挿話八湯 三成、水を背負う
黒羽が、まだ「黒羽」ではなかった頃。
舞台は、かの有名な武蔵国・忍城。
三成が背負った水と、ひとりの少女が失った帰る場所――その始まりを描きます。
黒羽が笑った、その夜。
関ヶ原の野には、まだ雨と血の匂いが残っていた。
西軍は崩れた。
大谷吉継は動かなくなり、島津は戦場を突き抜け、小早川の軍勢は東軍の中にいた。
そして、石田三成は敗走した。
黒羽は袖の内から、小さな油紙の包みを取り出した。
幾重にも折った紙を開く。
中にあったのは、一枚の黒い羽根だった。
十年の時を経て艶は失われ、先は細く裂けている。それでも、黒羽は捨てなかった。
「十年……」
指先で羽根の軸をなぞる。
「長うございました。石田三成」
黒羽は、もう一度笑った。
だが、それは勝った者の笑いではなかった。
帰る場所を奪われた者が、ようやく奪い返す順番を得た――そんな笑いだった。
雨に濡れた土の匂いが、黒羽を十年前へ連れ戻した。
◇
黒羽にも、別の名で呼ばれていた頃があった。
きぬ。
そう呼ばれるたびに、振り返るより先に笑っていた頃があった。
天正十八年六月。
武蔵国、忍城の南にある小さな村。
きぬは、父と母の三人で暮らしていた。
大きくもなく、新しくもない家だった。
雨が強ければ土間の隅から水が染み、冬になれば板戸の隙間から風が入った。それでも朝になれば母が竈へ火を入れ、夕暮れには父が泥のついた足で帰ってきた。
きぬにとって、そこは世界でいちばん暖かい場所だった。
「きぬ、また母さまに叱られたのか」
ある夕暮れ、父が笑いながら帰ってきた。
「叱られておりませぬ」
「では、なぜそのような顔をしておる」
「干していた豆を、烏に取られました」
きぬが頬を膨らませると、父は声を上げて笑った。
「笑いごとではありませぬ。母さまが大切に干した豆です」
「すまぬ、すまぬ」
父はそう言って、きぬの前へしゃがんだ。
「では、烏から代わりのものをもらってきた」
差し出した手のひらに、一枚の黒い羽根が載っていた。
「ただの羽根ではありませぬか」
「ただの羽根とは失礼な。よく見てみよ」
父が羽根を傾ける。
夕日を受けた黒の奥に、青とも緑ともつかぬ光が浮かんだ。
きぬの目が丸くなる。
「黒いのに、きれい……」
「一つの色にしか見えぬものでも、光の当たり方で違うものが見える」
父は得意げに言った。
そこへ、母が家の中から顔を出した。
「もっともらしいことを申して。拾った羽根を贈り物にする男など、そなたくらいです」
「きぬが喜んでおるのだから、よかろう」
「喜んでなど――」
言い返そうとしたきぬの髪へ、父が羽根を差した。
「うむ。似合う」
母も、こらえきれずに笑った。
「本当に、小さな烏のよう」
「きぬは烏ではありませぬ」
「ならば、日が暮れる前にきちんと帰っておいで」
母はきぬの髪を撫でた。
「どこへ行っても、帰る場所を忘れてはなりませぬよ」
きぬは口を尖らせながらも、羽根を抜こうとはしなかった。
その夜、膳にはいつもより白い飯が並んだ。
父が忍城を囲む堤の普請へ出て、米と銭を受け取ってきたのだ。
「昼に働けば米一升と永楽銭六十文。夜なら米一升と百文だそうだ」
父は腰を叩きながら言った。
「これまでの戦なら、働けと命じられて終わりだった。此度の大将は、働いた分をその日のうちに渡せと申されたらしい」
母が椀へ飯をよそいながら、心配そうに父を見る。
「けれど、その堤で村を水に沈めるのでしょう」
「城を囲むだけだと聞いておる」
「水は、人の言うことなど聞きませぬ」
母の言葉に、父はしばらく黙った。
「……大将も、同じことを案じておるそうだ」
「大将が?」
「低い土地の者は、早めに高みへ移せと触れが来た。年寄りと病人、子どもを先に逃がせとな」
きぬは箸を止めた。
「私たちも、ここを出るのですか」
「明日から少しずつ荷をまとめる」
「では、この家はどうなるのです」
父はきぬの頭へ手を置いた。
「水が引けば、また戻ればよい」
「もし、家がなくなっていたら」
「そのときは、また建てる」
「同じ家を?」
「同じでなくともよい」
父は母を見た。
母も、静かに笑っていた。
「三人が一緒におれば、そこが帰る場所になる」
きぬには、その意味がまだよく分からなかった。
けれど父と母が笑っていたから、自分も笑った。
それが、いつまでも続くのだと思っていた。
◇
同じ頃。
忍城を見渡す高みに、石田三成は立っていた。
城は、沼の中に浮いていた。
元荒川と星川。大小の沼と湿地。
水を堀とし、泥を壁とし、島のように点在する曲輪を橋でつないだ城である。
このとき、三成は数え三十一。
まだ、白瀬湊一がその身へ入る十年前。
そこに立っているのは、現代の知識も、湯宿の経験も持たぬ、本来の石田三成だった。
「水では落ちぬ」
三成が言った。
傍らにいた大谷吉継が、白い頭巾の奥から忍城を見る。
「そう思うか」
「水は低きへ流れる。人の都合で、城だけを選んではくれぬ」
三成は扇で、眼下の土地を指した。
「忍城の本丸は高い。水を入れれば、先に沈むのは南の村々と我らの陣だ。田も畑も使えなくなる」
少し離れたところで、長束正家が絵図を見下ろしていた。
「されど、城を囲む水が増せば、兵糧を断つことはできまする」
「その前に、こちらの兵糧を運ぶ道が泥へ沈む」
三成は即座に答えた。
「水を待つより、兵を進めるべきだ。降る者には道を残し、抗う者だけを抑える。その方が早い」
三成は陣へ戻ると、すぐに書状を書かせた。
忍城を水で包む策は得策ではない。
もっと積極的に城へ迫るべきである。
そう意見を記し、浅野長吉らへ指図を仰いだ。
しかし、その書状と行き違うように、秀吉からの命令が届いた。
使者が差し出した書状には、忍城を水で囲むための細かな指示が記されていた。
堤を築け。
川の流れを引き入れよ。
忍城を水の中へ孤立させよ。
秀吉は、三成が危ぶんだ策を命じた。
陣幕の中が静まり返った。
吉継が口を開く。
「三成」
「分かっている」
「そなたは反対した。書状も残っておる」
吉継は、秀吉からの命令書を見た。
「もう一度、申し上げるか」
三成は答えなかった。
陣幕の外から、馬のいななきと人足たちの声が聞こえてくる。
やがて、三成は静かに命令書を畳んだ。
「私が断れば、別の者が命じられる」
「そうであろうな」
「その者が、ここに暮らす者のことまで考えるとは限らぬ」
吉継は何も言わなかった。
「ならば、私が引き受ける」
三成は顔を上げた。
「水を入れねばならぬのなら、死ぬ者を一人でも減らす。それが、この地で命令を受けた私の役目だ」
その日から、堤の築造が始まった。
周囲の自然堤防と微高地をつなぎ、足りない場所へ土を盛る。
近隣の村々から、大勢の人足が集められた。
三成は長束正家へ命じた。
「昼に働く者には、米一升と永楽銭六十文。夜は米一升と百文を渡せ」
正家が顔を上げる。
「夜の方を高くなさるので」
「暗闇での普請は危険だ。命を安く使ってはならぬ」
「急ぎの普請にございます。支払いを後に回せば、さらに人を集められますが」
「ならぬ」
三成の声が低くなる。
「天下を一つにするための戦で、民から飯を奪ってどうする。働いた者には、その日のうちに渡せ」
さらに三成は、低地の村々へ使いを出した。
老人、病人、幼子から高い場所へ移せ。
舟と縄を用意せよ。
堤が切れたときの逃げ道を確かめよ。
秀吉の使者は、それを見て眉をひそめた。
「治部少輔殿。殿下がお望みなのは、忍城の落城にございます」
「承知している」
「民の避難に兵を割けば、普請が遅れまする」
三成は男を見た。
「城を落とすために、国を殺してどうする」
使者は黙った。
昼も夜も土が運ばれた。
わずか数日で、長大な堤が姿を現した。
父が普請へ出ている間、きぬと母は高みへ移す荷をまとめた。
着替え。
わずかな米。
欠けた椀。
父が冬に直してくれた小さな櫛。
「これは置いていきなさい」
母が、黒い羽根を手にしたきぬへ言った。
「嫌です」
「荷になりはしませんが、なくして泣くでしょう」
「なくしませぬ」
きぬは羽根を布へ包み、懐の奥へ入れた。
「父さまから、初めてもらったものです」
「初めてではありませんよ。三つのとき、木の実を山ほど持ち帰ったでしょう」
「贈り物には見えませんでした」
母は笑った。
「では、大切になさい」
その日の夕刻、父はいつもより遅く帰った。
全身を泥で汚し、肩で息をしていた。
「堤へ水を入れ始めた。明日の朝には、皆で高みへ移る」
「今夜のうちではいけませぬか」
母が尋ねる。
「暗い中で年寄りや子どもを動かす方が危ないと、村の者たちで決めた。舟も縄も用意してある」
父は不安そうな母へ笑ってみせた。
「大丈夫だ。朝になれば三人で出よう」
その夜、三人は同じ膳を囲んだ。
父が受け取ってきた米を、母が少し多めに炊いた。
「高みに着いたら、残りで握り飯を作りましょう」
「梅干しも入れてくださいますか」
「一つだけです」
「父さまには二つ入れるのでしょう」
「父さまは働きましたから」
「私も荷をまとめました」
「では、きぬにも二つだ」
父が勝手に決め、母が「梅干しがなくなります」と呆れた。
三人で笑った。
家の外では雨が降り始めていた。
それが家族で囲む最後の膳になることを、誰も知らなかった。
◇
六月十八日。
雨は、夜半から激しさを増した。
水を吸った堤が、低く唸っていた。
三成が陣を出たとき、闇の向こうで大きな音がした。
土が崩れる音。
その直後、地の底から響くような轟音が迫ってきた。
「堤が切れました!」
兵が泥を蹴って駆けてくる。
「二か所! 忍城方の兵が堤を破ったものと!」
「どちらへ流れている!」
「こちらへ――我らの陣と、南の村へ戻ってまいります!」
三成の顔色が変わった。
溜められていた水が、行き場を求めて一気に逆流した。
柵が折れた。
馬が倒れた。
眠っていた兵も、夜通し働いていた人足も、濁流に足を取られた。
「縄を張れ!」
三成が叫ぶ。
「木と木の間へ縄を渡せ! 舟を出せる者は舟を出せ!」
「治部殿、ここも危のうございます!」
「低地の村へ兵を回せ! 老人と子どもを先に運べ!」
「敵方の者も流されております!」
「敵味方を分けるな!」
三成は泥の中へ踏み込んだ。
「水の中に、敵も味方もあるものか!」
◇
きぬが目を覚ましたとき、家の中へ水が入っていた。
土間に置いていた桶が倒れ、暗闇の中を流れていく。
「きぬ!」
母がきぬを抱き上げた。
父は戸口を開けようとしていたが、外から押し寄せる水の重さでびくともしない。
「裏へ回る!」
父が板戸を蹴破る。
開いた穴から水が噴き込み、三人の足をさらった。
父が柱へつかまり、もう片方の手で母の腕を取る。
「屋根へ上がれ!」
三人は水につかりながら、梁を伝った。
母が先にきぬを押し上げ、父がその身体を支える。
外へ出ると、村はなくなっていた。
家々の屋根だけが、黒い水の中に浮いている。
誰かの叫び声がした。
牛の鳴く声が、途中で消えた。
「父さま……怖い」
「大丈夫だ」
父はきぬを抱き寄せた。
「三人一緒だ」
その言葉が終わるより先に、流木が家へぶつかった。
屋根が大きく傾く。
父の身体が滑った。
「あなた!」
母が手を伸ばした。
指先が一度だけ触れた。
だが、次の流れが父を屋根から引き剥がした。
「父さま!」
「きぬを離すな!」
父の声が、闇の中から聞こえた。
それが最後だった。
母は泣かなかった。
泣く暇などなかった。
帯を解き、きぬの身体を梁へ固く結びつける。
「母さま、痛い」
「痛くても我慢なさい」
「母さまも一緒に」
「ええ。一緒です」
母はそう言って、きぬの頬を両手で包んだ。
「よくお聞き、きぬ」
「嫌です」
「どこへ流されても、生きなさい」
「嫌です。母さまも――」
「生きて、必ず帰るのです」
再び家が揺れた。
梁が裂ける。
母の手が、きぬの頬から離れた。
「母さま!」
きぬが伸ばした手は届かなかった。
母の姿も、濁った水の中へ消えた。
きぬは一人、折れた梁へ縛りつけられた。
父もいない。
母もいない。
懐へ入れていた黒い羽根だけが、濡れた小さな手の中に残っていた。
◇
三成は腰まで水につかりながら、流されてきた兵の腕をつかんだ。
家臣たちも続いた。
縄へしがみつく者を引き上げ、倒れた人足を背負い、高い場所へ運ぶ。
そのときだった。
「治部殿! あそこに!」
流されかけた家の屋根。
その端に、小さな手が見えた。
十にもならぬ少女が、折れた梁へ結びつけられている。
屋根は今にも崩れそうだった。
「舟を回せ!」
「流れが速すぎます!」
「ならば縄を結べ!」
三成は家臣から縄を奪い、自らの腰へ巻いた。
「治部殿、なりませぬ!」
「引く合図を待て!」
三成は濁流へ入った。
足元の泥が崩れる。
流木が肩へ当たる。
それでも三成は一歩ずつ進み、少女へ手を伸ばした。
「こちらを見よ!」
きぬが顔を上げた。
「父さまと、母さまが……」
「必ず捜す。まず、そなたがこちらへ来い!」
三成は水を吸った帯を短刀で切った。
その瞬間、屋根が大きく傾いた。
三成は少女の身体をつかみ、その胸へ抱き寄せた。
「引け!」
家臣たちが一斉に縄を引く。
二人の身体が水にのまれた。
それでも、縄は切れなかった。
泥の上へ引き上げられた三成は、少女を抱いたまま激しく咳き込んだ。
「父さま……母さま……」
少女が震えていた。
三成は周囲を見た。
家があったはずの場所には、濁った水しかない。
「捜せ」
三成が命じた。
「まだ近くにおられるやもしれぬ。夜が明けても捜せ」
兵たちは水際へ散った。
だが、夜が明けても、父と母は戻らなかった。
◇
助けられた者たちは、高台に設けられた仮の小屋へ運ばれた。
きぬは泣かなかった。
泣けば父と母が本当にいなくなる気がして、声を出せなかった。
配られた粥にも手をつけなかった。
「食べぬのか」
隣にいた老婆が尋ねた。
「父さまと母さまが戻ったら、一緒に食べます」
「そうかい」
老婆は、それ以上何も言わなかった。
一日が過ぎた。
二日が過ぎた。
父も母も戻らなかった。
三日目、きぬは冷たくなった粥を口へ運んだ。
一口飲み込んだだけで、涙があふれた。
自分だけが食べることが、父と母を置いて先へ行くことのように思えた。
それでも腹は減った。
生きようとする身体が、たまらなく憎かった。
その日の夕刻、三成が小屋を訪れた。
全身の泥は落としていたが、肩には流木を受けた痣が残っていた。
きぬは筵の上に座り、黒い羽根を見つめていた。
「そなたの父母は、まだ見つかっておらぬ」
三成は言葉を飾らなかった。
きぬは顔を上げた。
「誰が……」
声が震えた。
「誰が、この水を放ったのですか」
小屋の中が静まり返った。
三成の後ろにいた吉継が、わずかに顔を動かす。
「それは――」
三成が手で制した。
命じたのは秀吉だった。
三成は反対した。
水では城は落ちぬと、書状にも残した。
それを告げれば、少女の憎しみから逃れることはできたかもしれない。
だが、その言葉で少女の父母が戻るわけではない。
三成は、少女の前へ膝をついた。
「石田三成だ」
きぬは三成を見た。
「この地で堤を築かせ、水を入れたのは私だ」
「あなたが……」
「そうだ」
「あなたが、父さまと母さまを殺したのですか」
三成の唇がわずかに動いた。
それでも、「違う」とは言わなかった。
「私の命で、多くの者が動いた。その責めは、私にある」
きぬの目から涙がこぼれた。
「許さない」
「うむ」
「絶対に、許さない」
「それでよい」
三成は少女の目から逃げなかった。
「憎んでよい。忘れずともよい」
「ならば、なぜ私を助けたのです」
三成は答えられなかった。
壊した男と、救った男。
きぬの中で、その二つが同じ顔をしていた。
「そなたに、生きてほしかったからだ」
ようやく三成が答えた。
「父さまと母さまは助けなかったのに」
少女の言葉が、三成の胸を刺した。
「……すまぬ」
それしか言えなかった。
「生きよ」
三成は続けた。
「憎しみを抱くためでもよい。いつか、私の罪を確かめるためでもよい。生きて、この水の先へ行け」
生きよ。
それは、母が最後に残した言葉だった。
なぜ、この男が同じ言葉を口にするのか。
きぬは激しく首を振った。
「あなたに言われたくない!」
初めて、声を上げて泣いた。
三成は立ち去らなかった。
少女が泣き疲れて声を失うまで、ただ膝をついたまま、その憎しみを受けていた。
◇
小屋を出たあと、吉継が三成を呼び止めた。
「なぜ、殿下の御命令だったと申さなんだ」
三成は足を止めた。
「申したところで、あの子の父母が戻るのか」
「戻らぬ」
「命令を受け、実行したのは私だ」
「そなたは、ときに背負わずともよいものまで背負う」
三成は、濁った水を見た。
「誰も背負わなければ、責めは弱い者へ落ちる」
流された家。
泥に埋もれた田。
泣いている者たち。
そのすべてを見つめながら、三成は言った。
「死んだ者を、数だけで記すな」
傍らの家臣が顔を上げる。
「名を調べよ。家族が残っているなら、米と銭を渡せ。家を失った者には、雨をしのぐ場所を用意せよ」
「されど、戦の最中にございます」
「だからこそだ」
三成は振り返った。
「戦が終わってからでは、遅い」
忍城は、水攻めでは落ちなかった。
やがて小田原城が降伏し、忍城も開城することになる。
後に残ったのは、石田堤という名と――石田三成は水攻めに失敗した、という評判だった。
三成が水攻めに反対していたこと。
命令に従いながらも、民を逃がそうとしたこと。
水に入って人を救ったこと。
その多くは、語られなかった。
◇
きぬは、生き残った。
だが、生き延びることと、生きることは同じではなかった。
雨が降るたび、夜中に目を覚ました。
屋根を打つ音が、堤の崩れる音に変わった。
暗闇で誰かの手を探し、何もつかめぬまま朝を迎えた。
粥を食べれば、最後の膳を思い出した。
梅干しを見れば、二つ入れてもらえると喜んだ自分を思い出した。
笑っていた自分が、許せなかった。
父と母を置いて、自分だけが腹を満たすことも許せなかった。
それでも、腹は減った。
眠れば朝が来た。
母に命じられたとおり、きぬの身体は生き続けた。
水が引いたあと、一度だけ村へ戻った。
家はなかった。
竈も、父が直した板戸も、母が豆を干した筵もなかった。
泥の中から見つかったのは、欠けた椀一つだけだった。
きぬは椀を胸へ抱き、何度も父と母の名を呼んだ。
返事はなかった。
その日から、きぬは二人の顔を忘れることを恐れるようになった。
父の笑い声は、どのような声だったか。
母の手は、右の頬と左の頬、どちらから触れたか。
思い出そうとするほど、記憶は少しずつ曖昧になった。
忘れたくない。
忘れれば、本当に自分一人になる。
だからきぬは、別のものを忘れぬことにした。
石田三成という名を。
憎しみだけは、日ごとに輪郭を失う父と母とは違い、何度でも鮮やかに思い出すことができた。
憎んでいる間は、自分が誰の娘だったのかを忘れずに済んだ。
◇
忍城が開いたのち、徳川家康が関東へ入った。
家康の四男・松平忠吉が忍城へ入り、行き場を失った者たちは、新しい支配の下へ組み込まれていった。
身寄りのないきぬも、その中の一人だった。
初めに教えられたのは、読み書きだった。
次に、人の目を避けて歩く術。
足音を消す方法。
文を運び、嘘を真実らしく見せ、人の心にある恐れを探る方法。
きぬはよく覚えた。
覚えれば褒められた。
褒められるたび、父に頭を撫でられた日のことを思い出した。
けれど、誰の手も父の手ではなかった。
教えた者たちは、きぬの憎しみを消そうとはしなかった。
むしろ、迷いが生じるたびに同じ名を聞かせた。
石田三成。
忍城を水に沈めようとした男。
そなたから父母を奪った男。
「けれど、あの人は私を助けました」
一度だけ、きぬはそう言った。
教え役の男は、薄く笑った。
「自ら沈めた村から、一人拾い上げただけだ。それで罪が消えると思うか」
「思いませぬ」
「ならば迷うな。あれは慈悲ではない。己をよく見せるための振る舞いだ」
きぬは頷いた。
頷くしかなかった。
そうでなければ、三成が差し伸べた手の温かさを、どう受け止めればよいのか分からなかった。
夜になると、夢の中に二つの手が現れた。
一つは、濁流へ消えた父の手。
もう一つは、その濁流から自分を引き上げた三成の手。
きぬは父の手を取りたかった。
けれど、夢の中で自分がつかむのは、いつも三成の手だった。
目を覚ますたび、自分を裏切ったような気がした。
自分を救った男を憎むことに苦しみ、憎みきれない自分を、さらに憎んだ。
やがてきぬは、泣かなくなった。
泣けば心の中を読まれる。
笑わなくなった。
笑えば、あの最後の膳を思い出す。
命じられた文を運び、命じられた嘘をつき、命じられた相手へ近づいた。
ある冬、敵方の蔵へ火を入れよと命じられた。
きぬは油を撒き、火打石を取り出した。
そのとき、蔵の裏から幼い姉弟の声が聞こえた。
二人は干し草の上で身を寄せ合い、母が迎えに来るのを待っていた。
きぬは火をつけられなかった。
姉弟を逃がし、誰もいなくなってから蔵の端へ火を放った。
戻ったきぬに、教え役は尋ねた。
「なぜ遅れた」
「風向きを見ておりました」
嘘だった。
だが、その嘘だけは最後まで見抜かれなかった。
きぬの中には、まだ父と母の娘が残っていた。
そのことが、弱さなのか救いなのか、きぬには分からなかった。
数年が過ぎた頃、古い名を捨てるよう命じられた。
「過ぎた日の名は、働きを鈍らせる。新しい名を選べ」
きぬは、長く返事をしなかった。
きぬという名を捨てれば、父と母に呼ばれることは二度となくなる。
だが、もう誰もその名を呼んではくれなかった。
きぬは懐から、黒い羽根を取り出した。
父が拾い、母が髪へ差して笑った羽根。
家族と過ごした最後の日々を知る、ただ一つのもの。
「黒羽」
きぬは言った。
「私の名は、黒羽です」
それは復讐のための名であると同時に、家族を忘れぬための名だった。
きぬを捨てても、父と母まで捨てたわけではない。
そう自分へ言い聞かせるための名だった。
◇
十年の間に、黒羽は何度も三成の名を耳にした。
傲慢な吏僚。
情を解さぬ男。
戦を知らぬ奉行。
徳川方で語られる三成は、憎むのに都合のよい男だった。
だが、時折、違う話も聞こえた。
忍城の普請で、働いたその日に米と銭を受け取ったという人足の話。
濁流の中で、敵味方を分けずに救えと叫んだ武士の話。
佐和山では、領主の暮らしは質素だが、民から無理に取り立てぬという話。
黒羽は、そのたびに耳を塞いだ。
嘘だと思った。
三成を慕う者が作った話だと、自分へ言い聞かせた。
もし本当なら、困るのだ。
三成がただの悪人でなければ、十年抱いた憎しみの置き場所がなくなる。
父と母を失った理由も、自分だけが生き残った理由も、再び濁った水の中へ沈んでしまう。
だから黒羽は、真実を求めなかった。
石田三成が水攻めに反対した書状があることも、知らなかった。
知ろうとしなかった。
憎しみは、父と母へ続く最後の道だった。
それを失えば、自分は本当に帰る場所をなくしてしまう。
◇
そして、慶長五年九月。
黒羽は関ヶ原の夜に立っていた。
西軍は敗れた。
三成は、すべてを失おうとしている。
それなのに、黒羽の胸に満ちたのは喜びだけではなかった。
父の笑い声が聞こえた。
母の手の温もりが頬に戻った。
三人で囲んだ最後の膳が見えた。
――三人が一緒におれば、そこが帰る場所になる。
父の言葉が、十年の時を越えて胸を刺す。
佐和山には、三成の妻子がいる。
三成の帰りを待つ者たちがいる。
黒羽は知っていた。
その者たちは、忍城の水攻めとは何の関わりもない。
自分の父と母が、豊臣と忍城の戦に何の関わりもなかったのと同じように。
油紙の中で、黒い羽根がかすかに震えた。
黒羽の指が止まる。
「……今さら」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
「今さら、戻れませぬ」
ここで立ち止まれば、これまでの十年は何だったのか。
雨の夜ごとに目を覚ましたことも。
きぬという名を捨てたことも。
父と母の顔を忘れぬため、憎しみにすがったことも。
すべてが、行き場を失う。
「あなたは、生きよと言った」
黒羽は、手の中の羽根へ語りかけた。
「ですから、私は生きました」
遠く、佐和山の方角に灯が見える。
城へ向かって進む軍勢の松明だった。
「今日、この日のために」
声は震えていた。
それでも黒羽は、羽根を油紙へ包み直した。
「水で奪われた帰る場所は、戻らない」
袖の奥へ、最後の家族の記憶をしまう。
「今度は私が、火であなたの帰る場所を奪う」
その言葉を口にした瞬間、黒羽の胸に浮かんだのは三成の顔ではなかった。
濁流へ消えた父と母の顔だった。
そして、その向こうに――まだ名も知らぬ、三成の家族の顔が重なった。
黒羽は目を閉じた。
一滴だけこぼれたものが、雨なのか涙なのか、自分にも分からなかった。
黒羽は知らない。
十年前、三成が誰よりも先に水攻めへ異を唱えていたことを。
秀吉の命令を、自らの責めとして背負ったことを。
そして今、石田三成の姿をした男の中には、本来の三成の記憶とともに、白瀬湊一という、もう一人の魂が宿っていることも知らない。
佐和山では、まだ水が流れていた。
井戸は静かに満ち、湯は冷めずに沸いていた。
そこには、誰かが帰るのを待っている者たちがいた。
十年前。
水の中から三成に救い上げられた少女は今、その三成の帰る場所へ、火を放とうとしていた。
けれど黒羽の胸の奥では、きぬという名の少女が、今も父と母を呼び続けていた。
今回の舞台は、映画『のぼうの城』でも知られる、かの有名な忍城です。
実は忍城の水攻めを題材に、三つほど別のエピソードを考えていました。どれも捨て難かったのですが、本編へ個別に入れると物語の流れが散ってしまう。そこで三つの核を一つに束ね、黒羽の原点と三成の苦悩を描く挿話として書きました。
三成が水攻めに否定的な意見を示したこと、秀吉から具体的な水攻めの指示が届いたこと、人足に米と銭が支給されたことは、史料を踏まえています。きぬとその家族、三成による救出は本作の創作です。
水で帰る場所を失った少女が、十年後、佐和山へ火を向ける――。
ここから第四十五湯「佐和山、炎上す」へ続きます。




