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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
最終章(第六章)「湯は、まだ沸いている」

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第五十一湯 長男の記録

最終章「湯は、まだ沸いている」の始まりです。


父の死後、残された者たちは何を見て、何を受け継いだのか。


佐和山を直接見ていない長男が、家族から届く文を頼りに、十五年をかけて記録を残します。


届かなかった言葉は、消えてしまったのでしょうか。

挿絵(By みてみん)


慶長五年、秋。


大坂に、父の死が届いた。


石田三成。


六条河原にて、処刑。


その知らせは、わずかな言葉であった。


佐和山が焼けたことも。


母や弟妹が、どの道を逃げたのかも。


父が最後に何を口にしたのかも。


何一つ、書かれてはいなかった。


長男は、夜を待った。


人の気配が消えてから、灯を一つだけ点けた。


隣には、次男が座っていた。


「兄上」


次男が、小さな声で尋ねる。


「何を書くのです」


長男の前には、白い紙が置かれていた。


筆は持っている。


だが、墨を含ませたまま動かない。


「分からぬ」


「分からぬことを、書くのですか」


「分からぬから、書く」


長男はようやく筆を下ろした。


父は、戦に敗れた。


されど、われらは生きた。


そこまで書いて、止まった。


その先を、長男は知らなかった。


関ヶ原を見ていない。


佐和山が落ちるところも見ていない。


父が捕らえられたところも。


母が逃げた道も。


幼い妹が泣いた声も。


何一つ、見てはいなかった。


見なかったものを、見たように書くことはできない。


それは父を飾ることではなく、もう一度、父を失うことのように思えた。


長男は筆を置いた。


「今日は、ここまでだ」


紙には、二行だけが残った。


父は、戦に敗れた。


されど、われらは生きた。



冬が来る前に、一通の文が届いた。


差出人の名はなかった。


しかし、長男には分かった。


三男の筆だった。


兄上へ。


母上は生きておられます。


妹たちも、生きております。


佐和山を離れるまでに、私が見たことを記します。


長男は、何度も文を読み返した。


そこには、城が落ちた日のことが書かれていた。


三男は、佐和山に残った者たちの名を呼んだ。


一人ずつ。


返事を聞き、動ける者を立たせた。


泣く子の手を引いた。


転んだ者を起こした。


傷ついた者を背負う者がいた。


わずかな飯を、幼い者へ渡す者がいた。


逃げることを恥じる者へ、


生きるために逃げるのだと告げた者がいた。


長男は、新しい紙を開いた。


そして、最初にこう記した。


弟の記すところによれば――。


それから先は、一字ずつ確かめながら書いた。


あたかも自分が見たようには書かなかった。


弟が見たこと。


弟が聞いたこと。


弟にも分からなかったこと。


それぞれを分けた。


父のことも同じだった。


父は、何もかも見通していたのではない。


迷わなかったのでもない。


正しいことを、正しいまま口にすれば、人は分かってくれると信じていた。


そのために、人を傷つけたこともあった。


敵を増やしたことも。


家族を苦しめたことも。


長男は、それも書いた。


父を立派な者にするための記録ではない。


父が、どのような者だったのかを残すための記録だった。


けれど、どうしても書き添えたいことがあった。


父は、不器用であった。


されど、腹を空かせた者を、そのまま帰すことはなかった。


筆を置くと、硯の水がかすかに揺れた。


窓は閉じている。


風はない。


長男は指を伸ばした。


水面は、すぐに静かになった。


「兄上?」


「いや」


長男は首を振った。


「何でもない」


その夜から、長男は書き続けた。



一年が過ぎた。


三年が過ぎた。


父の名を口にする者は減っていった。


悪人だったと言う者がいた。


天下を乱した張本人だと言う者も。


逆に、父を惜しみ、何もかも徳川の謀であったと語る者もいた。


長男は、そのどちらも、そのままには書かなかった。


聞いた話には、聞いた話と記した。


分からぬことには、分からぬと記した。


確かなことは、文を残した者の言葉から拾った。


母は生きた。


三男も生きた。


次男は、長男の隣で灯を守った。


妹たちも、それぞれの場所で名を隠しながら生きた。


城は失われた。


家名も失われた。


それでも、昨日までいた者が、今日も飯を食べた。


熱を出した者へ、誰かが白湯を運んだ。


戻ってきた者へ、誰かが戸を開けた。


長男の記録には、戦のことよりも、次第にそのようなことが増えていった。



それから、十五年近くが過ぎた。


会津から、文包みが届いた。


差出人の名はない。


それでも長男は、表の文を一目見ただけで分かった。


小石の筆だった。


兄上へ。


母上は、生きておられます。


今朝も薄粥を半椀、召し上がりました。


湯がぬるいと、わたくしを叱られました。


お変わりございませぬ。


長男は、その一文を読み返した。


湯がぬるいと、娘を叱った。


十五年が過ぎても、母は変わっていないらしい。


長男の口元が、わずかに緩んだ。


「母上らしい」


泣きはしなかった。


ただ、小さく笑った。


隣にいた次男も、うつむいたまま笑った。


文は、まだ続いていた。


わたくしも、こちらで暮らしております。


父上のお名前を、人前で口にすることはできませぬ。


されど、忘れてはおりませぬ。


この文とともに、母上から預かったものをお送りします。


父上へ届けるはずであった文にございます。


父上のもとへ向かう道が閉ざされ、使いの者が母上へ持ち帰ったものだと聞いております。


母上は、焼くことも、捨てることもできず、今日まで持っておられました。


そして、こう申されました。


長男へ渡しなさい。


あの子ならば、残してくれましょう。


長男は、文包みの紐を解いた。


中には、古びた文が三通入っていた。


いずれも、十五年前のものだった。


一通目は、三男の筆。


父上。


母上と皆は、私が守ります。


わずか、それだけだった。


筆に力を込めすぎたのか、紙の表面が傷んでいる。


まだ幼さの残る弟が、守ると書いた。


その後、弟は本当に母や妹たちの前に立った。


名を呼び。


返事を聞き。


泣く者の手を引いた。


長男は、三男から届いた記録を思い出した。


そして、古い文の傍らへ書き添えた。


この言葉は、果たされた。


二通目は、幼い文字だった。


字の大きさはそろっていない。


墨も、ところどころ濃く、ところどころ薄い。


父上へ。


わたしたちは、みなおります。


白那さまが、まもってくださいました。


湯も、すこしだけあります。


だから父上、はやくかえってきてください。


わたし、父上とまた湯番がしたいです。


末尾には、名の代わりに記されていた。


小さき湯番。


長男は、すぐには次の文へ手を伸ばせなかった。


佐和山の井戸端で、団子を半分にしていた妹。


父が帰るたび、小さな椀を持って走ってきた妹。


大坂へ立つ前、長男の袖をつかみ、


「兄上も、帰ってきますか」


と尋ねた妹。


長男は返事をしたはずだった。


必ず帰る、と。


けれど、自分は佐和山へ帰らなかった。


妹もまた、佐和山には帰れなかった。


のちに、妹の一人が北へ向かったとの知らせだけが届いた。


名を隠し。


父の名を口にせず。


それでも、人へ湯を出すことをやめなかったという。


長男は、妹の文をそっと畳んだ。


「生きたのだな」


返事はない。


それでも、遠いところから白い湯気が上がったような気がした。


最後の一通には、宛名も署名もなかった。


私たちは、生きております。


あなたも、生きてください。


それだけだった。


長男には、誰の筆か分かった。


母だった。


文の折り目は、三通の中で最も深かった。


何度も開き。


何度も閉じた跡がある。


父へ渡すはずだった文。


生きてほしいと願った文。


父がすでに死んだと知った後も、母は捨てられなかった。


長男は三通を、父が読むはずだった順に並べた。


三男の文。


小さき湯番の文。


母の文。


そのとき、硯から水滴が一つ跳ねた。


水滴は、小さき湯番の文の端へ落ちた。


「あっ」


長男は慌てて布を取った。


だが、紙は濡れていない。


墨も滲んでいなかった。


水滴だけが、丸い玉となって紙の上に残っている。


やがて玉は小さくなり、跡も残さず消えた。


遠くで、鈴が鳴った。


ちりん。


長男は戸口を見た。


誰もいない。


次男も顔を上げた。


「今のは」


「……鈴だ」


「どこからでしょう」


長男は答えなかった。


新しい頁を開き、筆を取った。


父へ届かなかった文が、三通ある。


一通は、弟が守ると誓った文。


一通は、妹が湯を沸かして待つと記した文。


一通は、母が生きてほしいと願った文。


父は、いずれも読むことができなかった。


されど、ここに残す。


読まれなかった言葉まで、なかったことにはさせぬために。



元和元年。


大坂の空が、再び赤く染まった。


城が燃えた。


人々は逃げた。


豊臣の世は、終わったと誰もが言った。


秀頼は死んだという者がいた。


いや、真田左衛門佐に守られ、薩摩へ落ち延びたのだと囁く者もいた。


長男は、風聞をそのまま記した。


秀頼公、南へ落ち延びたとの風聞あり。


真偽、定かならず。


それ以上は書かなかった。


生きていてほしいという願いと、生きているという事実は違う。


長男は十五年をかけて、それを学んだ。


けれど。


事実とならなかった願いまで、消してよいとは思わなかった。


長男は、記録の最初の頁を開いた。


十五年前に書いた二行がある。


父は、戦に敗れた。


されど、われらは生きた。


その下へ、最後の言葉を書き加えた。


生きた者がいる限り、父のなしたことは、すべて失われたのではない。


長男は、さらに頁の余白へ記した。


いつの日か、父を知る者がこれを開くことあらば。


どうか父へ伝えてほしい。


われらは、生きたと。


筆を置いた。


硯の水が揺れた。


ちりん。


今度は、長男も驚かなかった。


「これでよろしいでしょうか、父上」


返事はない。


冷めていた白湯から、細い湯気が一本だけ上った。



長男は、三通の文を薄紙で包んだ。


その上から油紙を重ね、十五年の記録とともに黒い漆の文箱へ納めた。


外から見れば、何の飾りもない箱だった。


石田の名も。


家紋も。


父の名もない。


ただ、蓋の裏にだけ、小さく記した。


大一大万大吉。


文箱は、三男へ託された。


長く離れていた兄弟は、互いの顔をしばらく見つめた。


三男の手には、今も古い傷が残っていた。


長男は言った。


「これを、佐和山へ」


三男が文箱を抱く。


「佐和山には、もう何もありませぬ」


「井戸がある」


「城はございませぬ」


「祠がある」


三男は唇を結んだ。


「父上は、戻りませぬ」


長男は頷いた。


「分かっている」


「ならば、なぜ」


長男は、文箱へ手を置いた。


「父上へ返すためだ」


三男は何も言えなかった。


「今すぐ届かずともよい」


長男は静かに続けた。


「父上を知る者が、いつか戻るかもしれぬ」


三男は兄を見た。


その言葉の意味を、すべて理解したわけではなかった。


それでも文箱を抱き直した。


「承知いたしました」



佐和山は、城ではなくなっていた。


石垣は崩れ。


道は草に覆われ。


かつて人の声が響いた場所を、風だけが通っている。


三男は、夜明け前に山へ入った。


人目を避けながら、記憶の中の道をたどる。


ここで妹が転んだ。


ここで母を休ませた。


ここで名を呼び、返事を聞いた。


何度も足を止めた。


それでも、引き返さなかった。


やがて、井戸の祠へたどり着いた。


祠は傾いていた。


縄は切れ。


鈴は赤く錆びていた。


けれど、残っていた。


三男が近づくと、風もないのに鈴が鳴った。


ちりん。


「ただいま」


誰へ向けた言葉か、自分でも分からなかった。


父か。


妹か。


佐和山か。


三男は祠の石を動かした。


その奥に、小さな空間があった。


水気はない。


土も乾いている。


まるで、何かを待つために残された場所だった。


三男は文箱を置いた。


「父上」


声が震えた。


「皆、生きました」


三男は、しばらく文箱から手を離せなかった。


「母上も」


「兄上たちも」


「妹たちも」


幼い文字の文を思い出す。


父上とまた湯番がしたいです。


三男は目を閉じた。


「小さき湯番も、生きました」


祠の奥から、一滴の水が落ちた。


水滴は文箱の蓋へ落ちた。


だが、漆を濡らさない。


木目に沿ってゆっくりと流れ、蓋の隙間を一周した。


まるで、箱を閉じるように。


封じるように。


守るように。


三男は、かすかに笑った。


「白那様」


返事はない。


ただ、井戸の底で水が鳴った。


くぁ。


どこかで、妙な声も聞こえた。


三男は周囲を見回した。


何もいない。


「そなたも、生きておったか」


水面に、小さな波紋が一つ広がった。


三男は石を元へ戻した。


立ち上がり、祠へ一礼する。


「いつか、父上へ返してください」


鈴が鳴った。


ちりん。


父に届かなかった文は。


父の帰る場所で。


長い時を待つことになった。


関ヶ原から、十五年。


お読みいただき、ありがとうございます。


父には届かなかった三通の文が、今度は長男のもとへ届きました。


長男が残したのは、父を英雄にするための記録ではありません。

自分が見ていないことは見ていないと記し、分からないことは分からないまま残す。それでも、母や弟妹が確かに生きたことだけは、失わせまいとした記録です。


そして三通の文は、長い時を越えるため、佐和山へ戻されました。


次回、第五十二湯「井伊の赤、佐和山の跡」。


時間は再び、関ヶ原直後へ戻ります。

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