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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第五章「敗れても、帰る場所は残る」

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挿話十一湯 北へ流れる湯気

本作の中でも、どうしても書きたかった一話です。


佐和山に鈴を残した「小さき湯番」が、家族や仲間と別れ、それでも生きて、遠い土地で再び湯を沸かすまでを描きました。


これまでで最も長い一話となります。


小さな手が運んだ湯気の行方を、どうか最後まで見届けてください。

挿絵(By みてみん)


少し、時を戻す。


石田三成が、京で最後の椀を手にする、十日余り前。


佐和山から、一人の幼い娘が逃げていた。



名を呼んではならぬ、と言われた。


母を、母上と呼んではならぬ。


兄を、兄上と呼んではならぬ。


自分の名も、口にしてはならぬ。


石田の者であると知られれば、追っ手は娘の首ひとつで満足しない。


道を教えた者。


食べ物を与えた者。


一夜の軒を貸した者。


その家族まで、罪に問われるかもしれなかった。


だから、名を呼んではならない。


分かってはいた。


けれど、幼い娘には、名を奪われることが何より恐ろしかった。


父の名は、すでに罪人の名になった。


城の名も、人前では口にできない。


そして今、自分の名まで消えようとしている。


名を呼ばれなくなれば、人は少しずつ薄くなり、いつか本当に消えてしまうのではないか。


娘は、前を歩く母の袖を握った。


母は振り返らなかった。


振り返れば、娘の顔を見てしまう。


顔を見れば、きっと名を呼びたくなる。


「足元を見なさい」


母は、それだけを言った。


雨上がりの山道は、泥にまみれていた。


着物の裾は水を吸い、幼い足へまとわりつく。


娘は何度も転びそうになった。


そのたびに、前を行く少年が振り返った。


三男だった。


佐和山で幼い者たちを逃がしたとき、両の手で子供をつなぎ、一人ずつ名を呼び、返事を確かめた少年。


その両手には、まだ布が巻かれていた。


木戸を押した傷。


倒れた者を引き上げた傷。


幼子を抱きかかえ、石垣を降りたときの傷。


布には、新しい血がにじんでいた。


娘が足を滑らせる。


三男が手を伸ばしかけた。


だが、触れる寸前で止めた。


山道の向こうから、馬の蹄が聞こえたからだ。


三男は娘を抱き寄せる代わりに、道脇の茂みを指した。


四人は声もなく、濡れた草の中へ伏せた。


母。


三男。


幼い娘。


そして、娘と同じほどの背丈にまで幼くなった白那。


道を、兵が三騎通り過ぎていく。


「女と子供を見なかったか」


どこか遠くで、誰かが問われていた。


「石田の妻子が逃げておる」


娘の肩が震えた。


白那が、小さな指を娘の手の甲へ重ねた。


「息を吐け」


声は小さい。


けれど、口調だけは、いつものように尊大だった。


「止めれば、胸の音が大きくなる。細く、長く吐け」


娘は言われたとおりにした。


胸の中で暴れていた音が、少しずつ静かになった。


兵たちは通り過ぎた。


姿が見えなくなっても、誰もすぐには動かなかった。


やがて白那が、濡れた鼻先をわずかに上げた。


「行った」


三男が立ち上がり、道の先を見た。


「急ぎましょう」


母が頷く。


四人は再び歩き始めた。


その少し先。


濡れた岩の上に、小さな跡があった。


人の足ではない。


指と指の間に、水かきがある。


その跡は岩を越え、沢へ続き、また別の岩へ残されていた。


白那が鼻を鳴らした。


「遅いわ、河童め」


幼い娘が顔を上げた。


「河童さまも、おられるのですか」


口にしてから、娘は慌てて口を押さえた。


白那は周囲を見回し、それから答えた。


「妾たちと並んで歩けば、あやつほど目立つ者もおらぬ。川と溝を伝い、先を見ておるのじゃ」


娘は、湿った水かきの跡を見つめた。


河童の姿は見えない。


けれど、ここにいる。


自分たちと違う道を通りながら、同じ方へ進んでいる。


「一緒ではないのですね」


「同じ道を歩くことだけが、一緒ではあるまい」


白那はそう言い、少し先の分かれ道を指した。


片方には、水かきの跡がない。


もう片方には、濡れた葦が三本、道の端へ揃えて置かれていた。


「こちらじゃ」


四人は、葦の置かれた細い道へ入った。



夜は、山中の炭焼き小屋で明かすことになった。


屋根は傾き、壁には隙間がある。


風が吹くたび、乾いた灰が舞った。


母が懐から、二つの握り飯を取り出した。


城を出るとき、女中が持たせてくれたものだった。


すでに固くなり、米粒はひび割れている。


「二人で食べなさい」


母は子供たちへ差し出した。


三男が首を横に振った。


「私は要りませぬ」


「食べなければ歩けません」


「母上こそ――」


そこまで言い、三男は唇を噛んだ。


母上と呼んではならない。


誰かが聞いているかもしれない。


炭焼き小屋の外は闇だった。


風の音以外、何も聞こえない。


それでも、三男は続けられなかった。


幼い娘が、母の手から握り飯を受け取った。


一つを半分に割る。


もう一つも半分に割る。


四つ並べ、数えた。


一つ。


二つ。


三つ。


四つ。


「これで、同じです」


三男が妹を見た。


「お前が食べよ」


娘は首を振った。


「一人で食べれば、一人しか歩けませぬ」


四つに分けた飯を、一人ずつの前へ置いていく。


「皆で食べれば、皆で歩けます」


母の目が潤んだ。


白那は黙って、最も小さな欠片を取った。


三男は自分の前の飯を、娘へ戻そうとした。


娘は、兄の手を見た。


布の隙間から、赤く腫れた指が覗いている。


「その手は、皆を守った手でしょう」


「この程度、何でもない」


「動かなくなっては困ります」


娘は小屋の隅にあった欠けた鍋へ、わずかな水を入れた。


火はない。


湯にはできない。


それでも布を濡らし、三男の指を拭こうとした。


三男が苦く笑う。


「こんなときまで、湯番か」


娘の手が止まった。


白那が、ゆっくり顔を上げた。


母も、娘を見た。


まだ誰も、その言葉の続きを口にしなかった。


娘は黙って、兄の布を巻き直した。


そのとき。


小屋の外で、何かが転がった。


三男が刀へ手を伸ばす。


だが、傷ついた指では、柄をうまく握れない。


母が娘を背へかばう。


白那は目を閉じ、水の匂いを探った。


「敵ではない」


三男が戸を細く開けた。


外には誰もいなかった。


戸口に、泥のついた蓮根が一本。


木の葉に包まれた、小さな川魚が二匹。


水溜まりの脇から、藪へ向かって水かきの跡が続いている。


三男は、暗い藪へ向かって頭を下げた。


「恩に着る」


返事はなかった。


しばらくして、遠くの沢から、


「くぁ」


と、小さな声が聞こえた。


娘は初めて、ほんの少し笑った。



夜明け前。


遠くで犬が吠えた。


一頭ではない。


追っ手が、山へ入ってきたのだ。


四人が歩いてきた道には、泥の足跡が残っている。


子供の小さな足跡。


女の草履。


白那の裸足。


消す時間はなかった。


白那が沢へ向かって歩いた。


母が止める。


「もう、お力を使われては」


「ならば、そなたらが捕まるのを眺めておれと申すか」


「ですが、そのお姿では――」


「姿の大きさで水守を量るでない」


白那は沢へ両手を入れた。


冷たい水が、小さな腕を伝った。


「近江の水よ」


声は弱い。


それでも、水は聞いていた。


「まだ、妾の声を忘れてはおらぬな」


沢の流れが膨らんだ。


斜面から水があふれ、落ち葉と泥を巻き込み、道へ広がっていく。


四人の足跡が、ひとつずつ消えていった。


代わりに、白那の身体から力が抜けた。


膝が折れる。


娘が駆け寄り、倒れる身体を受け止めた。


見た目だけなら、二人は同じ年頃の少女だった。


けれど白那の身体は、驚くほど軽かった。


「白那さま」


「騒ぐでない」


立とうとする。


だが足に力が入らない。


「妾を置いてゆけ」


娘は白那の腕を自分の肩へ回した。


「嫌です」


「聞き分けよ。水さえあれば、妾は死なぬ」


「死なぬ者なら、置いてよいのですか」


「……何じゃと」


娘は白那を背負おうとした。


腰を落とし、細い腕で持ち上げようとする。


けれど、同じほどの身体を背負えるはずがない。


二人とも泥の上へ倒れた。


娘は起き上がり、もう一度試した。


また転んだ。


膝が擦りむけ、血がにじむ。


白那が怒鳴った。


「やめぬか!」


「嫌です!」


娘も、初めて怒鳴り返した。


「白那さまは、わたしたちを置いていかなかったではありませんか!」


白那が目を見開いた。


娘は涙と泥で汚れた顔のまま、白那の手を離さなかった。


三男が二人の前へしゃがんだ。


「私が背負います」


「その手でか」


「手ではなく、背で背負います」


三男は白那を背負った。


娘は隣を歩き、白那の手を握った。


白那は、三男の背で小さく息を吐いた。


「まったく……」


かすれた声だった。


「三成に似て、損な者ばかり拾いおる」


娘は俯いた。


父の名が出た。


それだけで胸が痛んだ。


けれど、その名を聞けたことが、少しだけ嬉しかった。



京へ近づくには、川を越えなければならなかった。


渡し場には兵がいた。


石田の妻子が逃げたとの触れが、すでに回っている。


女と子供を乗せた荷車は止められ、荷を改められていた。


四人を案内してきた男が、薪を積んだ荷車を用意した。


「この下へ」


母が先に入る。


三男が続き、白那を抱えて身を伏せる。


最後に娘が入った。


薪が上から積まれていく。


暗い。


狭い。


息を吸うたび、木の皮と泥の匂いが鼻へ入った。


荷車が動き始めた。


車輪が石を踏むたび、身体が跳ねる。


「止まれ」


兵の声がした。


荷車が止まった。


「何を運んでおる」


「薪にございます。京の寺へ」


「どけ。中を改める」


薪が一本、引き抜かれた。


光が差し込む。


娘の足袋が、薪の隙間から外へ出ていた。


母が気づいた。


だが身体を動かせば、薪が崩れる。


三男も気づいた。


妹をかばうために、起き上がろうとする。


母が無言で、その腕をつかんだ。


動けば、全員が見つかる。


兵の手が、娘の足へ伸びた。


娘は自分で足を引こうとした。


だが、足袋の先が薪へ挟まり、動かない。


そのとき。


川面の下を、黒い影が走った。


渡し舟を岸へつないでいた縄が、水中から大きく引かれる。


舟が傾いた。


上にいた兵が、叫び声とともに川へ落ちる。


「何をしておる!」


「助けろ!」


兵たちが川へ駆け寄る。


同時に、白那が薪の隙間から指を伸ばした。


水際にいた蛙が、一斉に跳ねた。


一匹。


十匹。


数え切れぬほどの蛙が、泥と水を散らして馬の足元へ飛び出す。


馬がいななき、兵を振り落とした。


渡し場が騒然となる。


荷車を引く男が、馬へ鞭を入れた。


車輪が動く。


娘の足袋が薪から外れ、荷の中へ引き込まれた。


そのとき、川辺で別の兵が叫んだ。


「何かいるぞ!」


槍が、水面へ突き込まれた。


一度。


二度。


三度。


娘は薪の隙間から、川が赤く染まったように見えた。


「河童さま!」


起き上がろうとする。


母と三男が、左右から娘を押さえた。


「離してください!」


「動くな!」


「河童さまが!」


白那が、娘の頬を叩いた。


小さな手だった。


だが、痛かった。


「振り返るな!」


白那の声が、狭い荷の中へ響いた。


「妾たちを逃がすため、あやつは水へ入ったのじゃ!」


「でも――」


「戻れば、あやつが命を張った意味まで殺すことになる!」


娘は唇を噛んだ。


声を殺し、前を向いた。


荷車は川を越えた。


槍の音も、兵の声も、少しずつ遠くなった。


誰も河童の名を口にしなかった。



日が暮れる頃、一行は川から離れた林へ入った。


白那は、もう自分では歩けなかった。


三男の背で、浅い息を繰り返している。


娘が水筒を取り出した。


河童がくれた魚を焼くとき、少しだけ残しておいた水だった。


白那へ差し出そうとしたとき。


水筒の中から、


こつん。


と音がした。


娘は動きを止めた。


もう一度。


こつん。


蓋を開ける。


小さな川蟹が、水筒の口から這い出してきた。


蟹の甲羅には、泥で小さな印が描かれていた。


三本の指。


その間をつなぐ、水かき。


娘の目から涙があふれた。


「生きて……」


白那が、わずかに笑った。


「生きておるわ」


「本当に?」


「死んだ者が、蟹へ落書きなどするものか」


娘は水筒と蟹を胸へ抱えた。


川蟹は迷惑そうに脚を動かしている。


「よかった……」


「泣くな。水が減る」


白那はいつもの調子で言った。


娘は泣きながら、少し笑った。



京の外れに、荒れた寺があった。


屋根の瓦は抜け、庭には秋草が伸びている。


そこに一人の女が待っていた。


北政所――のちに高台院と呼ばれる人の使いだった。


女は母へ頭を下げた。


「お待ちしておりました」


母の肩から、わずかに力が抜けた。


だが、使いの女は続けた。


「お連れできるのは、姫君お一人にございます」


三男が顔を上げた。


「何を申す」


「奥方様と若君まで同じ屋敷へ入れば、北政所様にも疑いが及びます」


「ならば、別の場所へ三人で行く」


「三人で動けば、見つかります」


「この子一人を、見知らぬ者へ渡せと申すのか!」


三男の声が荒れた。


使いの女は目を伏せた。


「一人でなければ、誰一人として通せませぬ」


寺の中が静まり返った。


娘は、母の袖を握った。


「一人……?」


母は答えなかった。


娘は三男を見た。


三男も答えられなかった。


ようやく母が、娘の前へ膝をついた。


乱れた髪へ手を伸ばす。


櫛も簪もない。


母は自分の着物の内側から細い紐を切り、娘の髪を結い直した。


何度も指で梳き、乱れた髪を一つにまとめる。


その手は震えていた。


母は、娘の着物の内側に縫われていた小さな印を見つけた。


大一大万大吉。


人目につかぬよう、母が縫いつけていたものだった。


母は糸を切り、印を外した。


娘が、その手をつかんだ。


「取らないでください」


「持っていてはなりません」


「それを取ったら、父上の娘ではなくなります」


母は、外した印を手の中へ包んだ。


「印がなくとも、そなたは父上の娘です」


「でも、誰も知らなくなります」


「誰も知らなくても、変わりません」


母は娘の頬を両手で包んだ。


「石田の娘であることを、しばらく隠しなさい」


娘の目に涙がたまる。


「父上のことも、忘れたふりをするのですか」


「隠すことと、忘れることは違います」


母の声も震えていた。


「父上を恨んでもよいのです」


娘が目を見開く。


「会いたいと泣いてもよい。なぜ私たちを置いて戦へ行ったのかと、怒ってもよい」


「母上――」


「けれど、父上のために死のうとは思わないで」


母の涙が、娘の頬へ落ちた。


「そなたが生きることは、父上を裏切ることではありません」


娘は母へ抱きついた。


「一緒に来てください」


「……行けません」


「嫌です」


「ごめんなさい」


「わたしだけを、置いていかないでください!」


母も娘を抱きしめた。


強く。


二度と離さぬように。


それでも、離さなければならなかった。


「必ず会えるとは申せません」


母は嘘をつかなかった。


「それでも、母は生きます」


「本当に?」


「ええ」


「兄上も?」


三男が、唇を噛みながら頷いた。


「生きる」


母は娘の髪へ頬を寄せた。


「そなたも生きなさい」


「一人で?」


「一人ではありません」


母は白那を見た。


水路の向こうにいる河童を思うように、寺の外へも目を向けた。


「離れていても、そなたを思う者はおります」


娘は泣き続けた。


母は最後に、娘の耳元へ囁いた。


「互いに、誰かが帰ってこられる場所を残しましょう」



三男は、妹の手を離せなかった。


傷だらけの指で、小さな手を強く握っている。


「佐和山では」


三男の声が途切れた。


「あれほど多くの者の手をつないだ」


妹は黙っていた。


「名を呼び、返事を聞いた。転んだ者を起こした。泣く子を引いた」


三男の目から、涙が落ちた。


「なのに、なぜ、お前の手だけを離さねばならぬ」


娘は兄の手を見た。


一人ずつ。


指をほどいていく。


一本目。


二本目。


三本目。


三男は握り直そうとした。


娘は首を振った。


「兄上の手は、わたしだけのものではありません」


最後の指をほどく。


そして、三男の手を母の手へ重ねた。


「母上を、お守りください」


三男は妹を見つめた。


「お前は、誰が守る」


娘は白那を見た。


力を失い、自分と同じほどに幼くなった水守。


立つことさえ難しい。


それでも白那は、娘の目をまっすぐ見ていた。


「白那さまが、わたしを守ってくださいます」


娘は白那の手を取った。


「そして、わたしも、白那さまを守ります」


三男の顔が歪んだ。


泣き笑いのような顔だった。


傷ついた手を、妹の頭へ置く。


「生きろ」


娘は頷いた。


「生きろ。佐和山の――」


三男は、妹の名の代わりに、その呼び名を口にした。


「小さき湯番」


娘の肩が震えた。


佐和山の井戸端で。


団子を半分にして。


鈴を鳴らし。


帰ってくる者のために、祠へ鈴を残した少女。


小さき湯番。


娘は涙を拭った。


「はい」


母と三男は、別の道へ向かった。


何度も振り返った。


娘も、二人の姿が見えなくなるまで立っていた。


だが、名前は呼ばなかった。


母上とも。


兄上とも。


声にすれば、足が追いかけてしまうから。


ただ、胸の中で何度も呼んだ。


姿が消えても。


足音が聞こえなくなっても。


何度も。



高台院の屋敷へ向かう途中。


用水路から、何かが流れてきた。


欠けた小さな木椀だった。


河童が佐和山で使っていた椀。


少女は水へ入り、両手で拾い上げた。


白那が言う。


「持ってゆけ、ということらしい」


少女は水路を覗き込んだ。


「河童さま」


水は流れている。


返事はない。


「いつか来てください」


少女は欠けた椀を胸へ抱いた。


「わたしが、湯を沸かします」


しばらくして、水面から緑色の手が一度だけ上がった。


手を振ったのか。


ただ水をかいただけなのか。


少女には分からなかった。


「くぁ」


声を一つ残し、手は沈んだ。


水紋が広がり、やがて消えた。


河童は、母と三男を助けるため、水の道を戻っていった。



高台院の屋敷の塀が見えた。


そこで、白那が足を止めた。


「妾は、ここまでじゃ」


少女は振り返った。


「白那さまも参りましょう」


「妾が入れば、そなたが余計に怪しまれる」


「小さな子供が一人増えるだけです」


「誰が子供じゃ」


弱っていても、そこは譲らない。


だが少女は笑わなかった。


白那の袖を強くつかんだ。


「また、わたしを置いていくのですか」


白那の顔から、苛立ちが消えた。


父。


佐和山。


母。


兄。


河童。


少女は、短い間にあまりにも多くの者と別れた。


白那は、小さな両手で少女の頬を挟んだ。


「置いてゆくのではない」


「同じです」


「違う道を行くだけじゃ」


「同じです!」


少女の声が震えた。


「皆、そう言って、いなくなります!」


白那は何も言えなかった。


いつもなら、愚か者と叱る。


泣くなと怒る。


だが、今は叱れなかった。


「妾は、そなたの母と兄を追う」


「では、わたしは?」


「そなたは、前へ行け」


「一人で?」


「一人で立たねばならぬときもある」


少女の目から、新しい涙がこぼれた。


「また会えますか」


白那は、すぐには答えなかった。


嘘をつきたくなかった。


やがて、水路へ目を落とした。


「水のあるところで、妾を呼べ」


「呼んだら、来てくださいますか」


「湯気が立ったなら、耳を澄ませよ」


「答えになっておりません」


「妾は水守じゃ。人の約束の仕方など知らぬ」


白那は、ほんの少し笑った。


「佐和山からどれほど離れようと、水は途切れぬ」


少女は懐へ手を入れた。


そこに鈴はない。


「鈴を、置いてきてしまいました」


「あれは置いてきたのではない」


白那が言う。


「そなたが、置くと決めたのであろう」


少女は、佐和山の祠を思い出した。


帰ってくる者のために結んだ、小さな鈴。


「はい」


「あの鈴は、佐和山へ帰る者のために鳴る」


白那は、少女の両手を取った。


「そなたが持ってゆくのは、鈴ではない」


泥で汚れた小さな手。


飯を割った手。


兄の傷を拭いた手。


白那を背負おうとした手。


河童の椀を拾った手。


「湯を沸かす、その手じゃ」


白那は濡れた指を、少女の額へ当てた。


「生きよ、小さき湯番」


少女は泣きながら頷いた。


「これは、そなたの最後の仕事ではない」


水路の水が揺れた。


「これから始まる、最初の仕事じゃ」


白那は少女の手を離した。


今度は少女が、袖をつかまなかった。


白那は水路へ歩き、朝霧の向こうへ消えた。


少女は一人で、高台院の屋敷へ向かった。



屋敷へ入っても、すぐには奥へ通されなかった。


少女は台所脇の小部屋で待たされた。


濡れた着物を替えられ、髪も整えられた。


だが、母が結んだ紐だけは外させなかった。


膝の上には、河童の欠けた木椀。


女中が、白湯を運んできた。


「お寒かったでしょう」


少女は椀を受け取った。


女中の手も、寒さで赤くなっていた。


少女は白湯を飲まず、女中へ戻した。


「あなたが飲んでください」


「これは姫君のためのものです」


「わたしより、手が冷たいです」


「しかし――」


「冷めてしまいます」


その声を、廊下の向こうで聞いていた人がいた。


北政所。


のちに高台院と呼ばれる女だった。


高台院は部屋へ入り、少女の前へ座った。


少女は慌てて頭を下げた。


「顔を上げなさい」


少女は恐る恐る顔を上げる。


高台院はしばらく、その顔を見つめた。


「そなたの名は」


少女の身体が固まった。


「名を呼んではならぬと、言われました」


「ここでは、呼んでよい」


「呼んだら、皆が捕まります」


「ここには、そなたを捕らえる者はおらぬ」


少女は答えられない。


高台院が、静かに名を呼んだ。


「辰」


少女の目が大きく開いた。


もう一度。


「辰」


唇が震えた。


「……はい」


小さな返事だった。


だが、その一言で、消えかけていた少女の輪郭が戻った。


高台院は、女中が持っていた白湯を辰へ渡した。


「よう、生きて参った」


辰は椀を両手で包んだ。


温かかった。


佐和山を出てから、初めて飲む温かな湯だった。


一口飲む。


喉を通り、胸へ落ちた。


そこで初めて、辰は自分が生きていると知った。



数日後。


京から、知らせが届いた。


石田三成、六条河原にて処刑。


高台院は、人づてに辰へ知らせるつもりはなかった。


自ら部屋へ出向いた。


けれど、辰は先に気づいていた。


屋敷の者が、自分を見るたび目を伏せる。


誰も父の名を言わない。


誰も佐和山の話をしない。


辰は台所へ行った。


釜へ水を入れた。


火打石を打つ。


火がつかない。


もう一度。


石と石が鳴るだけだった。


手が震えている。


何度打っても、火花が薪へ移らない。


「貸しなさい」


高台院が隣へ座った。


辰は首を振った。


「わたしが、つけます」


「辰」


「わたしが、湯を沸かします」


何度目かで、ようやく火がついた。


小さな炎が薪へ移り、釜の底を舐める。


辰は火の前へ座り続けた。


水が温まり。


やがて、最初の湯気が立った。


その白い筋を見た瞬間、辰の身体が崩れた。


「父上に……」


高台院が肩を抱く。


「父上に、もう一度だけ……」


辰は泣いた。


母や兄と別れたときよりも、激しく。


「わたしの沸かした湯を、飲んでいただきたかった……!」


高台院は、父は立派だったとは言わなかった。


三成の選択が、家族を苦しめたことも知っていた。


「恨んでもよい」


辰が顔を上げる。


「なぜ自分たちを置いていったのかと、怒ってよい」


「怒りたくありません」


「無理に許す必要もない」


「父上が好きです」


「ならば、好きでいなさい」


高台院は、辰の髪を撫でた。


「そなたが父を好きでいることを、誰にも止めることはできぬ」


辰は泣き疲れ、釜から上がる湯気を見つめた。


「佐和山へ戻ってもよろしいでしょうか」


「何をしに」


「鈴を取りに」


高台院は少し考えた。


「その鈴は、誰のために残したものです」


「帰ってくる人のためです」


「ならば、そなたが取りに戻ってはなりません」


辰は俯いた。


「あの鈴は、帰ってきた者を迎えるために、そこへあるのでしょう」


「はい」


「そなたは、生きる方へ行きなさい」


辰は涙を拭った。


そして釜へ薪を一本足した。



辰は、高台院のもとで育った。


石田の印は身につけなかった。


父の名を、人前で口にすることもなかった。


それでも、毎日のように台所へ通った。


熱を出した者へ湯を運ぶ。


冷えた手へ椀を持たせる。


飯が足りなければ半分にする。


誰か一人が遅ければ、食べ始めずに待つ。


新しい女中が入れば、名を尋ねた。


一人ずつ。


名を呼び。


返事を聞いた。


「姫君がなさることではございません」


何度も言われた。


辰は、そのたびに同じように答えた。


「姫でなくとも、できます」


ある日、年老いた女中が笑った。


「では、何者でございますか」


辰は少し考えた。


台所の柱には、河童の欠けた木椀が掛けてある。


母が結んだ紐は、今も髪にある。


湯気の向こうで、鈴が鳴った気がした。


「湯番です」


辰は答えた。


「わたくしは、湯番です」


城は奪われた。


家名も、父も奪われた。


だが、人が冷えているときに、温かいものを差し出すことだけは、誰にも奪えなかった。



それから、十年。


辰のもとへ、縁談が届いた。


相手は津軽信枚。


本州の北端に近い津軽を治める、若き当主である。


津軽家は東軍についた。


だが、石田家の者を密かに逃がしたという縁も持つ、複雑な家だった。


高台院は辰へ言った。


「断ってもよいのですよ」


辰は文を膝へ置いた。


「また、名を隠して嫁ぐのでしょうか」


「今度は、そなたが決めなさい」


「石田の娘であると、申してもよいのですか」


「それを隠して始まる夫婦なら、長くは続きますまい」


辰は、信枚と対面した。


信枚は辰より少し年上だった。


若いながらも、北国を背負う者らしい慎重な目をしていた。


辰は頭を下げた。


「石田三成が三女、辰にございます」


かつて、自分の名すら口にできなかった少女が、今は父の名まで含めて名乗った。


信枚は驚かなかった。


「知っている」


「敗軍の将の娘と知り、迎えられるのですか」


信枚は答える前に、辰の前へ椀を置いた。


白湯だった。


「遠くから来た者へ、最初に尋ねることではあるまい」


「何をでございますか」


「まず、冷えた手を温めよ」


辰は椀を見つめた。


父とは違う。


父の代わりでもない。


ただ、この男は、言葉より先に湯を差し出した。


辰は椀を両手で包んだ。


「一つ、申し上げてもよろしいでしょうか」


「何なりと」


「わたくしは、あなた様をまだ存じません」


「私も、そなたを知らぬ」


「救われた恩を、愛と取り違えたくはございません」


信枚は少し目を見開き、やがて笑った。


「私も、そなたを救ってやるつもりはない」


辰は顔を上げた。


「共に暮らし、互いを知りたい」


信枚はまっすぐに言った。


「夫婦になるのは、そのあとでも遅くあるまい」


辰は、初めて小さく笑った。


「では、ずいぶん時間がかかります」


「北の冬は長い。時間ならある」



嫁入りに際し、高台院は辰へ尋ねた。


「何を持っていきたいのです」


立派な衣。


蒔絵の調度。


金銀。


望めば、どれも用意できた。


辰が選んだのは、四つだった。


母が髪を結んだ紐。


佐和山から持ち出した、小さな石。


河童の欠けた木椀。


そして、大きな釜。


高台院は釜を見上げた。


「これを、津軽まで運ぶのですか」


「津軽は寒いと聞いております」


「そのようですね」


「釜があれば、一度に大勢を温められます」


高台院は呆れたように笑った。


「三成の娘であることだけを、そなたのすべてにしてはなりません」


辰は頷いた。


「はい」


少し間を置き、続けた。


「けれど、父上の娘であることも捨てません」


「それでよい」


出立の日。


高台院は辰を抱きしめた。


十年前の少女は、もう腕の中へ収まるほど小さくなかった。


「行っておいで、辰」


「はい」


「今度は、名を呼ばれても振り返ってよいのですよ」


辰は笑いながら泣いた。


「はい」



北への旅は長かった。


山を越え。


川を渡り。


空気が少しずつ冷たくなっていく。


ある宿場で、荷運びの少年が熱を出した。


家臣たちは先を急ごうとした。


雪が降る前に、北へ入りたかったからだ。


「奥方様をお待たせするわけには参りませぬ」


家臣が言った。


辰は少年の額へ手を当てた。


熱い。


「待たせているのは、わたくしではありません」


「では、誰を」


「この者の帰りを待つ者です」


辰は旅程を止めた。


湯を沸かし、身体を拭き、薄い粥を作った。


信枚は反対しなかった。


むしろ、先を急ごうとする家臣へ命じた。


「薪を集めよ」


少年の熱が下がるまで、二人は宿へ残った。


その夜、信枚が辰へ尋ねた。


「いつも、あのようにするのか」


「何をでございますか」


「人を待つ」


辰は湯をかき混ぜながら答えた。


「待ってもらえなかった人を、知っておりますので」


信枚は、それ以上聞かなかった。


辰も、まだ父の話をしなかった。


夫婦になるには、まだ時間が必要だった。



津軽の雪は、辰の知る雪ではなかった。


空から落ちてくるというより、地と空が一緒に白くなる。


道は消え。


畑も消え。


屋敷の門まで、雪へ埋もれた。


辰は馬から降り、しばらく動けなかった。


「驚いたか」


信枚が尋ねた。


「はい」


「戻りたくなったか」


辰は足元の雪を踏んだ。


深く沈む。


「まだ、屋敷にも入っておりません」


門番が頭を下げた。


馬方たちは荷を降ろしている。


辰は家臣へ言った。


「先に、あの方々へ湯を」


信枚が苦笑した。


「そなた自身が、まだ屋敷へ入っておらぬぞ」


辰は門番たちを見た。


手は赤く、髭には霜がついている。


「皆も、まだ帰っておりませぬ」


大釜が、津軽で初めて火へ掛けられた。


白い湯気が、雪国の空へ立った。



津軽の者すべてが、辰を歓迎したわけではない。


敗軍の将の娘。


豊臣方の残り火。


殿を惑わせる女。


陰で、そう呼ぶ者もいた。


辰は聞こえないふりをしなかった。


家臣たちの前へ出た。


「疑われる理由は承知しております」


皆が顔を伏せた。


「わたくしの父は、徳川殿と戦い、敗れました」


部屋の空気が固くなる。


「それを隠すつもりはありません」


辰は頭を下げた。


「言葉で信じていただこうとも思いません」


顔を上げる。


「暮らしを、見てください」


最初の冬。


薪が不足した。


井戸の周りが凍り、湯を沸かす水さえ足りなくなった。


辰は屋敷の者を集めた。


病人と老人を先にする。


一つの火で飯と湯を賄う。


使った湯は捨てず、洗い物や掃除へ回す。


最後の一椀まで、誰に渡ったかを確かめる。


「お福」


「はい」


「弥助」


「はい」


「さよ」


「おります」


一人ずつ名を呼び、返事を聞く。


佐和山で、三男がしたように。


ある日、雪かきから戻った若い家臣が言った。


「奥方様」


辰が振り返る。


それまで彼は、辰を一度も奥方と呼ばなかった。


「湯を、一椀いただけますか」


辰は笑った。


「もちろんです」


それから少しずつ。


辰は石田の娘ではなく、津軽家の奥方になっていった。



夫婦になったのは、祝言の日ではなかった。


雪の夜。


信枚が政務から戻った。


顔には疲れがにじんでいた。


辰は何も尋ねず、白湯を置いた。


信枚は黙って飲んだ。


一椀を飲み終えてから言った。


「なぜ、何があったか聞かぬ」


「話したくなられたときに、お聞きします」


「妻なら、夫のことを知りたくはないか」


「帰ってすぐ問い詰められては、帰る場所になりませぬ」


信枚はしばらく椀を見つめていた。


「徳川から文が来た」


辰の指が止まる。


「津軽が生き残るには、従わねばならぬ」


「存じております」


「そなたの父を殺した家に」


辰は目を伏せた。


「わたくしは、徳川を許しておりません」


信枚の顔が強張る。


「ですが、あなた様まで憎むつもりもございません」


「私が徳川に従ってもか」


「従うことと、心まで差し出すことは違います」


かつて母から教えられた言葉が、形を変えて口から出た。


隠すことと、忘れることは違う。


従うことと、捨てることも違う。


信枚は、もう一椀を求めた。


辰が湯を注ぐ。


二人は夜更けまで話した。


父のこと。


津軽家のこと。


家を背負う怖さ。


生き残るために頭を下げる悔しさ。


時に声を荒らげた。


辰は、信枚の言葉に傷ついた。


信枚も、辰の怒りから逃げなかった。


翌朝。


二人は同じ釜から白湯を飲んだ。


すべてを分かり合ったわけではない。


ただ、怒ったままでも同じ朝を迎えられると知った。


その日から、二人は夫婦になった。



春。


雪解けの水が、屋敷の脇を流れた。


辰は水面へしゃがんだ。


「白那さま」


返事はない。


「わたくしは、ここで生きております」


水面が、わずかに揺れた。


風はなかった。


その向こうから、


「くぁ」


と聞こえた気がした。


辰は河童の欠けた椀を水へ浸した。


「湯は、沸かしております」


水紋が一つ。


二つ。


北へ向かって流れていった。



慶長十八年。


徳川から、婚姻の話が届いた。


家康の養女・満天姫を、信枚の正室として迎えよ。


信枚は辰へ、すぐに言えなかった。


だが、屋敷の空気が変わった。


家臣たちが辰の前で話を止める。


江戸から来た使者が、辰と目を合わせない。


辰は自ら、信枚の部屋へ行った。


「わたくしの知らぬところで、また、わたくしの居場所が決められるのですか」


信枚は答えられなかった。


その沈黙が、答えだった。


「満天姫様を、正室として迎える」


「では、わたくしは」


「大舘へ移ってもらいたい」


上野国大舘。


津軽家が持つ、遠い飛び領地。


辰は笑おうとした。


笑えなかった。


「父上の娘であるために、名を隠しました」


声が震える。


「今度は、あなた様の妻であるために、妻の名を捨てよと申されるのですか」


「守るためだと申せば、そなたは余計に傷つくだろう」


「ええ」


「これは津軽を守るためであり――」


「わたくしを傷つける、あなた様の選択です」


信枚は目を閉じた。


「そうだ」


言い訳をしなかった。


「これは、私の弱さだ」


辰は、その夜、夫と同じ部屋では眠らなかった。


翌日も。


その次の日も。


台所へは立った。


皆へ湯も出した。


だが、信枚の椀だけは、別の者へ運ばせた。


物分かりよく受け入れることは、できなかった。


父を失ったときと同じだった。


政治という大きな言葉が、いつも家族の小さな暮らしを踏み潰す。


辰は怒った。


泣いた。


信枚を責めた。


それでも、逃げるように大舘へ行くことだけはしなかった。


満天姫と、会うことを望んだ。



満天姫は、徳川の威光を背負っていた。


だが、その顔には、長い旅の疲れがあった。


辰と満天姫は、向かい合って座った。


しばらく、どちらも口を開かなかった。


満天姫が先に言った。


「わたくしが参れば、そなたは正室ではなくなる」


「存じております」


「憎んでおろう」


辰は正直に答えた。


「お顔を見るまでは、憎むつもりでおりました」


満天姫の目がわずかに細くなる。


「今は違うと?」


「まだ、分かりません」


辰は白湯を注いだ。


満天姫の前へ置く。


「まず、お手を温めてください」


「毒は入っておらぬか」


「入れたいと思ったことはございます」


満天姫が辰を見る。


辰も目を逸らさない。


やがて満天姫が、小さく息を吐いた。


「正直な女だ」


「あなた様も、わたくしを見定めに来られたのでしょう」


「三成の娘が、どのような女かと思うた」


「わたくしも、家康公の娘が、どのような方かと思っておりました」


「わたくしは、実の娘ではない」


「養女であっても、その名で嫁がされるのでしょう」


満天姫の手が止まった。


辰は静かに続けた。


「あなた様が望まれた婚姻ではございますか」


満天姫は答えなかった。


その沈黙で、辰には分かった。


満天姫もまた、行き先を決められた女だった。


辰は、すぐに彼女を許したわけではない。


友になったわけでもない。


ただ、憎むべき徳川という大きな影の向こうに、一人の女がいると知った。


「我らが憎み合えば」


辰は言った。


「我らの行き先を決めた方々が、安堵なさるでしょう」


満天姫が白湯を一口飲む。


「それだけは、してやりたくないな」


初めて、二人の目が同じものを見た。



大舘へ移る前日。


辰は津軽で使っていた大釜を運ばせようとした。


女中たちが止めた。


「奥方様。この釜までなくなれば、次の冬を越せませぬ」


辰は釜へ手を置いた。


この釜で、何人を温めただろう。


この前で、信枚と何度話しただろう。


佐和山から持ってきたものではない。


津軽で、皆と育てた釜だった。


「では、ここへ残します」


「よろしいのですか」


「釜は、持ち主とともに去るものではありません」


辰は女中たちを見た。


「帰ってくる者を待つために、ここへ残します」


大舘では、新しい釜を作ればよい。


湯番が変わっても。


場所が変わっても。


湯は沸かせる。



出立の朝。


信枚は辰を見送った。


「必ず大舘へ行く」


辰はすぐには答えなかった。


「哀れだから来られるのであれば、お越しにならないでください」


「では、何であればよい」


「会いたいと思われたときに、お越しください」


信枚は苦く笑った。


「ならば、何度でも行くことになる」


辰は、初めて夫の顔をまっすぐ見た。


怒りは消えていない。


寂しさも。


それでも、夫婦であることを、政治へすべて奪わせたくはなかった。


「お待ちしております」


別れの言葉ではなく。


帰りを待つ言葉を選んだ。



上野国大舘。


そこは津軽から遠く離れた飛び領地だった。


辰を迎えた人々の目には、同情があった。


正室の座を追われた姫。


殿に捨てられた女。


辰は、屋敷へ入る前に、そこにいる者を全員集めた。


代官。


家臣。


女中。


馬方。


下働きの子供。


一人ずつ名を尋ねた。


「弥左衛門」


「はい」


「お春」


「おります」


「清吉」


「はい」


最後の一人まで、返事を聞いた。


「わたくしは、ここへ捨てられたのではありません」


辰は皆の前で告げた。


「ここで暮らすために参りました」


そして最初に命じた。


「大きな釜を、一つ、作ってください」


人々は顔を見合わせた。


「御前様。まずは御殿の調度を――」


「釜が先です」


「なぜでございますか」


辰は大舘の門を見た。


旅人が行き交う道。


江戸と津軽をつなぐ道。


「ここにも、帰ってくる者がおりましょう」


やがて辰は、大舘御前と呼ばれるようになった。



大舘の水は、津軽の水とは違った。


雪解けの鋭い冷たさではなく、大きな川の重さを持っていた。


辰は井戸を見て回った。


水路を歩いた。


旅人が休める場所を作った。


冷えた者へ湯を出す場所。


濡れた身体を拭ける場所。


子供へ粥を食べさせる場所。


人々はそこを、


「御前様の湯所」


と呼ぶようになった。


ある年、大雨が降った。


川があふれ、田畑が水に沈んだ。


農家の者たちが、陣屋の門へ押し寄せた。


家臣が辰を止めた。


「陣屋へ百姓を入れてはなりませぬ」


「なぜです」


「何者が紛れているか分かりません」


辰は、ずぶ濡れの子供を見た。


震える老人を見た。


「門を守るのは、敵を入れぬためです」


家臣をまっすぐ見た。


「帰ってきた者を、締め出すためではありません」


門が開かれた。


辰は濡れた者の人数を数えた。


一人ずつ名を聞いた。


釜を二つ。


三つ。


火へ掛けた。


湯を沸かし。


粥を作り。


夜通し、人々を迎え続けた。


夜が明けた頃。


辰は釜のそばへ座り込んだ。


疲れ切っていた。


一人の老女が、白湯を持ってきた。


「御前様」


「何でしょう」


「今度は、御前様の番にございます」


辰は椀を受け取った。


自分が動けなくても、誰かが湯を差し出してくれる。


小さき湯番は、もう一人ではなかった。



信枚は、本当に大舘へ来た。


最初の訪れは、春だった。


道中の泥で、袴の裾まで汚れていた。


辰は門まで駆け寄らなかった。


湯所で、いつものように白湯を用意した。


「お久しゅうございます」


「もっと喜んでもよいのではないか」


「会いたいと思われて来られましたか」


「そうでなければ、ここまで来ぬ」


辰は椀を差し出した。


「では、お帰りなさいませ」


信枚は白湯を飲み、大舘の屋敷を見回した。


旅人が休んでいる。


百姓の子が粥を食べている。


家臣と女中が同じ釜の前で働いている。


「私がいなくとも、ここを作ったのだな」


辰は首を横に振った。


「あなた様が来られる場所も、必要でしょう」


その夜。


二人は、離れていた間のことを話した。


辰は、自分を大舘へ送った信枚をまだ許していないと言った。


信枚は、許されようとは思わないと答えた。


「ならば、なぜ来られたのです」


「許されなくとも、会いたかった」


辰は泣いた。


信枚も、初めて弱さを見せた。


政治によって引き裂かれた二人が。


夫婦でいることを、もう一度、自分たちで選んだ夜だった。


翌朝。


信枚が馬へ乗る。


辰は門で見送った。


「また、お帰りください」


それから信枚は、江戸と津軽を往来する折、大舘へ立ち寄った。


春。


泥だらけの信枚へ湯を出した。


夏。


二人で大きな川のほとりを歩いた。


秋。


辰は父が柿を食べなかったという話をした。


冬。


同じ火鉢の前で、何も話さず座った。


夫婦の年月は、劇的な誓いではなく。


何度も帰ることによって積み重なった。



辰が子を宿したと知った夜。


喜びより先に、恐怖が来た。


石田三成の孫。


徳川にとって、危うい血と思われるかもしれない。


津軽家の跡目を争う旗にされるかもしれない。


父の無念を背負わせようとする者が、現れるかもしれない。


辰は、まだ膨らみの目立たぬ腹へ手を置いた。


「そなたを、仇討ちの道具にはいたしません」


水面が揺れた。


辰は顔を上げた。


薄暗い部屋の水鉢に、幼い少女の姿が映っていた。


あの日とほとんど変わらない白那。


「白那さま」


「久しいな」


「少しも大きくなられませんね」


「再会して最初に申すことが、それか」


辰は笑った。


白那は腹へ目を向けた。


「恐ろしいか」


「はい」


「何がじゃ」


「この子が、わたくしの父の無念を背負わされることが」


白那は鼻を鳴らした。


「子は、親の無念を背負うために生まれるのではない」


「では、何のために生まれるのです」


「知らぬ」


辰は目を瞬いた。


白那は堂々と続けた。


「それを見つけるために、生きるのであろう」


水鉢の横に置いた欠けた木椀が、かすかに揺れた。


「くぁ」


遠い水の底から、聞こえた気がした。


辰は腹を撫でた。


「そなたは、そなたのために生きなさい」



元和五年、正月一日。


大舘で、男児が生まれた。


産声が屋敷へ響いた。


信枚は、間に合わなかった。


大雪と増水で、道が遅れていた。


辰は疲れ切った顔で、赤子を抱いた。


「父上は、遅い方ですね」


赤子が泣く。


「大丈夫です」


辰は小さな手を、温かな布で包んだ。


「帰ってこられます」


産湯の水面が揺れた。


幼い白那の姿が映る。


「ずいぶん待たせおったな、小さき湯番」


辰は泣きながら笑った。


「白那さまこそ」


釜のそばの木椀も、かすかに動いた。


「くぁ」


今度は、はっきり聞こえた。


「河童さまも」


白那が赤子を見る。


「その子が、そなたの帰る場所か」


辰は首を横に振った。


「いいえ」


赤子の頬へ触れる。


「この子が、いつか帰ってこられる場所を作ります」


白那は満足そうに笑った。


「ならば、まだ湯番を辞められぬな」


「はい」


辰は赤子を抱き直した。


「湯は、絶やしておりませぬ」


数日後。


信枚が大舘へ駆け込んできた。


泥と雪にまみれ、息を切らしていた。


辰は怒った。


「遅うございます」


「すまぬ」


「この子は元日に生まれました」


「聞いた」


「父上を待たずに」


「それも聞いた」


信枚は恐る恐る、赤子を抱いた。


「名は」


「まだです」


信枚は、小さな顔を見つめた。


後に信義と名乗る子。


辰は赤子へ言った。


「勝てとは申しませぬ」


信枚が顔を上げる。


「名を残せとも申しませぬ」


赤子の指が、辰の指を握る。


「ただ、帰ってきた者へ、温かいものを出せる人になりなさい」



子が歩くようになると、辰は団子を半分にした。


一つを息子へ。


一つを、そばにいた下働きの子へ。


息子が不満そうに頬を膨らませる。


「全部ほしい」


「一人で食べれば、一人しか笑えません」


「半分なら?」


「二人で笑えます」


息子はしばらく考え、半分の団子を隣の子へ渡した。


辰は笑った。


食事の前には人数を数えた。


一人でも遅ければ待った。


使用人にも同じ釜の湯を出した。


泣く息子へ、泣いてよいと言った。


ある日。


息子が尋ねた。


「母上の父上は、強かったのですか」


辰は、すぐには答えなかった。


「強いばかりの人ではありませんでした」


「弱かったの?」


「間違いもしました。迷いもしました」


「悪い人?」


辰は息子を膝へ抱いた。


「人は、良いか悪いかだけでは決まりません」


「では、どんな人?」


湯気が二人の間を上がる。


「帰ってくる者を、待とうとした人です」


英雄にも。


罪人にもせず。


辰は、自分の父を次の世代へ渡した。



信義の誕生を知った満天姫から、着物が届いた。


幼子用の、温かな衣だった。


添えられた文は短い。


――津軽の子へ。


辰は、しばらく着物へ触れられなかった。


徳川の女から届いたもの。


自分から正室の座を奪った女から届いたもの。


だが、着物には罪がない。


子供にもない。


辰は息子へ着せた。


よく似合った。


満天姫への返事には、一行だけ書いた。


――この子の手は、よく温まりました。


しばらくして返事が来た。


――それは、何よりにございます。


二人は友にはならなかった。


すべてを許し合ったわけでもない。


ただ、一人の子を通して。


少しずつ、敵ではなくなった。



元和九年。


辰は病に伏した。


まだ若かった。


最初は、すぐに治ると思っていた。


熱が下がれば、また湯所へ立つつもりだった。


だが、身体は少しずつ動かなくなった。


ある朝。


辰は起き上がろうとして、床へ倒れた。


「御前様!」


人々が駆け寄る。


辰は、湯所から上がる煙を見た。


「火が……」


「大丈夫です。釜は沸いております」


老女が白湯を持ってきた。


かつて辰へ、


「今度は御前様の番です」


と椀を差し出した女だった。


辰は両手で椀を受け取った。


自分が立てなくても。


湯は沸いている。


自分がいなくても。


誰かが、冷えた者へ椀を渡している。


「そうですか」


辰は安心したように笑った。


「ならば、大丈夫です」



辰は満天姫へ、最後の文を書いた。


筆を持つ手は震えた。


何度も休みながら、言葉を記した。


――わたくしは、あなた様を憎もうとしたことがございます。


――今も、すべてを許したとは申せません。


――けれど、あの子には、我らの憎しみを渡したくありません。


――母になってほしいとは申しません。


――ただ、あの子が冷えた手で帰ったとき。


――温かなものを一つ、差し出していただければ、それで十分です。


返事は、辰が生きているうちに届いた。


――津軽の子を、冷えたままにはいたしませぬ。


辰は何度も、その一文を読んだ。


「よかった」


誰に言うでもなく、そう呟いた。



夜。


枕元の水が揺れた。


白那が現れた。


姿は、佐和山で別れた頃と変わらない。


辰は弱々しく笑った。


「本当に、少しも大きくなられませんね」


「そなたは、ずいぶん大きくなった」


白那は初めて、まっすぐにそう言った。


辰の目から涙がこぼれた。


「わたしは、湯番を務められましたか」


白那の眉が上がる。


「愚か者」


「やはり、まだ足りませんか」


「務め終えようとするでない」


白那は、部屋の外を見た。


湯所では、人々が釜へ薪をくべている。


「そなたが沸かした湯は、もう他の者の手へ渡っておる」


「はい」


「湯番は、そなた一人ではなくなった」


辰は目を閉じた。


佐和山の祠。


母が結んだ紐。


三男の傷ついた手。


河童の欠けた椀。


高台院が呼んでくれた名。


津軽の雪。


信枚が何度も帰ってきた道。


大舘の大釜。


息子の小さな手。


「白那さま」


「何じゃ」


「ここも、帰る場所になりました」


白那は、静かに頷いた。


「そうか」


それだけだった。


けれど、辰には十分だった。



信枚が大舘へ着いたのは、辰の容体が重くなってからだった。


辰は、夫の顔を見て笑った。


「今度も、遅うございます」


「すまぬ」


信枚は辰の手を握った。


「戻れ」


声が震えていた。


「私を叱れ。まだ許しておらぬと言え」


「許しておりません」


辰は、かすかに笑う。


信枚も泣きながら笑った。


「ならば、まだ死ねぬだろう」


「困りましたね」


枕元には、母の紐。


佐和山の小石。


河童の欠けた木椀。


そして、白湯の椀があった。


信義が、母の隣へ座っている。


まだ幼い。


辰は息子の手を握った。


「帰っておいで」


「どこへ?」


「どこまで行っても、帰っておいで」


「母上は?」


辰は、少しだけ言葉を止めた。


「湯は、沸かしておきます」


釜の蓋が、遠くで鳴った。


その音に重なるように。


ちりん。


佐和山に残した鈴が鳴った。


辰は目を閉じた。


父が迎えに来る幻は見なかった。


母も。


兄も。


誰も、辰を死の方へ呼ばなかった。


ただ、遠い水の向こうから、白那の声がした。


「よう務めた、小さき湯番」


辰の口元に、穏やかな笑みが浮かんだ。


小さき湯番は。


湯を残して、逝った。


挿絵(By みてみん)



辰が亡くなったあとも、大舘の釜は沸き続けた。


津軽に残した釜からも、冬ごとに白い湯気が立った。


息子は大舘を離れた。


江戸へ。


そして、やがて北へ。


津軽家を継ぐために。


出立の日。


信義は、母が残した欠けた木椀を手にした。


「これは、何です」


老女が答えた。


「御前様を、佐和山からお守りした方の椀にございます」


「人ですか」


「さて」


老女は笑った。


「水の中に住む方だったとか」


信義は椀を荷へ入れた。


大舘の者たちが、門の前へ並ぶ。


一人ずつ。


名を呼び。


返事を聞く。


信義は最後に、大釜を見た。


白い湯気が空へ上っている。


佐和山から京へ。


京から津軽へ。


津軽から大舘へ。


そして大舘から、再び北へ。


小さき湯番が運んだものは、血だけではなかった。


人を待つこと。


冷えた手を温めること。


帰ってきた者へ、椀を差し出すこと。


名を奪われても。


城を失っても。


父が敗れても。


人が人へ渡したものまでは、滅びない。


大舘の冬空へ上った湯気は、風に押され、ゆっくりと北へ流れていった。


その遥か先で――


佐和山に残した鈴が、もう一度、鳴った。



――こぼれ話。


大舘で生まれた辰姫の子は、のちに津軽信義と名乗り、弘前藩三代藩主となった。


佐和山から遠い北国に、石田三成の血は藩主の血として残ったのである。


そして、生き残ったのは、小さき湯番の血だけではない。


長女の家もまた、辰姫との縁を通じ、津軽へつながったと伝わる。


次女・小石殿の血は、岡家から徳川家へ入り、尾張徳川家、二条家、九条家を経て、遠い後世の貞明皇后へ受け継がれたという。


貞明皇后は大正天皇の皇后となり、昭和天皇の母となった。


関ヶ原に敗れ。


佐和山を失い。


石田の家は滅びた。


そう記した歴史もある。


けれど、子供たちは生きた。


名を変え。


家を変え。


暮らす土地を変えながら。


それでも、生きた。


城の石垣に残らなかったものが、人の血に残った。


人の暮らしに残った。


湯気に姿を変え、思いもよらぬほど遠い時代へ流れていった。


敗れても。


帰る場所は、残るのである。


※史実上、辰姫は石田三成の三女で高台院の養女とされ、満天姫の輿入れ以前には津軽信枚の正室として扱われたとする資料があります。大舘で元和五年に生まれた信義は、のちに弘前藩三代藩主となりました。

辰姫の大舘移住、信枚が往来の折に訪ねたという話、元和九年の死去、満天姫が後に信義を支えたという部分には伝承を含みます。

こぼれ話の貞明皇后へ続く系譜は、次女・小石殿の系統として伝えられるものを採用しています。


ここまでお読みくださり、ありがとうございました。


佐和山で団子を半分にし、帰る者のために鈴を残した小さき湯番。


その少女が辰姫と呼ばれ、妻となり、母となり、やがて大舘御前として人々の帰る場所を作っていく――この物語は、本作を構想した当初から、いつか必ず書きたいと思っていた一話でした。


辰姫の生涯には史実と複数の伝承が残されています。本話ではそれらを土台としながら、母や三男、白那、河童との別れ、そして津軽や大舘で湯を残していく姿を創作として描いています。


城は落ちても、そこで育ったものまで消えるわけではない。


名や家を失っても、人から人へ渡された温かさは、遠い土地や時代へ流れていく。


それが「北へ流れる湯気」に込めた思いです。


次回、第51湯「長男の記録」。


小さき湯番が生き方で残したものを、今度は長男が文字として残していきます。

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