挿話十二湯 佐和山、廃城の朝
慶長十一年。
彦根城への移転に伴い、佐和山城が城でなくなる朝が訪れます。
建物は解かれ、石は運ばれ、堀は埋められていく。
城は壊せる。
けれど、人の記憶や、暮らしの中に残ったものまで壊すことはできるのでしょうか。
これは、佐和山に残るものと、四百年先へ旅立つものの物語です。
その翌朝。
佐和山は、槌の音で目を覚ました。
慶長十一年――関ヶ原から、六年。
戦の鬨ではない。
梁へ縄を掛ける声。
瓦を一枚ずつ下ろす音。
石と石の隙間へ、鉄の棒を差し込む音。
城を攻める音ではなかった。
城を、城でなくしていく音だった。
佐和山から、わずか十五町ほど西。
彦根山には新しい天守が立ち、井伊直継が移る日も近い。
西の丸からは、すでに焔硝櫓の火薬が運び出されていた。塩櫓の俵も、彦根へ送られている。
本丸の柱には行き先を示す札が下がり、使える梁や板は荷車へ積まれた。
石垣は外され、堀は埋められ、曲輪は削られていく。
佐和山城は焼かれなかった。
焼くよりも、さらに念入りに解かれていった。
夜明け前から働いていた若い井伊家臣が、荷車へ積まれていく石を見ながら呟いた。
「これほどの城を、なぜ捨てるのでしょう」
そばにいた普請頭が振り返った。
「捨てるのではない」
「では、なぜ彦根へ」
若い家臣は山の西を見た。
彦根山は、ここからでも見える。
新しい城を築くにしては、あまりにも近い。
「佐和山は東山道を押さえる要地。手を入れれば、まだ十分に使えます」
「使えるとも」
「ならば――」
「使えすぎるのだ」
普請頭は、佐和山の城下へ目を向けた。
「石田三成の城としてな」
城下から、数人の領民が水を運んできた。
井伊の普請人たちへ飲ませるためのものだった。
先頭にいる男は、かつて雨で傷んだ家を直してもらった老婆の息子だった。
男は古井戸の石組みを布で拭き、桶を伏せ、柄杓を決められた場所へ戻した。
水を汲む前には手を洗う。
汚れた桶は井戸へ入れない。
病人や年寄りには、沸かした水を使う。
六年を経ても、その手順は変わっていなかった。
若い家臣が尋ねた。
「誰に教わった作法だ」
「前の殿様です」
「石田殿か」
「俺たちは、殿様の名を唱えて水を汲んでいるわけではありません」
男は柄杓を伏せた。
「腹を壊さぬ水の使い方を、忘れずにいるだけです」
「では、いまだ石田殿を慕っているのか」
「さあ」
男は少し考えてから答えた。
「死んだ方を慕ったところで、腹は膨れません。けれど、前の殿様が死んだからといって、教わったことまで捨てる必要もありますまい」
その横で、男の幼い娘が白い布を新しいものへ取り替えた。
手つきは、父親と同じだった。
若い家臣は黙り込んだ。
普請頭が低い声で言った。
「分かったか」
「何がでしょう」
「我らが井戸を守れば、領民は申す。井伊様は、前の殿様と同じようにしてくださる、と」
普請頭は続けた。
「我らが民家から物を奪わず、避難路を残し、病人へ水を運べば、領民は申す。石田様のなされたことを、井伊様が引き継いでくださった、と」
「しかし、我らは石田方を破った側です」
「戦ではな」
普請頭は、解かれていく本丸を見上げた。
「だが領民の目には、井伊が石田を滅ぼしたのではなく、石田のあとを継いだように映っておる」
井伊が善く治めようとすればするほど、それは三成の治世の続きと受け取られた。
井伊の赤備えが佐和山にいるかぎり、領民の心の中で、前の城主は消えない。
「城は力で奪える。旗も替えられる。石も梁も、縄を掛ければ運べる」
普請頭は西を指した。
「されど、人の心には縄を掛けられぬ」
「だから彦根へ?」
「地の利だけではない。亡き直政様は、ここにいては井伊の世を始められぬとお考えになった」
若い家臣が古井戸へ目を向けた。
「前の領主への思いを断つために、佐和山を壊すのですか」
「城を壊せば、人の心まで消えるなどと思うほど、直政様は愚かではない」
普請頭は首を振った。
「ただ、井伊には井伊の城が要る。石田三成の軒を借りたままでは、いつまでも前の主のあとを継いだ家にしか見えぬ」
そのとき、石工の一人が古井戸の脇へ来た。
手にした帳面には、城内の建物や石垣の名が並んでいる。
「次は、こちらです」
役人が帳面を読み上げた。
「千貫井――」
白那たちが古井戸と呼んできた水の手は、普請帳にはそう記されていた。
「千貫とは、ずいぶん大きな名だな」
若い家臣が言った。
普請頭が答える。
「山城において、水は兵糧にも勝る。城に籠もる者すべてを生かす水ならば、千貫の値でも安かろう」
役人が筆を構えた。
「この井戸も埋めますか。佐和山を再び城として使わせぬためには、水の手を断つべきかと」
普請頭の目が鋭くなった。
「ならぬ」
「しかし――」
「亡き直政様の厳命を忘れたか」
普請頭は一言ずつ、確かめるように告げた。
「井戸へ馬を寄せるな」
「血のついた刃を洗うな」
「井戸と祠には、決して手を触れるな」
「この水は、帰る者のために残す――そう命じられた」
老婆の息子も言った。
「この井戸は、もう城だけのものではありません」
城が落ちたあとも、城下の者たちは、この水で生きてきた。
兵がいなくなっても、城主が替わっても、喉の渇く者はいた。
腹を壊す者も、熱を出す子もいた。
城は人を守らなくなった。
それでも、水は人を守り続けていた。
役人は帳面へ書き加えた。
千貫井――埋めず。
石工たちは井戸を避け、別の石へ印をつけ始めた。
だが、一人が井戸の脇に置かれた平たい石へ、運び出すための墨を引いた。
老婆の息子が、慌ててその腕をつかんだ。
「その石は、持っていかんでくれ」
「これも佐和山の石であろう」
「城の石ではない」
男は、低い踏み石を指した。
「母の足だ」
石工が怪訝な顔をする。
かつて三成は、腰の曲がった老婆が井戸の縁へ桶を持ち上げられずにいる姿を見た。
井戸そのものを低くすることはできない。
ならば、水を汲む者の足元を高くせよ。
そう命じて、据えさせた石だった。
老人だけではない。
背の低い子どもも、その石へ上がれば、自分の手で水を汲むことができた。
若い家臣が尋ねた。
「石田殿が置かせた石なのか」
「そう聞いております」
「ならば、これも石田殿の遺物ではないか」
「違います」
男は静かに首を振った。
「殿様の名も、家紋も彫ってありません。これはもう、ここで暮らす者の石です」
そのとき、男の娘が踏み石へ上がった。
小さな手で柄杓を取り、器に水を汲む。
そして、先ほどから働いていた若い家臣へ、両手で差し出した。
「どうぞ」
若い家臣は、しばらく器を見つめていた。
やがて両手で受け取り、頭を下げた。
「いただこう」
水は冷たかった。
井伊の家臣が、石田三成の置かせた踏み石の前で、石田三成の守った水を飲む。
それを見た普請頭は、踏み石につけられた墨を袖で拭った。
「残せ」
「彦根には、まだ石が要ります」
「高い石垣の石なら、ほかにもある」
普請頭は娘の足元を見た。
「この低い石は、ここにしかない」
井戸の水面に、小さな影が映っていた。
白い髪。
古びた衣。
幼い姿には似合わぬ、尊大な目。
白那は小祠のそばに座り、運び出されていく佐和山城を見ていた。
「まったく、あの男らしいのう」
誰にも聞こえぬほど小さな声だった。
「あれほど高い城を持ちながら、残したものは低い石か」
天守は消える。
大一大万大吉の旗も残らない。
城主の座敷も、湯殿も、皆で膳を囲んだ広間もなくなる。
それでも、弱い者をほんの一段だけ持ち上げる石が残る。
白那は、少しだけ笑った。
「若旦那らしいわ」
「誰と話しているの?」
声がした。
踏み石の上に立った娘が、白那を見ていた。
白那は眉を上げた。
「妾が見えるのか」
「うん」
「妙な童じゃ」
「あなたも童でしょう?」
「妾は童ではない」
白那はむっとしたが、すぐに視線を城へ戻した。
娘も、解かれていく佐和山城を見上げた。
「お城、なくなるの?」
「うむ」
「どこへ行くの?」
「梁は彦根へ。石も彦根へ。門や板は、寺へ運ばれるものもあろう」
「では、お城も彦根へお引っ越しするの?」
「違う」
白那は静かに答えた。
「城は移るのではない。解かれるのじゃ」
娘はしばらく考えた。
「では、ここのお殿様は、もう帰ってこられないの?」
白那の指が止まった。
小祠には、鈴が結ばれている。
いつか、帰る者が道を見失わぬように結んだ鈴。
戦が終われば、若旦那は帰ってくる。
湯を沸かし、飯を炊き、また皆で同じ膳を囲む。
白那は、そう信じて待っていた。
だが、その座敷はもうない。
湯殿も、膳を並べる広間も、今日を限りに消えていく。
湊一が帰るはずだった佐和山は、城でなくなる。
「帰ってこられないの?」
娘が、もう一度尋ねた。
白那は鈴を見つめた。
やがて、ゆっくりと首を振った。
「城がなくなったからとて、帰る場所までなくなるわけではない」
「どこへ帰るの?」
「待っておる者のところじゃ」
「誰が待っているの?」
白那は胸を張った。
「妾じゃ」
娘が笑った。
「なら、大丈夫だね」
「なぜじゃ」
「だって、帰る人は、お城を探すんじゃないのでしょう?」
娘は踏み石から下りた。
「待っている人を探すのでしょう?」
白那は答えなかった。
風が吹いた。
小祠の鈴が鳴る。
ちりん。
白那は目を閉じた。
帰る場所は、城だけではない。
あの男が、何度も口にしていた言葉だった。
城がなくなるなら、待つ場所を変えればよい。
帰る者が佐和山へ来られぬのなら、こちらから探しに行けばよい。
白那は小祠へ手を伸ばした。
古びた紐を解き、鈴を両手で包む。
「持っていくの?」
娘が尋ねた。
「うむ」
「ここで鳴らなくなるよ」
「この鈴は、ここで待つ役目を終えた」
「捨てるの?」
「たわけ」
白那は鈴を握りしめた。
「迎えにゆくのじゃ」
普請人たちが本丸最後の梁へ縄を掛けた。
掛け声とともに、梁がゆっくりと外される。
それまで城の陰にあった古井戸へ、朝日が差し込んだ。
白那は井戸の縁へ手を置いた。
冷たいはずの水の奥に、ほんのわずかな温もりがある。
佐和山のどの水脈とも違う。
遠く、遠く離れた場所で沸く、湯の温もり。
だが、それがどこなのか、白那にも分からない。
湊一が生きているのか。
三成とともに死んだのか。
あの日、水の道へ落ちたあと、どこへ流されたのか。
何一つ分からない。
井戸の石組みに、濡れた跡が浮かんだ。
三本の指。
その横にも、もう一つ。
水の底で、小さな泡が三つ弾けた。
白那は目を細めた。
「まだ道を閉じずにいてくれたか」
返事はない。
ただ、水面に小さな波紋が広がった。
「恩に着るぞ、水の民よ」
白那は鈴を水面へ近づけた。
「若旦那」
呼びかけても、返事はなかった。
「そなたがどこへ流されたのか、妾には分からぬ」
鈴を結んだ紐が、水へ触れる。
「生きておるとも、死んでおるとも、妾はまだ決めぬ」
水面が、かすかに白く光った。
「ゆえに――まずは、この鈴を聞け」
白那は指を離した。
鈴は井戸へ落ちた。
だが、水音はしなかった。
沈んでいく鈴の姿もない。
代わりに、井戸の底よりもはるかに深い場所から、
ちりん。
一度だけ、鈴が鳴った。
それは佐和山の山中を流れる音ではなかった。
昨日へ戻る音でもない。
まだ誰も知らない、四百年先へ向かう音だった。
白那は水面を見つめたまま、動かなかった。
鈴だけを、先に行かせた。
向こう側で誰かがその鈴に触れれば、閉じかけた水の道は、もう一度ひらく。
「先にゆけ」
白那は幼い顔で、不敵に笑った。
「妾は、待つことには慣れておる」
最後の梁を積んだ荷車が、彦根へ向かって山を下りていく。
その朝、佐和山は城であることを終えた。
石垣は崩され、堀は埋められた。
土塁は削られ、曲輪は草木の下へ沈んだ。
西の丸からは、焔硝櫓も塩櫓も消えた。
それでも、すべてを運び去ることはできなかった。
山の奥には、外しきれなかった石垣が残った。
削りきれなかった土塁が残った。
埋めたはずの堀の形が残った。
草木の下には、かつて人が立った曲輪が残った。
そして千貫井のそばには、名も家紋も刻まれていない、低い踏み石が残った。
のちの世、人々は言う。
佐和山城には、何も残らなかった、と。
けれど、土を掘れば石が現れた。
竹の根を払えば、忘れられた曲輪が姿を見せた。
雨が降れば、埋めた堀に水が集まった。
新たな遺構が見つかったのではない。
佐和山が、預かっていた記憶を、ひとつずつ返しているのだ。
石は、佐和山の土に残った。
水は、千貫井に残った。
ただ一つ、鈴だけが水の道を通り、四百年先へ向かった。
城は廃された。
けれど――帰り道までは、廃されなかった。
佐和山城は、慶長十一年(一六〇六年)、彦根城への移転に伴って廃城となりました。
建物や石垣の多くは彦根城や周辺の寺院へ移され、城跡は徹底して壊されたといわれています。その一方で、石垣の一部や土塁、堀、曲輪、そして城内の貴重な水源であった「千貫井」などは、今も佐和山に痕跡を残しています。
また、井伊氏が佐和山城を使い続ければ、領民には井伊氏が石田氏を継承したように映り、前領主・三成への思慕を断ち切れない。そのことも彦根移転の理由の一つになった、という説明があります。
本話では、それを単なる三成の記憶の排除ではなく、「石田三成の城を借りたままでは、井伊家独自の治世を始められない」という葛藤として描きました。
千貫井や西の丸の遺構は史実に基づきますが、老婆のために置かれた低い踏み石、直政の具体的な命令、白那が鈴を水の道へ送り出す場面は本作の創作です。
高い天守は消えても、弱い者を一段だけ持ち上げる石は残る。
そして鈴は、佐和山を離れました。
次回、第五十三湯「白峰さんの鈴が鳴る」。
四百年を渡った鈴は、どこで、誰に届くのでしょうか。




