃんと数えてたんじゃないか」


「黙れ」


 湊一は笑った。


 白那も、少しだけ笑った。


 風はなかった。


 誰も鈴には触れていなかった。


 それでも、白峰さんの鈴が鳴った。


 りん――。


 その鈴は、誰かを戦へ送るために鳴ったのではない。


 過去へ閉じ込めるために鳴ったのでもない。


 四百年待ち続けた者が、帰るべき若旦那を呼ぶために鳴った。


「ただいま、白那」


「……おかえり、若旦那」


 りん――。


 白峰さんの鈴が、四百年越しの「ただいま」に答えた。


挿絵(By みてみん)


『佐和山若旦那録』――これにて、完結です。


     ◇


そして、水の物語は、まだ終わりません。


次なる舞台は、山から海へ。


近江国・佐和山から、肥前国・諫早へ。


元和七年。


海と川に挟まれ、水害と飢えに苦しむ土地へ流れ着いたのは、現代の河川・農地整備を知る、一人の青年でした。


その名は――白瀬湊一。


彼が出会うのは、水守の少女・澪と、三本指を持つ河童たち。


海を閉じれば、村は水害から守られる。


しかし、海を閉じれば、漁師たちは生きる場所を失う。


ならば、海を殺さず、海から新たな土地を生み出せるのか。


湯と井戸を守った物語の次は、海、川、干拓、河童、そして仲間たちと挑む国づくりの物語です。


次作、


『海から百万石』


現在、連載開始へ向けて準備中です。


開始時期などの詳細は、今後の活動報告でお知らせいたします。


佐和山から海へと続く、次の水の物語もお待ちいただけましたら幸いです。


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