第四十八湯 敗れても、湯は残る
関ヶ原が終わり、佐和山も落ちました。
守りたかった者たちの生死さえ分からぬまま、湊一は一人、伊吹の山を歩きます。
城も、友も、家族も手の届かぬ場所へ消えたとき、それでも残るものはあるのか。
今回は、敗れたあとの湊一が、改めて「守る」ということに向き合う一話です。
慶長五年九月十八日。
昼を過ぎても、伊吹の山には低い雲が垂れ込めていた。
細い雨が木々の葉を伝い、絶え間なく地面へ落ちている。
湊一は、ぬかるんだ山道を一人で歩いていた。
具足は、とうに捨てた。
石田三成であることを示すものは、もう何一つ身につけていない。
泥に汚れた小袖。
切れかけた草鞋。
血と土にまみれた手。
腰には、水のほとんど残っていない革袋が一つあるだけだった。
追手を避けるため、道らしい道を歩くこともできない。
木の根をまたぎ、濡れた岩を這い、藪を押し分ける。
一歩進むたび、足の裏が焼けるように痛んだ。
山の切れ間から、遠く佐和山の方角が見えた。
空へ立ち昇る黒い煙。
雨に打たれても、なお消えない。
湊一は立ち止まった。
誰かに聞かずとも分かった。
佐和山は、落ちた。
あの城にあった湯殿も。
飯を炊いた竈も。
皆が集った広間も。
今頃は、火と煙の中にあるのだろう。
湊一の胸には、次々と顔が浮かんだ。
吉継。
最後まで、友として隣に立ってくれた男。
病に蝕まれ、身体を起こすことさえ苦しいはずなのに、白い布の奥から、いつも湊一の迷いを見抜いていた。
――おぬしは、まだ戻れる。
そう言ってくれた声が、今も耳に残っている。
けれど、自分は戻らなかった。
戻れなかったのではない。
自ら、戻らぬ道を選んだ。
その道の先で、吉継は死んだ。
左近。
何度止めても、最後には必ず自分の前へ立った男。
口では悪態をつき、湯がぬるいと文句を言いながら、それでも誰より早く危険を嗅ぎつけ、誰より遅くまで佐和山を守っていた。
あの背中も、もう見えない。
生きているのか。
倒れたのか。
名も告げず、どこかの土の上に横たわっているのか。
それすら、湊一には分からなかった。
妻。
戦へ向かう自分を、止めなかった人。
止められなかったのではない。
信じて、送り出してくれたのだ。
湊一が帰ってくる場所を守るため、城に残り、子どもたちの前では決して怯えた顔を見せなかった。
その妻に、自分は何を返せたのだろう。
安心か。
約束か。
それとも、燃え落ちる城と、追手の足音だけだったのか。
娘たち。
湊一の袖を引き、くだらないことで笑い、湯殿から立つ湯気を、まるで雲のようだとはしゃいでいた小さな手。
あの手を、自分は守ったのではない。
手放した。
逃がすためだった。
生かすためだった。
そう言い聞かせても、最後に指が離れた感触だけは、どうしても消えなかった。
佐和山に残してきた三男。
幼い者たちの名を一人ずつ確かめていた、小さな声。
本当ならば、父の後ろに隠れていてもよい歳だった。
それなのに、自分より幼い者の手を取り、泣くことさえ我慢していた。
あの子に、自分は何を背負わせた。
父の名か。
石田の家か。
それとも、父が守り切れなかった者たちの命か。
大坂にいる長男と次男。
あの二人には、父の敗北がどのように届くのだろう。
逆賊の子と呼ばれるのか。
罪人の血を引く者として、顔を伏せて生きるのか。
父を恨むだろうか。
恨んでくれれば、まだよかった。
それでも父だと信じ続ける方が、どれほど苦しいか。
湊一には分かってしまった。
誰が生きているのか。
誰が傷ついたのか。
誰が、もう帰らぬのか。
何一つ分からない。
確かめに戻ることもできない。
名を呼び、返事を待つことさえ、もう許されなかった。
湊一は歩みを止めた。
山の斜面に片膝をつく。
泥へ手をついたが、支えきれず、肩が震えた。
泣いている場合ではない。
追手は近い。
ここで立ち止まれば、皆が命を懸けて作ってくれた道を無駄にする。
分かっている。
分かっているのに、身体が動かなかった。
「守りたかったんだ」
誰へ言ったのか、自分でも分からなかった。
吉継へか。
左近へか。
妻子へか。
それとも、すべてを知っていたつもりで、何一つ救えなかった自分自身へか。
「俺は……ただ、守りたかった」
声が崩れた。
守ろうとした。
その言葉なら、いくらでも言える。
豊臣を守りたかった。
戦を避けたかった。
民を守りたかった。
家族を生かしたかった。
だが、守ろうとしたという思いが、失われた命を一つでも戻すわけではない。
正しかったつもりだった。
必要な決断だったつもりだった。
けれど、その「つもり」の下で、どれほど多くの者が傷ついたのか。
湊一は泥を握り締めた。
爪の間へ土が入り、裂けた指に痛みが走る。
それでも手を開けなかった。
手を開けば、最後に残った何かまで、こぼれ落ちる気がした。
「守るために離した手と……」
喉が詰まった。
言葉にすれば、それが答えになってしまいそうで怖かった。
「見捨てた手は、何が違うんだ」
答える者はいない。
雨だけが、湊一の頭と肩を打ち続けた。
「俺が生きろと言ったから、吉継は死んだのか」
「俺を逃がすために、左近は戻ったのか」
「俺を信じたから、妻は城に残ったのか」
「俺の子だから、あの子たちは逃げなければならなかったのか」
問いは、口にするたびに胸を抉った。
答えを知る者たちは、もうここにはいない。
湊一は額を泥へ近づけた。
声を殺そうとした。
けれど、一度漏れた嗚咽は止められなかった。
三成として泣くことは許されなかった。
総大将の一人として、家臣の前で膝を折ることも許されなかった。
夫としても。
父としても。
最後まで、皆を安心させなければならなかった。
だから今、誰も見ていない山の中で、白瀬湊一の涙が落ちた。
「俺は……」
言葉が続かない。
胸の奥に浮かんだものは、あまりにも重く、あまりにも幼い言葉だった。
それでも、ほかに言いようがなかった。
「俺は、何一つ守れなかったのか」
雨に濡れた地面へ、涙が落ちる。
すぐに泥へ混じり、跡形もなく消えた。
そのときだった。
遠くで、かすかに水の流れる音がした。
湊一は顔を上げた。
聞き間違いかもしれない。
雨が石を伝う音にすぎないのかもしれない。
それでも、その音は不思議なほど優しかった。
答えではない。
赦しでもない。
ただ、まだすべてが終わったわけではないと告げるように、水は暗い山の中を流れ続けていた。
湊一は涙を拭わなかった。
拭えば、泣いたことまでなかったことにしてしまう気がした。
失った者たちを忘れないために。
自分の選択を、美しい言葉で飾らないために。
涙を流したまま、もう一度立ち上がった。
足は震えていた。
胸の痛みも消えてはいない。
それでも、一歩だけ前へ出た。
守れなかった者たちの名を背負いながら。
まだ生きているかもしれない者たちへ、追手を近づけないために。
◇
日が傾き始めた頃、湊一は山中に小さな炭焼き小屋を見つけた。
屋根は傾き、壁の隙間から細い煙が漏れている。
人の気配を避けるべきだった。
だが、足がもう動かなかった。
戸口の近くまで来ると、中から咳き込む声が聞こえた。
湊一は、そっと戸を開けた。
小屋の中にいたのは、老女と幼い兄妹。
それに、腕へ布を巻いた百姓の男だった。
男の顔は熱に浮かされている。
傷へ巻かれた布は、血と泥で黒く汚れていた。
兄が立ち上がり、妹を背に庇った。
手には、火掻き棒が握られている。
震えていた。
それでも、湊一へ向けていた。
「何者だ」
まだ声変わりもしていない。
湊一は両手を見せた。
「敵ではない」
「武家は、皆そう言う」
兄は退かなかった。
その言葉に、湊一は返すものを持たなかった。
老女が兄の肩へ手を置く。
「よい。そのお方も、行き場をなくした顔をしておる」
「婆さま」
「火の前へお座りなされ」
湊一は頭を下げ、小屋へ入った。
中央では、欠けた鉄鍋に湯が沸いている。
老女は木椀へ湯を注ぎ、湊一へ差し出した。
「湯だけならございます。腹は膨れませぬが、冷えた身体には効きましょう」
湊一は椀を受け取ろうとした。
そのとき、妹が小さくくしゃみをした。
唇が青い。
濡れた衣を身体へ張りつかせ、膝を抱えて震えている。
湊一は差し出された椀を、そのまま妹の前へ置いた。
「飲め」
妹は兄の顔を見た。
兄が頷くと、ようやく椀を両手で包んだ。
老女が湊一を見る。
「ご自分の分は、よろしいので?」
「また沸かせばいい」
湊一は男のそばへ膝をついた。
布をほどくと、腕に深い傷があった。
刀傷ではない。
逃げる途中で転び、折れた枝か何かが刺さったのだろう。
傷には土が入り込んでいる。
「湯を借りる」
湊一は布を湯へ浸し、少し冷ましてから傷を洗った。
男がうめき、身をよじる。
「済まない。少し我慢してくれ」
汚れた布を外し、自分の小袖の裾を裂いて巻き直す。
老女が感心したように言った。
「お武家さまは、宿の者でございますか」
湊一の手が止まった。
宿。
その言葉が、ひどく懐かしかった。
「……昔、湯を沸かしていた」
それだけ答えた。
老女は、それ以上尋ねなかった。
◇
火が弱りかけると、兄が黙って立ち上がり、小屋の隅から細い薪を抱えてきた。
まだ片腕で抱えられるほどの量だった。
それでも兄は、妹には持たせようとしない。
「そこにおれ」
妹へ言い聞かせ、火のそばへ薪を一本ずつ置いていく。
妹が立ち上がろうとすると、兄はすぐに振り返った。
「動くな。足を滑らせる」
声は震えていた。
兄自身も、濡れた衣の下で寒さに震えている。
それでも妹の前では、怖いとは言わなかった。
湊一の胸が、強く締めつけられた。
――動くな。そこにおれ。
その声が、佐和山に残してきた三男の声と重なった。
自分より幼い子らを集め、一人ずつ名を尋ね、返事を確かめていた小さな背中。
右の手で一人を引き、左の手でもう一人を庇っていた。
父の後ろに隠れていてもよい歳だった。
泣いて、助けを求めてもよかった。
それなのに、あの子は自分より小さな者たちの前に立った。
父がいない場所で。
父の代わりになろうとして。
「兄ちゃん」
妹が呼んだ。
兄は薪から顔を上げる。
「ここにおる」
すぐに答えた。
その返事に妹は安心したのか、膝を抱え直した。
兄は鍋のそばへ戻ると、老女から受け取った椀を妹へ差し出した。
「飲め」
「兄ちゃんは?」
「あとで飲む」
「さっきも、あとでって言った」
兄は困った顔をした。
だが、自分の口へ運ぼうとはしなかった。
妹は椀を両手で包み、湯気へ顔を近づけた。
小さな鼻先が、白い湯気の中へ隠れる。
やがて妹は、ほんの少し笑った。
「お湯があると、ここが見えるね」
兄が首を傾げる。
「何が見える」
「帰るところ」
妹は当たり前のように答えた。
「暗くても、湯気が出てたら、ここに人がおるって分かるもの」
湊一は息を呑んだ。
湯気の向こうで笑う幼い顔が、別の少女の面影と重なった。
小さな手で湯殿の仕事を手伝い、誰かが帰れば嬉しそうに駆け寄った、小さき湯番。
鈴の音。
湯気の向こうの笑顔。
誰かの帰りを、疑うことなく待っていた姿。
一瞬だけ、妹の手元で何かが鳴ったような気がした。
ちりん。
もちろん、鈴などない。
妹が椀の縁へ爪を触れただけだった。
それでも湊一は、顔を上げることができなかった。
目の前の兄妹は、三男でも、小さき湯番でもない。
呼べば、違う名が返ってくる。
抱き締めても、置いてきた子どもたちが戻るわけではない。
分かっている。
それなのに、兄が妹の肩へ自分の濡れた上着を掛けた瞬間、湊一の口から声が漏れた。
「……寒くないか」
兄妹が同時に湊一を見る。
湊一は、誰に尋ねたのか分からなくなった。
目の前の兄妹にか。
佐和山に残してきた三男にか。
もう一度会えるかも分からない、小さき湯番にか。
兄はしばらく警戒するように湊一を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「妹は、もう寒くない」
自分のことは答えなかった。
その言い方まで、あの子に似ていた。
湊一は俯き、自分の肩に掛かっていた濡れた外衣を脱いだ。
「これを使え」
兄は受け取ろうとしない。
「武家さまが寒くなる」
「俺は歩けば温まる」
嘘だった。
身体は冷え切り、指先の感覚も薄れている。
けれど、兄はそれ以上断らなかった。
受け取った外衣を、自分ではなく妹の膝へ掛ける。
湊一はその手を見つめた。
小さい。
あまりにも小さい手だった。
この手に、誰かを守らせてはならなかった。
本来ならば、大人が包んでやらなければならない手だった。
それなのに戦は、子どもへ先に大人の役目を押しつける。
三男にも。
この兄にも。
「すまない」
気づけば、湊一はそう口にしていた。
兄は意味が分からず、目を瞬かせる。
「なぜ謝る」
湊一は答えられなかった。
この子に謝っているのではない。
いや、この子にも謝らなければならなかった。
自分たちが始めた戦のために、家を離れ、山中で震え、幼い妹を守らなければならなくなった子どもへ。
そして、同じように誰かを守らせてしまった、自分の息子へ。
湊一は、兄妹から目を逸らした。
老女が鍋へ水を足す。
兄が尋ねた。
「もう誰も来ぬかもしれぬのに、まだ沸かすのか」
老女は火を見たまま答えた。
「帰ってくる者がおるかもしれぬ」
「おらなんだら?」
「帰ろうとした者のために、沸かしておけばよい」
妹が椀を抱えたまま、嬉しそうに言った。
「じゃあ、兄ちゃんが外へ行っても帰ってこられるね」
兄は少し照れたように顔を背けた。
「ああ。帰ってくる」
その言葉に、湊一の胸が痛んだ。
帰ってくる。
あまりにも簡単で、あまりにも重い約束だった。
自分は、同じ約束を妻子にできただろうか。
帰ると言ったのか。
待っていてくれと言ったのか。
それとも何も告げぬまま、皆を置いて戦場へ向かったのか。
湊一は湯気の向こうへ、佐和山の湯殿を見た。
左近が文句を言いながら入った朝湯。
吉継へ差し出した白湯。
娘が鳴らした鈴。
白那が、呆れたように笑った顔。
城は焼けた。
湯殿も、もう残ってはいないかもしれない。
それでも、ここには湯がある。
名も知らぬ老女が、帰ってくるかもしれない誰かのために、火を絶やさずにいる。
幼い兄が妹を守り、妹は兄が帰る場所を信じている。
失ったものは戻らない。
この兄妹を守ったとしても、三男や小さき湯番を守ったことにはならない。
それでも。
湊一は兄妹の近くへ膝をついた。
消えかけた火へ、薪を一本足す。
償いではない。
赦しを得るためでもない。
ただ、ここにいる者が、もう少しだけ温かくいられるように。
そして、帰ろうとする者が、この湯気を見失わないように。
火が薪を捉えた。
白い湯気が、再び小屋の天井へ立ち昇る。
その向こうで、兄と妹の顔が揺れた。
三男と小さき湯番の面影は、すぐに消えた。
けれど湊一は、もう目を逸らさなかった。
◇
夜が深まると、老女も兄妹も眠りについた。
負傷した男の呼吸も、少し穏やかになっている。
湊一は小屋の外へ出た。
雨は、まだ降っていた。
木々の間を白い靄が漂っている。
「佐和山から逃れた女と子どもの足跡を追った」
声は、雨の向こうから聞こえた。
湊一は振り返らない。
黒羽が、濡れた木々の間から音もなく現れた。
黒い衣は雨を吸い、夜そのもののように見える。
「谷までは続いていた」
黒羽は言った。
「だが、その先で消えた」
湊一は黙っている。
「足跡だけではない。折れた草も、衣が触れた枝も、すべて水に洗われたように消えていた」
黒羽の目が、湊一を射抜いた。
「誰が逃がした」
「答えない」
「どこへ向かった」
「知らない」
黒羽の眉が、わずかに動いた。
「知らない?」
「ああ」
「妻子を、行き先も知らぬ者へ渡したというのか」
「違う」
湊一は静かに首を振った。
「信じられる者だから、行き先を聞かなかった」
「それを信頼と呼ぶのか」
「そう呼びたい」
「都合のよい言葉だ」
黒羽が一歩、近づいた。
「城を守れなかった。友を守れなかった。妻子も、自分の手では守れなかった。だから他人へ押しつけた」
雨粒が湊一の頬を伝った。
それが雨なのか、ほかのものなのか、黒羽には分からない。
「そうかもしれない」
黒羽の足が止まった。
湊一は言い返さなかった。
「俺には、もう守れなかった」
「ならば、捨てたのと同じだ」
「違う」
今度の声は低かった。
「自分の手で抱えて、一緒に死ぬことだけが守ることじゃない」
「手放した者が言うことか」
「ああ。手放した俺が言う」
湊一は、空になった両手を見た。
「俺より強く、俺より迷わず、あの者たちを守れる者がいた」
名は口にしない。
白い髪も。
鈴も。
水守という言葉も。
「だから託した」
「裏切られぬと、なぜ言える」
「言えない」
即座に答えた。
「裏切られるかもしれない。道の途中で力尽きるかもしれない。俺の判断が、間違っていたのかもしれない」
「ならば――」
「それでもだ」
湊一は黒羽を見る。
「疑って行き先を聞けば、捕らえられた俺の口から道が漏れる」
黒羽の表情が消えた。
「俺が知らなければ、どれほど責められても、道は渡せない」
「口を割らぬ自信がないと?」
「ない」
黒羽が、わずかに目を見開いた。
「人は痛めつけられれば弱くなる。俺も同じだ。だから、知らぬことにした」
湊一は、自分の弱さを隠さなかった。
「信じるとは、強いと思い込むことじゃない」
雨が二人の間を落ちていく。
「自分の弱さを、その者に預けることだ」
黒羽は、しばらく黙っていた。
やがて、その視線が湊一の背後へ向けられる。
小屋の中。
眠っている者たちへ。
黒羽が一歩、進んだ。
湊一は小屋の入口へ立った。
「退け」
「退かない」
「中にいる者は、お前の家臣か」
「違う」
「妻子か」
「違う」
「名すら知らぬのだろう」
「ああ」
「ならば、なぜ守る」
湊一は小屋を振り返らなかった。
「俺たちの戦から逃げてきた者たちだ」
「それで責を償えると?」
「償えない」
答えは早かった。
「一人を守っても、死んだ者は戻らない。焼けた城も戻らない」
「ならば無駄だ」
「ああ。無駄かもしれない」
黒羽の手が、帯の内へ入る。
抜かれたのは、長い刀ではなかった。
人ひとりの命を絶つには十分な、短刀だった。
鞘が、雨の中でかすかに鳴る。
「そこを退け」
「退けば、この者たちには手を出さないか」
「お前が問える立場か」
「ならば、退かない」
短刀の切っ先が、湊一の衣へ触れた。
「最後に言う。退け」
「退かない」
黒羽の腕が動いた。
短刀が、湊一の脇腹へ入った。
衣の裂ける音は、小さかった。
だが、身体の内へ押し込まれる冷たさは、はっきりと分かった。
湊一の息が詰まる。
足元が揺れ、膝が落ちかけた。
それでも、小屋の入口からは退かなかった。
黒羽の手が止まる。
刃は深く入っていない。
だが、湊一が半歩でも身を引けば、黒羽の前から道が開く。
湊一は、それをしなかった。
「……なぜ避けない」
黒羽の声が低くなる。
「避ければ、お前が中へ入る」
「入らぬかもしれぬ」
「かもしれない、では退けない」
黒羽は短刀を引いた。
血が衣を濡らし、雨に混じって地面へ落ちる。
湊一は脇腹を押さえた。
指の間から、温かなものが滲んだ。
「私を憎むか」
黒羽が問う。
湊一は荒い息を整えながら、黒羽を見る。
「憎めば、お前が俺を刺したことは消えるのか」
「消えぬ」
「なら、憎しみを増やしても仕方がない」
「赦すというのか」
湊一は首を振った。
「違う」
痛みを堪えるため、一度、唇を噛んだ。
「お前を赦せるほど、俺は正しくない」
黒羽の目が細くなる。
「俺も、誰かに赦してもらえるとは思っていない」
燃える佐和山が浮かんだ。
吉継の最期。
左近の背中。
手放した妻子。
戦に巻き込まれた、名も知らぬ者たち。
「ただ、ここで俺が刃を返せば、次はまた誰かが返す」
「それが戦だ」
「ああ」
湊一は血に濡れた手を握った。
「だから、どこかで止める」
黒羽は、湊一の顔を見つめた。
「お前は、すでに敗れた」
「ああ」
「城を失い、軍を失い、友を失った」
「ああ」
「妻子すら、自分の手では守れなかった」
その言葉だけは、深く刺さった。
短刀よりも深く。
湊一の唇が震える。
「……そうだ」
否定しなかった。
「俺は守れなかった」
「ならば、なぜ立つ」
「守れなかったからだ」
湊一は顔を上げた。
「今度こそ、とは言わない。そんな言葉で、死んだ者を踏み台にはしたくない」
雨が二人の間を流れる。
「それでも、まだ生きている者が目の前にいる」
小屋の中で、薪が爆ぜた。
「だから、俺はここに立つ」
黒羽の視線が、湊一の脇腹へ落ちた。
血は止まっていない。
それでも、湊一は退こうとしない。
黒羽が小屋へ進めば、この男は傷口が開いても立ちはだかる。
殺せば、退かせられる。
だが、殺したところで妻子への道は得られない。
「逃がした者の名を言え」
「言わない」
「居場所を知らぬと言ったはずだ」
「名と居場所は別だ」
黒羽の表情から、すべてが消えた。
「お前は、その者が誰かも知らない」
「知っているかもしれぬ」
「なら、俺に聞く必要はない」
黒羽は何も答えない。
「お前が追ったのは、妻子の足跡だけだ」
湊一は痛みに顔を歪めながら、それでも言葉を止めなかった。
「だが、途中で水に消された」
「……黙れ」
「お前は道を失った」
黒羽の手が、再び短刀の柄を握る。
湊一は、血のついた手を脇腹から離した。
「俺は城を失った。お前は、妻子へ続く道を失った」
痛みに揺れながらも、黒羽から目を逸らさない。
「俺たちは、どちらも敗れた」
「同じにするな」
「同じではない」
湊一は静かに答えた。
「だから、お前がこの先どうするかは、お前が決めろ」
黒羽は長く黙っていた。
やがて、短刀についた血を雨で洗い、鞘へ収めた。
「勝ったつもりか」
「あいにく、負けたことなら知っている」
「ならば、その傷を抱えて歩け」
黒羽は背を向けた。
二歩進んだところで、足を止める。
懐から小さな包みを取り出し、振り返らずに投げた。
泥の上へ落ちた包みから、薬草の匂いがした。
「傷へ押し当てろ」
湊一は包みを見下ろした。
「情けか」
「違う」
黒羽の声は冷たいままだった。
「その程度の傷で死なれては、私の腕が鈍ったように見える」
「十分、痛い」
「ならば覚えておけ」
黒羽は再び歩き始めた。
「黒羽」
湊一がその背を呼ぶ。
彼女の足が、ほんの一瞬だけ止まった。
「ありがとうとは言わない」
「言えば、もう一度刺す」
「それは困る」
返事はなかった。
黒羽の姿は、雨と夜の中へ溶けていった。
湊一は、しばらくその方角を見ていた。
そして、足元の薬包を拾った。
黒羽が自分を生かそうとしたのか。
捕らえられるまで死なせたくなかっただけなのか。
それとも、ただの気まぐれだったのか。
湊一には分からない。
分からないままでよかった。
◇
湊一は小屋へ戻らなかった。
このまま自分がここに残れば、追手は老女たちまで巻き込む。
傷へ薬を押し当て、自分の小袖を裂いて、きつく縛る。
痛みで息が止まりそうになった。
それでも立ち上がった。
わざと、泥の深い場所を選んで歩いた。
追手が見失わぬように。
自分の足跡だけを、はっきりと残すために。
家族がどこへ向かったのかは知らない。
信じられる者が、どこへ連れていったのかも知らない。
だからこそ、湊一は自分だけを追わせることができる。
帰る場所から、追手を遠ざけるために。
夜明け前。
山を下りかけたところで、湊一は一度だけ振り返った。
遠く、木々の隙間から白いものが立ち昇っている。
炭焼き小屋の湯気だった。
老女は、また水を汲んだのだろう。
帰ってくるかもしれない誰かのために。
帰ろうとした誰かのために。
城はなくなった。
湯殿も焼けた。
友も、家族も、今は手の届かぬ場所にいる。
それでも。
湯は残った。
湊一は、ほんのわずかに笑った。
「そうか」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「宿は、また建つんだな」
遠くで、犬の吠える声がした。
続いて、木々の間に幾つもの松明が揺れる。
追手は、もう近い。
湊一は湯気に背を向けた。
帰る場所を残すために。
自分が帰れぬかもしれない道を、歩き始めた。
関ヶ原から、三日。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
すべてを守ることはできなかった。
それでも、目の前にいる誰かのために湯を沸かし、帰ってくる者のために火を絶やさない。
それは戦の勝敗とは別の場所にある、名も残らない小さな営みです。
湊一と黒羽も、互いに敗北を抱えたまま向き合いました。
赦したのではなく、刃を返さなかったこと。
信じたのではなく、自分の弱さごと誰かに託したこと。
その選択が正しかったのかは、まだ誰にも分かりません。
けれど城が焼けても、湯は残りました。
次回、追手はさらに近づきます。




