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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第五章 敗れても、帰る場所は残る

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第四十五湯 佐和山、炎上す

関ヶ原の決着は、戦場だけでは終わりません。


敗れた三成の帰る場所――佐和山へ、昨日まで味方だった者たちが迫ります。


父、兄、妻、そして子どもたち。


守るべきものが多すぎる城で、それぞれが「何を残すのか」を選ぶ一話です。

挿絵(By みてみん)


「白湯は、あるか」


 小早川秀秋がそう尋ねたのは、関ヶ原の西の空が、まだ赤黒く濁っていた頃だった。


 家臣は聞き間違いかと思い、馬上の主を見上げた。


「白湯……にございますか」


「ああ」


「酒ではなく?」


 秀秋の眉が動いた。


「酒は、もうよい」


 腰に下げた瓢箪は空だった。


 振っても、乾いた音すらしない。


 けれど秀秋の喉には、まだ酒の苦さが張りついていた。


 鉄砲の音。


 崩れてゆく西軍。


 倒れた者たち。


 そして、湯気の向こうで見た白い水。


 飲めば、何かが決まるような気がした。


 飲まなければ、何も選ばずに済むような気もした。


 だが、どちらも違った。


 決めたのは自分だ。


 松尾山から兵を下ろし、大谷吉継の陣へ刃を向けた。


 その結果が、今も関ヶ原の野に転がっている。


「殿」


 別の家臣が馬を寄せた。


「内府様より、次なる御下知にございます」


 秀秋は返事をしなかった。


「石田治部少輔が居城――佐和山城を攻めよ、とのこと」


 風が止まった。


 そう感じた。


「佐和山……」


「はっ。脇坂、朽木、小川、赤座の諸勢も加わります。殿には先鋒をと」


 昨日まで味方だった男の城。


 そこには、三成の父がいる。


 兄がいる。


 妻子もいる。


 自分が敗走させた男の帰る場所を、今度は自分の手で奪えという。


「白湯は」


 秀秋はもう一度言った。


「まだか」


「ただちに沸かさせます」


「いや」


 秀秋は佐和山のある方角を見た。


 だが、山影を正面から見ることはできなかった。


「もうよい」


「殿。進軍の御下知を」


 秀秋の唇が震えた。


 その口から出た声は、自分のものではないように聞こえた。


「……進め」


 先頭の馬が動いた。


 一騎が動けば、十騎が続く。


 十騎が動けば、千の兵が進み始める。


 秀秋がもう一度止まれと命じたとしても、止められぬほど大きな濁流となって。


 佐和山へ。


 石田三成の帰る場所へ。


     ◇


 その夜。


 佐和山城の井戸の祠で、鈴が鳴った。


 ちりん。


 風はなかった。


 もう一度。


 ちりん。


 幼い姿となった白那が、井戸の縁へ小さな手を置いた。


 水面には、月も星も映っていない。


 ただ、底の見えぬ黒い水が、かすかに震えていた。


「来るぞ」


 背後にいた奥方が息を呑んだ。


「殿が、お戻りになるのでしょうか」


 白那は答えなかった。


 水へ指を入れる。


 冷たい。


 だが、その冷たさの奥に、無数の足音が混じっている。


「白那様」


「帰る者の足音ではない」


 白那は指についた水を払った。


「奪う者どもの足音じゃ」


 その直後だった。


 城門の方角から、慌ただしい声が上がった。


「開門を!」


「関ヶ原よりの帰還兵にございます!」


 担ぎ込まれた兵は、具足の半分を失っていた。


 片腕から血を流し、泥にまみれ、草鞋も片方しか履いていない。


 それでも奥方の姿を見ると、土の上へ額をつけた。


「申し訳……ございませぬ」


「顔を上げなさい」


「我らは……」


 兵の肩が震えた。


「負け申した」


 奥方の指先が、わずかに動いた。


「殿は」


 兵は顔を上げられなかった。


「殿は、どちらにおられます」


「分かりませぬ」


 答えは、それだけだった。


 討たれたのか。


 逃れたのか。


 傷を負ったのか。


 今も山野をさまよっているのか。


 待つことも、弔うこともできない答えだった。


 奥方のそばで、小さき湯番が袖を握った。


「母上」


 幼い声が、ひどく大きく響いた。


「父上は、帰ってこられますか」


 奥方の唇が開いた。


 だが、言葉が出ない。


 代わりに白那が鼻を鳴らした。


「知らぬ」


 小さき湯番が白那を見る。


「白那さまにも、分からないのですか」


「妾は水守じゃ。行方不明の愚か者を探す犬ではない」


「父上は、愚か者ではありません」


「愚か者じゃ。帰る場所を守ると言いながら、帰り方を決めずに戦へ出た」


 白那は奥方を見上げた。


「帰るかどうかは、あやつが決めることじゃ」


「……はい」


「妾たちは、帰ってきたときに迎える者がいるよう、生きておく」


 奥方は俯きかけた顔を上げた。


「生きて、迎える」


「そうじゃ」


 白那は傷兵へ顎を向けた。


「まず、その者へ白湯を飲ませよ。話はそれからじゃ」


     ◇


 翌日。


 東軍は佐和山を取り囲んだ。


 山の南には徳川家康の本隊。


 大手には小早川、脇坂らの軍勢。


 搦手にも、東軍の旗が隙間なく並んだ。


 城壁の上に立った若い兵が、山裾を見下ろした。


「多すぎる……」


 三の丸を守る石田正澄が、その隣へ立った。


 若者は慌てて背筋を伸ばした。


「申し訳ございませぬ」


「何がだ」


「弱音を」


「多いものを多いと申しただけであろう」


 正澄は敵陣を見渡した。


「実際、多い」


「勝てますでしょうか」


「分からぬ」


 若者の顔から血の気が引いた。


「分からぬのですか」


「勝てると嘘を申せば、怖くなくなるか」


「……なりませぬ」


「ならば、今日を守れ」


 正澄は若者の肩を叩いた。


「明日のことは、明日を迎えた者が考えればよい」


 本丸では、三成の父・正継が床几に腰を下ろしていた。


 白髪は乱れていない。


 具足の紐にも、一つの緩みもなかった。


「城下の者を、さらに山裏へ逃がします」


 正澄が告げると、正継はしばらく黙っていた。


「逃がせば、守る手が減る」


「残せば、死ぬ者が増えます」


「城を残さねば、治部が戻れぬ」


「人が残らねば、戻る場所とも呼べませぬ」


 父子の目が合った。


 正継は目を細める。


「治部も、同じようなことを申すようになったな」


「最近のあれは、城より湯と飯の話ばかりにございます」


「若い頃から、理屈だけは多い男であった」


「父上に似たのでしょう」


「正澄」


「はい」


「今のは聞かなかったことにしてやる」


 ほんのわずかに、二人は笑った。


 だが、その笑みはすぐに消えた。


「奥向きは」


「奥方様と子らが残っております」


「治部の長男と次男は」


「大坂に」


「そうか」


 正継は目を閉じた。


 佐和山にいる孫。


 大坂にいる孫。


 どちらにも、祖父の手は届かない。


「正澄」


「はい」


「一日、守れ」


 正継は静かに言った。


「一日あれば、人は逃げられる」


     ◇


 慶長五年九月十七日。


 夜が明けきらぬうちに、東軍が動いた。


 太鼓の音が山を揺らした。


 大手から、小早川・脇坂勢。


 搦手からも、無数の兵が押し寄せる。


「撃て!」


 三の丸から鉄砲が火を噴いた。


 火縄の臭い。


 弓弦の音。


 城壁へかかる梯子。


 落ちる石。


 悲鳴。


 叫び。


 佐和山は、たちまち戦の音に包まれた。


 城壁の若い兵が、攻め寄せる旗の一つを見つけた。


「あれは……」


 金色の違い鎌。


 松尾山にあった旗。


「小早川ではないか」


「目の前を見ろ!」


「昨日まで、味方だった者が……」


 矢をつがえる手が震える。


「今日は、殿の城を攻めるのか」


 正澄は答えなかった。


 答えられる言葉などなかった。


 ただ、若者の弓へ手を添えた。


「昨日がどうであれ、今日は敵だ」


「はい」


「されど、我らまで昨日を捨てる必要はない」


 若者は奥歯を噛みしめた。


 そして、弓を引いた。


     ◇


 湯殿は、傷兵で埋まっていた。


「次を寝かせろ!」


「矢を抜くな! 僧医が来るまで折って支えよ!」


「白湯を!」


「飯はまだか!」


 湯番たちは走り続けた。


 大釜から湯気が上がる。


 傷を洗う湯。


 冷えた身体を温める湯。


 喉を潤す白湯。


 勝者をもてなすためではない。


 生きている者を、死なせぬための湯だった。


 奥方も椀を手にしていた。


「お飲みください」


 傷兵へ白湯を差し出す。


 けれど、椀の縁が小さく鳴っている。


 手が震えていた。


 鉄砲の音が響くたび、湯がこぼれた。


 奥方は何度も子どもたちを見た。


 三男。


 小さき湯番。


 そのほか、城内に残る幼い者たち。


 一人、二人、三人。


 また最初から。


 一人、二人――。


「数が増えるわけでも、減るわけでもないぞ」


 白那が言った。


「分かっております」


「ならば、同じ者を三度も数えるでない」


「……手が、勝手に」


 奥方の頭には、大坂にいる長男と次男の顔も浮かんでいた。


 ここにいない。


 無事なのかも分からない。


 佐和山にいる子さえ守れるか分からないのに、大坂へ手を伸ばすことなどできない。


 白那が白湯の椀を奪った。


「お飲みください」


 奥方が別の傷兵へ声をかけようとする。


「そなたが飲め」


「今は、わたくしより傷ついた方へ」


「愚か者」


 白那は奥方の腹へ椀を押しつけた。


「喉の乾いた母親に、子の名を呼ぶ声が出せるか」


「ですが」


「飲め」


 奥方は椀を受け取った。


 震える手から、また白湯がこぼれた。


 白那が小さな両手を重ね、その手を支えた。


「恐れるな、とは申さぬ」


 奥方が白那を見る。


「恐れたまま動け」


 白那の声は尊大だった。


 だが、重ねられた小さな指も、ほんのわずかに震えていた。


「道は、妾が見てやる」


「白那様も……」


「何じゃ」


「恐ろしいのでございますね」


 白那の眉が跳ね上がった。


「愚か者! 妾が恐れておるのは、そなたらが勝手に死のうとすることだけじゃ!」


 怒鳴った声が、少し裏返った。


 奥方は、震えながら白湯を飲んだ。


 温かさが喉を通った。


 ようやく一度、深く息を吸うことができた。


     ◇


 戦は、日暮れまで続いた。


 けれど佐和山は落ちなかった。


 最後の攻め手が坂を下りてゆくのを見て、城兵の間から小さな声が上がった。


「退いた」


 誰かが、もう一度言った。


「敵が退いたぞ!」


 歓声が広がった。


 槍を杖にしていた者が座り込み、泣いた。


 若い兵が正澄へ笑いかけた。


「守りました」


「ああ」


「我らは、佐和山を守りました!」


 正澄は、血と泥にまみれた兵たちを見た。


「今日の佐和山は、そなたらが守った」


 わずか一日。


 それでも、確かに守り抜いた一日だった。


 傷兵たちは湯殿へ運ばれた。


 椀が足りず、二人で一つを回して白湯を飲んだ。


 握り飯は一人半分。


 それでも誰かが笑った。


「明日は、一つ食えるとよいな」


「明日も生きておればな」


「縁起でもないことを申すな」


 長谷川守知も、白湯を差し出された。


「長谷川様」


 若い兵が笑っている。


 片腕には布が巻かれ、赤く染まっていた。


「本日は、助かりました」


「……何がだ」


「長谷川様の弓鉄砲衆が、太鼓丸を支えてくださったゆえ」


 兵は白湯の椀を守知へ押し出した。


「明日も、お願いいたします」


 守知は椀を受け取った。


 湯気が顔に触れる。


 温かい。


 その温かさが、ひどく重かった。


「飲まれぬのですか」


 背後から女の声がした。


 守知が振り返った。


 廊下の奥。


 灯明の届かぬ場所に、黒い衣の女が立っていた。


「誰だ」


「今さら、それをお尋ねになりますか」


「城内へ、どうやって入った」


「あなたと同じ道から」


 守知の手が刀へ伸びた。


 女は笑わない。


 ただ静かに、守知の持つ椀を見た。


「よき湯でございますね」


「……何が望みだ」


「妾どもが望むことではございません」


 守知の目が細くなる。


「そなた、今なんと――」


「あなたはすでに、京極殿とお約束を交わしておられる」


 守知の顔が固まった。


「声を落とされませ」


「なぜ、それを知っている」


「内府様もご存じです」


 白湯の表面が揺れた。


「小早川様も、あなたが城より出ることを妨げぬでしょう」


「わしに、城門を開けと申すか」


「いいえ」


 女は廊下の闇へ溶けるように一歩下がった。


「太鼓丸の道を、一つ空けていただくだけ」


「城内には、女子どももいる」


「戦とは、そういうものにございましょう」


「今日、共に戦った者たちもいる」


 守知の声が掠れた。


「わしを信じて、湯まで差し出した」


 女は初めて、かすかに首を傾けた。


「ならば、お飲みになればよろしい」


「何?」


「その湯を飲み、明日も城をお守りになればよい」


 守知は答えられなかった。


「ただし」


 女の声が冷たくなる。


「京極殿とのお約束も、内府様へ通じた文も、すべて城方へ知れることになります」


 守知の指が椀へ食い込んだ。


「あなたは、すでに選ばれた」


 女は暗闇の中へ消えた。


「わたくしは、刻をお知らせしただけにございます」


 守知が廊下へ駆け出したとき、そこには誰もいなかった。


 床に落ちていたのは、濡れた黒い羽根が一枚。


 手の中の白湯は、すっかり冷めていた。


     ◇


 夜半。


 一人の兵が奥向きへ駆け込んできた。


「奥方様!」


 兵は膝をつき、文を差し出した。


「正澄様の御命令にございます。敵が搦手へ回る恐れあり。奥方様と御子らは、直ちに西の蔵へお移りください」


 奥方は文を開いた。


 正澄の印がある。


 外では馬の嘶きが聞こえた。


 遠くで槌を打つ音もする。


 東軍が次の攻撃に備えている。


「三男」


「はい」


「幼い者たちを集めなさい」


 三男はすぐに動いた。


「並べ! 小さい者を前に!」


 小さき湯番も子どもたちの手を取った。


「わたしも手伝います」


「私から離れるな」


「兄上こそ」


「口答えするな」


「兄上も白那さまみたいです」


「誰がじゃ!」


 白那が怒鳴った。


 それでも白那は、列の先頭に立とうとした。


 だが、廊下へ一歩踏み出したところで止まった。


 井戸の鈴が鳴っていない。


「待て」


「白那様?」


 奥方が振り返る。


「急がねばなりません」


「動くな」


「ですが、正澄様の御命令です」


 白那は兵から文を奪い取った。


 印を見る。


 匂いを嗅ぐ。


 そして、床へ落とした。


「これは正澄の命ではない」


 兵の顔が強張った。


「何を申されます。確かに印が――」


「印が道を歩くか」


「は?」


「人が動けば、水も空気も揺れる。西の蔵へ逃がす支度をしたなら、その先に人の気配があるはずじゃ」


 白那は廊下の奥を睨んだ。


「何もない」


 兵が一歩下がった。


「それどころか――油の臭いがする」


 次の瞬間。


 廊下の先へ火矢が飛び込んだ。


 油を含ませた筵が、一気に燃え上がる。


「伏せろ!」


 梁が爆ぜた。


 煙が押し寄せる。


 子どもたちの列が二つに裂けた。


「戻れ!」


 三男が叫ぶ。


「全員、こちらへ!」


 奥方が幼い者を抱き寄せる。


 白那は床へ手をつき、水を走らせた。


 だが、水は細い。


 炎を消すほどの力はない。


「名を呼べ!」


 三男が子どもたちを数えた。


「一人、二人、三人……」


 息を呑む。


 もう一度。


「一人、二人……」


「どうしたのです」


 奥方の声が震えた。


 三男が顔を上げる。


「小さき湯番が、いない」


 奥方が炎の方へ振り返った。


「娘が!」


 燃える梁の向こう。


 煙の中から、かすかな咳が聞こえた。


「母上……」


 奥方が走り出す。


 白那がその袖へ飛びついた。


「待て!」


「離してください!」


「行くな!」


「あの子が向こうにいるのです!」


 奥方は白那の手を振り払おうとした。


「母親が行かずに、誰が助けるのです!」


「そなたが焼け死ねば、残った子らは誰を母と呼ぶ!」


 奥方の動きが止まった。


 その脇を、三男が駆け抜けた。


「私が行く!」


「兄上!」


 煙の向こうから、小さき湯番の声がした。


 白那は歯を食いしばった。


 床を這う水へ、両手を押し当てる。


「水よ」


 細い水が震えた。


「道を忘れるでない!」


 水が炎の下を走った。


 じゅっと音を立て、ほんの一筋だけ火が弱まる。


 人一人が通れるほどでもない。


 だが、三男は身を低くして走った。


 倒れた梁の手前。


 小さき湯番が煙に巻かれ、うずくまっている。


「手を!」


 三男が叫ぶ。


「立てるか!」


「足が……」


 三男は妹を背負った。


 火が再び広がる。


「走れ、愚か者!」


 白那の声が飛んだ。


「妾の水が消える前に!」


 三男は炎の下を駆け抜けた。


 袖の端が燃えた。


 兵が布を叩きつけて消す。


 奥方は戻った二人を抱きしめた。


「よかった……」


 それしか言えなかった。


 小さき湯番は咳き込みながら、白那を見た。


「白那さま」


「何じゃ」


「小さくなっています」


「気のせいじゃ」


「袖が、床についてます」


「この衣が大きくなったのじゃ!」


 白那は立ち上がろうとした。


 だが、膝が折れた。


 奥方が手を伸ばす。


「触るでない!」


 白那はその手を払い、自分で立ち上がった。


「妾は、まだ歩ける」


 声だけは尊大だった。


 けれど、呼吸は浅い。


 輪郭も、湯気のように薄くなっている。


 奥方は焼け残った偽の文を見た。


「城を落とすだけなら……」


 声が震える。


「なぜ、わたくしたちの行き先まで知ろうとするのでしょう」


 白那は答えを濁さなかった。


「城だけが狙いではないからじゃ」


「では」


「石田三成の妻と子を残さぬ」


 小さき湯番が、母の袖を握った。


「そう考えておる者がいる」


 奥方の顔から血の気が引いた。


 白那は井戸のある方角へ顔を向ける。


「しかも、敵は外だけではない」


 遠くで、鈴が鳴った。


 ちりん。


 今度の音は、ひどく濁っていた。


「もう、城の中におる」


     ◇


 奥方は白湯の椀を持った。


 まだ手は震えている。


「わたくしが、偽りの命を信じたために……」


「反省は生き延びてからせよ」


 白那が言った。


「ですが」


「飲め」


 奥方は白湯を一口飲んだ。


「三男」


「はい」


「もう一度、全員の名を呼べ」


 三男は頷いた。


 一人ずつ、名を呼ぶ。


「はい」


「はい」


「ここにおります」


 返事のたびに、奥方の呼吸が少しずつ整っていく。


 最後に小さき湯番が、煙で掠れた声を出した。


「はい」


 全員いる。


 今は、まだ。


「白那様」


 奥方は椀を置いた。


「わたくしが城へ残ります」


 白那の目が細くなった。


「何?」


「わたくしが残れば、敵の目を引けます。その間に、子らを――」


「却下じゃ」


「白那様!」


「子に母を捨てさせて、何が帰る場所じゃ」


 白那は奥方の指をつかんだ。


 小さくなった手。


 それでも、強く握った。


「そなたも来い」


「ですが、殿が戻られたとき――」


「そなたが死んでおれば、あの愚か者はどこへ帰る」


 奥方は言葉を失った。


「城は、帰る場所の一つにすぎぬ」


 白那は言った。


「人が残れば、また湯を沸かせる」


「白那様……」


「飯も炊ける。子を叱ることもできる」


 白那は鼻を鳴らした。


「供物を用意することもな」


「やはり、それが目当てなのですね」


 小さき湯番が言った。


「違う! 水守の務めに必要なのじゃ!」


 子どもたちの間から、小さな笑いが漏れた。


 ほんの一瞬だった。


 だが、その笑いで、奥方はもう一度息を吸うことができた。


     ◇


 夜明け前。


 本丸で、正継と正澄は向かい合った。


 外から、敵兵の動く音が聞こえる。


 正継は、息子の具足についた血を見た。


「怪我は」


「他人の血にございます」


「そうか」


「父上は」


「年寄りを気遣う暇があるなら、三の丸へ戻れ」


 正澄は苦笑した。


「これが、最後になるやもしれませぬ」


「最後かどうかは、死んでから考えよ」


「治部と同じことを申されますな」


「治部が、わしに似たのだ」


「そこだけは、決して認めぬでしょう」


 二人は笑った。


 短い笑いだった。


「正澄」


「はい」


「あれは、幼い頃から帰り方が下手であった」


「父上が、帰るたびに叱るからでしょう」


「ならば今度は、叱らぬことにする」


「それを本人にお伝えください」


「そなたが申せ」


「父上が」


「そなたが」


 二人とも、自分ではなく相手が生き残るつもりで話していた。


 正継は立ち上がり、正澄の肩へ手を置いた。


「あれの城を、よく守ってくれた」


 正澄は父の手へ、自分の手を重ねた。


「父上の城でもございます」


 やがて手が離れた。


 正澄は三の丸へ。


 正継は本丸へ。


 二人は、振り返らなかった。


     ◇


 空が白み始めた頃。


 太鼓丸の見張りが、不審な音を聞いた。


 ぎい。


 門の軸が鳴る。


「誰だ」


 返事はない。


「門へ近づくな!」


 見張りが駆け寄った。


 内側から外されてゆく閂が見えた。


「やめろ!」


 門の前に、長谷川守知が立っていた。


「長谷川様……?」


 守知は振り返らない。


「なぜ」


 背後から若い兵の声がした。


 昨日、白湯を差し出した兵だった。


「なぜでございます」


 守知の手が止まった。


 ほんの一瞬。


 湯気。


 温かな椀。


 明日も頼むと笑った顔。


 すべてが脳裏をよぎった。


 だが、門の向こうから、合図の音がした。


 守知は目を閉じた。


 そして、閂を外した。


「長谷川様!」


 門が開く。


 小早川勢が押し寄せた。


 若い兵は槍を構えた。


 正澄が駆けつける。


「敵が入った!」


「門は破られておりませぬ!」


 正澄の目が、守知を捉えた。


「では、なぜ――」


 守知と正澄の目が合った。


 正澄は罵らなかった。


 刀を向けることもしなかった。


 ただ、静かに尋ねた。


「そなたも、昨夜の湯を飲んだであろう」


 守知の顔が歪んだ。


 答えはなかった。


 東軍の兵に押され、その姿は人波の中へ消えた。


「敵襲!」


「太鼓丸を破られた!」


「三の丸へ来るぞ!」


 鬨の声が、城の内側から響いた。


 佐和山城は、外から破られたのではなかった。


 内側から、道を開けられた。


     ◇


 火が上がった。


 最初に燃えたのは、太鼓丸近くの小屋だった。


 次に柵。


 風に煽られ、火の粉が空へ舞う。


 天守も、本丸も、まだ炎には呑まれていない。


 それでも山裾から見れば、敵の松明と黒煙が重なり、佐和山そのものが赤く燃えているように見えた。


「落城じゃ」


 井戸の前で、白那が言った。


 奥方が息を呑む。


「まだ本丸は」


「城の形の話ではない」


 白那は濁った水面を見つめた。


「守る者より、入り込んだ敵の方が多くなった」


 廊下の向こうから、敵兵の声が聞こえた。


 近い。


 もう、城壁の外ではない。


 三男が幼い者たちを並ばせた。


「名を呼ぶ。返事をしろ!」


 一人ずつ。


 震える声で。


 それでも、はっきりと返事が返る。


 小さき湯番は、井戸の祠に結んだ鈴を握った。


「白那さま」


「何じゃ」


「道は、ありますか」


 白那はすぐには答えなかった。


 奥方が尋ねる。


「逃げ切れるのでしょうか」


「知らぬ」


 奥方の顔が強張った。


 白那は井戸の縁へ両手を置いた。


「されど、妾は水守じゃ」


 鈴が鳴った。


 ちりん。


 井戸の底から、冷たい風が吹き上がる。


「水が一滴でも残るなら――」


 白那は燃え始めた佐和山を振り返った。


「妾が、帰る道に変えてやる」


 遠くで何かが崩れた。


 火の粉が、赤い雪のように降ってくる。


 白那は奥方と子どもたちへ向き直った。


「名を呼べ」


 三男が頷く。


「一人も置いてゆくな」


「はい!」


「泣く者を責めるな。歩けぬ者は背負え。飯を持つ者は分けよ」


 子どもたちの手がつながった。


 奥方も、小さき湯番の手を握る。


 白那は小さな身体で、井戸の前へ立った。


「城を守る戦は、終わった」


 鈴がもう一度鳴る。


「これより妾は――人を守る」


 佐和山の空が、赤く染まった。


 関ヶ原から、三日。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


関ヶ原の翌々日、佐和山城にも戦火が迫ります。


昨日まで味方だった小早川勢。


城を守り抜こうとする三成の父・正継と兄・正澄。


そして、城の中から開かれようとする道――。


史実に伝わる佐和山城の戦いを土台にしながら、本作では白那や奥方、子どもたちの恐怖と、「城よりも人を残す」という選択を重ねました。


白那は恐怖を消してくれません。


それでも、


「恐れたまま動け。道は妾が見てやる」


と、震える者の前に立ちます。


しかし、敵はすでに城の内側へ入りました。


次回、第四十六湯「水守、妻子を隠す」。


燃える佐和山で、白那が最後の帰り道をひらきます。

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