第五十四湯 湯は、まだ沸いている
いよいよ、第五十四湯。
『佐和山若旦那録』本編最終話です。
戦は終わり、城も失われました。
それでも、湯を沸かすこと。飯を振る舞うこと。誰かが帰れる道を残すことは、四百年後へ受け継がれていました。
石田三成として生きた湊一が、白峰の若旦那として迎える最初の一日。
まずは、本編の結末を見届けてください。
そして、この物語には、もう一湯だけ残されています。
夜が明けた。
四百年を越えて届いた文は、白峰さんの小祠へ納めてある。
妻も、子らも、生きた。
長男は、散り散りになった家族の足跡を十五年かけて書き残した。
その言葉を受け取った今、湊一に残されているのは、自分も生きることだった。
今日は、白峰の二代目として働き始める日である。
◇
湊一は着替えを済ませ、厨房へ入った。
まだ火の入っていない大鍋が並んでいる。
磨かれた調理台。
伏せられた椀。
窓の外からは、朝靄の中を流れる水の音が聞こえていた。
出勤してきた従業員が、湊一を見つけて頭を下げる。
「若旦那、おはようございます」
「おはようございます」
「今日からですね。まず、何から始めますか」
湊一は厨房を見回した。
鍋も、釜も、包丁も、佐和山にあったものとは違う。
それでも、ここですることは同じだった。
「まずは、湯を確かめましょう」
それから、並んだ鍋へ目を向ける。
「それが済んだら、食事の準備をお願いします。私も厨房に入ります」
大げさな就任の挨拶はしなかった。
浴場へ向かい、湯の温度を確かめる。
湯量を見る。
脱衣場の籠をそろえる。
厨房へ戻り、出汁の具合を確かめる。
客室を見て回り、廊下の隅に埃が残っていないか確かめる。
玄関前では、敷石の一つが、わずかに傾いていた。
湊一は、その場へしゃがみ込んだ。
「若旦那、その程度でしたら、あとでもよいのではありませんか」
年嵩の従業員が声をかける。
「雨が降ると滑りますから、今のうちに直しておきましょう」
「ですが、ほんのわずかですよ」
「わずかでも、夜になると見えません。ご年配のお客様やお子様が、足を取られるかもしれませんから」
湊一は石の高さを確かめた。
「せっかく帰ってきてくださったお客様が、玄関先で転ばれては申し訳ありません」
従業員は傾いた石を見直し、うなずいた。
「承知しました。すぐに直します」
「お願いします」
城を守るのではない。
誰かが安心して過ごし、無事に帰ることのできる場所を整える。
佐和山で続けてきたことと、何も変わらなかった。
◇
朝から降り始めた雨は、昼前になると強くなった。
軒先から落ちる雫が、石畳を濃く染めている。
帳場の電話が鳴った。
今日、宿泊する予定だった客からだった。
山側の道路が心配なので、宿泊を取りやめたいという。
電話を受けた従業員が、受話器を手で押さえた。
「若旦那、本日お泊まり予定のお客様から、キャンセルのご相談です。料金はどうしましょう」
「道路の状況はどうですか」
「大雨の注意情報が出ています」
「それでしたら、今回はキャンセル料をいただかないようにしましょう」
従業員が驚いた顔をした。
「ですが、料理の仕込みは、もう始まっています」
「仕込んだものは無駄にしないよう、別の料理やまかないへ回せるか、厨房とも相談してください」
「初日からそれでは、今後も同じ対応を求められるかもしれません」
湊一は窓の外を見た。
雨に煙る道の向こうに、関ヶ原から逃れた兵たちの背中が見えた気がした。
佐和山を出た妻子。
城を捨てた民。
名を変え、道を変え、それでも生きようとした者たち。
「危険を感じた時に引き返すのは、逃げることではありません」
湊一は、従業員へ向き直った。
「宿は、無理をして来ていただく場所ではありません。無事に帰っていただくことの方が大切です」
従業員は少し黙り、やがて受話器へ戻った。
「承知いたしました。今回はキャンセル料をいただきません。どうか、お気をつけてお帰りください」
その言葉を聞き、湊一は小さくうなずいた。
逃げる者を責めるな。
生きて帰れ。
それは、戦場だけの言葉ではなかった。
◇
午後になっても、雨はやまなかった。
そんな中、一人の老客が白峰へやって来た。
傘は差していたが、肩も靴も濡れている。
「いらっしゃいませ」
湊一が迎えると、老客は傘を閉じ、しばらく玄関を見上げていた。
「ずいぶん、変わりましたな」
「以前も、お越しいただいたことがあるのですか」
「ええ。一度だけ」
老客は、懐かしそうに目を細めた。
「もう、四十年ほど前になります」
湊一は荷物を預かり、老客を館内へ招き入れた。
「その時も、お一人で?」
「いや。妻と二人でした。まだ、私も若かった」
湊一は、濡れた靴を受け取った。
乾いた布で水気を拭い、型崩れしないよう中へ紙を入れる。それから、風の通る乾燥棚へ並べた。
濡れた靴を見た瞬間、別の光景が脳裏に浮かんだ。
火のそばに並べられた草鞋。
黙ってそれを干していた、清正の大きな背中。
あの日も、雨だった。
「若旦那?」
「失礼しました。夕方までには乾くようにしておきます」
「ありがたい」
老客は雨の中を歩き、喉が渇いているようだった。
湊一は、大きめの茶碗にぬるめの茶を入れて出した。
老客は一杯目を、ほとんど休まずに飲み干した。
二杯目は少し量を減らし、一杯目より温かな茶を出す。
三杯目は小さな茶碗に、熱い茶を入れた。
老客は三杯目をゆっくり飲み、茶碗を置いた。
「三杯とも、温度が違いましたな」
「最初から熱ければ、喉が渇いていても飲めませんから」
「どなたかに教わったのですか」
湊一は少し考えた。
「いいえ」
そして、老客の顔を見て笑った。
「茶ではなく、飲む方を見ただけです」
老客は一瞬きょとんとし、それから声を上げて笑った。
「若いのに、ずいぶん年寄りじみたことを言う若旦那だ」
「よく言われます」
本当は、四百年ほど年を取って帰ってきたところだった。
◇
その夜。
夕食を終えた老客が、湊一を呼び止めた。
「若旦那。少し、よろしいですか」
「はい」
差し出されたのは、一枚の古い写真だった。
色の褪せた写真の中で、若い男女が白峰の玄関前に並んでいる。
男の方は、目の前の老客に間違いなかった。
「奥様ですか」
「ええ」
老客は、写真の中の妻を指でなぞった。
「もう、亡くなりました」
「そうでしたか」
「生きているうちに、もう一度ここへ来ようと話していたのですが、間に合わなかった」
老客は、写真を見つめたまま笑った。
「だから、一人でも来ておこうと思いましてな」
それから、ゆっくりと館内を見回した。
「建物は変わりました。玄関も、部屋も、昔とは違う」
湊一は黙って続きを待った。
老客は、浴場の方へ顔を向けた。
廊下の奥から、湯の匂いが漂ってくる。
「それでも、不思議ですな」
「何がです?」
「帰ってきた気がするんです」
老客は、かすかに笑った。
「ここに、まだ湯があったからでしょうな」
その言葉が、湊一の胸へ静かに落ちた。
城がなくなってもよかった。
同じ建物が残っていなくてもよかった。
帰ってきた者を迎える何かが、そこに残っていればいい。
湊一は老客へ、深く頭を下げた。
「お帰りなさいませ」
老客が目を見開く。
「白峰へ」
老客は、しばらく何も言わなかった。
やがて目元を指で拭い、笑った。
「はい。ただいま」
◇
客が皆、部屋へ戻ったあと。
湊一は、従業員のまかないを作った。
炊きたての飯。
具を多めに入れた汁。
少しの漬物。
豪華な膳ではない。
だが、鍋には全員がおかわりできるだけの量がある。
「若旦那。初日から、ご自分でまかないを作られたのですか」
「今日は初日ですから、皆さんにも食べていただきたかったんです」
「今度の若旦那は、人使いが荒そうですね」
年嵩の従業員が、冗談めかして言った。
「その分、食事だけはきちんと用意します」
「そこは期待してよさそうですね」
厨房に笑いが起きた。
湊一は人数分の椀へ汁を注いだ。
誰の椀にも、同じように湯気が立っている。
戦国での最後のまかないは、もう終わった。
これは、二代目として作る最初のまかないだった。
皆が食べ始めたのを見届けてから、湊一は小さな膳を一つ持って、白峰さんの小祠へ向かった。
膳の上には、飯と汁と漬物。
そして、団子が二つ。
白那は、すでに祠の前へ座って待っていた。
「遅いぞ」
「宿の仕事があったんだよ」
「妾より仕事を優先するとは、恩知らずな若旦那じゃ」
白那は膳をのぞき込み、眉をひそめた。
「二つだけか」
「初日だからな」
「妾は四百年待ったのじゃぞ」
「明日は三つにする」
「五つじゃ」
「増えすぎだろう」
「四百年分の利息をつければ、それでも足りぬ」
「神様が利息を取るな」
「妾は水の巫女じゃ。団子の勘定は別じゃ」
白那は団子を一つ手に取り、満足そうに頬張った。
その姿を見ているうちに、湊一も笑っていた。
◇
翌朝。
老客は、乾いた靴を履いて玄関に立った。
「よい湯でした」
「ありがとうございます」
「また、帰ってきてもよろしいですかな」
湊一は笑って頭を下げた。
「もちろんです」
「その時も、三杯の茶を?」
「お客様のお顔を見て決めます」
「それは楽しみだ」
老客は傘を開き、雨上がりの道を歩いていった。
客室を整えていた従業員が、一枚の紙を持ってきた。
「若旦那、お客様がアンケートを残されています」
「ありがとうございます」
湊一は紙を受け取った。
そこには、震える文字で一行だけ書かれていた。
――四十年ぶりに、帰ってくることができました。
湊一は、その文字を何度も読んだ。
記録を残すということ。
そこに誰かが生き、誰かが帰ってきたことを、未来へ伝えるということ。
長男も、こうして文字を書き続けたのだろう。
誰かが、いつか読んでくれると信じて。
湊一はアンケート用紙を丁寧に折り、帳場の引き出しへ納めた。
◇
それから、一月が過ぎた。
白峰の仕事が少し落ち着いた日、湊一は白那とともに佐和山を訪れた。
麓では夏の日差しが照りつけていたが、山道へ入ると空気が変わった。
頭上を覆う木々が光を遮り、苔をまとった石の間を、細い道が上へ続いている。
雨を吸った土の匂い。
重なり合う蝉の声。
時折、葉の先から落ちる雫が、下草を小さく揺らした。
「道は、ずいぶん変わったな」
「四百年じゃぞ。変わらぬ方がおかしい」
白那の白い袖が、道端の羊歯をかすめる。
目の前にあるのは、木の根が這う細い山道だった。
それでも湊一の足は、不思議と迷わなかった。
道が右へ曲がる手前では、身体が先に歩幅を緩めた。
この先には、石段があった。
そう思って目を上げる。
そこにあるのは、崩れた石と、それを抱くように伸びた木の根だけだった。
もう少し登ると、木々の切れ間から光が差し込んだ。
谷から吹き上げた風が、汗ばんだ頬を冷やしていく。
遠くには、陽を受けた町の屋根と、その向こうに淡く光る水面が見えた。
湊一は足を止めた。
目に映るのは、静かな夏の山だった。
けれど、身体の奥に残る三成の記憶は、別の佐和山を見ていた。
今は木立しかない場所に、左近が腕を組んで立っている。
太い声で兵を叱りながら、その目だけは城下の者を案じていた。
風に揺れる木漏れ日の中へ、吉継の白頭巾が浮かんだ。
白い湯気の向こうで、友が何も言わずに笑っている。
湿った土の匂いに、濡れた草鞋の匂いが重なった。
火のそばへ腰を下ろした清正が、無言で草鞋を裏返している。
木々のざわめきに、椀の触れ合う音が混じる。
飯をよそう妻の声。
湯場を駆け回る子らの足音。
鈴を結ぼうと、懸命に背伸びする小さき湯番。
振り返っても、そこには誰もいなかった。
緑に覆われた山道が、静かに続いているだけだった。
「湊一?」
白那に呼ばれ、湊一は目を瞬いた。
「いや……皆の声がした気がした」
「気のせいではないかもしれぬぞ」
白那は木々の奥へ目を向けた。
「山は、人より長く覚えておる」
二人は、さらに奥へ進んだ。
やがて木立の中に、苔むした石組みが見えてきた。
千貫井だった。
井戸の周りには羊歯が茂り、古い石の隙間から、小さな草が顔を出している。
陽の光はほとんど届かず、そこだけ夏から切り離されたように涼しかった。
井戸の底には、丸く切り取られた空が映っている。
枝が揺れるたび、水面の青も静かに揺れた。
湊一は井戸のそばへ膝をつき、古い石へ手を置いた。
苔の湿り気。
指先へ染み込む冷たさ。
四百年前にも触れたはずの感触が、腕を伝って胸の奥まで戻ってきた。
井戸の底で、水滴が一つ落ちた。
波紋が広がり、映っていた空をゆっくり崩していく。
その中心から、泡が三つ、間を置いて浮かび上がった。
湊一が目を凝らす。
井戸端の苔の上に、いつの間にか小さな濡れた手形が残っていた。
人のものより小さく、指と指の間には、薄い水かきの跡がある。
「……河童か」
「うむ」
白那が、懐かしそうに目を細めた。
「そなたの妻子が佐和山を逃れた夜、この者たちも力を貸してくれた」
湊一は白那を見た。
「河童たちが?」
「井戸から水路を走り、追手の足を止めた。泥を濁らせて足跡を消し、子らが通り終えるまで逃げ道を守ってくれたのじゃ」
白那は、小さな手形へ目を落とした。
「妾一人では、皆を無事に城外まで逃がすことはできなんだ」
「……知らなかった」
「文にも記録にも、名の残らぬ者たちじゃ」
「名を残すために、助けたんじゃないということか」
「そういう者たちじゃよ」
湊一は井戸の縁へ両手を置き、姿の見えない水の民へ深く頭を下げた。
白峰の若旦那としてではない。
妻子を託した、石田三成として。
「水の民の皆様」
「あの夜、妻と子らの命をお救いくださり、誠にありがとうございました」
井戸の奥へ届くように、一言ずつ噛みしめて告げる。
「皆様が逃げ道を守ってくださったからこそ、家族は生き延びることができました」
「四百年も遅くなりましたが――石田三成として、心より御礼申し上げます」
返事はない。
ただ、井戸の底から新しい泡が一つ浮かび、水面で静かに弾けた。
丸い波紋が、湊一の置いた両手の下まで届く。
「届いたようじゃな」
白那が、穏やかに言った。
湊一は頭を上げず、もう一度だけ、深く礼をした。
やがて顔を上げ、井戸の水を見つめる。
「まだ、流れているんだな」
「水は、道を覚えておる」
白那も井戸の縁へ手を置いた。
白い指先の下で、苔に溜まった雫が震える。
「塞がれても、埋められても、わずかな隙間を見つけて流れる。人も同じじゃ」
「白那が言うと、説教くさいな」
「四百年生きた巫女の言葉じゃ。ありがたく聞け」
「はいはい」
「返事が軽い」
湊一は笑い、ゆっくりと立ち上がった。
木々の隙間から落ちた光が、井戸の上を白く漂っている。
それが一瞬だけ、かつての湯場から立ち上る湯気に見えた。
あの日と同じように、左近がいる。
吉継がいる。
妻がいて、子らがいる。
民たちが飯を食べ、濡れた衣を乾かし、明日も生きようとしている。
城は消えた。
けれど、ここで生きた者たちの営みまで、消えたわけではなかった。
湊一は、誰もいない佐和山へ向かって静かに告げた。
「ただいま、佐和山」
蝉の声が、ふいに遠のいた。
木々の間を抜けてきた風が、井戸の水面を揺らす。
白那が隣でうなずいた。
「うむ。よう戻った」
二人はしばらく、何も言わずに井戸のそばへ立っていた。
やがて湊一は、石に置いていた手を離した。
「帰ろう、白那」
「せっかく来たのに、もう帰るのか」
「白峰の湯を空けたままにしている」
白那が、からかうように目を細める。
「今度は、白峰がそなたの帰る場所か」
湊一は山道を振り返った。
「白峰も、佐和山もだ」
「欲張りじゃな」
「帰る場所は、いくつあってもいいだろう」
「では、妾の団子を供える場所も二つじゃな」
「それとこれとは別だ」
「別ではない」
白那が先に歩き出す。
白い袖が木漏れ日の中で揺れ、すぐに緑の向こうへ隠れた。
湊一は、その小さな背中を追いかける。
「それにな」
「何じゃ」
「白峰は、俺が帰るだけの場所じゃない」
白那が足を止め、振り返った。
湊一は、木々の向こうに残る千貫井を見た。
「帰ってくる人を、迎える場所だ」
◇
白峰へ戻った時には、すでに日が暮れていた。
玄関の灯は、まだ消えていない。
宿直の従業員が、湊一の姿に気づいた。
「お帰りなさい、若旦那」
その言葉に、湊一は一瞬だけ足を止めた。
四百年前。
自分は、佐和山へ帰ることができなかった。
それでも妻子は生き、家臣は生き、民は生きた。
そして今、自分も帰ってきた。
「ただいま」
湊一は答えた。
そのまま湯場へ向かう。
釜の火が少し弱くなっていた。
湊一は腰をかがめ、薪を一本加えた。
火の粉が小さく舞う。
やがて炎が薪へ移り、釜の底を赤く照らした。
白い湯気が、ゆっくりと立ち上っていく。
敗れても、生きた。
離れても、帰る道は途切れなかった。
城はなくなった。
けれど、帰る場所まで失われたわけではない。
背後で、白峰さんの鈴が、静かに一度だけ鳴った。
それはもう、誰かを呼ぶための音ではなかった。
帰ってきた者を迎える音だった。
湯は、まだ沸いている。
誰かが帰ってくる、その時のために。
第五十四湯をお読みいただき、ありがとうございました。
これにて、白瀬湊一を主人公とした本編全五十四湯は完結です。
しかし、『佐和山若旦那録』には、もう一湯だけ残されています。
最後に残された一湯は、
挿話 十二湯「白峰さんの鈴」
湊一が白峰の若旦那として新たな一日を歩き始めた、その先。
四百年にわたって帰り道を守り、湊一を待ち続けた白那と、白峰さんの鈴の物語です。
本当の最終話となる挿話十二湯まで、どうぞお付き合いください。




