挿話十湯 ひとつ足りぬ
関ヶ原の戦場から、湯気の中へ消えた一人の武将。
名も刀も失った男がたどり着いたのは、湯の止まりかけた小さな湯治場でした。
今回は、救われた命が、誰かの帰る場所を守る挿話です。
山あいの湯は、半分ほど死んでいた。
湯船の底には落ち葉が沈み、山肌から延びる木の樋からは、細い雫しか落ちてこない。
屋根も傾いている。
戸口の柱には、長いあいだ湯気にさらされた黒い染みが残っていた。
かつては旅人が足を休めたのだろう。
だが今は、人の声ひとつ聞こえない。
「客なら、湯は出ないよ」
戸口に立つ老婆が言った。
背は曲がり、右足を引きずっている。
男は深くかぶった笠の下から、樋を見上げた。
「宿は」
「ない」
「飯は」
「ない」
「白湯は」
老婆が男の顔を見る。
「湯が出ないと言ったろう」
「そうであったな」
男は脇腹を押さえた。
着物の下には、幾重にも布が巻かれている。
歩くたびに、乾きかけた血が布へにじんだ。
「それでは」
男は背を向けた。
ひと足。
ふた足。
三歩目で膝が崩れた。
老婆はしばらく、その背を見ていた。
「死ぬなら、もう少し離れておくれ。湯がまずくなる」
「湯は出ぬのであろう」
「口だけは達者だね」
老婆はため息をつき、男の腕を肩へ回した。
「名は」
「ない」
「どこから来た」
「西からだ」
「西は広いよ」
「ならば、広いところから来た」
「面倒な男を拾ったもんだ」
男は答えなかった。
傷が痛んだのではない。
拾われたという言葉が、胸のどこかへ刺さったからだった。
*
老婆は、古びた湯屋の奥へ男を寝かせた。
薬などない。
煮立てた布で傷を拭き、山草をすり潰して貼っただけだった。
「鉄砲傷だね」
男の目が細くなる。
「猟師なら、獣に撃たれたと言うところだが」
「それでよい」
「よくないよ。山狩りが始まっている」
老婆は傷口へ布を当てた。
「西軍の落ち武者を探して、兵が村々を回っている。手負いの侍など、見つかれば首を取られるよ」
「取れるものならな」
「威勢だけで傷は塞がらん」
老婆が布を強く締める。
男は低くうめいた。
「ほら、取れそうじゃないか」
「……口の悪い婆だ」
「名もない客よりはましさ」
その夜、老婆は粥を炊いた。
米粒よりも水の多い粥だった。
添えられた汁には、大根の葉が数切れ浮いている。
男は椀を手にすると、まず匂いを嗅いだ。
「毒は入っておらんよ」
「汁は疑うものだ」
「食わぬなら返しな」
男はひと口飲んだ。
薄い。
出汁も足りない。
味噌も足りない。
かつて口にした汁なら、椀を置いていた味だった。
だが、その日は喉の奥へ温かく染みた。
「どうだい」
「まずい」
「返せ」
「まずいが、飲めぬほどではない」
老婆は鼻を鳴らした。
男は最後の一滴まで飲み干した。
*
翌朝。
老婆が目を覚ますと、寝床に男はいなかった。
逃げたのかと思った。
だが、外から木を打つ音が聞こえる。
男は湯樋の前にいた。
片膝をつき、泥をかき出している。
「何をしている」
「見れば分かる」
「寝ていな」
「飯代だ」
「一椀の粥で死ぬ気かい」
男は樋の下へ腕を差し込んだ。
崩れた土の中から、腐った木片を引き抜く。
「湯が止まったのは、いつからだ」
「戦が始まる少し前だよ。山が崩れて、樋の支えが流された」
「直さぬのか」
「この足で山へ登れと言うのかい」
老婆が自分の右足を叩く。
男は黙り込んだ。
樋を持ち上げてみる。
傾きが悪い。
山から来た湯が、途中で泥の中へ逃げている。
「石がいる」
「前はそこに、大きな石があった」
「流されたか」
「そうらしい。ちょうどよい石が、ひとつ足りんのだよ」
男は樋から手を離した。
脇腹を押さえながら立ち上がる。
「山へ行く」
「その身体でかい」
「石がひとつ足りぬのであろう」
「だからといって――」
「湯を止めたままにする理由にはならぬ」
老婆は男の背を見つめた。
「あんた、侍だね」
男の足が止まる。
「薪割りだ」
「薪割りは、そんな歩き方をしないよ」
「足の悪い薪割りもおろう」
「刀を振るった手をしている」
男は振り返らなかった。
「昔のことだ」
*
山へ入って半刻も経たぬうちに、男は息を切らした。
傷はまだ塞がっていない。
額から落ちた汗が、目へ入る。
それでも、足を止めなかった。
山肌を探し、樋を支えられそうな石を見つける。
抱え上げた瞬間、脇腹の傷が開いた。
着物へ赤い染みが広がる。
「……まったく、殿というお方は」
男は石を抱いたまま、低く吐いた。
「生きて帰れなどと……最後まで、難儀な命を下しおって」
戦場で死ぬ方が、よほど容易だった。
敵へ斬り込み、刃が折れるまで戦えばよかった。
だが、殿は命じた。
生きろ、と。
帰れ、と。
帰る場所が失われても、それでも帰れと。
男は歯を食いしばり、石を持ち上げた。
そのとき。
山道の下から、馬のいななきが聞こえた。
続いて、複数の男の声がする。
「この山に入ったという話だ」
「手負いだ。遠くへは行けまい」
「湯屋がある。まず、そこを調べるぞ」
男の表情が変わった。
石を捨て、腰へ手を伸ばす。
だが、そこに刀はない。
戦場を離れるとき、捨ててきた。
いや。
捨てさせられたのだ。
生きるために。
男は山道の下を見る。
兵は四人。
馬が二頭。
この傷では、正面から斬り抜けることも、走って逃げ切ることもできない。
そして下には、老婆がいる。
「……面倒なことになった」
男は石を拾い直し、湯屋へ向かって坂を下りた。
*
「兵が来る」
湯屋へ戻った男が言った。
老婆は驚かなかった。
「そうかい」
「わしを探している」
「そうだろうね」
「なぜ分かる」
「あんたほど怪しい薪割りは見たことがない」
男は懐から、血のついた布を取り出した。
老婆が受け取り、炉へ放り込む。
炎が布を包んだ。
「刀は」
「ない」
「具足は」
「捨てた」
「名は」
「初めからない」
「なら、あんたは湯番だ」
男が老婆を見る。
「湯番?」
「わたしの婿だよ」
「誰が」
「あんたが」
「年が合わぬ」
「息子に見えるかい」
「それも無理がある」
「なら、役立たずの居候だ」
男は眉間へしわを寄せた。
「それならば、まだよい」
「気に入るところじゃないよ」
馬の足音が近づいた。
老婆は男の笠を取り、炉へ投げ入れた。
「顔を隠せば、かえって怪しまれる。湯桶を持ちな」
男は言われるまま、古い湯桶を手にした。
ほどなく、四人の兵が湯屋の前へ現れた。
「手負いの浪人を見なかったか」
先頭の兵が尋ねる。
老婆は腰へ手を当てた。
「浪人なら、ここにいるよ」
兵たちの手が刀へかかる。
老婆は男を指した。
「働きもせず、飯ばかり食う浪人だ」
男は黙って湯桶を抱えている。
先頭の兵が近づき、男の手を見る。
「その傷は何だ」
「薪割りだ」
「薪で刀傷ができるのか」
「昔、侍であった」
男は隠さなかった。
兵の目が鋭くなる。
「どこの家中だ」
「潰れた」
「名は」
「忘れた」
「ふざけるな」
兵が男の胸ぐらをつかんだ。
傷へ響く。
男の顔がわずかにゆがんだ。
老婆が兵の手を叩く。
「病人を連れて行くなら、先に湯代を払っておくれ」
「黙れ、婆」
「この男は戦の始まる前からここにいる。湯樋ひとつ直せぬ役立たずだよ」
兵は信じていなかった。
「中を調べろ」
残りの三人が湯屋へ入る。
物置。
寝床。
薪の山。
ひとつずつ調べていく。
男は湯桶を持ったまま、樋を見た。
先ほど据えようとした石は、まだ地面に置かれている。
支えが足りないため、樋は大きく傾いていた。
だが、その下には泥で塞がれた細い水路がある。
男は湯桶を足元へ置いた。
「動くな」
兵が言う。
男は、つま先で水路を塞いでいた木片を蹴った。
せき止められていた湯が、一気に流れ出す。
熱い湯が樋からあふれ、湯屋の床へ広がった。
「熱っ!」
「何だ!」
白い湯気が立ち昇る。
兵たちの姿が、瞬く間に見えなくなった。
男は老婆の腕をつかむ。
「裏へ」
「わたしは走れんよ」
「走らずともよい」
男は炉のそばから、血の染みた古い布を一枚取った。
自分の腕へ巻き、湯屋の裏から山へ飛び出す。
「待ちな!」
老婆の声が追う。
「湯代が、まだであろう」
男は振り返らず答えた。
「石を置いてある。足りぬ分は、それで払え!」
湯気の中から兵が飛び出してきた。
「いたぞ!」
男はわざと姿を見せ、山道へ駆け上がる。
*
走るたび、脇腹から血が流れた。
足がもつれる。
息が焼ける。
背後から、追手の声が近づいてくる。
「止まれ!」
「止まれと言われて止まる者がおるか!」
男は悪態をつきながら、山肌を駆けた。
だが、長くはもたない。
やがて追手の足音が、すぐ後ろまで迫った。
男は細い水路を見つけた。
湯治場へ水を引くため、山肌に掘られた古い溝だった。
男は溝の脇に積もった土を蹴り崩す。
たまっていた水が斜面へ流れ出した。
乾いていた土が泥へ変わる。
「うわっ!」
背後で兵が滑った。
一人が転び、後ろの二人を巻き込む。
男はその隙に、獣道へ飛び込んだ。
枝が顔を打つ。
笹が着物を裂く。
それでも進んだ。
やがて追手の声が遠ざかる。
男は大きな木の陰へ倒れ込んだ。
空を見上げる。
木々の隙間から、白い雲が流れていた。
どこからか、鈴の音がした。
ちりん。
男は目を閉じる。
「分かっておる」
誰へともなくつぶやいた。
「まだ死なぬ」
*
夜半。
湯屋の戸を叩く音がした。
老婆は火箸を握り、戸を開ける。
血と泥にまみれた男が立っていた。
「逃げたんじゃなかったのかい」
「湯代を払い終えておらぬ」
「命まで払うところだったろう」
「高い湯だ」
「入るかい」
「湯は出るのか」
老婆は鼻で笑った。
「あんたが持ってきた石を、わたしが据えたよ」
男は目を見開く。
「あの足でか」
「石ひとつ動かすくらいならできる」
湯屋の奥から、かすかな水音が聞こえた。
樋を通った湯が、湯船へ落ちている。
細い流れだった。
けれど、止まってはいなかった。
男は戸口へ腰を下ろした。
「婆」
「何だい」
「汁をくれ」
「まずいよ」
「知っておる」
*
男は数日、湯治場に残った。
湯樋を直し、薪を割り、傾いた屋根へ板を打った。
老婆は傷へ薬草を貼り、粥を炊いた。
どちらも、礼は言わなかった。
ある昼。
二人の旅人が湯へ立ち寄った。
久しぶりの客だった。
湯船に浸かった旅人たちは、関ヶ原の話を始めた。
「石田治部も、ついに捕らえられたそうだ」
「ああ。あれほどの城と家臣を持ちながら、天下を取れなんだ」
もう一人が笑う。
「三成に過ぎたるものが二つあり。島の左近と佐和山の城、というからな」
薪を運んでいた男の足が止まった。
老婆が横目で見る。
男は薪を炉の前へ置いた。
「ひとつ足りぬ」
旅人が振り返る。
「何がだ」
男は湯樋を見上げた。
新しく据えた石の上を、湯が流れている。
「佐和山の湯じゃ」
旅人たちは顔を見合わせた。
「湯?」
「知らぬなら、それでよい」
男は炉へ薪をくべた。
炎が上がり、湯屋に白い湯気が満ちていく。
*
翌朝。
男は旅支度をしていた。
持っているものは、杖と、小さな包みだけだった。
老婆が握り飯を二つ差し出す。
「ひとつでよい」
「二つ持っていきな」
「腹はひとつだ」
「帰るまでに、腹は二度減る」
男は黙って二つ受け取った。
「どこへ行く」
「分からぬ」
「帰る場所は」
男は答えなかった。
代わりに、湯屋を振り返る。
直した樋。
積み上げた薪。
煙の上がる屋根。
湯船へ落ちる、細い湯。
「なければ」
男は杖を地面へついた。
「また、作ればよい」
老婆は笑った。
「今度は、名くらい残していきな」
「名など、湯には要らぬ」
男は山道を歩き始めた。
右足を、わずかに引きずっている。
だが、もう倒れなかった。
老婆はその背が見えなくなるまで、戸口に立っていた。
やがて湯屋へ戻り、男が割った薪を炉へくべる。
湯気が立ち昇った。
名を持たぬ浪人が据えた石は、その後も長く、山から来る湯を支え続けたという。
やがて湯屋が朽ちても。
守る者の名が忘れられても。
石の下では、細い水が流れ続けた。
関ヶ原の首帳には、ひとつ足りなかった。
三成に過ぎたるものにも、ひとつ足りなかった。
けれど。
若旦那が残したかったものを守る者は、この世にひとり、残っていた。
島左近には、関ヶ原で討死したとされる一方、遺体や首が確認されず、その後も生き延びたという伝承が各地に残されています。
本作では、その伝承をもとに、名を捨てた浪人として描きました。
主を守れなかった男が、それでも主から託された「生きて帰れ」という言葉を胸に、ひとつの湯と、ひとりの老婆を守る。
そして――
「三成に過ぎたるものが二つあり」
その言葉に、本作らしい“もうひとつ”を添えました。
次回、第四十九湯「処刑前の水」。
捕らえられた三成は、徳川家康と向き合います。




