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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
最終章(第六章)「湯は、まだ沸いている」

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第五十三湯 白峰さんの鈴が鳴る

佐和山は、城ではなくなりました。


石も、木も、人も去りました。


それでも、水だけは道を忘れず、ひとつの鈴と、届かなかった言葉を守り続けます。


四百年余りを越えて、若旦那が帰る場所へ届くまで。

挿絵(By みてみん)


一 若旦那、と呼ぶ声


 水の音がしていた。


 一滴。


 また一滴。


 深い井戸の底へ、水が落ちてゆく。


 湊一は暗闇の中で、その音を聞いていた。


 最後に見たのは、京の空だった。


 六条河原を渡る風。


 遠くに並ぶ人影。


 そして、振り下ろされる刃の白い光。


 石田三成の生は、そこで終わった。


 もう目を開けることはない。


 そう思っていた。


「――若旦那!」


 誰かが呼んでいる。


「若旦那、しっかりしてください!」


 身体を揺すられた。


 湊一は、ゆっくりと目を開けた。


 見慣れた天井があった。


 古い梁。


 染みの残る白い壁。


 鼻をくすぐる、畳と湯の匂い。


 湯宿、白峰。


 湊一が生まれ育った場所だった。


「よかった……。急に倒れるから、どうしようかと」


 白峰の従業員が、泣きそうな顔で自分をのぞき込んでいる。


 湊一は何も答えられなかった。


 震える手で、自分の首に触れる。


 傷はない。


 血もついていない。


 けれど、刃が落ちてきた瞬間の冷たさを、身体は覚えていた。


「俺は……」


 声がうまく出なかった。


「どうして、ここに……」


「どうしてって、ここは白峰ですよ。若旦那の宿でしょう」


 ――若旦那。


 その呼び名が、ひどく懐かしかった。


 同時に、胸の奥が痛んだ。


 佐和山でも、そう呼ぶ者たちがいた。


 湯場で。


 井戸端で。


 湯気の向こうから、何度も呼ばれた。


 左近がいた。


 吉継がいた。


 妻がいた。


 子らがいた。


 小さき湯番がいた。


 そして、白那がいた。


 皆の顔が、ひとつずつ浮かんでは消えていった。


「あれは……夢だったのか」


 呟いてみたが、自分の言葉を自分で信じることはできなかった。


 夢の中で、あれほど人を愛せるものか。


 夢の中で、あれほど帰りたいと願えるものか。


 湊一の目から、ひと筋の涙が流れた。


 従業員が困ったように膝をついた。


「若旦那、本当に大丈夫ですか。どこか痛むんですか」


「いや……」


 湊一は袖で目元を拭った。


「大丈夫だ」


 生きている。


 心臓が動いている。


 呼吸ができる。


 それなのに、自分だけが帰ってきたという事実が、胸を締めつけた。


 そのとき、廊下の向こうから別の従業員が駆けてきた。


「若旦那、大変です」


「今度は何だ」


「浴場のお湯が止まりました。貯湯槽に水が入ってきません」


 湊一は顔を上げた。


「水が?」


「業者へ連絡していますが、到着まで時間がかかるそうです。今日はお客様もいらっしゃいますし、このままでは――」


「機械には触るな」


 自分でも驚くほど、すぐに言葉が出た。


「まず、水がどこまで来ているか確かめる」


 湊一は立ち上がった。


 まだ足元がふらついていた。


 それでも、横になっていることはできなかった。


 湯が止まっている。


 誰かが、湯の沸くのを待っている。


 それだけで、身体が動いた。


二 白峰の湯が止まる


 源泉から貯湯槽へ続く管を、上流から順に確かめていく。


 機械は動いている。


 だが、水の流れが弱い。


「ここじゃない。もっと手前だ」


「分かるんですか?」


「水の音が違う」


 答えてから、湊一は自分の言葉に立ち止まりそうになった。


 佐和山で、何度も水の音を聞いた。


 井戸の底へ耳を澄ませた。


 濁った水路へ手を入れた。


 水がどこで止まり、どちらへ流れたがっているのか、白那や城下の者たちと探し続けた。


 あの日々が、今も自分の中に残っている。


 湊一は取水口まで戻った。


 降り積もった枝葉と泥が、金網へ絡みついていた。


 さらに、その奥にある古い弁が、振動で半ば閉じている。


「これだ」


 枝葉を取り除き、弁をゆっくり開く。


 管の奥で、低い音がした。


 やがて、止まっていた水が一気に流れ始める。


 ごう、と管全体が震えた。


「来た……!」


 従業員が声を上げた。


 湊一は管へ手を当てたまま、その振動を感じていた。


 水が戻ってきた。


 帰る道を見つけた水が、白峰の中へ流れ込んでいく。


 浴場の方から、歓声が聞こえた。


 廊下で待っていた幼い女の子が、母親の手を引いて駆けてくる。


「お兄ちゃん、お風呂、もう沸く?」


 湊一は少女を見つめた。


 小さな手。


 不安そうに見上げる目。


 その姿が、湯場で柄杓を抱えていた小さき湯番と重なった。


 湊一は、その場へ膝をついた。


「ああ」


 声が震えないよう、ゆっくり答えた。


「もう大丈夫だ。すぐに沸くよ」


「ほんと?」


「約束する」


 少女は安心したように笑い、母親とともに浴場へ戻っていった。


 その背を見送りながら、湊一は胸元を押さえた。


 ――父上。お湯は、もう沸きましたか。


 どこかで、あの子の声がしたような気がした。


三 水を渡る鈴


 夕刻。


 白峰の湯が再び沸き始めた頃、湊一は一人、貯湯槽へ戻っていた。


 管へ手を当てる。


 先ほどまで途絶えていた水が、低い音を立てて流れている。


 浴場からは、湯桶の音と客の笑い声が聞こえていた。


 いつもの白峰の音だった。


「もう、大丈夫だな」


 管から手を離そうとした、そのときだった。


 水の流れる音に混じって、かすかな音がした。


 りん。


 湊一は手を止めた。


 金属の管が鳴ったのではない。


 もっと小さく、澄んだ音。


 深い水の底で、誰かが鈴を振ったような音だった。


「今のは……」


 近くを通りかかった従業員が、足を止める。


「どうかしましたか」


「鈴の音がしなかったか」


「鈴、ですか?」


 従業員は耳を澄ませたが、首を横に振った。


「いえ。水の音しか聞こえませんけど」


「……そうか」


 従業員が立ち去ったあと、湊一はもう一度、管へ手を当てた。


 目を閉じる。


 管を流れる水の震えが、掌から腕へ伝わってくる。


 水は、裏山の方から白峰へ流れ込んでいる。


 その流れの、さらに上。


 使われなくなった古井戸の脇に、小さな祠がある。


 幼い頃から、白峰の者たちが「白峰さん」と呼んできた場所だった。


 りん。


 今度は、はっきりと聞こえた。


 音は山から届いたのではない。


 水を渡って、湊一の掌まで届いた。


 佐和山の井戸で、何度も聞いた鈴と同じ音だった。


「白那……?」


 水の流れが、一度だけ強く脈打った。


 答えるように。


 湊一は玄関へ回り、置かれていた下駄をつっかけた。


 そして、水の来る方へ――裏山の古井戸へ向かった。


四 古井戸と小祠


 苔むした石段を上る。


 一段。


 また一段。


 夕闇が深くなるにつれ、宿の物音が遠ざかっていく。


 やがて、木々の間に小さな祠が見えた。


 白峰の者たちから「白峰さん」と呼ばれている、名もない古い祠。


 その脇には、石で囲まれた古井戸がある。


 佐和山の井戸と、同じではない。


 石の形も、井戸の深さも違う。


 佐和山と白峰が、同じ場所であるはずもなかった。


 それでも湊一は、井戸の前から動けなくなった。


 井戸の縁に置かれた丸い石。


 水へ向かって垂らされた古い白布。


 帰る者を導くように、小祠へ結ばれた鈴。


 そこに込められた願いだけは、佐和山と同じだった。


 ――水を絶やさぬこと。


 ――帰る者の道を、塞がぬこと。


 湊一は古井戸をのぞき込んだ。


 暮れかけた空が、水面に映っている。


 水が、ひとりでに揺れた。


 波紋の中に白い影が浮かび、懐かしい声が聞こえた。


「遅かったのう、若旦那」


 湊一は、ゆっくり振り返った。


 小祠の前に、幼い少女が立っていた。


 五つか、六つほどにしか見えない。


 白い衣の袖は小さな手をすっかり隠し、裾は地面へ長く余っている。白い髪も背丈には不釣り合いなほど長く、足元まで流れ落ちていた。


 けれど、水の光を宿した瞳と、少し偉そうに顎を上げる仕草を、湊一が見間違えるはずはなかった。


「……白那」


「うむ。妾じゃ」


「お前、その姿……」


 佐和山でも、白那は水の力を使いすぎるたび、幼い姿へ変わっていた。


 だが、これほど小さくなった姿を見るのは初めてだった。


 白那は余った袖を持ち上げ、小さな胸を張った。


「佐和山から、ここの水まで渡ってきたのでな。少々、力を使いすぎた」


「佐和山から……?」


「うむ」


「四百年余りの時を越えてきたのか」


「水にとって、四百年余りなど長くはない」


 そう答えた白那の声に、わずかな疲れが混じった。


「されど、時を渡り、届けるものまで抱えてくるとなれば、さすがの妾にも少々骨が折れた」


「少々どころじゃないだろ。その身体……元へ戻るのか」


「この地の水が妾になじめば、いずれ戻る」


 白那は、わずかに頬を膨らませた。


「そなたと違って、妾はそう簡単には消えぬ」


 懐かしい言い方だった。


 湊一は笑おうとした。


 けれど、笑うより先に涙がこぼれた。


五 四百年余りの再会


 湊一は白那の前へ膝をついた。


 これでようやく、目の高さが近くなる。


 手を伸ばしかける。


 けれど、指先が止まった。


 触れてしまえば、白那が水へ溶けて消えてしまうような気がした。


「本当に……白那なのか」


 白那が、少しだけ目を細めた。


「そなたにとっては、二月にも満たぬ別れであろう」


 白那が一歩近づいた。


「されど、妾にとっては――」


 小さな拳で、湊一の胸を軽く叩く。


 一度。


「四百年余りじゃ」


 もう一度。


「遅い」


 三度目の拳は、湊一の胸へ届かなかった。


 白那はそのまま額を押しつけ、小さな手で湊一の服を握った。


「遅すぎるぞ、若旦那」


 声が、かすかに震えていた。


「妾は……待ちくたびれた」


 湊一は、何も言えなかった。


 白那が泣いているのかは分からない。


 顔は見えない。


 けれど、服を握る小さな指が震えていた。


 湊一は、恐る恐る、その白い髪へ手を置いた。


 冷たい。


 それでも確かに、白那はそこにいた。


「……すまなかった」


「何を謝る」


「お前を残して、俺だけが死んだ」


「そなたは、妾を残したのではない」


 白那は顔を上げた。


「妾に、帰る者たちを託したのじゃ」


 その言葉を聞いた瞬間、湊一の胸へ、ずっと尋ねることのできなかった問いが込み上げた。


「妻は」


「生きた」


 白那は、すぐに答えた。


「子供たちは」


「生きた」


「皆……か」


「うむ。皆じゃ」


「小さき湯番も?」


 白那の目元が、柔らかくなる。


「あの子も生きた。北へ向かい、そこで大きゅうなった」


「大きく……」


「いつまでも小さき湯番ではない」


 白那は微笑んだ。


「されど、湯の火を絶やさぬことだけは、最後まで忘れなんだ」


 湊一の口元が震えた。


「長男は」


「生きた。十五年もの間、父と家族のことを書き続けた」


「次男は」


「生きた。石田の名を隠し、杉山源吾として北の津軽に家を残した」


「三男は」


「生きた。父に代わり、母と弟妹を守ろうとした」


「城下の者たちは」


 白那は、そこで初めて答えるまでに間を置いた。


「皆とは申せぬ」


 湊一は目を伏せた。


「そうか……」


「されど、多くの者が、そなたの残した道を歩いた。水を飲み、傷を洗い、腹を満たして、佐和山を下りた」


「帰れたのか」


「帰った者もおる。帰る場所を失い、新たに作った者もおる」


「そうか」


 声が掠れた。


「皆、生きようとしてくれたのか」


「うむ」


 白那は、一つひとつ確かめるようにうなずいた。


「皆、生きたぞ」


「本当に……?」


「妾は、そなたに嘘を申すため、四百年余りの時を渡ってきたのではない」


 それを聞いた途端、湊一の身体から力が抜けた。


 両手を地面へつく。


「よかった……」


 涙が、乾いた土へ落ちた。


「よかった……」


 何度言っても足りなかった。


 捕らえられてからも。


 京へ引かれる道でも。


 処刑場で空を見上げたときも。


 湊一が知りたかったのは、ただそれだけだった。


 妻は生きたのか。


 子らは逃げられたのか。


 小さき湯番は、もう一度笑えたのか。


「俺は……何も守れなかったと思っていた」


「城は守れなんだ」


 白那は、慰めるための嘘をつかなかった。


「戦にも敗れた。多くの命も失うた」


「ああ……」


「されど、そなたが守ろうとした者たちの明日まで、失われたわけではない」


 白那の小さな手が、湊一の髪をそっと撫でる。


「そなたは、敗れたあとにも道を残した」


「俺が救ったわけじゃない」


「うむ。あの者たちが、自らの足で歩いた」


 白那は、かすかに笑った。


「じゃが、歩く道が残っておらねば、帰ることもできなんだ」


 湊一は、土へ落ちた涙を見つめた。


 勝てなかった。


 城も失った。


 自分も死んだ。


 それでも、すべてが終わったわけではなかった。


 自分が残した細い道の先で、妻子は生きた。


 佐和山の者たちも、それぞれの暮らしを作った。


 湯を沸かし、飯を炊き、誰かの帰りを待った。


「白那」


「なんじゃ」


「四百年余りも、ひとりで待っていたのか」


 白那は首を横へ振った。


「妾だけではない」


 小祠の奥へ目を向ける。


「そなたへ届かなんだ言葉も、ずっと待っておった」


「言葉……?」


「うむ」


 白那は幼い顔で、静かに微笑んだ。


「今度こそ、そなたへ届けるためにな」


六 三通の文と、長男の記録


 小祠の鈴が、ひとつ鳴った。


 その音が消えたあとも、湊一はしばらく動けなかった。


 泣いたせいで、目の奥が熱い。


 目の前には、四百年余りの時を越えてきた白那がいる。


 白那は何も言わず、湊一の顔を見つめていた。


 やがて小さく息を吐くと、小祠へ顔を向けた。


「まだ一つ、そなたに渡すものがある」


「俺に?」


「そなたに、というよりは――石田三成に、じゃな」


 白那が小祠の奥へ手を差し入れる。


 取り出したのは、黒い漆塗りの文箱だった。


 角は擦れ、金具も黒ずんでいる。


 それでも、湊一には分かった。


 見覚えがあるわけではない。


 それなのに、なぜか分かった。


「これ……佐和山の」


「うむ」


 白那は、幼子を抱き上げるように文箱を両腕で支え、湊一へ差し出した。


 小さな腕から、湊一の両手へ。


 四百年余りの時が、渡される。


 掌に受けた文箱は、見た目よりも重かった。


 紙と木だけの重さではないように思えた。


「長きこと、水のそばにあった。じゃが、中の文は濡れておらぬ」


「白那が守ったのか」


「妾だけではない」


 白那は、古井戸へ目を向けた。


「この箱を残した者。井戸を守った者。祠を動かさずにおいた者。名も残らぬ者たちが、少しずつ手を貸した」


 井伊の赤備えが佐和山へ入ったあとも。


 城の石や木が、彦根へ運ばれたあとも。


 城が城でなくなったあとも。


 誰かが井戸を守った。


 誰かが祠の前へ手を合わせた。


 名も残らなかった小さな手が、四百年余りの時をつないだ。


 湊一は膝をつき、文箱を大切に膝の上へ置いた。


 留め金へ指をかける。


 開けるのが怖かった。


 この中にあるのは、とうに死んだ者たちの言葉だ。


 自分が救えなかったかもしれない者たちの、その後だ。


「開けぬのか」


「……怖いんだよ」


「妾も怖かった」


 白那が、湊一の隣へ座った。


「じゃが、皆、生きた。そなたが残した道を使ってな」


 湊一は一度だけ深く息を吸い、留め金を外した。


 蓋が、かすかな音を立てて開く。


 中には、一冊の記録と、薄紙に包まれた三通の文が納められていた。


 長男が、十五年をかけて書き残した記録。


 三男からの文。


 小さき湯番からの文。


 そして、妻からの文。


 湊一は、まず記録を手に取った。


 古い紙の匂いがした。


 表紙を開く。


 最初の一行には、こう記されていた。


 ――父は、戦に敗れた。されど、われらは生きた。


 湊一は、ゆっくりと文字を追った。


 関ヶ原のあと、家族がどこへ逃れ、誰に助けられ、どのように生き延びたのか。


 長男は、自分が見ていないことを、見たようには書いていなかった。


 三男から届いた文。


 母や弟妹が残した言葉。


 大坂へ向かう前に、自分の目で見た父の姿。


 それらを一つずつ集め、十五年という歳月をかけて記録していた。


 父を英雄にするためではない。


 敗れた戦を美しく飾るためでもない。


 ただ、あの日、誰が誰を逃がし、誰がどの道を選び、どの命が残ったのか。


 生きた者たちの足跡を、消さぬために。


 頁をめくる湊一の指が止まった。


 そこには、長男の文字で記されていた。


 ――父上の残された道により、皆、生き延び申した。


「……よく書いてくれたな」


 湊一の声が震えた。


「お前が残してくれたから、俺は今、ここで読めている」


 長男も生きた。


 次男も、石田の名を胸の奥へ隠し、北の津軽で生きた。


 三男は佐和山へ戻り、井戸と祠へ父の記録を託した。


 娘たちも、それぞれの場所で命をつないだ。


 皆、同じ場所へは帰れなかった。


 同じ名を名乗ることさえ、かなわなかった。


 それでも、生きた。


 湊一は記録を閉じ、三通の文へ手を伸ばした。


 最初の文は、力強く、真っすぐな筆跡だった。


『父上。


 母上と皆は、私が守ります』


 それだけの、短い文だった。


 湊一は何度も読み返した。


「守ります」の文字が、次第に滲んで見えた。


 本来なら、父が子へ言うべき言葉だった。


 お前たちは、私が守る。


 何があっても生きて帰れ。


 そう言ってやるべきだった。


 それなのに息子は、自分より幼い弟妹と母を背負い、父へ向かって「守ります」と書いた。


「……すまない」


 誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


「お前に、こんなことを言わせたかったわけじゃない」


 返事はなかった。


 ただ、古井戸の底で、水が一滴落ちた。


 湊一は文を胸元へ置き、二通目を開いた。


 文字の大きさは揃わず、墨の濃いところと薄いところがある。


 懸命に筆を握った小さな指が、目に浮かぶような字だった。


『父上へ。


 わたしたちは、みなおります。


 白那さまが、まもってくださいました。


 わたし、父上とまた湯番がしたいです』


 最後の「湯」の字だけが、ほかの文字よりも大きかった。


 湊一の中に、幼い声がよみがえる。


 薪を一本運んだだけで、得意そうに胸を張った顔。


 熱い柄杓を持とうとして、叱られた顔。


 湯気の向こうから、何度も自分を呼んだ声。


 ――父上。


 ――わたしも、湯番をいたします。


「また……」


 湊一は、その一文字を指でなぞった。


 城が落ちても。


 父が戻らなくても。


 もう一度会えると信じて、湯を沸かして待っていたのだ。


「約束したものな」


 声が震えた。


「また一緒に、湯番をしようって……約束したよな」


 文の上へ、ひと粒、雫が落ちた。


 墨は滲まなかった。


 四百年余り待った文字は、その程度の涙では消えなかった。


「待たせたな」


 もうひと粒、落ちた。


「こんなに長く……待たせてしまったな」


 白那は何も言わなかった。


 ただ、小祠の前で、湊一が泣くのを見守っていた。


 四百年余り待った文は、男がひとり、泣き終える時間くらい、急かしはしなかった。


「聞くのと、読むのとでは違うな」


「そうか」


「ああ。皆の声が聞こえる」


 湊一は二通の文をそっと置き、最後の一通へ手を伸ばした。


七 あなたも、生きてください


 最後の文だけは、ほかの二通よりも丁寧に折られていた。


 開く前から、誰が書いたものか分かった。


 端正で、静かな筆跡。


 大坂へ向かう朝も。


 佐和山を発つ朝も。


 何も尋ねず、自分を送り出した妻の字だった。


 湊一は、最初の一行を読んだ。


『私たちは、生きております』


 そこで、息が止まった。


 聞きたかった言葉だった。


 捕らえられた山中でも。


 京へ引かれる道でも。


 処刑場の空を見上げた、最後の瞬間にも。


 ただ、それだけを知りたかった。


 妻は生きた。


 子らも生きた。


 自分が残した道は、途切れていなかった。


 妻の文には、もう一行残っていた。


『あなたも、生きてください』


 古井戸から聞こえていた水音も、山の木々のざわめきも、遠くなった。


 その一文だけが、四百年余りの時を越え、胸の中へ真っすぐに入ってきた。


「……無理を言うなよ」


 湊一は、泣きながら笑った。


「俺は、もう死んだんだ」


「うむ」


「三成は、あの日、確かに死んだ」


「そうじゃな」


「この文は……間に合わなかった」


 白那は否定しなかった。


「もっと早く、読みたかった」


 湊一は妻の文字を見つめた。


「生きているうちに、読みたかったよ」


 処刑場では泣かなかった。


 家康の前でも、清正の前でも、首を垂れなかった。


 けれど今、妻が残したわずか二行の前で、湊一は子供のように泣いた。


「俺だって……」


 胸の奥へ押し込めていた言葉が、こぼれた。


「俺だって、生きたかった」


 妻子の無事を知りたかった。


 もう一度、佐和山へ帰りたかった。


 湯場の火を確かめ、小さき湯番に柄杓の持ち方を教え、妻と同じ膳を囲みたかった。


 左近に呆れられ、白那に叱られながら、明日の湯を沸かしたかった。


「帰りたかった……」


 その言葉を聞いた白那が、静かに首を振った。


「何を申す」


「……白那?」


「そなたは、帰っておったぞ」


 湊一の呼吸が止まった。


「あの日じゃ」


 白那は、古井戸の水面へ目を落とした。


「京で、そなたの命が絶えた、あの刻じゃ」


 佐和山を離れた妻子は、名もない山里の粗末な小屋へ身を寄せていた。


 畳もない。


 囲炉裏には、わずかな薪しか残っていなかった。


 それでも小さき湯番は、小さな鍋に湯を沸かしていた。


『薪がなくなってしまいます』


 母が言っても、少女は火の前から動かなかった。


『父上が帰ってきたとき、お湯がなかったら、寒いです』


 父がどこにいるのか。


 生きているのか。


 幼い娘には、誰も本当のことを言えなかった。


 少女は、鍋から立つ細い湯気を見つめながら、父の帰りを待っていた。


 やがて、京で三成が空を見上げた、その刻。


 鍋の湯が、ひとりでに揺れた。


 湯の底から、澄んだ鈴の音がした。


 りん。


 少女が立ち上がった。


『父上だ』


 閉じられた戸を見つめる。


『父上が、帰ってきました』


 小屋の戸は、開かなかった。


 外には誰の足音もない。


 それでも鍋から立つ湯気が、誰も座っていない場所へ、ゆっくりと流れていった。


 妻は、何もないその場所を見つめた。


 そして、余っていた椀をひとつ、そっと置いた。


『お帰りなさいませ』


 涙を見せず、いつものように頭を下げた。


『随分と、お待ちいたしました』


 小さき湯番も、母の隣へ椀を置いた。


『父上。お湯は、まだ沸いております』


 白那は、そのすべてを見ていた。


「姿は見えなんだ。声も聞こえなんだ」


 古井戸の水面に、小さな波紋が広がる。


「されど、あのときの湯は、確かに一人分だけ温うなった」


 湊一の手から、妻の文が滑り落ちそうになった。


 白那が、その手を支える。


「帰る場所を残した者が、帰れぬはずがなかろう」


「俺は……」


「そなたは帰った。城へではない」


 白那は微笑んだ。


「そなたを待っていた者たちのもとへじゃ」


 湊一は、妻の文を胸へ抱いた。


 四百年余り前。


 妻は、誰もいない場所へ向かって「お帰りなさい」と言ってくれた。


 娘は、父のために湯を沸かしてくれた。


 ならば今度は、自分が答える番だった。


「……ただいま」


 四百年余り遅れの返事だった。


「今、帰ったよ」


 その言葉に応えるように、小祠の鈴が鳴った。


 澄んだ音が山の中へ広がり、古井戸の底へ落ちていく。


 まるで湊一の返事を、遠い佐和山へ届けるように。


「届いたぞ」


 白那が微笑んだ。


「今度は、そなたの返事がな」


 湊一は、もう一度、妻の文を胸へ抱いた。


「……ああ」


 かすれた声で答える。


「俺も、生きている」


 胸に抱いた文へ、もう一度語りかけた。


「遅くなったが――全部、届いたぞ」


 白那は何も言わなかった。


 顔を横へ向け、しきりに鼻をすすっている。


「白那も泣いてるのか」


「泣いておらぬ」


「でも」


「井戸の雫じゃ」


「目から井戸の雫が出るのか」


「水の巫女じゃぞ。どこから水が出ようと、妾の勝手じゃ」


 湊一は、涙の残る顔で笑った。


 白那も、少しだけ笑った。


「まったく。四百年余りも待たせおって。鈍い男じゃ」


「悪かった」


「詫びるなら、団子で詫びよ」


「分かったよ」


「四百年余り分じゃぞ」


「それは無理だ」


「ならば、小さき湯番と半分こした、あの団子を腹いっぱいじゃ」


「ああ。それなら、いくらでも作るよ」


 湊一は三通の文を包み直し、長男の記録とともに文箱へ戻した。


 留め金を閉じる。


 もうこれは、父へ届かなかった文ではない。


 すべて、届いた。


八 今度は、俺が待つ番


 木々の間から見下ろす白峰には、ひとつ、またひとつと灯りがともっていた。


 浴場の方から、白い湯気が夜空へ昇っている。


「行け」


 白那が言った。


「白那……」


「そなたが沸かした湯を、待っておる者がおろう」


 湊一は文箱を胸へ抱いた。


 まだ、聞きたいことは幾つもあった。


 四百年余りの間、白那がどこで何を見てきたのか。


 妻や子らが、どのように年を重ねたのか。


 小さき湯番は、どのような大人になったのか。


 けれど、それをすべて尋ねてしまえば、別れの時が来るような気がした。


「また、会えるか」


 白那は答える代わりに、古井戸へ目を向けた。


「水は、帰る道を忘れぬ」


 初めて会った頃と同じように、少しだけ得意そうに言った。


「そなたが水を絶やさぬ限り、道は消えぬ」


 湊一は、うなずいた。


「白那」


「なんじゃ」


「待っていてくれて、ありがとう」


 白那は、しばらく湊一を見つめていた。


 やがて、幼い顔に穏やかな笑みを浮かべる。


「次は、妾を待たせるでないぞ」


「ああ」


 湊一も笑った。


「約束する」


 井戸の水面が揺れた。


 白那の小さな身体が、足元から淡い水の光へ変わっていく。


「生きよ、若旦那」


 白那の姿が消えていく。


「そなたには、まだ沸かす湯があろう」


 声だけが、古井戸の水へ残った。


 小祠の前には、もう誰もいなかった。


 井戸の水面に、小さな波紋だけが広がっている。


 湊一は、白那が立っていた場所へ深く頭を下げた。


 それから文箱を抱え、白峰へ続く石段を下り始めた。


 一段。


 また一段。


 胸元の文箱が、歩くたびにかすかに揺れる。


 四百年余りを越えて届いた、妻と子らの言葉。


 その重みは、少しも苦しくなかった。


 むしろ、空いていた胸の中を、ひとつずつ満たしていくようだった。


 妻は生きた。


 子らも生きた。


 泣き、笑い、飯を炊き、湯を沸かして、与えられた生を最後まで歩いた。


 ならば、自分も歩かなければならない。


 やがて、白峰の玄関が見えてきた。


 暖かな灯りが、帰る者を迎えるように石段の先まで伸びている。


 湊一は足を止め、その灯りを見つめた。


 かつて自分は、帰る場所を残すために戦った。


 これからは、その場所で、帰ってくる誰かを迎える。


 湊一は文箱へ手を添えた。


「今度は、俺が待つ番だ」


 背後で、白峰さんの鈴が、もう一度鳴った。


 りん――。


湊一にとって、白那との別れは二月にも満たないものでした。


けれど白那にとっては、四百年余り。


文箱に納められていたのは、三男、小さき湯番、妻から父へ宛てた三通の文。そして、長男が十五年をかけて書き残した一冊の記録です。


三成には間に合わなかった妻の、


「あなたも、生きてください」


という言葉は、四百年余りを越え、白瀬湊一へ届きました。


なお、佐和山と白峰は地理的に同じ場所ではありません。本作では、水と鈴が二つの場所を結び、白那が文箱を運んだものとして描いています。


帰る場所を残すために戦った日々は終わり、今度は湊一が、帰ってくる誰かを待つ番です。


次回、最終第五十四湯。


『湯は、まだ沸いている』


帰る場所には、湯を沸かして待つ者がいます。


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