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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第五章「敗れても、帰る場所は残る」

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挿話九湯 届かなかった文

戦に敗れ、城を失っても、

家族が願うのは勝利ではありませんでした。


ただ、もう一度。


父と同じ湯気のそばに立つこと。


挿話九湯「届かなかった文」です。

挿絵(By みてみん)


朝の霧は、まだ山の底に溜まっていた。


木々の根元を白く這い、濡れた落ち葉を覆い隠している。


その向こうに、黒い煙が立っていた。


一本ではない。


幾筋もの煙が絡み合い、かつて城のあった空を汚している。


佐和山だった。


昨日まで、人が暮らしていた場所。


湯気が上がり、子どもの声がし、誰かが廊下を駆けて叱られていた場所。


今はただ、遠くで何かの崩れる音がする。


小さき湯番は、母の袖を握ったまま、煙を見つめていた。


泣いてはいなかった。


泣くことを忘れてしまったように、瞬きもしない。


「母上」


やがて、小さな声がした。


「父上は、あそこにおられるのですか」


奥方の指が、わずかに震えた。


答えはなかった。


答えられる者など、誰もいなかった。


三男は少し離れたところに立ち、もう一度、皆の姿を数えていた。


母。


妹たち。


幼い弟。


供の女たち。


そして、岩に背を預けて座り込む白那。


「母上」


三男が言った。


「皆、おります」


その言葉に、奥方はゆっくりとうなずいた。


「……そうですか」


全員いる。


誰一人、欠けてはいない。


そのはずなのに。


誰も、安堵の息を漏らさなかった。


ここにいない一人の存在が、あまりにも大きかった。


小さき湯番は、もう一度、城の煙を見た。


「父上は、帰ってきますか」


白那が、岩に預けていた頭をわずかに上げた。


髪は乱れ、頬には血の気がない。


昨夜、井戸祠の裏から水路を開き、妻子たちを城外へ逃がした。


霧を呼び、水を走らせ、追手の足を惑わせた。


その代償は小さくなかった。


今の白那には、立ち上がる力すら、ほとんど残っていない。


それでも、口元にはいつものような不遜さがあった。


「あの男は、城よりもしぶとい」


小さき湯番が白那を見る。


「では、帰ってきますか」


「妾に先のことを尋ねるでない」


「白那さまにも、分からないのですか」


「分からぬものは、分からぬ」


白那はそう言ってから、少しだけ視線を逸らした。


「じゃが――」


誰もが、その先を待った。


「勝手に死ぬような真似をすれば、妾が許さぬ」


小さき湯番は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


笑ったというほどではない。


けれど、それは逃げてから初めて、幼い顔に戻った瞬間だった。


奥方は懐から小さな包みを取り出した。


着替えも、食べ物も、ほとんど持ち出せなかった。


それでも包みの中には、折り畳まれた紙が数枚残っていた。


城を出る間際、記録とともに抱えたものだった。


小さき湯番が、その紙を見た。


「母上」


「何です」


「一枚、いただいてもよろしいですか」


「何に使うのです」


小さき湯番は、煙の向こうを見たまま答えた。


「父上に、文を書きます」


奥方は、すぐには返事をしなかった。


文を書いても、届ける者はいない。


山道には敵兵がいる。


石田の家の者が書いた文など、持っているだけで命を奪われるかもしれない。


けれど奥方は、そのことを口にはしなかった。


紙を一枚抜き、小さき湯番へ渡した。


「書きなさい」


「はい」


紙はあっても、墨がない。


小さき湯番が困ったように辺りを見回すと、白那が小さく息を吐いた。


「世話の焼ける湯番じゃ」


白那は、傍らに落ちていた焼け枝を拾った。


指先で黒い煤を削り、椀の底に残っていたわずかな水を垂らす。


細い枝で混ぜると、薄い墨のようなものができた。


「上等な墨ではないぞ」


「読めればよいのです」


「ふん。あやつの字よりは読めよう」


三男が思わず鼻を鳴らした。


奥方も、ほんのわずかに目を細めた。


父の字は、確かに美しいとは言い難かった。


小さき湯番は、平らな石の上に紙を置いた。


細い枝の先に墨をつける。


その手は震えていた。


最初の一文字は、大きく歪んだ。


次の文字は、墨が多すぎて黒く滲んだ。


それでも小さき湯番は、何度も枝を持ち直しながら書いていった。


父上へ。


わたしたちは、みなおります。


白那さまが、まもってくださいました。


そこまで書いて、小さき湯番は顔を上げた。


「湯のことも、書いてよいでしょうか」


白那が眉を上げる。


「このような時まで、湯の心配か」


「父上は、湯のことを心配されます」


「城よりもか」


「同じくらいです」


「それは重い病じゃな」


小さき湯番は真面目な顔でうなずき、再び紙へ向かった。


湯も、すこしだけあります。


墨をつけ直す。


だが、その先の言葉が出てこない。


枝先が、紙の上で止まった。


「どうした、小さき湯番」


三男が尋ねた。


「父上に、何と書けばよいのでしょう」


「思っていることを書けばよい」


小さき湯番は、煙の向こうにある城を見た。


「……父上と、また湯番がしたいです」


三男は一度だけ目を伏せた。


「ならば、それを書け」


小さき湯番はうなずき、再び紙へ向かった。


そして、一文字ずつ、ゆっくりと書いた。


だから父上、はやくかえってきてください。


わたし、父上とまた湯番がしたいです。


書き終えると、最後の文字の上に小さな雫が落ちた。


墨が丸く滲んだ。


小さき湯番は慌てて袖で目を拭った。


「失敗しました」


「失敗ではありません」


奥方が言った。


「そのままでよいのです」


三男が文を受け取り、目を通した。


幼い字だった。


曲がり、滲み、行も揃っていない。


だが、そのどの言葉よりも、三男の胸を締めつけたのは、最後の一行だった。


父上とまた湯番がしたい。


戦に勝てとは書いていない。


敵を討てとも、城を取り戻せとも書いていない。


ただ帰ってきてほしい。


また同じ場所に立ってほしい。


湯気の向こうで、いつものように困った顔をしてほしい。


三男はしばらく黙った後、枝を取った。


「私も、書いてよろしいでしょうか」


奥方がうなずく。


三男は妹の字の下へ、少し小さく書き加えた。


父上。


母上と皆は、私が守ります。


その先を書こうとして、手が止まった。


心配はいりません。


そう書くつもりだった。


だが、書けなかった。


怖かった。


敵兵の声が聞こえるたびに、体が固くなる。


眠りに落ちれば、城へ連れ戻される夢を見る。


父が死んだ姿など、想像したくもない。


それでも、長子の代わりに自分が皆を守らなければならない。


三男の握る枝が、きしんだ。


奥方が、その手にそっと手を重ねた。


「強がらなくてもよいのです」


「ですが、父上が戻られるまでは、私が」


「一人で背負ってはなりません」


三男が母を見る。


「殿も、きっと同じことを申されます」


三男はうつむいた。


やがて、書きかけの言葉を消そうとはせず、枝を奥方へ渡した。


奥方は文を見つめた。


夫に伝えたい言葉はいくらでもあった。


なぜ一人で行ったのか。


なぜ家族に何も告げなかったのか。


なぜ最後まで、自分だけで背負おうとしたのか。


恨み言を書こうと思えば、紙一枚では足りない。


別れの言葉を書くこともできた。


だが奥方は、長い言葉を選ばなかった。


妻子が無事であること。


そして、ただ一つの願い。


私たちは、生きております。


あなたも、生きてください。


名前は記さなかった。


記さずとも、夫ならば筆跡で分かる。


そう信じたかった。


文を折り畳もうとすると、三男が手を伸ばした。


「母上。その文を、私に」


「どうするのです」


「父上を捜しに参ります」


奥方の顔が変わった。


「なりません」


「ですが、このままでは届きません」


「届かぬからといって、あなたまで失ってよい理由にはなりません」


「けれど――」


「なりません」


柔らかい声だった。


けれど、拒む余地はなかった。


白那も岩に背を預けたまま言った。


「文一枚のために命を捨ててみよ。あやつは喜ぶどころか、死人のくせに怒鳴りつけるぞ」


小さき湯番が顔を上げる。


「父上は、怒りますか」


「盛大にな」


「どのくらいですか」


「湯桶をひっくり返した時の三倍じゃ」


「それは、たいへんです」


小さき湯番は真剣な顔をした。


その様子に、三男の肩からわずかに力が抜けた。


奥方は文を折り、持ち出した記録の包みへ入れようとした。


白那がそれを見て言った。


「そうしておけ」


「届かぬ文を、ですか」


「届かぬなら、残せばよい」


白那は、霧の向こうに消えかけた城を見た。


「誰かが、いつか読む」


「殿でなくとも?」


「思いというものは、必ずしも宛てた者だけに届くとは限らぬ」


白那は細く息を吐いた。


「城を焼かれ、道を塞がれ、それで言葉まで捨ててどうする。思いまで、あやつらに焼かせるな」


奥方は文を包みの中へ収めた。


小さき湯番が、足元を流れる細い水へ目を向けた。


山肌から滲み出た水が、落ち葉の間を縫って流れている。


「白那さま」


「何じゃ」


「この水に文を流したら、父上のところへ届きませんか」


白那は水を見つめた。


やがて、ゆっくりと指先を浸した。


水面がかすかに震える。


白い湯気のようなものが、ほんの一瞬だけ立ち上った。


白那は目を閉じた。


遠い山。


冷たい土。


血の匂い。


だが、その先にいるはずの男へ、道は繋がらない。


白那の指が水から離れた。


白いものは、すぐに消えた。


「水は、道を覚えておる」


小さき湯番の顔が明るくなる。


「では――」


「されど、すべての道が、今すぐ届くとは限らぬ」


「父上のところへは、行けないのですか」


「今は、な」


小さき湯番は残念そうに水を見つめた。


白那は岩に手をつき、震える膝を起こした。


三男が慌てて、その身体を支える。


「白那さま。もう少し、お休みになられた方が」


「ここにおれば、いずれ追手が来る。休んでおる暇はない」


白那は立とうとしたが、膝から力が抜けた。


三男はその場に背を向け、白那の前へ屈んだ。


「どうぞ、私の背へ」


「最初からそうせよ。気の利かぬ童じゃ」


「……申し訳ありません」


「そこで謝るから、余計に気が利かぬのじゃ」


三男は困ったように眉を下げながらも、白那を背負った。


小さき湯番も手伝おうと駆け寄ったが、白那が止めた。


「そなたは、母のそばにおれ」


「でも、白那さまが」


「妾には、この頼りない背がある」


三男が小さく振り返る。


「……聞こえております」


「聞こえるように申した」


小さき湯番は、少しだけ笑った。


それから奥方のそばへ戻り、その手を握った。


一行は、霧の残る山道を歩き始めた。


城とは反対の方角へ。


父のいる場所も分からぬまま。


小さき湯番は、何度も振り返った。


煙は次第に、木々の向こうへ隠れていった。


「白那さま」


三男の背から、白那が答える。


「今度は何じゃ」


「父上と、また湯番ができますか」


白那は前を向いたまま答えた。


「生きておれば、道はまた繋がる」


「父上も、生きていれば?」


「そうじゃ」


小さき湯番は、母の手を強く握った。


「では、わたしも生きます」


白那は何も答えなかった。


ただ、乱れた髪の隙間で、ほんの少しだけ目を細めた。


その文が、伊吹の山を歩く男の手へ届くことはなかった。


妻子が生きていることも。


自分を責めていないことも。


幼い娘が、また父と湯番をしたいと願っていることも。


湊一は、まだ何も知らなかった。


けれど、文は焼けなかった。


届かなかった思いは、消えずに残った。


**関ヶ原から、三日。**


届かなかったからといって、

その言葉まで消えてしまうわけではありません。


「父上と、また湯番がしたい」


幼い娘が文に託したのは、勝利でも仇討ちでもなく、失われる前の小さな日常でした。


湊一はまだ、妻子が生きていることを知りません。


次回、第四十八湯。

敗れた男が、それでも残ったものを拾いながら歩きます。

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