第四十六湯 水守、妻子を隠す
佐和山炎上の夜。
白那は、石田家の妻子と幼い者たちを連れ、燃える城からの脱出を試みます。
しかし、逃げ道を読む者もまた、水の先で待っていました。
佐和山の空は、夜でありながら赤かった。
山腹を這い上がった炎が曲輪から曲輪へ移り、櫓の屋根を舐め、黒煙を天へ押し上げている。
城内から聞こえるのは、鬨の声ばかりではない。
梁の折れる音。
馬の嘶き。
鉄砲。
誰かを呼ぶ声。
そして、返事のない名を、何度も叫ぶ声だった。
◇
「石田治部の妻子は、城内に残っているそうにございます」
その報告を聞いた瞬間、小早川秀秋の手が止まった。
口元まで運びかけた杯が、わずかに震える。
関ヶ原で大谷吉継の陣へ兵を向けたときから、酒は何杯飲んでも味がしなかった。
喉を通るのは酒ではない。
まだ温かい血のように思えた。
「妻子……」
「はっ。奥向きに女、幼子が多数。石田家の者も混じっているものと」
秀秋は杯を置いた。
「女、幼子へ刃を向けるな」
家臣が顔を上げる。
「されど、敵方の血縁にございます」
「聞こえなかったか」
秀秋の声が鋭くなった。
「逃げる女を背から射るな。幼子へ槍を向けるな。捕らえるならば、生きたままにせよ」
「金吾様」
「命令だ」
秀秋は自分の手を見た。
この手は、もう裏切り者の手だ。
ならば、いずれ妻も、裏切り者の妻と呼ばれる。
昨日まで頭を下げていた者が、明日には石を投げるかもしれない。
夫の罪を、妻が背負わされる。
父の選択を、子が憎まれる。
そんな世の理不尽を、秀秋は今日、自ら生み出してしまった。
「今日、裏切ったのは私だ」
誰へともなく呟く。
「妻子まで、誰かを裏切ったわけではない」
陣幕の端に、黒衣の女が立っていた。
俯いた顔は、灯火の陰に隠れている。
「承知いたしました」
女は静かに答えた。
「生け捕りにすれば、使い道もございましょう」
秀秋の目が女を射抜いた。
「道具として申したのではない」
「失礼いたしました」
女は頭を下げた。
だが、その口元には、詫びる者の色がなかった。
◇
城内で、鈴が鳴った。
風はない。
それでも、井戸の祠に結ばれた小さな鈴は、燃える城の叫びに抗うように――ちりん、と鳴った。
「奥方様!」
廊下を駆けてきた侍が、転がるように膝をついた。
兜はなく、額から流れた血が片目を塞いでいる。
「東の渡り廊下が破られました。敵は、すでに奥向きへ入っております!」
言葉が終わらぬうちに、遠くで戸が蹴破られた。
「探せ!」
「石田の妻子を逃がすな!」
奥方のそばで、幼い者たちが身を寄せ合った。
長男と次男は大坂にいる。
今、佐和山にいる息子は三男だけだった。
三男は青ざめていた。
けれど、父から預かった役目を忘れてはいない。
「名を呼ぶ」
左右の手で幼い者の手を握る。
「返事をせよ」
一人ずつ名を呼んだ。
「はい」
「おります」
「ここにおります」
「前の者の帯をつかめ」
三男は震える声を押し殺した。
「絶対に離すな」
小さき湯番も、前の子の帯を握った。
その隣に立つ白那は、幼児ほどの姿になっている。
だが、その目だけは、燃える城よりも強く光っていた。
「泣くなとは申さぬ」
白那は濡らした布を、一人ずつに渡した。
「怖いままでよい。怖いからと足を止めるな」
「白那さま……」
「布で口と鼻を覆え。走るな。転んだ者がおれば、前の者も止まれ」
白那は一同を見渡した。
「誰か一人を置いて、自分だけ助かろうと思うな」
その言葉に、奥方の表情が揺れた。
「私は残ります」
「何?」
「皆を逃がした後、私はここへ残ります」
奥方は炎の向こうへ目を向けた。
「殿がお戻りになる場所を、誰かが守らねばなりませぬ」
白那の眉が吊り上がった。
「子に母を捨てさせて、何が帰る場所じゃ」
「しかし――」
「城と家を同じにするな、愚か者!」
白那の怒声に、幼い者たちまで身を震わせた。
「石と柱が焼ければ、帰る場所まで消えるのか。そなたが死ねば、残された子らはどこへ帰ればよい」
奥方は言葉を失った。
「妾は石垣の守り神ではない」
白那が井戸の祠を指す。
「水と、そこへ帰る者を守る水守じゃ」
足音が近づいてきた。
迷っている時間は、もうない。
「行け!」
◇
廊下を進みながら、三男はもう一度、全員の名を呼んだ。
「はい」
「おります」
「ここにおります」
最後の名を呼ぶ。
返事がない。
三男の足が止まった。
「もう一度だ」
呼ぶ。
返事がない。
最後尾の女房が振り返った。
「先ほどまで、私の後ろにおりました」
「戻ります」
三男が手を離そうとする。
「ならぬ」
白那が止めた。
「父上は、一人も置いてゆくなと申されました!」
「そなたが戻って消えれば、残った者の名を誰が呼ぶ」
「ですが!」
「妾が行く」
奥方が白那の腕をつかんだ。
「あなたは皆の道を開かねばなりませぬ」
「分かっておる。ゆえに、すぐ戻る」
白那は若い女房を指した。
「そなた、妾と来い。三男は列を進めよ。井戸の祠で待て」
「白那さま!」
「命じたぞ!」
白那は女房を連れ、煙の中へ戻った。
以前なら、一息で駆け抜けられた廊下だった。
今は遠い。
幼い足が床板に引っかかる。
煙を吸うたび、胸の奥が焼けた。
「返事をせよ!」
白那が名を呼ぶ。
かすかな泣き声がした。
膳部屋の隅。
倒れた膳の下に、小さな子がうずくまっている。
白那はその腕をつかんだ。
「愚か者! なぜ返事をせぬ!」
「怖くて……声が……」
「怖いなら、なおさら声を出せ!」
白那が子を立たせた瞬間、障子が破れた。
槍の穂先が、煙を裂く。
「いたぞ!」
白那は子を抱えて身を伏せた。
槍が髪をかすめ、背後の柱へ突き刺さる。
「逃がすな!」
兵が槍を引く。
白那は床板へ掌をついた。
「水よ!」
指の隙間から、細い水が走った。
床に落ちた灰と油を巻き込み、敵兵の足元へ滑り込む。
「うわっ!」
一人が転んだ。
だが、後ろの兵は踏みとどまった。
「妖しの小娘め!」
刀が抜かれる。
白那は子を背にかばった。
もう一度水を呼ぼうとする。
水が来ない。
指先が震えるばかりだった。
「白那さま!」
女房が子を抱き寄せる。
兵が刀を振り上げた。
そのときだった。
壁際に置かれていた大きな水桶が、ひとりでに傾いた。
ざあっ、と水が床へ流れ出す。
「何だ!」
敵兵が足を滑らせ、柱へ肩を打ちつけた。
白那は目を見開いた。
桶の陰を、小さな黒い影が横切った。
濡れた足跡が二つ。
三つ。
人のものより幅が広く、指の間が妙に離れている。
暗がりから、
けけっ。
笑い声とも、燃える木の軋みともつかぬ音がした。
「……余計な真似をしおって」
白那は子の手を引き、走り出した。
「礼など申さぬぞ!」
背後から敵兵の怒声が響く。
「追え!」
矢が一本、廊下を走った。
白那のすぐ横を抜け、柱へ突き立つ。
「頭を下げよ!」
三人は煙の中を駆けた。
◇
井戸の祠へたどり着いたとき、三男は入口に立っていた。
「おりましたか!」
「当然じゃ。妾を誰だと思うておる」
白那は見つけた子を三男へ押しつける。
「名を呼べ」
三男が名を呼んだ。
「……はい」
子は泣きながら返事をした。
「全員おります」
「ならば、石戸を開けよ!」
男たちが祠の裏へ回った。
石組みの一部に手をかけ、引く。
動かない。
「開きませぬ!」
「なぜじゃ!」
「上から崩れた土が噛んでおります!」
城が揺れた。
頭上から土埃が落ちる。
背後では、敵兵の声が迫っていた。
「火の向こうだ!」
「井戸の辺りを探せ!」
石戸は、大人三人が力を合わせても動かなかった。
三男は幼い者を壁際へ集める。
「名を呼ぶ。返事をせよ!」
「はい!」
「おります!」
今度の声は、皆、泣いていた。
炎の向こうに人影が見えた。
弓を構える。
「伏せよ!」
矢が一本、祠へ飛び込んだ。
女房の袖を貫き、壁へ突き立つ。
白那は石戸の前へ出た。
「どけ」
「白那さま」
「妾が開ける」
両手を石へ当てる。
井戸の底から、ごぼり、と水音が上がった。
「開け」
石の隙間から水が噴き出した。
固まっていた土が泥へ変わる。
詰まった砂が、少しずつ押し流されてゆく。
「開け!」
白那の身体が透け始めた。
石戸が、わずかに動く。
だが、人一人が通れるほどには開かない。
「まだじゃ……!」
奥方が白那の肩を抱いた。
「もうおやめください。このままでは、あなたが――」
「ここで力を惜しんで、何を守ったと申す!」
白那は歯を食いしばった。
「妾は、水守じゃ!」
井戸の水が、一気にせり上がる。
石戸が軋む。
それでも足りない。
敵兵が炎を越え、祠へ踏み込んできた。
「いたぞ!」
その瞬間。
石戸の向こう側から、
ごとり。
何かが外れた。
内側から小さな手で押したように、石戸がわずかに浮く。
水と泥の中に、丸い石が一つ転がった。
石には、小さな歯形が残っている。
「今じゃ!」
男たちが石戸を引いた。
人一人が、ようやく通れる隙間が開く。
「子どもから入れ!」
三男が幼い者を一人ずつ横穴へ押し込んだ。
敵兵が駆け込んでくる。
「急げ!」
最後の娘が入った瞬間、敵兵の刀が振り下ろされた。
奥方が娘をかばう。
白那が、その前へ飛び出した。
刃が肩をかすめ、衣が裂ける。
「白那さま!」
「見るな! 入れ!」
白那は敵兵の顔へ泥水を浴びせた。
「目が!」
奥方が白那を抱え、横穴へ飛び込む。
男たちが石戸を閉じようとする。
外から敵兵の腕が差し込まれた。
刀が横穴の中を薙ぐ。
切っ先が三男の頬をかすめた。
血が流れる。
それでも、三男は石戸から手を離さなかった。
「押せ!」
全員で石を押す。
「押せえっ!」
石戸が閉じた。
敵兵の腕が引き抜かれる。
直後、向こう側から何度も石を打つ音が響いた。
どん。
どん。
暗い横穴の中で、石戸が震える。
「進め」
白那が息を切らした。
「この戸は、長く持たぬ」
◇
同じ頃。
黒衣の女は、佐和山城の縄張り図を広げていた。
報告を並べる。
井戸の祠へ出入りする女。
城内で増やされた水桶。
山裾に置かれた白い小石。
そして、石田の妻子は北へ逃げたという噂。
「北口へ兵を増やしますか」
部下が尋ねる。
女は首を横へ振った。
「北へ逃げた者が、自ら北へ逃げたと触れ回るものですか」
「では、噂は囮」
「追う者へ北を見せるための囮でしょう」
女は図の上で指を動かした。
井戸。
斜面。
谷。
山裾へ流れ出す沢。
「井戸を探す必要はありません」
細い指が、水の出口で止まる。
「水が、どこへ流れるかを探しなさい」
「金吾様からは、女、幼子を殺すなとのご命令が」
「承知しております」
女は黒い羽根を三本、部下へ渡した。
「生きた者は、死者より多くを動かせます」
その声は冷たかった。
「妻子を得れば、石田方の残党を引き出せる。三成本人さえ、穴から出てくるかもしれません」
「出口で待ち伏せを?」
「弓と鉄砲は使わせぬように。金吾様のご機嫌を損ねます」
女は薄く笑った。
「足で追う必要もありません。逃げる先をなくせばよいのです」
◇
横穴には灯りがなかった。
松明をつければ、追手に居場所を知らせる。
一行は壁に張られた縄を頼りに進んだ。
足元を流れる水は、初めは足首ほどだった。
やがて脛へ達した。
「水が増えております」
「妾が石戸を開くために呼んだ水じゃ」
白那は奥方に支えられながら答えた。
「追手の火も消してくれるであろう」
背後で、石の崩れる音がした。
石戸が破られた。
「穴が続いているぞ!」
「松明を持ってこい!」
暗闇の奥に、赤い光が現れた。
「来ます!」
「走るな!」
白那が叫ぶ。
「足元を取られれば、それで終わりじゃ。縄を離すな!」
追手は大人の足。
こちらには幼い者と負傷者がいる。
赤い光は、少しずつ近づいてきた。
「前が詰まっております!」
先頭から声が返る。
横穴の一部が崩れ、人一人が横向きでしか通れなくなっていた。
「子どもから通せ!」
三男が幼い者を前へ送る。
そのとき、後ろで悲鳴が上がった。
一人の子が水に足を取られた。
流れの脇には、井戸の底へ続くような深い亀裂が開いている。
小さな身体が暗闇へ引き込まれた。
「助けて!」
三男は右手で隣の子をつかんだまま、左手を伸ばした。
落ちかけた子の手首をつかむ。
身体が水へ引かれる。
三男の膝が滑った。
「離すな!」
「離しません!」
右手の子が泣き叫ぶ。
左手の子は、半身を亀裂へ落としている。
三男は両腕を引かれ、動けない。
後ろから追手の松明が迫る。
もう顔が見えるほど近い。
「いたぞ!」
槍が突き出された。
最後尾の男が振り返り、鞘で穂先を受ける。
「早く助けろ!」
若い女房が帯を外し、亀裂へ投げた。
「これをつかんで!」
三男と女房が、力を合わせて引く。
槍がもう一度突き出される。
最後尾の男の脇腹をかすめ、血が飛んだ。
「急げ!」
子の身体が亀裂から引き上げられた。
三男は左右の二人を抱き寄せる。
「返事をせよ!」
「……はい!」
「おります!」
「ならば進め!」
傷ついた男の足が止まった。
「俺を置いてゆけ」
「置いてゆきませぬ」
三男が即座に答える。
「子どもを先へ!」
台所番の男が負傷者の前へしゃがんだ。
「背負うぞ」
「そなたまで遅れる」
「飯を炊く者は、重い釜を運ぶのに慣れておる」
負傷者を背負い、立ち上がる。
その懐から握り飯が一つ落ちた。
水へ流されかけた飯を、女房が拾う。
濡れて崩れかけていた。
それでも、女房は半分に割った。
一つを泣いている子へ。
残りをさらに二つに割る。
「食べて。力を出して」
「でも、少ししか……」
「少しあれば、三人が歩けます」
三男は、その光景を見ていた。
誰が誰を背負ったか。
誰が幼い者の手を取ったか。
誰が最後の飯を分けたか。
今は筆も紙もない。
それでも、忘れてはならないと思った。
「覚えておきます」
三男が呟く。
「何をじゃ」
白那が尋ねた。
「今日、皆が生きるためになさったことを、すべてです」
白那は答えなかった。
ただ、暗闇の中で水音が一つ、大きく鳴った。
◇
やがて、横穴の先に薄い光が見えた。
「出口です!」
「待て!」
白那が鋭く制した。
水音がおかしい。
本来なら外へ流れる水が、こちらへ押し戻されている。
さらに、金具の触れ合う小さな音が聞こえた。
甲冑。
槍。
人の息。
白那は身を屈め、出口を覗いた。
木々の陰に兵が潜んでいる。
枝には黒い羽根が三本、結ばれていた。
「待ち伏せですか」
奥方が息を呑む。
「妾の水筋を読んだ者がおる」
白那は唇を噛んだ。
背後からも追手が来ている。
前には待ち伏せ。
幼い者たちが、不安げに顔を見合わせる。
「戻ることもできませぬ」
「分かっておる」
白那は壁へ触れた。
別の道はない。
少なくとも、湊一が用意した道には。
そのとき。
水の流れに逆らって、小さな木の実が一つ転がってきた。
木の実は白那の足元を通り、岩壁の亀裂へ入った。
子ども一人なら、ようやく身体を滑り込ませられそうな隙間。
続いて、岩肌へ濡れた手形が一つついた。
指の間が広い。
「……そちらへ行けと申すか」
けけっ。
亀裂の向こうから、小さな笑い声がした。
白那は眉を吊り上げる。
「妾に指図するとは、百年早いわ」
「白那さま」
「じゃが、今回は従ってやる」
白那は三男へ向き直った。
「こちらじゃ。子どもから通せ」
「大人は通れますか」
「腹を引っ込めよ」
「私ではなく、台所番が――」
「聞こえておるぞ!」
台所番が小声で抗議した。
恐怖に固まっていた子どもたちから、かすかな笑いが漏れた。
だが、背後の松明が迫り、笑いはすぐに消える。
「急げ!」
亀裂は狭かった。
大人は身体を横にし、息を吐ききらなければ通れない。
最後尾の男が通ろうとしたとき、追手が追いついた。
「止まれ!」
槍が突き出される。
男は腕を斬られながらも、亀裂へ身体を押し込んだ。
白那が岩へ手を当てる。
「閉じよ!」
水を含んだ土が崩れ、亀裂の入口へ落ちた。
完全には塞がらない。
だが、追手が土を掘り返す間に、わずかな距離を稼げる。
「これで終わりと思うな」
白那は息を吐いた。
「前の待ち伏せを避けただけじゃ」
◇
亀裂の先は、山裾の細い沢へ続いていた。
空が見える。
朝が近い。
一行が沢へ出ようとしたところで、外から声が上がった。
「人影だ!」
待ち伏せの別働隊がいた。
「止まれ!」
兵たちが弓を構える。
逃げる者へ一斉に放てば、それで終わる距離だった。
幼い者たちが身を寄せ合う。
三男が両手を広げ、その前へ立った。
「射て!」
足軽が叫ぶ。
その直後、隊を率いる武将が怒鳴った。
「射るな!」
弓兵たちの手が止まる。
「金吾中納言様のご命令である! 女、幼子へ矢を向けるな! 生け捕りにせよ!」
ほんの一瞬。
追手の動きが止まった。
「今じゃ!」
白那たちは沢へ飛び込んだ。
「追え!」
だが、一人の足軽が命令を無視して弓を引いた。
「石田の血を残すな!」
矢が放たれる。
白那は小さき湯番を突き飛ばした。
矢が白那の髪を切り、木の幹へ刺さる。
「妾の髪を!」
白那の目に怒りが燃えた。
「許さぬ!」
「白那さま、怒るところはそこですか!」
「他に何がある!」
小さき湯番が白那を背負おうとする。
二人はほとんど同じ大きさだった。
うまく持ち上がらず、一緒に沢へ尻餅をつく。
「重いです!」
「誰が重いじゃ!」
「白那さまです!」
「供物は身につかぬ!」
三男が白那を抱き上げた。
「失礼します!」
「そなたまで妾を荷物のように扱うな!」
「叱るのは逃げた後にしてください!」
沢を下る。
冷たい水が膝まである。
背後で犬の吠える声がした。
「犬まで出したぞ!」
「流れに沿って歩け!」
白那が叫ぶ。
「水が匂いと足跡を消す!」
沢を下りながら、三男は何度も後ろを見た。
松明が木々の間を揺れている。
犬の声が近づく。
「追いつかれます!」
「分かっておる!」
白那は三男の腕の中から、水面へ指を伸ばした。
「霧よ」
白い湯気が、わずかに立った。
すぐに消える。
「白那さま……」
「黙っておれ」
もう一度、水を呼ぶ。
「霧よ!」
薄い霧が、水面を撫でる。
だが、人を隠すほどには広がらない。
白那の身体が、朝霧よりも薄く透けてゆく。
「妾の水が……言うことを聞かぬ」
犬の声が、すぐ後ろまで迫った。
「見つけたぞ!」
松明の光が、木々の間から差し込む。
そのとき、沢の流れが三つに分かれた。
本来は一本しかないはずの水が、木の根を越え、岩を回り、別々の方向へ走り始める。
ぱしゃり。
ぱしゃり。
水面のあちこちで、何者かが跳ねた。
けけっ。
けけけっ。
犬たちは足を止めた。
一頭が右へ。
一頭が左へ。
残る一頭は、その場で吠え続ける。
「匂いが分かれたぞ!」
「三手に分かれろ!」
追手も別々の沢へ散ってゆく。
白那は水面を睨んだ。
「やりすぎじゃ!」
誰もいない沢へ怒鳴る。
「帰り道まで分からなくなったではないか、愚か者ども!」
すると一つの流れの先へ、小さな白い石が三つ並んだ。
白那が目を細める。
「……仕方あるまい」
三男へ顎をしゃくった。
「白い石を追え」
◇
朝霧の中。
一行は山中の窪地へたどり着いた。
周囲を岩と木々に囲まれ、外からは見えない。
「ここまで来れば、ひとまずは……」
案内役の男が言いかけた。
だが、その場へ座り込むことは許されなかった。
「待て」
白那が制した。
「先に人数じゃ」
三男は頷いた。
煤と泥にまみれた顔。
頬には、刀でかすめた血が乾いている。
右の手にも、左の手にも、幼い者が必死につかんだ爪痕が残っていた。
三男は、一人ずつ名を呼んだ。
「はい」
「おります」
「ここにおります」
負傷した者も。
誰かを背負った者も。
飯を分けた者も。
一人ずつ、返事をした。
最後に、小さき湯番の名を呼ぶ。
「おります」
白那の名を呼ぶ。
返事がない。
三男の顔が強張った。
「白那さま」
小さき湯番が白那の肩を揺する。
「白那さま!」
「……聞こえておる」
白那は目を閉じたまま答えた。
「水守を人数に数えるでない。妾はそなたらより偉い」
小さき湯番の目から涙がこぼれた。
「泣くな」
「怖かったです」
「妾もじゃ」
白那が呟いた。
小さき湯番は目を見開く。
白那はすぐに顔を背けた。
「……今のは聞かなかったことにせよ」
「はい」
「即答するな」
奥方が白那の冷たい手を包んだ。
「ありがとうございました」
「礼などいらぬ」
「あなたがおられなければ、誰もここにはおりません」
「当然じゃ。妾を誰だと思うておる」
「水守でございます」
「分かっておるなら、二度と疑うな」
三男が深く息を吐いた。
「全員おります」
その言葉を聞いた瞬間、何人もの膝から力が抜けた。
奥方も小さき湯番を抱きしめる。
泣き声が一つ。
また一つ。
誰も、それを止めなかった。
握り飯が一つ、白那のそばへ置かれた。
皆が顔を上げたとき、その飯は半分だけなくなっていた。
濡れた草の上に、小さな手形が残っている。
「今のは……」
小さき湯番が沢を見た。
「河童でしょうか」
「知らぬ」
白那は目を閉じたまま答えた。
「水には、水の者がおる。それだけじゃ」
「白那さまの分を食べております」
「妾の供物を勝手に食うとは、礼儀を知らぬ連中じゃ」
白那の言葉に、幼い者たちが少しだけ笑った。
生きている者の笑いだった。
だが、安堵は長く続かなかった。
案内役の男が、山の向こうを見た。
「日が高くなる前に、ここを離れねばなりませぬ」
奥方が顔を上げる。
「ここも見つかりますか」
「夜が明ければ山狩りが始まります。街道も、村への道も、じきに塞がれましょう」
持ち出せた飯はわずか。
水はあっても、火を焚けば煙が上がる。
負傷者がいる。
幼い者もいる。
白那は、もう一度霧を呼べる状態ではなかった。
遠くから、犬の声が一度だけ聞こえた。
皆の顔から笑いが消える。
奥方は子どもたちを前に座らせた。
「よく聞きなさい」
その声は静かだった。
「これより先、石田の名を口にしてはなりません」
小さき湯番が目を見開いた。
「では、父上の娘ではなくなるのですか」
奥方の唇が震えた。
白那が目を開く。
「名を隠すことと、父を捨てることは違う」
「ですが……」
「生きておれば、いつか名を取り戻せる」
白那は起き上がろうとした。
力が入らず、奥方の肩を借りる。
「死んだ者には、名乗る口さえ残らぬ」
三男は、先ほど自分が呼んだ名を思った。
名を呼ぶことで守った命を、これからは名を呼ばないことで守らなければならない。
「人前では、名を呼びませぬ」
三男は言った。
「ですが、私は忘れません」
「それでよい」
白那が頷く。
沢の水面に、黒い羽根が一枚流れてきた。
白那の表情が変わった。
羽根を拾い、指の中で握り潰す。
「……読まれたか」
「何がでございますか」
「水の出口じゃ」
白那は山の方角を見た。
「同じ道は、二度使えぬ」
◇
「石田の妻子は、見つからなかったと」
報告を聞き、小早川秀秋はわずかに息を吐いた。
その安堵を、誰にも見られまいと顔を伏せる。
「申し訳ございませぬ」
家臣が詫びた。
「追跡を続けます」
「女、幼子へ刃を向けるな」
秀秋は念を押した。
「命令は変わらぬ」
「承知しております」
黒衣の女が答える。
「生きたまま、お連れいたします」
その言葉に、秀秋は安堵できなかった。
捕らえられた妻子が、どのように使われるのか。
自分の命令は、彼女たちを救う命令なのか。
それとも、苦しみを長引かせるだけの命令なのか。
答えは出なかった。
秀秋は杯を手に取った。
だが、飲むことはできなかった。
◇
黒衣の女は、山裾の沢に立っていた。
水は三つの方向へ分かれ、犬は道を失っている。
部下が首を振った。
「足跡も、匂いも消えております」
女は水面へ膝をついた。
流れてきた米粒を、一つ拾い上げる。
「水は匂いを消せても、腹を空かせた者の痕跡までは消せぬ」
「追いますか」
「いいえ」
女は立ち上がった。
「街道を塞ぎなさい。寺、農家、川沿いの小屋も見張らせるのです」
「山中を追わずとも?」
「逃げる先をなくせば、向こうから姿を現します」
女は沢に浮いた黒い羽根を見つめた。
羽根の端には、小さな歯形がついている。
「水は、命令書を読まぬようですね」
女が羽根を取ろうとした瞬間。
水中から小さな手が伸びた。
指の間には、水かきがある。
手は羽根をつかむと、すぐに水の底へ消えた。
女はしばらく水面を見つめていた。
やがて、笑みとも警戒ともつかない表情を浮かべる。
「なるほど」
沢の水だけが、何も知らぬ顔で流れていた。
◇
一行は再び歩き始めた。
負傷者を背負う者。
幼い者の手を引く三男。
白那を支える小さき湯番。
奥方は燃える佐和山の方角を振り返った。
山の向こうが赤い。
夫が守ろうとした城が、失われてゆく。
それでも今は、立ち止まれない。
遠くから犬の声がした。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
三男が白那へ尋ねた。
「もう、助かったのでしょうか」
白那は小さき湯番の背に負われたまま、目を閉じていた。
「愚か者」
かすれた声が答える。
「妾たちは、まだ一夜を生き延びただけじゃ」
幼い者たちの顔に、再び不安が浮かんだ。
白那は薄く目を開く。
「じゃが、一夜を越えねば、次の朝は来ぬ」
霧の向こうを指した。
「歩け」
「どこへ向かうのですか」
「決まっておろう」
白那の声に、わずかな力が戻った。
「帰る場所を、これから作るのじゃ」
一行は朝霧の中へ進んだ。
佐和山からは逃れた。
だが、石田の名を隠し、追手の網をくぐり、生きる場所を探す長い逃亡は――今、ようやく始まった。
関ヶ原から、三日。
お読みいただき、ありがとうございます。
今回は、佐和山城から妻子を逃がす白那たちの一夜を描きました。
城内、抜け道、沢――。
一つの危機を越えても、すぐ次の危機が迫る中、白那だけでなく、三男や女房、台所番、負傷者を背負う者、飯を分ける者、それぞれが命をつなぎました。
河童は姿を見せず、白那の代わりにすべてを解決するのではなく、あと一歩、あと一息だけを陰から支えています。
また、小早川秀秋の「女、幼子へ刃を向けるな」という命令も、妻子を完全に救うものではありません。
ただ、その一瞬のためらいが、生死を分けました。
一方で、黒い羽根の女は、すでに次の逃げ道を読もうとしています。
佐和山からは逃れました。
けれど、石田の名を隠して生きる逃亡は、まだ始まったばかりです。
次回は、同じ頃。
関ヶ原の泥と血の中で、死地から姿を消そうとする男の物語です。




