第四十七湯 左近、湯気の中へ消える
関ヶ原から二日。
佐和山が炎に包まれるなか、深手を負った島左近もまた、生と死の狭間を歩いていました。
「生きて帰れ」という下知を、左近は果たすことができるのか。
湯気の先に続く、名もなき帰り道のお話です。
佐和山の妻子が、岩屋の奥で息を潜めていた――同じ夜。
伊吹へ連なる山裾を、二人の男が歩いていた。
いや。
一人が、もう一人を引きずっていた。
「左近様。もう少しにございます」
「先ほども聞いたぞ」
島左近は、若い足軽の肩へ体重を預けたまま、荒い息を吐いた。
「おぬしの『もう少し』は、ずいぶん長いのう」
「口を利けるなら、まだ歩けます」
「小僧。上官へ向ける言葉ではない」
「死にかけの上官へは、これくらいでよいと教わりました」
「誰にじゃ」
「左近様に」
左近は鼻で笑おうとして、代わりに血を吐いた。
若い足軽の顔が引きつる。
「やはり休みましょう」
「止まれば追いつかれる」
「ですが――」
「歩け」
関ヶ原から二日。
左近の記憶は、ところどころ途切れていた。
銃声。
馬の悲鳴。
腹の底まで震わせる鬨の声。
黒田勢へ突き入ったこと。
脇腹を撃ち抜かれたこと。
土の上へ倒れたこと。
その後は、誰かの背に担がれていた気がする。
誰が助けたのかは分からない。
目を覚ましたときには、この若い足軽がそばにいた。
昼は藪に伏せ、夜だけ動いた。
水をすすり、草の根を噛み、追手の声がすれば泥の中で息を止めた。
それでも、東へは進めなかった。
山の向こう。
夜空の一角が赤く染まっていたからだ。
雲が赤いのではない。
佐和山が燃えている。
左近は足を止めた。
「左近様?」
「城が……」
若い足軽も赤い空を見た。
唇を噛む。
佐和山には、殿の父がいる。
兄がいる。
妻子がいる。
家臣がいる。
湯番も、飯炊きも、子どもたちもいる。
「戻るぞ」
左近が言った。
「佐和山へ戻る」
「なりませぬ」
「退け」
「戻って、何をなさるおつもりです」
「決まっておろう。城へ入る」
「この傷で?」
「刀はまだ持てる」
「持てるだけです」
若い足軽は左近の腕を強くつかんだ。
「城へ着く前に倒れます」
「ならば、城の見える場所で死ぬ」
「左近様!」
若者の声が山中へ響いた。
二人は同時に息を止める。
幸い、追手の声は返ってこなかった。
若い足軽は声を抑え、それでも左近を睨んだ。
「死ぬために、我らが左近様を戦場から運び出したとお思いですか」
「わし一人のために、何人死んだ」
「数えておりませぬ」
「わしは数えておる」
肩を貸した者。
水を運んだ者。
追手を別の方角へ引きつけた者。
皆、左近より若かった。
「もうよい」
左近は若者の肩から腕を外した。
「おぬしは行け」
「どこへ」
「家へ帰れ」
「左近様を置いては――」
「これは軍令じゃ」
若い足軽が黙った。
左近は折れた槍を地面へ突き、どうにか一人で立った。
「おぬしには、老いた母がおると言うておったな」
「……はい」
「妹も二人」
「はい」
「ならば帰れ」
「しかし」
「生きて帰れ」
その言葉が、胸の奥へ刺さった。
左近自身が、少し前に受けた下知だった。
◇
『勝て』
軍議の席で、湊一は言った。
『だが、使い潰すな』
『戦で兵を惜しんで勝てますか』
左近は噛みついた。
『初めから逃げ道など用意しては、兵の覚悟が鈍りまする』
『逃げ道ではない。帰る道だ』
『同じことでござろう』
『違う』
湊一は譲らなかった。
『戦が終わった後も、人は生きねばならない。妻も、子も、足軽も、百姓もだ』
『殿は、拙者にも生きて帰れと申されるか』
『ああ』
『殿が死地へ向かわれるのに?』
『私も帰る』
湊一は、真正面から左近を見た。
『だから、お前も帰れ』
◇
「……難しい下知を出しおって」
左近は呟いた。
「左近様?」
「何でもない」
左近は若い足軽へ背を向けた。
「行け。次に会うたとき、母御の飯が不味かったと愚痴を聞いてやる」
「次など……」
「軍令に口答えするな」
若い足軽は、しばらく動かなかった。
やがて地面へ両手をつき、深く頭を下げた。
「必ず、お帰りください」
「人へ無理を言う前に、自分が帰れ」
若者は何度も振り返りながら、山道を下っていった。
その背が見えなくなるまで見送った後、左近は小さく息を吐いた。
「さて」
一人になると、急に山が広くなった。
折れた槍を突く。
一歩。
また一歩。
佐和山へ向かおうとした足は、しかし途中で止まった。
道の脇に、三つの石が並んでいる。
偶然ではない。
大きな石。
小さな石。
平たい石。
その下へ手を入れると、油紙に包まれた干飯と塩が出てきた。
乾いた布もある。
「これは……」
帰る道に置かれた、備えだった。
誰が来るか分からない。
味方かもしれない。
敵かもしれない。
名も知らぬ者かもしれない。
それでも、腹を空かせた者のために飯を残し、傷ついた者のために布を残す。
「殿」
左近は干飯を握り締めた。
「わしまで、勘定に入れておられたか」
喉の奥が熱くなった。
泣く代わりに、干飯を口へ放り込む。
硬い。
ひどく硬い。
「……不味いのう」
だが、噛んだ。
水が欲しくなった。
すると、藪の向こうで水音がした。
ちょろちょろと、細い流れの音。
左近は石の印を追った。
水は、山の奥へ続いていた。
◇
追手の声が聞こえたのは、谷へ下りたところだった。
「血の跡がある!」
「遠くへは行っておらぬ!」
左近は足元を見た。
布を巻き直したはずの脇腹から、また血が染み出している。
枯れ葉の上へ、赤い滴が落ちていた。
「やれやれ」
折れた槍を構える。
右足に力が入らない。
腕も上がらない。
それでも、一人か二人なら道連れにできる。
茂みの向こうで、甲冑が鳴った。
近い。
左近は息を整えた。
そのときだった。
ばしゃん。
谷川の下流で、大きく水が跳ねた。
「いたぞ!」
「川へ下りた!」
追手の声が遠ざかる。
左近は眉をひそめた。
自分は、川へ下りていない。
藪の隙間から下を覗く。
濡れた土の上に、小さな足跡が続いていた。
人の子より小さい。
獣とも違う。
足跡は川へ入り、また向こう岸に現れ、深い谷の方角へ続いている。
くくっ。
水の中から、子どもの笑い声に似た音がした。
左近は槍を下ろした。
「姿も見せずに恩を売るとは、殿に似てきたのではないか」
水面から、泡が一つ浮かんだ。
ぱちんと弾ける。
「違うと申すか」
今度は二つ弾けた。
「分かった、分かった。借りとしておこう」
左近は川へ一礼した。
再び歩き出す。
追手が戻る前に、少しでも山の奥へ入らねばならない。
◇
湯気が見えた。
こんな山中に、白い湯気が立っている。
近づくと、岩肌へ寄り添うように小さな湯小屋が建っていた。
板壁は傾き、屋根には苔が生えている。
宿と呼ぶには粗末だった。
だが、軒下には乾いた薪が積まれ、戸口には草鞋が二足並べてある。
左近が戸へ手をかける前に、中から声がした。
「入るなら早う入れ。湯が冷める」
左近は槍を構えた。
戸が開く。
腰の曲がった老人が、湯気の向こうから顔を出した。
「槍を下ろせ。壁に穴を開けられては困る」
「何者じゃ」
「ここの湯を見ておる」
「わしが誰か、分かっておるのか」
「知らぬ」
老人は左近の血まみれの具足を一瞥した。
「知りたくもない」
「東軍の者かもしれぬぞ」
「西軍かもしれぬ」
「人を斬ってきた男かもしれぬ」
「その傷では、今夜は誰も斬れまい」
「言うのう」
「年寄りは、先が短い。遠慮しておる暇がない」
老人は戸を大きく開けた。
「早う入れ。血を垂らされては、掃除が面倒じゃ」
左近は迷った。
だが、背後の山道から追手の声が近づいている。
湯小屋へ身を滑り込ませた。
中には、小さな竈があった。
棚には米、塩、干した芋、傷へ巻く布。
壁際には古い衣と編笠まで置かれている。
「これも、佐和山の殿の支度か」
老人の手が止まった。
「殿様を知っておるのか」
「少しな」
「ならば話が早い」
老人は鍋へ水を入れ、竈へかけた。
「あの殿様は、妙なことを申した」
「妙なことばかり申される」
「傷ついた者が来たら、名を問うな。腹が減っておれば飯を出せ。逃げる者を責めるな」
左近は目を伏せた。
「どちらの兵かも聞くな、と?」
「聞いてしまえば、匿った後で嘘をつかねばならん」
「知らぬ方がよいか」
「そういうことじゃ」
老人は左近を板の上へ座らせ、具足を外し始めた。
脇腹へ巻かれた布を解くと、顔をしかめる。
「ひどい傷じゃ」
「かすり傷よ」
「かすり傷で腹に穴が開くなら、わしは毎日死んでおる」
老人は湯へ布を浸した。
「噛むものはあるか」
「いらぬ」
「そうか」
次の瞬間、熱い布が傷口へ押し当てられた。
「ぬおっ!」
左近の声が湯小屋を揺らした。
「叫ぶな。追手に聞こえる」
「先に申せ!」
「いらぬと言うたではないか」
「そういう意味ではない!」
「元気が出たようで何よりじゃ」
老人は平然と傷を洗った。
湯が赤く染まる。
左近は歯を食いしばり、それを見つめた。
「殿の湯を、わしの血で濁してしもうた」
「湯は汚れれば流せばよい」
「人の命も、流してしまえるか」
「流せぬから、湯を沸かしておる」
老人の手は止まらなかった。
「死にたいのか」
「死んだ方が、楽であろうな」
「ならば、生きる方を選べ」
「何?」
「楽な方へ逃げるのが、武士のすることか」
左近は老人を睨んだ。
老人は涼しい顔で、新しい布を巻く。
「生きる方がつらいなら、生きる方が戦じゃろう」
「名も知らぬ老人に説教されるとはな」
「名を聞くなと言われておるからの」
鍋の湯が沸いた。
白い湯気が上がる。
ちりん。
どこかで、小さな鈴の音がした。
左近は顔を上げた。
湯気の向こうに、幼い影が立ったように見えた。
尊大に腕を組み、こちらを睨んでいる。
「水守殿か」
返事はない。
湯気が、ふわりと揺れただけだった。
「左近様に生きて帰れと言うたのは、殿だけではなかったのう」
「何を申しておる」
老人が振り返る。
左近は苦笑した。
「口の悪い知り合いがおってな」
「熱で頭をやられたか」
「おそらく」
老人から白湯の椀を受け取る。
一口すすった。
熱い。
何も味はしない。
だが、冷え切っていた腹の底へ、命が戻ってくるようだった。
「妙なものじゃ」
「何がじゃ」
「戦場で鉄砲を受けたときは、死ぬものと思うた」
もう一口飲む。
「されど白湯を飲んだら、死にたくなくなった」
「腹が減っておるだけじゃ」
「情緒のない爺よ」
「芋もあるぞ」
「先に出せ」
「武将という者は、皆、図々しいのか」
わずかに笑いがこぼれた。
その直後。
外で枝が折れた。
二人の顔から笑みが消える。
「この小屋だ!」
「開けろ!」
戸が激しく叩かれた。
左近は刀へ手を伸ばす。
老人が、その手を杓子で叩いた。
「何をする」
「湯小屋で人を斬るな」
「おぬしが斬られるぞ」
「客が宿の者を死なせてどうする」
老人は湯溜まりの奥を指した。
岩壁の前で、濃い湯気が立っている。
その奥に、人一人が通れるほどの割れ目があった。
「昔、水を逃がした穴じゃ」
「どこへ出る」
「知らぬ」
「知らぬ道へ、傷人を放り込む気か」
「知っておれば、追手に聞かれたとき困る」
戸板が軋んだ。
左近は立ち上がろうとした。
足が崩れる。
老人が肩を貸した。
「行け」
「爺」
「湯代は、生きて返せ」
「高い湯じゃのう」
「命一つなら安い」
左近は湯気の中へ入った。
岩の割れ目へ身体を滑らせる。
直後、戸が破られた。
「動くな!」
兵たちが雪崩れ込んでくる。
「傷を負った武者が来たはずだ!」
「知らぬ」
老人は竈の前へ座った。
何事もなかったように、白湯をすすっている。
「血の跡があるぞ」
「年寄りは、ときどき鼻血を出す」
「この量をか!」
「今日は調子が悪かった」
兵の一人が湯溜まりへ槍を入れた。
別の兵が棚を倒す。
岩の割れ目へ近づこうとした、そのとき。
小屋の外で、水が大きく跳ねた。
ばしゃん。
続いて、子どもの笑い声がした。
「外だ!」
「逃げたぞ!」
兵たちが飛び出す。
泥の上には、小さな濡れた足跡が続いていた。
山道を下り、深い谷へ向かっている。
「追え!」
兵たちは足跡を追い、暗闇へ消えていった。
湯小屋に静けさが戻った。
老人はしばらく待ってから、岩壁へ声をかけた。
「もう出てもよいぞ」
返事はない。
「おい」
湯気を手で払う。
岩の割れ目の奥に、左近の姿はなかった。
水の抜け道は、山の向こうへ続いているらしい。
ただ、濡れた具足の一部が残されていた。
島左近と知れるものは、何一つない。
老人は足元を見た。
空になった白湯の椀が、一つ。
きちんと伏せて置かれていた。
「湯代は、まだじゃぞ」
老人が呟く。
岩の奥から、低い笑い声が返った気がした。
◇
水の抜け道を出ると、夜明け前の山道へ出た。
道は三つに分かれていた。
北へ向かえば、深い山がある。
東へ向かえば、敵の懐へ入る。
西へ向かえば、寺と町の中へ紛れ込める。
左近は立ち止まった。
佐和山の空は、まだ赤い。
城へ戻る道はない。
主君の居場所も分からない。
家も、役目も、名も、失った。
「帰る場所など、もうないと思うておったが」
左近は古い墨染めの衣をまとい、編笠を深くかぶった。
折れた槍を、杖代わりに持つ。
「なければ、生きて探せばよいか」
誰にともなく言った。
水音が答える。
ちりん。
小さな鈴の音が、朝霧の中で鳴った。
左近は振り返らなかった。
どの道を選んだのか。
見ていた者はいない。
朝霧と湯気が重なり、その大きな背を包み込んだ。
◇
同じ頃。
岩屋の奥で、白那が目を開けた。
妻の膝に抱かれた身体は、小さき湯番と変わらぬほど幼い。
顔色は青ざめ、指先は薄く透けている。
それでも、口元にはわずかな笑みがあった。
「白那様?」
小さき湯番が顔を覗き込む。
「どこか痛むのですか」
「愚か者。妾を誰だと思うておる」
声にも、いつもの勢いはなかった。
「では、なぜ笑っておられるのです」
「笑ってなどおらぬ」
白那は尊大に鼻を鳴らした。
「言いつけを聞かぬ大馬鹿者が一人、ようやく下知に従っただけじゃ」
「誰のことですか」
「知らぬ」
白那は目を閉じた。
「水は、名を問わぬ」
近くでは、三男が子どもたちの名を数えていた。
一人ずつ名を呼び、返事を確かめている。
返事があれば、うなずく。
声が小さければ、もう一度呼ぶ。
その左右の手を、幼い子どもたちが握っていた。
小さき湯番は、残っていた握り飯を半分に割った。
「白那様。お召し上がりください」
「いらぬ」
白那はそっぽを向く。
だが、握り飯から目を離さない。
「力を使われたのでしょう?」
「使っておらぬ」
「では、これは供物です」
白那の片目が開いた。
「供物か」
「はい」
「ならば仕方あるまい。水守の務めとして、妾が預かってやる」
小さな手で、握り飯を受け取る。
残った半分を見て、白那は少しだけ考えた。
「それは水辺へ置いておけ」
「どなたかに差し上げるのですか」
「知らぬと言うておろう」
白那は握り飯を頬張りながら、ふいと顔を背けた。
「腹を空かせた愚か者が、水の先におるかもしれぬだけじゃ」
岩屋の外が、わずかに明るくなった。
夜が明ける。
遠くで、佐和山城の崩れる音がした。
◇
慶長五年九月十八日。
佐和山城は落ちた。
城内から運び出された首の中に、島左近のものはなかった。
「左近の首は、ございませぬ」
そう報告した兵がいた。
戦場で死んだのだと言う者がいた。
山へ逃げたのだと言う者もいた。
寺へ入った。
東へ落ちた。
北の山村へ隠れた。
その後、幾つもの噂が生まれることになる。
けれど、この朝。
真実を知る者はいなかった。
ただ、山の湯小屋からは、誰もいなくなった後も、白い湯気が昇っていた。
関ヶ原より、二日。
お読みいただき、ありがとうございます。
関ヶ原での島左近の最期には諸説があり、遺骸や首が確認されなかったことから、各地に生存伝承が残されています。
本作では、そのどれか一つを真実と定めず、左近が「生きて帰れ」という下知を受け入れ、湯気の向こうへ消えるまでを描きました。
死地へ進むより、生き続ける方が難しいこともある。
湊一から左近へ渡された言葉は、今度は若い足軽へ受け継がれていきます。
次回、挿話 九湯「届かなかった文」。
届かなかった言葉にも、残された思いがあります。




