表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
最終章(第六章)「湯は、まだ沸いている」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
66/67

第五十四湯 湯は、まだ沸いている

いよいよ、第五十四湯。


『佐和山若旦那録』本編最終話です。


戦は終わり、城も失われました。


それでも、湯を沸かすこと。飯を振る舞うこと。誰かが帰れる道を残すことは、四百年後へ受け継がれていました。


石田三成として生きた湊一が、白峰の若旦那として迎える最初の一日。


まずは、本編の結末を見届けてください。


そして、この物語には、もう一湯だけ残されています。

挿絵(By みてみん)


 夜が明けた。


 四百年を越えて届いた文は、白峰さんの小祠へ納めてある。


 妻も、子らも、生きた。


 長男は、散り散りになった家族の足跡を十五年かけて書き残した。


 その言葉を受け取った今、湊一に残されているのは、自分も生きることだった。


 今日は、白峰の二代目として働き始める日である。


     ◇


 湊一は着替えを済ませ、厨房へ入った。


 まだ火の入っていない大鍋が並んでいる。


 磨かれた調理台。


 伏せられた椀。


 窓の外からは、朝靄の中を流れる水の音が聞こえていた。


 出勤してきた従業員が、湊一を見つけて頭を下げる。


「若旦那、おはようございます」


「おはようございます」


「今日からですね。まず、何から始めますか」


 湊一は厨房を見回した。


 鍋も、釜も、包丁も、佐和山にあったものとは違う。


 それでも、ここですることは同じだった。


「まずは、湯を確かめましょう」


 それから、並んだ鍋へ目を向ける。


「それが済んだら、食事の準備をお願いします。私も厨房に入ります」


 大げさな就任の挨拶はしなかった。


 浴場へ向かい、湯の温度を確かめる。


 湯量を見る。


 脱衣場の籠をそろえる。


 厨房へ戻り、出汁の具合を確かめる。


 客室を見て回り、廊下の隅に埃が残っていないか確かめる。


 玄関前では、敷石の一つが、わずかに傾いていた。


 湊一は、その場へしゃがみ込んだ。


「若旦那、その程度でしたら、あとでもよいのではありませんか」


 年嵩の従業員が声をかける。


「雨が降ると滑りますから、今のうちに直しておきましょう」


「ですが、ほんのわずかですよ」


「わずかでも、夜になると見えません。ご年配のお客様やお子様が、足を取られるかもしれませんから」


 湊一は石の高さを確かめた。


「せっかく帰ってきてくださったお客様が、玄関先で転ばれては申し訳ありません」


 従業員は傾いた石を見直し、うなずいた。


「承知しました。すぐに直します」


「お願いします」


 城を守るのではない。


 誰かが安心して過ごし、無事に帰ることのできる場所を整える。


 佐和山で続けてきたことと、何も変わらなかった。


     ◇


 朝から降り始めた雨は、昼前になると強くなった。


 軒先から落ちる雫が、石畳を濃く染めている。


 帳場の電話が鳴った。


 今日、宿泊する予定だった客からだった。


 山側の道路が心配なので、宿泊を取りやめたいという。


 電話を受けた従業員が、受話器を手で押さえた。


「若旦那、本日お泊まり予定のお客様から、キャンセルのご相談です。料金はどうしましょう」


「道路の状況はどうですか」


「大雨の注意情報が出ています」


「それでしたら、今回はキャンセル料をいただかないようにしましょう」


 従業員が驚いた顔をした。


「ですが、料理の仕込みは、もう始まっています」


「仕込んだものは無駄にしないよう、別の料理やまかないへ回せるか、厨房とも相談してください」


「初日からそれでは、今後も同じ対応を求められるかもしれません」


 湊一は窓の外を見た。


 雨に煙る道の向こうに、関ヶ原から逃れた兵たちの背中が見えた気がした。


 佐和山を出た妻子。


 城を捨てた民。


 名を変え、道を変え、それでも生きようとした者たち。


「危険を感じた時に引き返すのは、逃げることではありません」


 湊一は、従業員へ向き直った。


「宿は、無理をして来ていただく場所ではありません。無事に帰っていただくことの方が大切です」


 従業員は少し黙り、やがて受話器へ戻った。


「承知いたしました。今回はキャンセル料をいただきません。どうか、お気をつけてお帰りください」


 その言葉を聞き、湊一は小さくうなずいた。


 逃げる者を責めるな。


 生きて帰れ。


 それは、戦場だけの言葉ではなかった。


     ◇


 午後になっても、雨はやまなかった。


 そんな中、一人の老客が白峰へやって来た。


 傘は差していたが、肩も靴も濡れている。


「いらっしゃいませ」


 湊一が迎えると、老客は傘を閉じ、しばらく玄関を見上げていた。


「ずいぶん、変わりましたな」


「以前も、お越しいただいたことがあるのですか」


「ええ。一度だけ」


 老客は、懐かしそうに目を細めた。


「もう、四十年ほど前になります」


 湊一は荷物を預かり、老客を館内へ招き入れた。


「その時も、お一人で?」


「いや。妻と二人でした。まだ、私も若かった」


 湊一は、濡れた靴を受け取った。


 乾いた布で水気を拭い、型崩れしないよう中へ紙を入れる。それから、風の通る乾燥棚へ並べた。


 濡れた靴を見た瞬間、別の光景が脳裏に浮かんだ。


 火のそばに並べられた草鞋。


 黙ってそれを干していた、清正の大きな背中。


 あの日も、雨だった。


「若旦那?」


「失礼しました。夕方までには乾くようにしておきます」


「ありがたい」


 老客は雨の中を歩き、喉が渇いているようだった。


 湊一は、大きめの茶碗にぬるめの茶を入れて出した。


 老客は一杯目を、ほとんど休まずに飲み干した。


 二杯目は少し量を減らし、一杯目より温かな茶を出す。


 三杯目は小さな茶碗に、熱い茶を入れた。


 老客は三杯目をゆっくり飲み、茶碗を置いた。


「三杯とも、温度が違いましたな」


「最初から熱ければ、喉が渇いていても飲めませんから」


「どなたかに教わったのですか」


 湊一は少し考えた。


「いいえ」


 そして、老客の顔を見て笑った。


「茶ではなく、飲む方を見ただけです」


 老客は一瞬きょとんとし、それから声を上げて笑った。


「若いのに、ずいぶん年寄りじみたことを言う若旦那だ」


「よく言われます」


 本当は、四百年ほど年を取って帰ってきたところだった。


     ◇


 その夜。


 夕食を終えた老客が、湊一を呼び止めた。


「若旦那。少し、よろしいですか」


「はい」


 差し出されたのは、一枚の古い写真だった。


 色の褪せた写真の中で、若い男女が白峰の玄関前に並んでいる。


 男の方は、目の前の老客に間違いなかった。


「奥様ですか」


「ええ」


 老客は、写真の中の妻を指でなぞった。


「もう、亡くなりました」


「そうでしたか」


「生きているうちに、もう一度ここへ来ようと話していたのですが、間に合わなかった」


 老客は、写真を見つめたまま笑った。


「だから、一人でも来ておこうと思いましてな」


 それから、ゆっくりと館内を見回した。


「建物は変わりました。玄関も、部屋も、昔とは違う」


 湊一は黙って続きを待った。


 老客は、浴場の方へ顔を向けた。


 廊下の奥から、湯の匂いが漂ってくる。


「それでも、不思議ですな」


「何がです?」


「帰ってきた気がするんです」


 老客は、かすかに笑った。


「ここに、まだ湯があったからでしょうな」


 その言葉が、湊一の胸へ静かに落ちた。


 城がなくなってもよかった。


 同じ建物が残っていなくてもよかった。


 帰ってきた者を迎える何かが、そこに残っていればいい。


 湊一は老客へ、深く頭を下げた。


「お帰りなさいませ」


 老客が目を見開く。


「白峰へ」


 老客は、しばらく何も言わなかった。


 やがて目元を指で拭い、笑った。


「はい。ただいま」


     ◇


 客が皆、部屋へ戻ったあと。


 湊一は、従業員のまかないを作った。


 炊きたての飯。


 具を多めに入れた汁。


 少しの漬物。


 豪華な膳ではない。


 だが、鍋には全員がおかわりできるだけの量がある。


「若旦那。初日から、ご自分でまかないを作られたのですか」


「今日は初日ですから、皆さんにも食べていただきたかったんです」


「今度の若旦那は、人使いが荒そうですね」


 年嵩の従業員が、冗談めかして言った。


「その分、食事だけはきちんと用意します」


「そこは期待してよさそうですね」


 厨房に笑いが起きた。


 湊一は人数分の椀へ汁を注いだ。


 誰の椀にも、同じように湯気が立っている。


 戦国での最後のまかないは、もう終わった。


 これは、二代目として作る最初のまかないだった。


 皆が食べ始めたのを見届けてから、湊一は小さな膳を一つ持って、白峰さんの小祠へ向かった。


 膳の上には、飯と汁と漬物。


 そして、団子が二つ。


 白那は、すでに祠の前へ座って待っていた。


「遅いぞ」


「宿の仕事があったんだよ」


「妾より仕事を優先するとは、恩知らずな若旦那じゃ」


 白那は膳をのぞき込み、眉をひそめた。


「二つだけか」


「初日だからな」


「妾は四百年待ったのじゃぞ」


「明日は三つにする」


「五つじゃ」


「増えすぎだろう」


「四百年分の利息をつければ、それでも足りぬ」


「神様が利息を取るな」


「妾は水の巫女じゃ。団子の勘定は別じゃ」


 白那は団子を一つ手に取り、満足そうに頬張った。


 その姿を見ているうちに、湊一も笑っていた。


     ◇


 翌朝。


 老客は、乾いた靴を履いて玄関に立った。


「よい湯でした」


「ありがとうございます」


「また、帰ってきてもよろしいですかな」


 湊一は笑って頭を下げた。


「もちろんです」


「その時も、三杯の茶を?」


「お客様のお顔を見て決めます」


「それは楽しみだ」


 老客は傘を開き、雨上がりの道を歩いていった。


 客室を整えていた従業員が、一枚の紙を持ってきた。


「若旦那、お客様がアンケートを残されています」


「ありがとうございます」


 湊一は紙を受け取った。


 そこには、震える文字で一行だけ書かれていた。


 ――四十年ぶりに、帰ってくることができました。


 湊一は、その文字を何度も読んだ。


 記録を残すということ。


 そこに誰かが生き、誰かが帰ってきたことを、未来へ伝えるということ。


 長男も、こうして文字を書き続けたのだろう。


 誰かが、いつか読んでくれると信じて。


 湊一はアンケート用紙を丁寧に折り、帳場の引き出しへ納めた。


     ◇


 それから、一月が過ぎた。


 白峰の仕事が少し落ち着いた日、湊一は白那とともに佐和山を訪れた。


 麓では夏の日差しが照りつけていたが、山道へ入ると空気が変わった。


 頭上を覆う木々が光を遮り、苔をまとった石の間を、細い道が上へ続いている。


 雨を吸った土の匂い。


 重なり合う蝉の声。


 時折、葉の先から落ちる雫が、下草を小さく揺らした。


「道は、ずいぶん変わったな」


「四百年じゃぞ。変わらぬ方がおかしい」


 白那の白い袖が、道端の羊歯をかすめる。


 目の前にあるのは、木の根が這う細い山道だった。


 それでも湊一の足は、不思議と迷わなかった。


 道が右へ曲がる手前では、身体が先に歩幅を緩めた。


 この先には、石段があった。


 そう思って目を上げる。


 そこにあるのは、崩れた石と、それを抱くように伸びた木の根だけだった。


 もう少し登ると、木々の切れ間から光が差し込んだ。


 谷から吹き上げた風が、汗ばんだ頬を冷やしていく。


 遠くには、陽を受けた町の屋根と、その向こうに淡く光る水面が見えた。


 湊一は足を止めた。


 目に映るのは、静かな夏の山だった。


 けれど、身体の奥に残る三成の記憶は、別の佐和山を見ていた。


 今は木立しかない場所に、左近が腕を組んで立っている。


 太い声で兵を叱りながら、その目だけは城下の者を案じていた。


 風に揺れる木漏れ日の中へ、吉継の白頭巾が浮かんだ。


 白い湯気の向こうで、友が何も言わずに笑っている。


 湿った土の匂いに、濡れた草鞋の匂いが重なった。


 火のそばへ腰を下ろした清正が、無言で草鞋を裏返している。


 木々のざわめきに、椀の触れ合う音が混じる。


 飯をよそう妻の声。


 湯場を駆け回る子らの足音。


 鈴を結ぼうと、懸命に背伸びする小さき湯番。


 振り返っても、そこには誰もいなかった。


 緑に覆われた山道が、静かに続いているだけだった。


「湊一?」


 白那に呼ばれ、湊一は目を瞬いた。


「いや……皆の声がした気がした」


「気のせいではないかもしれぬぞ」


 白那は木々の奥へ目を向けた。


「山は、人より長く覚えておる」


 二人は、さらに奥へ進んだ。


 やがて木立の中に、苔むした石組みが見えてきた。


 千貫井だった。


 井戸の周りには羊歯が茂り、古い石の隙間から、小さな草が顔を出している。


 陽の光はほとんど届かず、そこだけ夏から切り離されたように涼しかった。


 井戸の底には、丸く切り取られた空が映っている。


 枝が揺れるたび、水面の青も静かに揺れた。


 湊一は井戸のそばへ膝をつき、古い石へ手を置いた。


 苔の湿り気。


 指先へ染み込む冷たさ。


 四百年前にも触れたはずの感触が、腕を伝って胸の奥まで戻ってきた。


 井戸の底で、水滴が一つ落ちた。


 波紋が広がり、映っていた空をゆっくり崩していく。


 その中心から、泡が三つ、間を置いて浮かび上がった。


 湊一が目を凝らす。


 井戸端の苔の上に、いつの間にか小さな濡れた手形が残っていた。


 人のものより小さく、指と指の間には、薄い水かきの跡がある。


「……河童か」


「うむ」


 白那が、懐かしそうに目を細めた。


「そなたの妻子が佐和山を逃れた夜、この者たちも力を貸してくれた」


 湊一は白那を見た。


「河童たちが?」


「井戸から水路を走り、追手の足を止めた。泥を濁らせて足跡を消し、子らが通り終えるまで逃げ道を守ってくれたのじゃ」


 白那は、小さな手形へ目を落とした。


「妾一人では、皆を無事に城外まで逃がすことはできなんだ」


「……知らなかった」


「文にも記録にも、名の残らぬ者たちじゃ」


「名を残すために、助けたんじゃないということか」


「そういう者たちじゃよ」


 湊一は井戸の縁へ両手を置き、姿の見えない水の民へ深く頭を下げた。


 白峰の若旦那としてではない。


 妻子を託した、石田三成として。


「水の民の皆様」


「あの夜、妻と子らの命をお救いくださり、誠にありがとうございました」


 井戸の奥へ届くように、一言ずつ噛みしめて告げる。


「皆様が逃げ道を守ってくださったからこそ、家族は生き延びることができました」


「四百年も遅くなりましたが――石田三成として、心より御礼申し上げます」


 返事はない。


 ただ、井戸の底から新しい泡が一つ浮かび、水面で静かに弾けた。


 丸い波紋が、湊一の置いた両手の下まで届く。


「届いたようじゃな」


 白那が、穏やかに言った。


 湊一は頭を上げず、もう一度だけ、深く礼をした。


 やがて顔を上げ、井戸の水を見つめる。


「まだ、流れているんだな」


「水は、道を覚えておる」


 白那も井戸の縁へ手を置いた。


 白い指先の下で、苔に溜まった雫が震える。


「塞がれても、埋められても、わずかな隙間を見つけて流れる。人も同じじゃ」


「白那が言うと、説教くさいな」


「四百年生きた巫女の言葉じゃ。ありがたく聞け」


「はいはい」


「返事が軽い」


 湊一は笑い、ゆっくりと立ち上がった。


 木々の隙間から落ちた光が、井戸の上を白く漂っている。


 それが一瞬だけ、かつての湯場から立ち上る湯気に見えた。


 あの日と同じように、左近がいる。


 吉継がいる。


 妻がいて、子らがいる。


 民たちが飯を食べ、濡れた衣を乾かし、明日も生きようとしている。


 城は消えた。


 けれど、ここで生きた者たちの営みまで、消えたわけではなかった。


 湊一は、誰もいない佐和山へ向かって静かに告げた。


「ただいま、佐和山」


 蝉の声が、ふいに遠のいた。


 木々の間を抜けてきた風が、井戸の水面を揺らす。


 白那が隣でうなずいた。


「うむ。よう戻った」


 二人はしばらく、何も言わずに井戸のそばへ立っていた。


 やがて湊一は、石に置いていた手を離した。


「帰ろう、白那」


「せっかく来たのに、もう帰るのか」


「白峰の湯を空けたままにしている」


 白那が、からかうように目を細める。


「今度は、白峰がそなたの帰る場所か」


 湊一は山道を振り返った。


「白峰も、佐和山もだ」


「欲張りじゃな」


「帰る場所は、いくつあってもいいだろう」


「では、妾の団子を供える場所も二つじゃな」


「それとこれとは別だ」


「別ではない」


 白那が先に歩き出す。


 白い袖が木漏れ日の中で揺れ、すぐに緑の向こうへ隠れた。


 湊一は、その小さな背中を追いかける。


「それにな」


「何じゃ」


「白峰は、俺が帰るだけの場所じゃない」


 白那が足を止め、振り返った。


 湊一は、木々の向こうに残る千貫井を見た。


「帰ってくる人を、迎える場所だ」


     ◇


 白峰へ戻った時には、すでに日が暮れていた。


 玄関の灯は、まだ消えていない。


 宿直の従業員が、湊一の姿に気づいた。


「お帰りなさい、若旦那」


 その言葉に、湊一は一瞬だけ足を止めた。


 四百年前。


 自分は、佐和山へ帰ることができなかった。


 それでも妻子は生き、家臣は生き、民は生きた。


 そして今、自分も帰ってきた。


「ただいま」


 湊一は答えた。


 そのまま湯場へ向かう。


 釜の火が少し弱くなっていた。


 湊一は腰をかがめ、薪を一本加えた。


 火の粉が小さく舞う。


 やがて炎が薪へ移り、釜の底を赤く照らした。


 白い湯気が、ゆっくりと立ち上っていく。


 敗れても、生きた。


 離れても、帰る道は途切れなかった。


 城はなくなった。


 けれど、帰る場所まで失われたわけではない。


 背後で、白峰さんの鈴が、静かに一度だけ鳴った。


 それはもう、誰かを呼ぶための音ではなかった。


 帰ってきた者を迎える音だった。


 湯は、まだ沸いている。


 誰かが帰ってくる、その時のために。


挿絵(By みてみん)

第五十四湯をお読みいただき、ありがとうございました。


これにて、白瀬湊一を主人公とした本編全五十四湯は完結です。


しかし、『佐和山若旦那録』には、もう一湯だけ残されています。


最後に残された一湯は、


挿話 十二湯「白峰さんの鈴」


湊一が白峰の若旦那として新たな一日を歩き始めた、その先。


四百年にわたって帰り道を守り、湊一を待ち続けた白那と、白峰さんの鈴の物語です。


本当の最終話となる挿話十二湯まで、どうぞお付き合いください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ