第五十二湯 井伊の赤、佐和山の跡
関ヶ原から数か月。
敗れた石田三成の居城・佐和山へ、井伊直政の赤備えが入ります。
城主も旗も替わった城下で、直政が目にしたのは、戦の前に三成が整えていた「帰る場所」の痕跡でした。
漆塗りの文箱が、佐和山へ戻ったのは、関ヶ原から十五年後のことだった。
三男は夜明け前の山へ入り、荒れた井戸の傍らに残る小祠へ、それを納めた。
父へ届かなかった三通の文。
兄が十五年をかけて書き残した記録。
祠の奥には、まるで初めから何かを待っていたかのような、小さな空間が残されていた。
三男が文箱から手を離したとき、風もないのに鈴が鳴った。
祠の奥から一滴の水が落ちた。
だが、漆の蓋は濡れなかった。
佐和山城は、とうに廃城となっていた。
天守も、門も、石垣の多くも失われている。
それなのに、なぜ井戸と小祠だけは残っていたのか。
その理由を知るには、時をおよそ十五年、遡らねばならない。
まだ佐和山へ、赤い旗が上ったばかりの頃まで。
◇
慶長六年、正月。
雪の残る佐和山へ、赤備えの一団が入った。
兜も、胴も、袖も赤い。
雪の白と、焼け跡の黒との間を、血のような赤が進んでくる。
その先頭にいたのは、井伊直政だった。
徳川家康の家臣として数々の戦場を駆け、井伊の赤鬼と恐れられた武将である。
関ヶ原では先鋒として敵陣へ斬り込み、敗走する島津勢を追った。
その代償として、鉄砲傷を負っている。
傷は塞がりきっていなかった。
馬が石を踏むたび、右の腕から肩へ、熱い痛みが走る。
それでも直政は顔に出さなかった。
「これが、佐和山か」
馬上から見上げた城は、噂に聞いていた姿とは違っていた。
三成に過ぎたるものが二つあり。
島の左近と、佐和山の城。
そううたわれるほどの城である。
さぞ金銀で飾り立て、華美を尽くした城だろうと、井伊の兵たちは考えていた。
だが、目の前にあるのは、落城の傷を負った質素な城だった。
門は焼け落ち、壁は崩れている。
雪の間から、黒く焦げた柱が突き出ていた。
焼け残った櫓にも、目を奪うような飾りはない。
「石田は、ここに十九万石を注ぎ込んだと聞いておりましたが」
家臣の一人が言った。
「城を飾るためではなかったらしい」
直政は短く答えた。
視線の先には、二重に巡らされた堀がある。
だが、堀の一部には板が渡されていた。
城外へ出るための仮橋だった。
女子どもや負傷者が渡れるよう、縄まで張られている。
勝つために閉じた城ではない。
人を逃がすために、最後は開かれた城だった。
「殿」
前方を進んでいた兵が馬を返してきた。
「城下より煙が上がっております」
「兵か」
「分かりませぬ。されど、火を焚いております」
直政は煙の方を見た。
焼けた家並みの向こうから、細く白い煙が上がっている。
「見に行く」
「危のうございます」
「生き残った兵がいるなら、なおさら見ねばならぬ」
直政は馬首を巡らせた。
◇
煙は、井戸のそばに建つ小さな家から上がっていた。
その家も、屋根の半分を失っている。
新しい板と古い板を継ぎ合わせ、どうにか雨雪をしのげるようにしてあった。
軒下には、乾かされた草鞋が並んでいる。
家の前では、一人の老婆が大釜を見ていた。
釜の中では、米粒の少ない粥が煮えている。
老婆の隣には、かつて城勤めをしていた息子がいた。
関ヶ原の後、山中の逃げ道を通り、負傷した者を麓まで運び続けた男である。
親子は以前にも、大雨で壊れたこの家を直してもらっていた。
あのとき老婆は、家を離れようとしなかった。
――息子が帰ってきますゆえ。
そう言って、帰る場所を守った。
そして今もまた、同じ場所で火を絶やさずにいた。
赤備えの兵たちが家を囲んだ。
「何をしている」
兵の一人が問うた。
「粥を炊いております」
「誰に食わせる」
「帰ってきた者にございます」
老婆は釜から目を離さず答えた。
兵は眉をひそめた。
「石田の残党を匿っておるのか」
「いいえ」
「ならば、誰が帰る」
「まだ、山や村に散った者がおります。女子どもを逃がして、あとから参ると申した者もおります」
兵は釜の蓋へ手を伸ばした。
「怪しいものだ。中を改める」
老婆が、その前に立った。
小さな身体だった。
だが、退かなかった。
「これは、最後に帰ってくる者の分にございます」
「どけ」
「どきませぬ」
「無礼者」
兵が老婆の肩へ手をかけようとした。
「やめよ」
低い声が飛んだ。
兵の手が止まった。
馬から下りた直政が、杖代わりの槍をついて立っていた。
「殿。しかし、この者らは――」
「わしには、粥を炊いているようにしか見えぬ」
「石田の兵に食わせるやもしれませぬ」
「戦は終わった」
直政の声は冷たかった。
「腹を空かせて戻る者まで、関ヶ原へ連れ戻すつもりか」
兵は口を閉ざした。
そのとき、列の後ろで騒ぎが起きた。
「誰か!」
一人の若い兵が、雪の上へ倒れていた。
高崎からの長い道中で、古傷が開いたらしい。
脇腹から滲んだ血が、赤い具足の下を濡らしている。
井伊の兵が駆け寄るより早く、老婆の息子が動いた。
「こちらへ」
男は若い兵の身体を背負い、家の軒下へ運んだ。
老婆は井戸へ向かう。
一本の縄につながれた桶では、澄んだ飲み水を汲んだ。
もう一本の縄につながれた桶では、傷を洗う水を汲んだ。
二つの桶が混じらぬよう、縄の色まで変えられている。
息子は乾いた布を取り出した。
板戸を外して寝台にし、若い兵を横たえる。
「湯を」
「もう沸いております」
親子は迷わなかった。
赤い具足を外し、傷口を湯で洗う。
老婆は釜の粥を椀へよそい、若い兵の口元へ運んだ。
先ほど釜へ手を伸ばした兵が、呆然と見ていた。
「そやつは、井伊の兵だぞ」
「見れば分かります」
老婆は答えた。
「ならば、なぜ助ける」
「帰ってきた者だからでございます」
「どこへ帰ったというのだ」
「戦からにございます」
兵は何も言えなかった。
老婆の息子が、若い兵の額へ濡れ布を置いた。
「傷ついた者には、旗など見えませぬ」
直政は、井戸の周囲を見渡した。
水桶のそばには、薪が雨に濡れぬよう積まれている。
傷を縛る布が、大きさごとに分けてある。
握り飯を包む笹。
幼子を背負うための紐。
戸板を運ぶための縄。
どれも、戦が終わってから慌てて揃えたものではない。
戦の前から、ここに用意されていた。
「誰が、これを整えた」
直政が尋ねた。
老婆の息子が振り返る。
「前の殿さまにございます」
「石田三成が」
「はい」
「戦に勝つためか」
「いいえ」
男は静かに首を振った。
「誰かが負けたときのために、と」
その答えに、井伊の兵たちがざわめいた。
「負ける支度をする大将があるものか」
一人が吐き捨てた。
だが、直政は笑わなかった。
「違う」
傷ついた若い兵が粥を飲み込む様子を見ながら言った。
「負ける支度ではない」
直政は、積まれた薪へ手を伸ばした。
乾いている。
人を暖め、湯を沸かすための薪だった。
「生き残る支度だ」
◇
井戸の横には、小さな祠があった。
祠の軒に、古びた鈴が結ばれている。
そのそばに、一枚の煤けた板が掛けられていた。
直政は板の前に立った。
人の名が、縦にいくつも記されている。
武将の名ではない。
足軽、百姓、職人、老婆、幼子。
身分も石高も書かれていない。
名の横には、小さな丸がついていた。
「これは何だ」
「佐和山へ戻った者には、丸をつけております」
「丸のない者は」
「まだ、戻っておりませぬ」
老婆が答えた。
「毎朝と夕、井戸の前で名を呼びます。返事があれば丸をつけます」
「死んだ者ではなく、戻らぬ者として残すのか」
「死んだと分かるまでは、帰る者にございます」
板には、いくつもの空白があった。
その一つ一つに、待つ者がいる。
「これも三成が命じたのか」
「戦の前に、申されました」
老婆の息子が答えた。
「槍と米の数だけを数えてはならぬ。誰が残り、誰が逃げ、誰が戻ったかを数えよ、と」
直政は板を見上げた。
普通の城主が戦の前に数えるのは、兵の数、槍の数、鉄砲の数、兵糧の俵である。
だが三成は、戦の後に帰ってくる者を数える板を残していた。
名の端に、幼い筆跡があった。
歪んだ丸が一つ、懸命に描かれている。
小さな子どもが、家族の帰還を確かめて付けたのだろう。
「殿」
家臣が、崩れた建物の中から紙を持ってきた。
「このようなものが」
片端の焼けた見取り図だった。
城の縄張り図ではない。
城へ続く道。
井戸。
小祠。
村人の家。
雨で崩れやすい斜面。
老人や幼子が休める場所。
炊き出しをする場所。
城下から山の裏へ抜ける細道。
そこには、誰を討つかではなく、誰をどこへ逃がすかが記されていた。
直政は、しばらく見取り図を見つめた。
「殿。このようなもの、焼き捨てましょう」
家臣が言った。
「石田の差図にございます」
「そなたには、これが戦の差図に見えるか」
「は……」
「これは、人を家へ戻すための図だ」
直政は焼けた端を指で払った。
「城だけならば、奪えた」
呟きが漏れた。
「だが、この男は、城を奪われた後に残るものまで整えていたか」
右肩の傷が疼いた。
直政は顔をしかめ、井戸の縁へ手をつく。
老婆が木椀を差し出した。
湯気の立つ白湯だった。
「どうぞ」
直政は椀を見た。
「わしが誰か、分かっておるのか」
「はい。井伊さまにございます」
「ならば、わしは敵であろう」
「昨日までは、そうだったのかもしれませぬ」
「今日は違うと申すか」
「妾どもには、天下のことは分かりませぬ」
老婆は、ゆっくりと頭を下げた。
「ただ、寒い日に来た者へ、湯を出すことだけは教わりました」
直政は白湯を受け取った。
一口、口へ含む。
ただの湯だった。
茶も、薬も入っていない。
それなのに、冷えた身体へ深く染みた。
「死んでもなお、面倒な習わしを残した男だ」
直政が言うと、老婆の息子がわずかに笑った。
「皆、そう申しておりました」
直政も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その瞬間。
井戸の水面が、小さく揺れた。
風はない。
雪も止んでいる。
それでも、祠の鈴が一度だけ鳴った。
ちりん。
直政は振り返った。
水面に、白い小さな影が映った気がした。
幼い娘ほどの影だった。
だが、瞬きをしたときには消えていた。
◇
直政は、井戸の前へ井伊の将兵を集めた。
赤い兵たちが、雪の上に並ぶ。
城を得た軍勢である。
勝者の兵である。
だからこそ、直政は一人ずつの顔を見渡した。
「聞け、井伊の者ども」
ざわめきが消えた。
「今日より、この地は我らが預かる」
直政の声が、焼けた城下へ響く。
「されど、佐和山の民は戦利ではない」
兵たちの表情が変わった。
「民家へ押し入るな」
「民に指一本触れるな」
「米一粒、薪一本、勝手に奪うことを許さぬ」
直政は先ほど釜へ手を伸ばした兵を見た。
兵は深く頭を下げた。
「宿が必要なら、家の者へ願え。飯が必要なら、代を払え。代を持たぬ者は名を記せ。井伊の名で、後から必ず払わせる」
そして井戸を指した。
「井戸へ馬を寄せるな」
「血のついた刃を洗うな」
「泥のついた鎧を浸すな」
「水が欲しければ、井戸番に頭を下げて願え」
一人の将が顔を上げた。
「されど殿、ここは敵方の井戸にございます」
「違う」
直政は即座に言った。
「これは民の井戸だ」
「しかし、この祠は石田が――」
「石田の名が刻まれておるか」
「いいえ」
「ならば、誰のものでもない」
直政は祠の前まで歩いた。
「この井戸に手を出すな」
「祠の石一つ、鈴一つ動かすことも許さぬ」
「この先、城を移す日が来ようとも、ここだけは残せ」
家臣たちは驚いた。
直政は、さらに声を強めた。
「命に背く者は、井伊の兵とは認めぬ」
「無法者として、わしが斬る」
赤備えの兵たちが、一斉に頭を下げた。
「ははっ!」
その声が、佐和山へ響いた。
直政は白湯の椀を井戸の縁へ戻した。
「城は井伊が預かる」
誰にともなく告げた。
「だが、この水は預からぬ」
水面が、もう一度だけ揺れた。
「これは、この地へ帰る者のものだ」
◇
その夜。
直政は城の一室で、家老の木俣守勝と向かい合っていた。
畳は焼け焦げ、壁には刀傷が残っている。
外では、井伊の兵が交代で火の番をしていた。
だが、城下の家々へ押し入る者はいない。
井戸へ馬を連れていく者もいない。
直政の命令は、三度にわたって全軍へ伝えられていた。
「この城を、どうなさいます」
守勝が尋ねた。
「直せば使える」
「では、佐和山を井伊の居城に」
直政は首を振った。
「ここは古い」
「城が、でございますか」
「名も、恨みもだ」
直政は窓の外を見た。
山の向こうには琵琶湖がある。
東山道が走り、湖上の道が広がる。
「西国への備えとするなら、湖に近い方がよい。新しい城を築く」
「どこへ」
「彦根山を考えておる」
守勝はしばらく黙った。
「石田の名を消すためでございますか」
「それだけなら、佐和山を焼き尽くせばよい」
直政は、右肩を押さえた。
傷の奥で、火が燃えているようだった。
「だが、それをすれば、民まで焼く」
「……はい」
「この地の者が石田を忘れぬのは、石田の旗を惜しんでいるからではない」
直政の脳裏に、井戸のそばの板が浮かんだ。
丸のついた名。
まだ丸のない名。
傷ついた井伊の兵へ粥を食わせた老婆。
「自分たちが、名を呼ばれる人間だったことを覚えておるのだ」
守勝は答えなかった。
「三成の城を残す必要はない」
直政は続けた。
「されど、三成が残したものを、何もかも壊す必要もない」
「城を移すときは、使える石も木も使え。道も、人も、技も、新しい町へ移せ」
「ただし、民家を壊すな」
「水の道を断つな」
「あの井戸と祠には、決して触れるな」
「承知いたしました」
守勝は深く頭を下げた。
「佐和山を消すために、新しい城を築くのではない」
直政は言った。
「ここで生き残った者が、次に暮らせる町を築くのだ」
◇
翌年。
慶長七年。
直政の傷は、ついに癒えなかった。
関ヶ原で受けた鉄砲傷が悪化し、熱は下がらず、身体は日に日に衰えていった。
井伊の赤鬼と恐れられた男も、床を離れられなくなった。
直政が最期に口へ運んだのは、佐和山の井戸から汲んだ水で沸かした白湯だった。
「城下の者が、毎朝届けております」
小姓が言った。
「誰が頼んだ」
「誰にも頼まれておらぬと申しております」
「面倒な者どもだ」
直政は掠れた声で言った。
だが、白湯を拒まなかった。
一口飲む。
椀の水面に、また白い小さな影が映った。
白い髪。
古びた衣。
幼い姿に似合わぬ、尊大な目。
直政は目を細めた。
「そなたも、まだここにいるのか」
小姓が不思議そうに尋ねた。
「何か仰せに」
「何でもない」
影は消えた。
代わりに、遠くで鈴が鳴った。
直政は守勝を呼んだ。
「彦根山への移築のこと、家康公へ申し上げよ」
「必ず」
「佐和山は崩してよい」
守勝の顔が上がった。
「されど、恨みで崩すな」
「次を築くために崩せ」
「石も木も、人が暮らすために使え」
「そして――」
直政は息を整えた。
「あの井戸を守れ」
「殿のお命に代えましても」
「わしの命など、もう長くはない」
直政は苦く笑った。
「約束する相手を間違えるな」
「水を待つ者に約束せよ」
守勝は畳へ額をつけた。
「ははっ」
井伊直政は、その年、佐和山で生涯を終えた。
新しい城を見ることはなかった。
◇
慶長九年。
直政の跡を継いだ直継の代に、彦根山で新しい城の築城が始まった。
佐和山の西、およそ二里にも満たぬ場所だった。
幕府から奉行が遣わされ、近隣の大名が普請に加わった。
石が運ばれた。
木が運ばれた。
職人が移った。
商人が移った。
井伊の家臣たちも、新しい城下へ屋敷を構え始めた。
佐和山城の門や櫓は、一つずつ解かれていった。
石垣の石も運び出された。
かつて三成の城を支えたものが、今度は彦根の町を支えるものへ変わっていく。
石を運ぶ若い人足が、荷車の前で老いた湯番に尋ねた。
「この石は、石田さまの石でしょうか」
別の人足が笑った。
「今は井伊さまの石だ」
老いた湯番は、どちらにも首を振った。
「どちらのものでもない」
「では、誰の石だ」
「佐和山の石じゃ」
老人は、荷車の上の大石を撫でた。
「次に人が帰る場所へ行くのだ」
若い人足は大きく頷き、荷車を押した。
石は山を下り、彦根へ向かった。
城は失われていく。
だが、そのすべてが消えるわけではない。
佐和山の石は彦根の石となる。
佐和山の職人は彦根の職人となる。
佐和山で覚えた水の引き方も、道の作り方も、人を集めて町を営む知恵も、新しい土地へ移っていく。
形を失いながら、佐和山は次の町の中へ残っていった。
◇
「この祠も崩しますか」
工事を取り仕切る者が、井戸のそばで尋ねた。
「平らな石が使えます。彦根の水路へ持っていけば――」
「ならぬ」
木俣守勝は、古びた書付を取り出した。
そこには、直政の命が残されていた。
民家へ押し入るな。
米と薪を奪うな。
井戸へ馬を寄せるな。
刃を洗うな。
井戸と祠には、決して手を触れるな。
そして最後に、大きな文字で記されていた。
――この水は、帰る者のために残す。
「先代のご命令である」
「されど、佐和山は廃城となります」
「城がなくなれば、水も要らぬと申すか」
「いえ」
「城へ帰る者はいなくとも、この地へ帰る者はいる」
守勝は祠の鈴を見た。
「残せ」
「石一つ動かしてはならぬ」
「ははっ」
人足たちは祠から離れた。
井戸の周囲に綱が張られ、工事の者が近づかぬよう印がつけられた。
祠の奥には、小さな空間が残った。
乾いていて、人の手がようやく入るほどの場所だった。
そのときは、誰も知らなかった。
九年後。
一人の男が、父へ届かなかった文と、兄が十五年をかけて書いた記録を携え、そこへ戻ってくることを。
漆塗りの文箱が、その小さな空間で四百年の時を待つことを。
◇
慶長十一年。
彦根城の主要部が完成し、井伊家は佐和山を離れることになった。
最後の夜。
山上に残っていた赤い旗が下ろされた。
門はない。
櫓もない。
かつて幾重にも連なっていた石垣も、その多くが失われている。
城を守る兵も、もういない。
人の声が消えた山に、月の光だけが落ちていた。
それでも、麓の一軒家からは煙が上がっていた。
老婆と息子が、変わらず湯を沸かしている。
「もう、城へ帰ってくる者はおらぬぞ」
通りかかった井伊の兵が言った。
老婆は釜の火を見つめたまま答えた。
「城へは、そうでございましょう」
「ならば、なぜ火を焚く」
「道を行く者がおります」
「旅を終えて戻る者もおります」
「ここが故郷だと思い出す者も、おりましょう」
老婆は薪を一本、火へ入れた。
「帰る者がおる限り、湯は要ります」
井伊の兵は何も言わず、兜を取って頭を下げた。
そして最後の赤い旗とともに、山を下りていった。
夜が深まった。
人のいなくなった佐和山で、井戸の水が静かに湧いている。
祠の鈴が揺れた。
ちりん。
白い小さな影が、井戸の縁へ腰を下ろしていた。
幼い足を揺らし、水面を覗き込む。
「城など、なくともよい」
誰に聞かせるでもなく、影は言った。
「人が帰れるなら、それでよい」
水面に映った白い影は、湯気のように消えた。
城主は替わった。
旗も替わった。
やがて城そのものが失われた。
それでも、帰ってくる者を迎える水だけは、佐和山に残った。
翌朝。
佐和山は、城ではなくなる。
関ヶ原から、六年。
井伊直政は慶長六年(一六〇一年)に佐和山へ入り、翌年、この地で生涯を終えました。
彦根城の築城が始まったのは、直政の死後、嫡男・直継の代です。佐和山城の石材などは新しい城へ運ばれ、慶長十一年(一六〇六年)頃に廃城となりました。
直政と住民の交流、井戸と祠を守る厳命は本作の創作です。
城は消えても、水と、人が帰れる場所の記憶は残る――。
次回は、挿話 十二湯「佐和山、廃城の朝」です。




