第四十九湯 処刑前の水
関ヶ原は終わりました。
けれど、戦を終わらせるための「最後の政」は、これから始まります。
かつて同じ豊臣政権を支えた徳川家康と石田三成。
憎しみだけでは語れない二人が、勝者と敗者として向き合います。
そして遠く肥後では、加藤清正もまた、三成捕縛の報を受け取ります。
第四十九湯「処刑前の水」。
どうぞ最後までお付き合いください。
田中吉政の兵が山へ入ってきたとき、湊一は逃げなかった。
脇腹の傷を押さえ、木々の間から自ら姿を現した。
「石田治部少輔三成は、ここにおります」
兵たちの槍が、一斉に向けられた。
怖くないはずがなかった。
手は震えていた。
喉は乾いていた。
現代の白峰で帳場に立っていた二十五歳の自分が、胸の奥から叫んでいた。
逃げろ。
まだ死にたくない。
帰りたい。
だが湊一は、背後の山を振り返らなかった。
自分を匿った者たちへ目を向ければ、その視線だけで罪を着せることになる。
兵が縄を掛ける。
荒縄が、痩せた腕へ食い込んだ。
「待て」
馬上から声を掛けたのは、田中吉政だった。
かつて同じ豊臣の政に携わり、いまは家康方として湊一を追う男である。
吉政は馬を下りると、泥にまみれた湊一を見た。
「……その傷は」
「山で転びました」
「刃傷と、転び傷の区別もつかぬと思うたか」
「つかぬふりをしていただければ助かります」
吉政は眉間を押さえた。
「捕らわれた身で、まだ人を使おうとするか」
「働いていただいた方には、礼を申し上げます」
「誰が礼など欲しいと言った」
怒鳴りながら、吉政は兵へ命じた。
「縄を緩めよ。逃げる足など、もう残っておらぬ」
「田中殿」
「何じゃ」
「村の者たちは、この件に関わりありませぬ」
吉政の顔から、わずかな苦笑が消えた。
「……承知しておる」
「山の者に水をもらいました。それだけです」
「承知しておると言うた」
吉政はそれ以上、湊一を見なかった。
だが山を下りる途中、兵が村へ向かおうとすると、短く命じた。
「道が違う。そちらへ行くな」
湊一は顔を上げなかった。
ただ、縄を掛けられた両手を、わずかに握った。
◇
捕らわれた石田三成は、大津へ送られた。
街道には、人が集まっていた。
「逆賊だ」
「石田治部だ」
「あれが天下を乱した男か」
声が飛ぶ。
土が飛ぶ。
小石が足元へ転がる。
母親に抱かれた幼子が、湊一を指さした。
「悪い人?」
母親は答えず、その指をそっと下ろさせた。
別の老人は、誰にも見えぬよう笠を取った。
罵声もあった。
侮りもあった。
それでも、すべての人が同じ顔をしているわけではなかった。
戦に勝った者。
戦に負けた者。
家族を失った者。
田畑を踏み荒らされた者。
誰が正しく、誰が悪いのかなど、街道を埋める人々には関わりがない。
ただ、戦が終わったことを信じるための悪人が、いま目の前を歩かされていた。
湊一には、それが分かった。
分かってしまった。
「治部!」
聞き覚えのある大声に、足を止めた。
人垣を押し分けて現れたのは、福島正則だった。
甲冑をまとい、勝者の側に立っている。
だが、その顔には勝ち誇った色がない。
「そのざまは何だ!」
正則の声が響いた。
周囲の者たちが笑う。
敗者を嘲る声だと思ったのだろう。
しかし湊一には分かった。
正則が怒っているのは、縄を打たれた自分だけではない。
豊臣の家臣同士で争ったこと。
家康のために勝ちながら、その勝利が豊臣のものではないこと。
そして、自分自身が選んだ道から、もう引き返せないこと。
「勝ったのだろう、正則」
「ああ、勝った!」
「ならば、なぜそのような顔をしている」
「……貴様」
正則の拳が震えた。
「貴様は、いつもそうだ! 人の胸へ勝手に入り込み、理屈で引っかき回しおる!」
「理屈でなければ、刀で斬られていました」
「そういうところが腹立たしいと言うておるのだ!」
正則は一歩近づいた。
殴られるかと思った。
だが拳は上がらなかった。
「俺たちを、見下しておったのか」
「見下したことはない」
「……それが一番、腹が立つ」
湊一は何も言えなかった。
自分が正則や清正の心を分かったつもりになり、言葉で追い詰めたことはある。
正しいことを言えば伝わると思っていた。
だが正しさは、冷たい刃にもなる。
「正則」
「何じゃ」
「帰れ」
正則の顔が歪んだ。
「俺を追い払うつもりか」
「勝った者には、帰る場所を守る仕事が残っている」
「負けた貴様に言われる筋合いはない!」
「それでも残ります」
正則は歯を食いしばった。
「……最後まで、気に食わぬ男だ」
「知っています」
「知らぬ! 貴様は、何も分かっておらぬ!」
背を向けた正則は、数歩進んで立ち止まった。
「水を持ってこい」
家臣が戸惑う。
「は?」
「聞こえぬのか! このまま死なれては、俺が弱った相手へ勝ったようで胸糞が悪い!」
やがて、粗末な椀に入った水が運ばれた。
正則は振り返らない。
湊一は縄の間から両手を差し出し、その椀を受け取った。
「正則」
「呼ぶな」
「ありがとう」
「礼など言うな!」
正則は、そのまま歩み去った。
大きな背が人混みの向こうへ消えるまで、湊一は水を飲まなかった。
◇
次に現れた男は、目を合わせようとしなかった。
小早川秀秋。
関ヶ原で西軍から東軍へ刃を向け、勝敗を決めた若き大名。
酒の匂いがした。
勝った側にいながら、顔は青白く、唇が震えている。
「金吾殿」
秀秋の肩が跳ねた。
「こちらを見られよ」
「……なぜだ」
「話をする者の顔を見るのは、礼儀です」
「いまさら、礼儀など」
秀秋はようやく顔を上げた。
その目には、勝者の喜びなどなかった。
「なぜ、私を罵らぬ」
「罵られたいのですか」
「いっそ、斬りかかってくれた方がよい」
「縄を解いてくださるなら、考えましょう」
秀秋は笑わなかった。
「私は……」
声が掠れた。
「私は、どうすればよかった」
湊一は、その問いにすぐ答えられなかった。
北政所と秀吉の間で育てられ、養子に出され、所領を移され、誰を信じればよいのか分からなくなった若者。
家康からも、西軍からも、決断を迫られた。
その苦しみを、湊一は知っていた。
「そなたが苦しんでいたことは、知っております」
秀秋の瞳が揺れた。
「ならば――」
「ですが、苦しんだことと、選んだことは別です」
秀秋の顔が強張った。
「私は、許されぬのか」
「許すのは私ではありません」
「では、誰だ」
「松尾山の下で倒れた者たちです」
秀秋は息を呑んだ。
湊一は目を伏せた。
「そして、私も同じです」
「何が」
「そなたの恐れを知りながら、書状を送り、約定を求め、戦の駒として扱った」
「……治部」
「信じると言いながら、逃げ道を与えなかった。それは私の罪です」
「ならば、私たちは同じか」
「同じではありません」
湊一は静かに答えた。
「それぞれ、自分の選んだ罪を背負うのです」
秀秋は何かを言おうとした。
だが言葉にならない。
謝罪も、反論もできぬまま、踵を返した。
去り際、その手が腰の酒筒へ伸びた。
しかし秀秋は酒筒を掴むと、地面へ叩きつけた。
酒が土へ染み込んでいく。
水のようには澄まなかった。
◇
日が傾き、風が冷たくなった。
縄を掛けられたまま座らされている湊一の肩へ、何かが掛けられた。
陣羽織だった。
「寒かろう」
黒田長政が立っていた。
湊一は肩の羽織を見た。
「敗者へ情けを掛ければ、内府殿に疑われますぞ」
「寒い者へ衣を掛けるだけのことに、東も西もあるまい」
「返せるものがありません」
「では、生きている間だけ着ておけ」
長政は、それ以上の言葉を残さなかった。
敵になったからといって、共に働いた年月まで消えるわけではない。
湊一は温かな布の重みを感じながら、正則から渡された水を一口だけ飲んだ。
冷たい。
佐和山の水ではない。
白峰の水でもない。
それでも、乾いた喉を通る水は、確かに生きている者のためのものだった。
◇
大津の陣所には、勝ち戦の浮ついた空気がなかった。
兵は整然と並び、使者が絶え間なく出入りしている。
関ヶ原の戦は終わった。
だが、ここではすでに、次の戦を起こさぬための戦が始まっていた。
その中心にいる男の名を、知らぬ者はいない。
徳川家康。
三河の領主の子として生まれ、幼い頃には人質として国を離れた。
今川に従い、織田と結び、武田と争い、やがて秀吉に臣従した。
勝ったことばかりではない。
大敗し、逃げたこともある。
妻を失い、子を失い、家臣を失い、それでも生き残った。
そして今、関ヶ原で勝利し、天下でもっとも大きな力を持つ者となった。
けれど、湊一の中に残る石田三成の記憶は、その男を最初からの宿敵とは呼んでいなかった。
秀吉が生きていた頃。
朝鮮へ渡った兵をどう戻すか。
諸大名の争いをどう収めるか。
凶作の土地へ、どれほどの米を回すか。
家康と三成は、同じ豊臣政権の中で何度も意見を交わした。
家康が経験と人脈で道をつくり、三成が数字と文書で形にする。
意見が一致したこともある。
激しくぶつかったこともある。
少なくとも、初めから憎み合っていたわけではなかった。
だからこそ、道が分かれた後の溝は深かった。
秀吉の死後、家康は力を集めた。
三成は、それを豊臣の世を呑み込む流れと見た。
家康は、豊臣政権のままでは再び国が割れると考えた。
どちらも、乱世へ戻りたいわけではなかった。
どちらも、自分の選んだ道こそ戦を終わらせると信じた。
そして二人は、関ヶ原で互いの答えをぶつけた。
勝ったのは、家康だった。
「石田治部少輔三成、参りました」
障子の向こうから、低い声がした。
「通せ」
聞き覚えのある声だった。
三成の記憶が、何度も政務の席で聞いた声。
そして、この世で最後に聞くことになるかもしれない男の声だった。
◇
家康は、上座で湊一を待っていた。
金色に飾られた部屋ではない。
机の上には書状が積まれ、地図が広げられている。
勝者というより、仕事の山に囲まれた政務者の姿だった。
家康は、まず湊一の縄を見た。
「きつくはないか」
「処刑される者へ、ずいぶんと細やかな御心遣いにございますな」
「そなたは昔から、差し出されたものを素直に受け取らぬ」
「内府殿も昔から、差し出すものの裏に何かを隠しておられます」
家康の口元が、わずかに緩んだ。
「縄を緩めよ」
家臣が縄を少し緩め、下がった。
家康は自ら椀へ水を注いだ。
「飲め」
「毒ではございませんか」
「そなたを殺すのに、毒を使う必要があるか」
「それもそうですな」
湊一は椀を受け取った。
家康は、その様子をしばらく見ていた。
「わしは、初めからそなたを敵と思うていたわけではない」
「私も、内府殿を初めから討つべき敵と思っていたわけではございませぬ」
「では、どこで道が分かれた」
「秀頼様を中心とする豊臣の世を残そうとした私と、内府殿が力を集めねば国はまた割れると考えた内府殿。その違いでしょう」
「そなたは、わしが天下を欲しただけだと思うておるか」
「欲しておられぬとは申しませぬ」
家康が低く笑った。
「正直なのか、口が悪いのか」
「どちらもでございます」
わずかな間だけ、二人の間に昔の政務の空気が戻った。
だが家康は、机の上から数通の書状を取り上げた。
「治部」
「はい」
「わしは、そなた一人がこの戦を始めたと思うほど、耄碌しておらぬ」
湊一は顔を上げた。
「毛利輝元は総大将として大坂城へ入った。宇喜多も小西も、奉行たちも、それぞれの思惑で動いた」
「……では」
「そなたは諸将をつなぎ、書状を整え、ばらばらの者たちを一つの軍へ形づくった。だが、そなた一人の企てではない」
家康は、書状を机へ戻した。
「戦の頭を一人選ぶなら、毛利輝元とて外せまい」
「それを御存じでありながら、私を首魁とされるのですか」
「そうじゃ」
あまりにも迷いのない返事だった。
「なぜです」
家康の目が細くなった。
「毛利を首魁として滅ぼせば、西国がまた燃える」
その声には、勝者の慢心がなかった。
ただ、冷たいほど現実を見ていた。
「毛利には多くの家臣がおる。縁を結んだ大名も多い。追い詰めれば、山陰も山陽も再び戦場となる」
「それを恐れると」
「恐れる。戦を恐れぬ者に、太平はつくれぬ」
家康は続けた。
「奉行たちすべてを戦の首謀者として裁けば、太閤殿下が築いた政そのものを否定することになる」
「……秀頼様のお立場も揺らぐ」
「そうじゃ。大坂城へ罪を問えば、次の戦が始まる」
湊一の前に、関ヶ原の光景が浮かんだ。
踏み荒らされた田。
泥に沈んだ旗。
吉継の白い頭巾。
左近の背。
倒れた兵たち。
家康は言った。
「勝っただけでは、戦は終わらぬ」
「では、何をすれば終わると」
「皆が、終わったと思える形をつくる」
「その形が、私だと」
「毛利では大きすぎる。小西や恵瓊では軽すぎる」
家康は、湊一をまっすぐに見た。
「豊臣の政を動かし、諸将へ文を送り、西軍を形にした石田三成」
声に、憎しみはなかった。
だからこそ、その言葉は刃より冷たかった。
「そなたの名が、ちょうどよい」
「私を、都合のよい悪人にするのですな」
「そうじゃ」
家康は、ごまかさなかった。
長い沈黙が落ちた。
やがて家康は、湊一を名で呼んだ。
「三成」
三成の記憶が、その響きに反応した。
敵の名ではない。
かつて同じ政権で、文を交わし、議論し、仕事をした者の呼び方だった。
「太平のために、死んでくれ」
湊一の指が震えた。
椀の水面に、小さな波が立った。
「……それは、命令ですか」
「頼みではない」
「ならば、断っても同じでしょう」
「そなたが何と申そうと、処刑は決まる」
「ずいぶん勝手な太平ですな」
「太平とは、きれいな者だけで築けるものではない」
「だから、私の名を土台へ埋めると」
「そうせねば、その土台の上でまた人が斬り合う」
「内府殿の世のために」
「戦を終わらせる世のためにじゃ」
湊一は知っていた。
この男が、やがて江戸に幕府を開くことを。
その世が、二百年以上続くことを。
幾度もの飢饉や争いはあっても、関ヶ原のように天下を二つに割る戦が、長く起こらないことを。
その太平の土台に、石田三成という逆賊の名が埋められることも。
「もし私が、毛利殿こそ総大将であったと叫べば」
「毛利を討たねばならぬ」
「奉行たちの名を並べれば」
「豊臣の政そのものへ罪を問う者が出る」
「秀頼様の御前で、この戦の始まりを語れば」
「大坂との戦が、今すぐ始まるかもしれぬ」
湊一は唇を噛んだ。
真実を語れば、自分一人の汚名は薄くなる。
だが、その分だけ別の城が焼ける。
別の妻が逃げる。
別の子どもが、水も飯もない道を歩く。
「私は、首謀者であったとは申しませぬ」
「よかろう」
「内府殿が正しかったとも申しませぬ」
「構わぬ」
「関ヶ原で倒れた者たちの罪を、すべて背負うつもりもございませぬ」
「それもよい」
湊一は水面を見つめた。
佐和山の井戸。
湯気の立つ膳。
団子を供物と言い張る白那。
鈴を鳴らす小さな手。
妻の笑顔。
左右の手で幼い者を守ろうとした三男。
大坂に残した長男と次男。
帰る場所を残すために走った人々。
「ですが」
湊一は顔を上げた。
「私の名を使えば、これ以上焼かれずに済む家があるというなら」
家康は黙って聞いている。
「私は、最後の息で新しい戦を起こそうとは思いませぬ」
「受け入れるか」
「違います」
湊一は、はっきりと答えた。
「私が選ぶのです」
家康の目が、わずかに見開かれた。
「内府殿に命を差し出すのではない。私の汚名を晴らすために、民をもう一度戦へ巻き込まぬと、私が決めるのです」
しばらくして、家康は小さく息を吐いた。
「やはり、扱いにくい男よ」
「内府殿ほどではございませぬ」
「それで、何を望む」
「佐和山で兵ではなかった者を、石田の者というだけで追わぬこと」
「旗を掲げ、刃を取らぬ限りは追わせぬ」
「妻子を、私を辱めるための道具に使わぬこと」
家康は答えなかった。
「居所を知っておるのか」
「知りませぬ」
「では、約束のしようもない」
「捜し出して首を取れとは、命じぬと仰せください」
「……兵ではない者を、石田の血というだけでは斬らせぬ」
十分な言葉ではなかった。
それでも湊一は、深く頭を下げた。
「そして、秀頼様に、この戦の罪を問わぬこと」
家康の目が険しくなる。
「そなたたちは、秀頼公の名を使った」
「承知しております」
「幼い主君を旗にして、兵を集めた」
「それは、私の罪です」
第二十五湯で見た、秀頼の小さな膳が浮かんだ。
母の思いと、子の思い。
まだ自分の世を選ぶことすらできない少年。
「だからこそ、お願いいたします」
湊一は畳へ額をつけた。
「秀頼様を、戦の道具になさらぬよう」
長い沈黙の後、家康が言った。
「この戦の罪は、秀頼公には問わぬ」
この戦の罪は。
その言葉の狭さに、湊一は気づいた。
未来まで守るという約束ではない。
それでも、いま引き出せる言葉は、それだけだった。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
「では、仕事をしていただいたことへ」
「処刑される身で、まだ若旦那のつもりか」
湊一は顔を上げた。
「それ以外の生き方を、知らぬもので」
家康は、もう一度椀へ水を注いだ。
「飲め」
「情けにございますか」
「違う」
家康は言った。
「共に働いた者へ出す、最後の水じゃ」
湊一は椀を両手で受け取った。
ぬるく、味気ない水だった。
佐和山の水ではない。
白峰の水でもない。
だが、かつて同じ政を動かした二人の間に置かれた、最後の一椀だった。
「内府殿」
「何じゃ」
「あなたは、実に扱いにくい客でございました」
家康の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「そなたも、実に面倒な奉行であった」
二人は笑わなかった。
笑えば、敵になる前へ戻ってしまいそうだった。
◇
その知らせが肥後へ届いたのは、幾日か後だった。
宇土城を囲む加藤清正の陣に、泥まみれの使者が駆け込んだ。
「大坂より急報にございます」
清正は城の絵図から目を上げなかった。
「申せ」
「逆徒の首魁、石田治部少輔三成、近江にて捕らえられたとのこと」
清正の筆が止まった。
陣幕の中にいた家臣の一人が、安堵したように息を吐く。
「これで、石田治部も終わりにございますな」
清正の拳が、机を打った。
「誰が、終わりだと申した」
家臣たちが凍りつく。
「されど、治部少輔は西軍の首魁と――」
「首魁だと?」
清正は使者の持つ書状を奪い取った。
そこには、確かにそう書かれていた。
逆徒の首魁、石田三成。
「あやつ一人で、毛利が動くか!」
陣幕が震えるほどの声だった。
「あやつ一人で、宇喜多が兵を出すか! 小西が立ち、奉行どもが文を出し、何万もの兵が東西に分かれるものか!」
誰も答えられない。
「治部は、人の心を読めぬ愚か者じゃ」
清正は書状を握り締めた。
「己が正しければ、人もついてくると思い込む。飯を食う者の腹は気にするくせに、その胸の内は後回しにする」
佐和山で差し出された白湯を思い出した。
余計な味をつけず、黙って置かれた一椀。
清正が飲み終えるまで、言い訳をしなかった男。
「されど」
清正の声が低くなった。
「己一人のために天下を乱すほど、小さな男ではない」
握り潰された書状が、床へ落ちた。
「……都合よく、悪人にされおって」
「殿」
「湯を持て」
「茶を――」
「白湯じゃ!」
家臣が慌てて白湯を用意した。
清正は一口飲み、顔をしかめた。
「ぬるい」
「すぐに替えを」
「いや」
清正は椀を手放さなかった。
「これでよい」
かつて、三成へ言った。
次に会うときは、もう少しましな湯を出せ。
「約束を破りおって」
家臣には、その意味が分からない。
清正は城の絵図へ視線を戻した。
「井戸へ毒を入れることは許さぬ」
「は」
「兵糧蔵を焼くな。降る者は斬るな。城下の田を、必要以上に荒らすな」
「敵を利することになりませぬか」
「勝った後に食う米まで焼いて、何が勝ちか!」
清正の怒声に、家臣たちは頭を下げた。
「城が落ちた後も、人はここで生きるのじゃ」
家臣たちが陣幕を出ていく。
一人になった清正は、冷めた白湯を見つめた。
「治部」
返事はない。
「俺は、まだ貴様を許しておらぬ」
椀を持つ手に力が入る。
「ゆえに、勝手に死んで逃げるな」
遠くで、攻城の太鼓が鳴った。
「もう一度、面を見せて、俺に言い返せ」
清正は、残った白湯を飲み干した。
「……苦いわ」
ただの白湯なのに、ひどく苦かった。
◇
九月三十日の夜。
京都の牢は、冷えていた。
古橋で捕らえられてから、九日。
明日の朝には、市中を引き回され、六条河原へ連れていかれる。
湊一の脇腹には、黒羽が残した傷がまだ鈍く痛んでいた。
あの女が投げた薬は効いた。
傷は腐らなかった。
死なせる役目を負いながら、最後には死なぬための薬を投げた。
どこまでも、面倒な女だった。
牢番が、欠けた椀を格子の内へ置いた。
「水だ」
「ありがとうございます」
「明日死ぬ者が、礼など言うな」
「今日までは客ですので」
「ここは宿ではない」
「それは残念です。ずいぶん冷えます」
牢番は呆れた顔で去っていった。
湊一は椀を手に取った。
水面に、痩せた石田三成の顔が映る。
その後ろに、二十五歳の白瀬湊一の顔が重なった気がした。
「怖いな」
声に出すと、身体の震えが大きくなった。
死ぬのが怖い。
首を斬られるのが怖い。
妻子の無事を知らぬまま死ぬのが怖い。
左近が生きているのか分からない。
白那が、幼い姿のまま力尽きていないか分からない。
佐和山へ、もう帰れない。
白峰の玄関をくぐり、帳場へ座ることもできない。
椀の水面へ、涙が一滴落ちた。
輪が広がった。
その奥から、小さな鈴の音が聞こえた。
ちりん。
牢には、誰もいない。
それでも、湊一には聞こえた。
――愚か者。
懐かしい、尊大な声だった。
記憶なのか。
水が運んだ声なのか。
湊一には分からない。
「白那」
――妾の前でまで格好をつけるでない。
「怖いよ」
――ならば、怖いと申せ。
「帰りたい」
――ならば、帰りたいと申せ。
「皆に会いたい」
――まこと、欲深い男よ。
声は呆れていた。
けれど、どこか温かかった。
「俺は、何か残せたのかな」
水面が揺れた。
――道を残した。
――飯を分けた者を残した。
――井戸の鈴を残した。
――そなたが帰れずとも、そなたの残した場所へ帰る者はおる。
「皆は、無事なのか」
返事はなかった。
鈴が、もう一度だけ鳴った。
ちりん。
それで十分だった。
妻子が捕らえられているなら、家康は自分の前へ連れてきただろう。
口を割らせるため。
屈服させるため。
それがない。
知らせがないことだけが、湊一に残された希望だった。
「任せたぞ、白那」
水面の声が、鼻を鳴らしたように聞こえた。
――誰に物を申しておる。
――そなたの妻子など、水守の務めのついでに守ってやるだけじゃ。
「ついでにしては、大仕事だな」
――黙れ、愚か者。
湊一は、涙を拭った。
隣の牢から、低い声がした。
「治部殿。誰と話しておる」
小西行長だった。
「水の神様です」
「ついに気が触れたか」
さらに向こうから、安国寺恵瓊の声がする。
「明日首を斬られる者が、水の神と話すくらい、よいではないか」
「それもそうですな」
三人の間に、かすかな笑いが生まれた。
湊一は椀を格子の隙間から差し出した。
「行長殿。飲まれますか」
「そなたの水であろう」
「一人で飲むには多すぎます」
椀には、二口ほどしか残っていない。
「嘘を申せ」
「客へ遠慮をさせぬのも、もてなしです」
行長が一口飲み、恵瓊へ回した。
恵瓊も口をつけ、椀を湊一へ戻す。
底には、ほんのわずかしか残っていなかった。
湊一は、その一口を飲んだ。
冷たい水だった。
だが三人で分けた水は、家康から受け取った水よりも、正則が持ってこさせた水よりも、少しだけ温かく感じた。
「治部殿」
行長が尋ねた。
「最後に、何を望む」
湊一は考えた。
妻子に会いたい。
佐和山へ帰りたい。
白峰の湯へ入りたい。
白那が屁理屈をつけて団子を奪うところを、もう一度見たい。
望みなら、いくらでもあった。
だが、口から出たのは別の言葉だった。
「温かいものを、食べたいですな」
「最後の願いが、それか」
「行長殿も腹が減っているでしょう」
「減ってはおるが」
「恵瓊殿も」
「坊主とて腹は減る」
湊一は格子へ近づき、牢番を呼んだ。
「すみません」
「今度は何だ」
「残った米は、ありますか」
「米?」
「味噌が少し。それと、野菜の切れ端でもあれば」
牢番が怪訝そうに眉を寄せた。
「何をするつもりだ」
湊一は、暗い牢の中で笑った。
「明日の朝、ここにいる三人へ、温かいものを出したいのです」
「自分が食いたいだけではないのか」
「もちろん、私も食べます」
そして、頭を下げた。
「最後に一度だけ、まかないをさせてください」
欠けた椀の底で、水が小さく揺れた。
遠いどこかで、鈴が鳴った。
――死ぬ間際まで、飯の心配か。
呆れた声が、水音に混じる。
――まったく、救い難い愚か者よ。
湊一は笑った。
「若旦那だからな」
関ヶ原から、十五日。
お読みいただき、ありがとうございます。
家康と三成を、最初から憎み合っていた宿敵としてではなく、かつては同じ政権の中で働き、それぞれの考える「太平」へ進んだ二人として描きました。
西軍は三成一人の企てではありません。
それでも、戦を終わらせるための「分かりやすい首魁」として、三成の名が選ばれていく。
家康の言葉を受け入れたのではなく、さらなる戦を起こさないことを、最後まで三成自身が選ぶ場面です。
また、清正は三成を許してはいません。
けれど、三成一人にすべてを背負わせることも許せない。
「嫌いだった。だが、死んでよいとは思っていなかった」
そんな清正の複雑な思いを、届くことのない白湯へ込めました。
次回、第五十湯「最後のまかない」。
三成の有名な柿の逸話、三人で囲む最後の朝餉、そして六条河原へ。
湊一は、最後の瞬間まで若旦那であり続けます。




