第五十湯 最後のまかない
関ヶ原から十六日。
石田三成に残された、最後の朝が訪れます。
豪華な膳も、勝者への恨み言もありません。
あるのは、三つの水椀と、粗末な飯。
そして遠く離れた場所で、同じ朝を迎える白那と妻子たち。
死へ向かう者と、生き延びようとする者。
そのどちらも、同じ水と、同じ朝餉でつながっています。
第五十湯「最後のまかない」。
どうぞ、お付き合いください。
関ヶ原の戦いから、十六日が過ぎた。
夜明け前の京は、まだ墨を流したような暗さの中にあった。
格子の隙間から入り込む冷気が、牢の土壁を静かに冷やしている。
小西行長は膝を折り、目を閉じて祈りを続けていた。
唇からこぼれる言葉は小さく、隣に座る者にも聞き取れない。
安国寺恵瓊は、壁に背を預けている。
眠っているようにも見えたが、ときおり指先だけが動いた。
経を数えているのか。
あるいは、残された時を数えているのか。
三成は起きていた。
眠れなかったのではない。
眠ろうとしなかった。
残された時間を、意識のないまま減らしたくなかった。
自分の命が終わる朝を、最後まで見届けるつもりだった。
やがて、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
若い牢番が、両手に盆を抱えて入ってくる。
盆の上には、三つの水椀が置かれていた。
朝餉ではない。
茶でもない。
ただの水だった。
牢番は、一人ずつの前へ椀を置く。
行長は両手で受け取り、頭を垂れた。
恵瓊は水面を覗き込み、鼻を鳴らす。
「最後の茶にしては、葉が足りぬな」
牢番は、笑ってよいのか分からず顔を伏せた。
三成だけは、椀を持ち上げなかった。
澄んだ水面を見つめる。
格子の影が映っている。
そのはずだった。
けれど見つめているうちに、格子は佐和山城の窓へ変わった。
井戸の石組み。
城下へ引かれた水路。
妻子が渡った沢。
吉継へ差し出した白湯。
白那が浸かっていた湯。
そして、遠い未来の湯宿で、毎朝一番に確かめていた浴槽の水面。
実際に映っているわけではない。
そう分かっている。
それでも水だけは、時も場所も越えて、どこへでもつながっているように思えた。
三成が椀の縁へ指を触れる。
水面に、小さな波紋が立った。
一つ。
二つ。
三つ。
風はない。
牢番も触れていない。
祈っていた行長が、わずかに顔を上げる。
恵瓊も目を細めた。
「治部殿。その水に、何かおるか」
三成は指を離さなかった。
冷たい牢へ運ばれてきた水のはずなのに、指先には、かすかな温もりが伝わっていた。
湯冷ましほどの、頼りない温もり。
「いや」
三成は小さく首を振った。
「待っている者がおるだけだ」
恵瓊が片眉を上げる。
「水の底にか」
「遠いところにな」
行長は、それ以上尋ねなかった。
静かに目を閉じ、再び祈りへ戻る。
三成は椀を口へ運ぼうとした。
だが、その直前で止める。
水面の向こうに、白い髪が見えた気がした。
幼い姿。
尊大に腕を組み、いつものように不機嫌そうに眉を寄せた少女。
――何をためらっておる。飲め。
白那なら、きっとそう言う。
三成はわずかに笑い、一口だけ水を飲んだ。
喉を通る水は冷たい。
けれど腹の奥へ落ちる頃には、不思議なほど温かかった。
◇
同じ頃。
山中にある粗末な小屋にも、夜明け前の冷気が入り込んでいた。
板壁の隙間から風が吹くたび、吊るされた布がかすかに揺れる。
逃亡の疲れから、子らは身を寄せ合って眠っていた。
白那だけが起きている。
正確には、ほとんど眠れていなかった。
力を使い果たした身体は幼く縮み、顔色も悪い。
立ち上がるだけで膝が震える。
それでも誰かへ手を伸ばすことはせず、小屋の隅にある水桶まで歩いた。
小さな椀に水を汲む。
それを、自分の前ではなく、誰も座っていない場所へ置いた。
昨夜から空けられている席。
夫が来るかもしれないと、妻が誰にも座らせなかった場所だった。
三成が来る可能性など、もうほとんど残っていない。
それでも、誰もその席を片づけなかった。
白那は椀の前へ座り、指先を水へ触れた。
水面は静かだった。
静かすぎた。
水は動くものだ。
山から流れ、川へ入り、海へ落ち、雲となり、再び雨となる。
完全に止まることなどない。
けれど今朝の水は、何かを待つように息を潜めていた。
背後で衣擦れの音がした。
妻が目を覚ましていた。
白那の小さな背中と、その前に置かれた水椀を見つめている。
しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに尋ねた。
「あの方は、今どちらに」
白那は振り返らない。
「知らぬ」
「水守にも、分からぬのですか」
「妾は水守じゃ。千里眼ではない」
いつも通りの尊大な答え。
だが、その声はかすれていた。
妻は気づいても、口には出さなかった。
白那の隣へ膝をつく。
一つの水椀を挟み、二人は黙って座った。
小屋の外では、夜の虫が最後の声を鳴らしている。
「今朝でしょうか」
妻が言った。
何が、と白那は聞かなかった。
妻も、その先を口にしなかった。
言葉にすれば、それが現実になってしまうような気がした。
水面に置かれた白那の指が止まる。
「勝手に決めるでない」
「……はい」
「あの男は、死に際まで面倒を増やす。まだ何かしでかしておるやもしれぬ」
「はい」
妻の二度目の返事には、ほんの少しだけ笑いが混じった。
三成を知る者にしか分からない笑いだった。
白那は横目で妻を見る。
「笑うところではない」
「申し訳ございません」
そう答えながらも、妻の口元にはまだ、かすかな笑みが残っていた。
やがて妻は立ち上がり、炉へ向かった。
米は少ない。
逃げる途中で分けてもらった麦と、砕けた米。
干した菜。
塩が、わずかにあるだけだった。
小鍋に水を注ぎ、麦と米を入れる。
水音に気づいたのか、三男が目を覚ました。
昨夜も最後まで幼い者の数を確かめていたため、目の下には疲れが残っている。
それでも自分の腹ではなく、先に弟妹たちを見た。
一人。
二人。
三人。
目で確かめ、妻へ告げる。
「皆、おります」
白那が言った。
「見れば分かる」
三男は真面目な顔で答える。
「父上に、確かめよと言われました」
白那の表情が固まった。
三男は気づかず、眠る幼い者たちの名を一人ずつ呼んでいく。
呼ばれた子が、眠そうに返事をする。
最後に、小さき湯番が目を覚ました。
逃亡の時から離さなかった鈴を、今も手に握っている。
少女は空いている場所の椀を見つけた。
「父上の、お水?」
妻は答えられなかった。
三男も口を閉ざす。
白那が代わりに答えた。
「そうじゃ」
「父上、来る?」
小屋の中から、音が消えた。
鍋の中で、水だけが小さく鳴っている。
白那は、子どもへ嘘をつくこともできなかった。
残酷な真実を告げることもできなかった。
鈴を握る小さな手へ目を落とす。
「来るかどうかは、あの愚か者が決める」
「じゃあ、待つ」
「好きにせよ」
小さき湯番は、父の水椀の隣へ鈴を置いた。
帰ってきたなら、すぐに鳴らせるように。
妻が顔を背けた。
白那は低く言う。
「泣くな」
「泣いてはおりません」
「ならば飯を炊け」
「……はい」
「子らに食わせよ。そなたも食え」
妻は小鍋を見つめた。
「喉を通るでしょうか」
白那の声が強くなる。
「通せ」
小屋の全員が、白那を見た。
幼い姿。
弱り切った身体。
座っていることさえ苦しいはずの水守。
それでも声だけは、佐和山にいた頃と変わらなかった。
「食わねば歩けぬ。歩けねば、生き残れぬ」
白那は水椀から指を上げる。
「生き残らねば、あの男がしたことが、すべて無駄になる」
妻が、ゆっくりと白那を見た。
「そなたらを逃がすために、何人が道を開けたと思うておる」
白那の目に、逃亡の夜が映っていた。
傷ついた者。
幼い子を背負った者。
飯を分けた者。
名を捨てた者。
暗い水路で、泥を退けた小さな手。
「飯を分けた者がおる。傷ついた者を背負った者がおる。名を捨てた者がおる」
白那は、一人ずつを思い出すように言った。
「ゆえに食え」
妻の唇が震える。
「生き残ることを、遠慮するでない」
妻はしばらく黙っていた。
やがて深く頭を下げる。
「承知いたしました」
妻は椀を並べ始めた。
子どもたちの分。
三男の分。
自分の分。
白那の分。
そして最後に、誰も座らない場所へ一つ。
白那が言う。
「その椀は、下げるな」
妻の手が止まる。
「ですが、冷めてしまいます」
「冷めれば、また温めればよい」
白那は空いた席の水椀を見つめた。
「湯とは、そういうものじゃ」
◇
牢へ、再び若い牢番が入ってきた。
今度は、小さな鍋を抱えている。
「朝餉は、これしか用意できませぬ」
鍋の中には、冷えた麦飯の残りと、薄い菜の汁が入っていた。
鍋底には、固くなった飯粒がこびりついている。
恵瓊が中を覗く。
「坊主三人を満たすには足りぬな」
行長が静かに言った。
「治部殿は坊主ではなかろう」
「今日、首を落とされれば、皆似たようなものよ」
若い牢番の顔がこわばる。
三成は鍋を見た。
「これしか、ではない」
牢番が顔を上げる。
「これだけあれば、飯になる」
三成は、残っていた水椀を差し出した。
「鍋へ入れよ」
「水を、ですか」
「鍋底の飯をほどく。火へ戻せ」
牢番は戸惑ったものの、言われた通りにした。
水を足し、薄い菜の汁を混ぜ、鍋を火へ戻す。
三成は、ここへ来てから初めて、生き生きとした目をしていた。
飯の量。
水の加減。
火の強さ。
鍋底の焦げ具合。
立派な膳ではない。
宿で客へ料理を出し終えたあと、残った材料を集めて作る、粗末な飯。
湯気が立ち始める。
三成が言った。
「客へ出す膳ではないな」
恵瓊が尋ねる。
「では、何だ」
三成は、鍋底から剥がれていく飯粒を見つめた。
「まかないだ」
「最後の朝餉が、まかないか」
「最後には、これくらいがよい」
三成は若い牢番を見る。
「そなたは、朝を食うたか」
牢番は目を瞬いた。
「いえ。役目が終わってから」
「そうか」
鍋が温まると、三成は四つの椀を用意させた。
行長。
恵瓊。
三成。
そして牢番。
牢番は慌てて首を振った。
「罪人の飯を、役目の者が食うわけには」
「罪人が作ったのではない。そなたが火へかけた飯だ」
「しかし」
「腹を空かせたまま人を送れば、足を誤る」
三成は椀を牢番へ差し出した。
「今日、帰らねばならぬ者が食え」
帰らねばならぬ者。
その言葉に、牢番は何も返せなくなった。
行長は祈りを終え、椀を受け取る。
恵瓊は一口すすり、口元を緩めた。
「焦げも悪くない」
「それは褒めておるのか」
「死ぬ前の坊主に、細かいことを言うでない」
三成は、自分の椀よりも先に、三人の手元を見ていた。
行長が食べる。
恵瓊が食べる。
牢番が、震える手で一口を口へ運ぶ。
三成はそれを見届けてから、ようやく自分の椀を持ち上げた。
「治部殿」
恵瓊が言う。
「最後まで、人の椀の中身が気になるか」
三成は、まかないを一口すすった。
「飯を出した者は、食い終わるまで見届けるものだ」
◇
山中でも、妻が小鍋の蓋を開けていた。
白那が中を覗く。
「水を足せ」
「これ以上薄くなれば、味が」
「構わぬ。皆へ行き渡らせよ」
妻が水を注ぐ。
白那は、子どもたちへ椀が渡るのを一人ずつ確かめた。
三成も京で、四つの椀を見ている。
白那も山中で、並んだ椀を見ている。
離れた場所で、二人は同じように飯を増やした。
三成は、あるもので人の腹を満たした。
白那は、あるもので人を生かそうとした。
子どもたちが粥を口へ運ぶ。
三男も食べる。
妻は一度ためらったが、白那に睨まれ、椀を持ち上げた。
白那だけが食べようとしない。
「白那様も」
妻が促す。
「妾はよい」
「食わねば歩けぬと、今おっしゃいました」
白那が妻を睨む。
妻は視線をそらさない。
しばらくにらみ合った末、白那は鼻を鳴らした。
「そなた、あの男に似てきたな」
「光栄にございます」
「褒めておらぬ」
白那は仕方なく椀を取った。
その瞬間。
空いた席に置かれた水椀に、波紋が立った。
白那の表情が変わる。
急いで水面へ手を触れる。
かすかな温もり。
遠く離れた場所で、誰かが水を口へ含んだ気配。
姿は見えない。
声も届かない。
だが、それだけは分かった。
まだ生きている。
妻が尋ねる。
「あの方は」
白那は水面を見つめたまま答える。
「まだ生きておる」
妻は目を閉じた。
喜びはしなかった。
今日が何の日か、分かっているからだ。
それでも、まだ、という言葉へすがる。
「そうですか」
「うむ」
白那は薄い粥を一口、口へ入れた。
同じ頃、三成も最後のまかないを口へ運んでいた。
二人の前にあるのは、同じように薄く、同じように粗末な飯。
最初で最後の、遠く離れた相膳だった。
三成が小さく呟く。
「食うておるか」
山中で白那が、誰にともなく答えた。
「そなたに言われずともな」
声は届かない。
それでも京の水面が、一度だけ揺れた。
三成は、ほんの少し笑った。
◇
朝餉が終わると、三人は牢を出された。
空はすっかり明るくなっていた。
京の道には、すでに多くの者が集まっている。
罵声を浴びせる者。
笑う者。
一目見ようと背伸びをする者。
黙って手を合わせる者。
子どもの目を覆う母親。
三成は前を向いて歩いた。
縛られた腕は痛む。
足の裏には、硬い道の感触がある。
喉も渇いていた。
それでも苦しさを顔には出さない。
強がっているのではない。
自分の苦痛まで、沿道の見世物として渡すつもりがなかった。
道端から声がした。
「せめて、これを」
年老いた女が、一つの柿を差し出している。
よく熟れた柿だった。
秋の日を受け、赤く柔らかそうに光っている。
警護の者が一度は遮ろうとしたが、三成が足を止めると、その手を緩めた。
女は三成の顔をまともに見られず、俯いたまま両手で柿を掲げている。
哀れみか。
かつて受けた恩への礼か。
死ぬ者へ、甘いものの一つでも食べさせたいだけなのか。
三成には分からない。
ただ、その手が震えていることだけは分かった。
三成は柿を見る。
幼い娘が、両手で抱えていた柿。
食べ頃を待てずに指で押し、妻からたしなめられた姿。
佐和山の台所で、熟れすぎた実を料理へ回したこと。
白那が、
「種が邪魔じゃ」
と文句を言いながら、最後まで食べたこと。
一つの実から、幾つもの顔が浮かぶ。
三成の喉が動いた。
食べたくないわけではない。
むしろ、食べたかった。
もう二度と味わえぬ秋の実だと思えば、手を伸ばしたかった。
だが三成は受け取らなかった。
静かに首を振る。
「柿は、痰の毒になる」
一瞬、道が静まった。
やがて周囲から笑いが起こる。
「今さら身体を気遣うのか」
「これから首を刎ねられる男が」
「治部は最後まで理屈ばかりよ」
警護の者まで、困惑した顔で三成を見る。
「治部殿。もう間もなくでござる」
だから、気にする必要はない。
そう言いたいのだろう。
三成は柿を見たまま答えた。
「間もなくであろうと、まだ生きておる」
笑い声が、わずかに弱まる。
「死ぬと決まったからとて、先に身体を捨ててよい理由にはならぬ」
警護の者が黙る。
「この身は、今この刻まで、己一人のものではなかった」
豊臣家に仕える身だった。
領民の訴えを聞く身だった。
妻の夫であり、子らの父だった。
佐和山で待つ者たちの、帰る場所であろうとした。
遠い未来では、宿を預かる者だった。
身体を壊せば働けない。
倒れれば、客を迎えられない。
自分一人が苦しむだけでは済まない。
「預かったものは、最後まで粗末に扱わぬ」
三成は前を向いた。
「命も同じだ」
恵瓊が隣で鼻を鳴らす。
「首を刎ねられるまで、養生するというのか」
「そうだ」
三成は即座に答えた。
「刃が落ちるまでは生きる。死ぬのは、その後でよい」
行長が静かに三成を見た。
勝者は、三成の首を取ることができる。
三成を敗者と呼ぶこともできる。
悪人として名を残すこともできる。
だが、最後までどう生きるかまでは決められない。
三成は老婆へ向き直り、わずかに頭を下げた。
「心遣いは、ありがたく頂く」
柿ではなく、その気持ちを受け取る。
「だが、それは家へ持ち帰られよ。待つ者と食うがよい」
老婆が顔を上げる。
目に涙が浮かんでいる。
「待つ者がおらぬなら、隣の者へ分けられよ」
三成は柿を見た。
「実りは、生きる者の腹へ入る方がよい」
老婆は柿を抱き直し、深く頭を下げた。
三成は再び歩き始める。
しばらくして、恵瓊が小声で尋ねた。
「治部殿。まことに食いたくなかったのか」
三成は少し間を置いた。
「食いたかった」
恵瓊が目を丸くしたあと、声を上げて笑う。
行長も、かすかに口元を緩めた。
「ならば食えばよかったではないか」
「だから断った」
「ますます分からぬ」
三成は前を向いたまま答えた。
「欲しいものを、欲しいまま取るだけなら、獣と変わらぬ」
それだけ言って、口を閉じる。
本当は、もう一つ理由があった。
柿を食べれば、妻子と過ごした秋を思い出す。
娘の声を。
妻の手を。
佐和山の庭を。
帰れない場所の甘さを。
その味を口にした瞬間、自分は六条河原まで歩けなくなるかもしれなかった。
三成は死を恐れていた。
妻子に会いたかった。
佐和山へ帰りたかった。
白那の憎まれ口を、もう一度聞きたかった。
だから、その思いを甘い実で解き放つわけにはいかなかった。
まだ歩かなければならない。
最後の一歩まで、自分の足で。
三成は振り返らない。
ただ胸の中で、妻子へ告げた。
――食え。
――生きよ。
――秋が来るたび、父を思い出す必要はない。
――柿が甘ければ、ただ甘いと言って笑えばよい。
六条河原へ近づくほど、水の匂いが強くなっていった。
◇
河原へ着いた。
空は晴れている。
それなのに、川を渡る風だけが、雨上がりのような匂いを含んでいた。
行長は静かに祈る。
恵瓊は空を仰ぎ、風へ目を細める。
三成は足元を見た。
乾いているはずの土の上に、細い水筋が一本だけ生まれている。
どこから流れてきたものか分からない。
その水は三成の草履の脇を通り、河原の土をかすかに濡らしていた。
水面に、小さな波紋が立つ。
一つ。
二つ。
三つ。
下流から上流へ。
風に逆らい、三成の方へ走ってくる。
佐和山の井戸。
城下を流れた水路。
妻子が渡った沢。
白峰の裏山で聞いた水音。
それらが一本の細い流れとなり、ここまでつながっているようだった。
川岸の枯れ葦が、不自然に揺れた。
根元から、濡れた小石が一つ転がる。
ころり。
ころり、と二度転がり、三成の足元で止まった。
石の表面には、小さな三本指の跡がついていた。
三成は眉を寄せる。
人の指ではない。
鳥とも、獣とも違う。
「……何だ、これは」
川岸の葦が、もう一度揺れた。
子どもほどの影が一瞬だけ水面へ浮かび、すぐに沈む。
ぴしゃり、と水が鳴った。
三成は息を止めた。
佐和山で、濁った井戸が、いつの間にか澄んでいたこと。
崩れた水路が、誰も触れていない夜のうちに通っていたこと。
逃げる妻子の後ろで、追手の足元だけが深い泥へ沈んだこと。
そのたび白那は、何も語らなかった。
語らず、ただ水面を見ていた。
三成は足元の石を見つめる。
「白那の……仲間か」
返事はない。
だが、川の中から小さな手が一度だけ現れ、水面を叩いた。
三成の目が、わずかに見開かれる。
天下を争う武将でもない。
名を記される者でもない。
それでも井戸を掘り、水路を直し、逃げる妻子の足元から泥を退けた者たちがいた。
人ではない。
それでも、佐和山を守った者たちだった。
三成の口元が、ゆっくりと緩んだ。
「……そうか」
もう一度、川の水が鳴った。
「お前たちも、来てくれたのか」
答えの代わりに、水面へ小さな波紋が幾つも広がった。
細い水筋の上へ、白いものが映る。
白い髪。
小さな肩。
尊大に腕を組み、不機嫌そうに眉を寄せる少女。
水が揺れるたびに姿は崩れ、はっきりとは見えない。
「白那」
呼んでも答えはない。
代わりに、水が三成の草履へ触れた。
冷たくない。
かつて白那が差し出した白湯のように、ほんのわずかな温もりがあった。
三成は目を閉じる。
最後に浮かんだのは、戦場でも軍議でもなかった。
吉継と飲んだ白湯。
左近が疑った汁。
清正と正則が囲んだ飯。
妻が整えた膳。
子らが半分に割った団子。
名も知らぬ者たちが直した水路。
白那が偉そうに要求した供物。
湯気の向こうで笑った、名も残らぬ人々。
自分は関ヶ原に勝てなかった。
佐和山も守れなかった。
石田三成として、生きて帰ることもできない。
それでも、飯を食べた者がいる。
水を運んだ者がいる。
妻子を逃がした者がいる。
名を捨てて生きる者がいる。
小さな鈴を握り、父の帰りを待つ者がいる。
自分の敗北の先にも、人の朝は来る。
水は止まらない。
湯は冷めても、また沸かせる。
三成は足元の小石を拾わなかった。
それは、この時代に残る者のものだからだ。
ただ、三本指の跡へ向かって、小さく頭を下げた。
「妻子を頼む」
川岸で、何かが水へ潜った。
ぽちゃん、と音がした。
同時に、水面へ映る白那がこちらを向く。
声は聞こえない。
それでも、唇が動いたように見えた。
――誰に物を申しておる。
いつもの白那なら、きっとそう言う。
三成は、処刑場で初めて笑った。
「頼むのではないな」
白い影を見つめる。
「お前なら、言われずとも守るか」
水面の少女は、ふいと顔を背けた。
その仕草まで、ひどく白那らしかった。
行長の祈りが終わる。
恵瓊は風を受け、最後まで僧らしくも、食えぬ男らしくもある笑みを浮かべていた。
刑吏が位置につく。
三成は空を見なかった。
足元の水を見る。
白那の影の脇で、小さな影が一つ、二つと浮かび、すぐに消えた。
彼らは何も言わない。
助けることもできない。
ただ、見送っていた。
朝、まかないを食べた牢番が近くにいる。
顔を青ざめさせ、唇を噛んでいた。
三成はその男へ言った。
「今夜は、飯を食え」
牢番が目を上げる。
「帰る者を待っている者がいる」
それから三成は、水面へ向かって声を落とした。
「白那」
水面の少女が、こちらを見る。
「佐和山の者を――」
言い終える前に、白那が睨んだ。
声は聞こえない。
だが、三成には分かる。
――最後まで妾に命じるつもりか。
三成は、言葉を変えた。
「……共に、守ってくれ」
白那の影が揺れた。
その隣から、小さな手が水面へ現れ、ぺたりと水を叩く。
承諾なのかどうかは分からない。
だが、もう十分だった。
三成は目を細める。
「世話になった」
◇
遠い山中。
父の席に置かれた水椀が震えた。
小さき湯番の鈴が、一度だけ鳴る。
りん。
誰も触れていない。
妻が息を止めた。
三男が幼い妹の手を握る。
白那は、水椀へ手を入れた。
指先に残っていた温もりが、急速に失われていく。
引き留めようとしても、水は指の間を抜けていく。
「白那様」
妻が呼んだ。
白那は答えない。
泣かなかった。
声も上げなかった。
ただ水へ手を入れたまま、動かなかった。
小さき湯番が、鈴を置いていた父の椀へ手を伸ばす。
両手で抱え、頬を寄せた。
「父上のお水、冷たい」
白那の肩が、ほんのわずかに震えた。
それでも、椀を下げよとは言わなかった。
◇
六条河原。
刑吏の刃が上がる。
三成の目に映ったのは、血ではなかった。
白い湯気だった。
佐和山の朝。
湯宿の浴場。
飯を囲む人々。
妻の笑み。
子らの声。
水面を跳ねる小さな手。
怒った顔でこちらを睨む白那。
刃が落ちる。
河原の水が、一斉に震えた。
音が、遠ざかっていく。
罵声も。
川音も。
祈りも。
最後まで残ったのは、鍋の中で水が沸くような音だった。
ごぼり。
ごぼり。
白い湯気の向こうから、誰かが呼んだ気がした。
――若旦那。
三成は、振り返ろうとした。
だが、それが石田三成を呼ぶ声なのか。
白瀬湊一を呼ぶ声なのか。
もう、分からなかった。
返事をするより先に、すべてが白く閉じた。
遠い山中で、鈴がもう一度鳴ることはなかった。
**関ヶ原から、十六日。**
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
三成の柿の逸話は、死を前にしてなお身体を気遣った話として、今もよく知られています。
本作ではそれを、単なる強がりではなく、
「刃が落ちるまでは生きる」
「預かった命を、自分から粗末には扱わない」
という、三成らしい理と意地として描きました。
本当は食べたかった。
妻子のもとへ帰りたかった。
佐和山へ戻りたかった。
白那の憎まれ口を、もう一度聞きたかった。
それでも最後の一歩まで、自分の足で歩くために、三成は柿を断ります。
そして最後に作ったのは、立派な膳ではなく、四人で分ける粗末なまかないでした。
天下には敗れても、飯を分け、水をつなぎ、誰かを生かすことはできる。
それこそが、湊一が佐和山へ残したものです。
白那も、名も残らぬ水の民たちも、三成を救うことはできませんでした。
けれど、最期まで一人にはしませんでした。
石田三成の命は、六条河原で途切れます。
では、白瀬湊一はどうなったのか。
次回は、挿話「北へ流れる湯気」。
三成が守ろうとした者たちは、悲しみを抱えたまま、それでも生きるために歩き始めます。




