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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第五章 敗れても、帰る場所は残る

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挿話八湯 三成、水を背負う

黒羽が、まだ「黒羽」ではなかった頃。


舞台は、かの有名な武蔵国・忍城。


三成が背負った水と、ひとりの少女が失った帰る場所――その始まりを描きます。


挿絵(By みてみん)


 黒羽が笑った、その夜。


 関ヶ原の野には、まだ雨と血の匂いが残っていた。


 西軍は崩れた。


 大谷吉継は動かなくなり、島津は戦場を突き抜け、小早川の軍勢は東軍の中にいた。


 そして、石田三成は敗走した。


 黒羽は袖の内から、小さな油紙の包みを取り出した。


 幾重にも折った紙を開く。


 中にあったのは、一枚の黒い羽根だった。


 十年の時を経て艶は失われ、先は細く裂けている。それでも、黒羽は捨てなかった。


「十年……」


 指先で羽根の軸をなぞる。


「長うございました。石田三成」


 黒羽は、もう一度笑った。


 だが、それは勝った者の笑いではなかった。


 帰る場所を奪われた者が、ようやく奪い返す順番を得た――そんな笑いだった。


 雨に濡れた土の匂いが、黒羽を十年前へ連れ戻した。


     ◇


 黒羽にも、別の名で呼ばれていた頃があった。


 きぬ。


 そう呼ばれるたびに、振り返るより先に笑っていた頃があった。


 天正十八年六月。


 武蔵国、忍城の南にある小さな村。


 きぬは、父と母の三人で暮らしていた。


 大きくもなく、新しくもない家だった。


 雨が強ければ土間の隅から水が染み、冬になれば板戸の隙間から風が入った。それでも朝になれば母が竈へ火を入れ、夕暮れには父が泥のついた足で帰ってきた。


 きぬにとって、そこは世界でいちばん暖かい場所だった。


「きぬ、また母さまに叱られたのか」


 ある夕暮れ、父が笑いながら帰ってきた。


「叱られておりませぬ」


「では、なぜそのような顔をしておる」


「干していた豆を、烏に取られました」


 きぬが頬を膨らませると、父は声を上げて笑った。


「笑いごとではありませぬ。母さまが大切に干した豆です」


「すまぬ、すまぬ」


 父はそう言って、きぬの前へしゃがんだ。


「では、烏から代わりのものをもらってきた」


 差し出した手のひらに、一枚の黒い羽根が載っていた。


「ただの羽根ではありませぬか」


「ただの羽根とは失礼な。よく見てみよ」


 父が羽根を傾ける。


 夕日を受けた黒の奥に、青とも緑ともつかぬ光が浮かんだ。


 きぬの目が丸くなる。


「黒いのに、きれい……」


「一つの色にしか見えぬものでも、光の当たり方で違うものが見える」


 父は得意げに言った。


 そこへ、母が家の中から顔を出した。


「もっともらしいことを申して。拾った羽根を贈り物にする男など、そなたくらいです」


「きぬが喜んでおるのだから、よかろう」


「喜んでなど――」


 言い返そうとしたきぬの髪へ、父が羽根を差した。


「うむ。似合う」


 母も、こらえきれずに笑った。


「本当に、小さな烏のよう」


「きぬは烏ではありませぬ」


「ならば、日が暮れる前にきちんと帰っておいで」


 母はきぬの髪を撫でた。


「どこへ行っても、帰る場所を忘れてはなりませぬよ」


 きぬは口を尖らせながらも、羽根を抜こうとはしなかった。


 その夜、膳にはいつもより白い飯が並んだ。


 父が忍城を囲む堤の普請へ出て、米と銭を受け取ってきたのだ。


「昼に働けば米一升と永楽銭六十文。夜なら米一升と百文だそうだ」


 父は腰を叩きながら言った。


「これまでの戦なら、働けと命じられて終わりだった。此度の大将は、働いた分をその日のうちに渡せと申されたらしい」


 母が椀へ飯をよそいながら、心配そうに父を見る。


「けれど、その堤で村を水に沈めるのでしょう」


「城を囲むだけだと聞いておる」


「水は、人の言うことなど聞きませぬ」


 母の言葉に、父はしばらく黙った。


「……大将も、同じことを案じておるそうだ」


「大将が?」


「低い土地の者は、早めに高みへ移せと触れが来た。年寄りと病人、子どもを先に逃がせとな」


 きぬは箸を止めた。


「私たちも、ここを出るのですか」


「明日から少しずつ荷をまとめる」


「では、この家はどうなるのです」


 父はきぬの頭へ手を置いた。


「水が引けば、また戻ればよい」


「もし、家がなくなっていたら」


「そのときは、また建てる」


「同じ家を?」


「同じでなくともよい」


 父は母を見た。


 母も、静かに笑っていた。


「三人が一緒におれば、そこが帰る場所になる」


 きぬには、その意味がまだよく分からなかった。


 けれど父と母が笑っていたから、自分も笑った。


 それが、いつまでも続くのだと思っていた。


     ◇


 同じ頃。


 忍城を見渡す高みに、石田三成は立っていた。


 城は、沼の中に浮いていた。


 元荒川と星川。大小の沼と湿地。


 水を堀とし、泥を壁とし、島のように点在する曲輪を橋でつないだ城である。


 このとき、三成は数え三十一。


 まだ、白瀬湊一がその身へ入る十年前。


 そこに立っているのは、現代の知識も、湯宿の経験も持たぬ、本来の石田三成だった。


「水では落ちぬ」


 三成が言った。


 傍らにいた大谷吉継が、白い頭巾の奥から忍城を見る。


「そう思うか」


「水は低きへ流れる。人の都合で、城だけを選んではくれぬ」


 三成は扇で、眼下の土地を指した。


「忍城の本丸は高い。水を入れれば、先に沈むのは南の村々と我らの陣だ。田も畑も使えなくなる」


 少し離れたところで、長束正家が絵図を見下ろしていた。


「されど、城を囲む水が増せば、兵糧を断つことはできまする」


「その前に、こちらの兵糧を運ぶ道が泥へ沈む」


 三成は即座に答えた。


「水を待つより、兵を進めるべきだ。降る者には道を残し、抗う者だけを抑える。その方が早い」


 三成は陣へ戻ると、すぐに書状を書かせた。


 忍城を水で包む策は得策ではない。


 もっと積極的に城へ迫るべきである。


 そう意見を記し、浅野長吉らへ指図を仰いだ。


 しかし、その書状と行き違うように、秀吉からの命令が届いた。


 使者が差し出した書状には、忍城を水で囲むための細かな指示が記されていた。


 堤を築け。


 川の流れを引き入れよ。


 忍城を水の中へ孤立させよ。


 秀吉は、三成が危ぶんだ策を命じた。


 陣幕の中が静まり返った。


 吉継が口を開く。


「三成」


「分かっている」


「そなたは反対した。書状も残っておる」


 吉継は、秀吉からの命令書を見た。


「もう一度、申し上げるか」


 三成は答えなかった。


 陣幕の外から、馬のいななきと人足たちの声が聞こえてくる。


 やがて、三成は静かに命令書を畳んだ。


「私が断れば、別の者が命じられる」


「そうであろうな」


「その者が、ここに暮らす者のことまで考えるとは限らぬ」


 吉継は何も言わなかった。


「ならば、私が引き受ける」


 三成は顔を上げた。


「水を入れねばならぬのなら、死ぬ者を一人でも減らす。それが、この地で命令を受けた私の役目だ」


 その日から、堤の築造が始まった。


 周囲の自然堤防と微高地をつなぎ、足りない場所へ土を盛る。


 近隣の村々から、大勢の人足が集められた。


 三成は長束正家へ命じた。


「昼に働く者には、米一升と永楽銭六十文。夜は米一升と百文を渡せ」


 正家が顔を上げる。


「夜の方を高くなさるので」


「暗闇での普請は危険だ。命を安く使ってはならぬ」


「急ぎの普請にございます。支払いを後に回せば、さらに人を集められますが」


「ならぬ」


 三成の声が低くなる。


「天下を一つにするための戦で、民から飯を奪ってどうする。働いた者には、その日のうちに渡せ」


 さらに三成は、低地の村々へ使いを出した。


 老人、病人、幼子から高い場所へ移せ。


 舟と縄を用意せよ。


 堤が切れたときの逃げ道を確かめよ。


 秀吉の使者は、それを見て眉をひそめた。


「治部少輔殿。殿下がお望みなのは、忍城の落城にございます」


「承知している」


「民の避難に兵を割けば、普請が遅れまする」


 三成は男を見た。


「城を落とすために、国を殺してどうする」


 使者は黙った。


 昼も夜も土が運ばれた。


 わずか数日で、長大な堤が姿を現した。


 父が普請へ出ている間、きぬと母は高みへ移す荷をまとめた。


 着替え。


 わずかな米。


 欠けた椀。


 父が冬に直してくれた小さな櫛。


「これは置いていきなさい」


 母が、黒い羽根を手にしたきぬへ言った。


「嫌です」


「荷になりはしませんが、なくして泣くでしょう」


「なくしませぬ」


 きぬは羽根を布へ包み、懐の奥へ入れた。


「父さまから、初めてもらったものです」


「初めてではありませんよ。三つのとき、木の実を山ほど持ち帰ったでしょう」


「贈り物には見えませんでした」


 母は笑った。


「では、大切になさい」


 その日の夕刻、父はいつもより遅く帰った。


 全身を泥で汚し、肩で息をしていた。


「堤へ水を入れ始めた。明日の朝には、皆で高みへ移る」


「今夜のうちではいけませぬか」


 母が尋ねる。


「暗い中で年寄りや子どもを動かす方が危ないと、村の者たちで決めた。舟も縄も用意してある」


 父は不安そうな母へ笑ってみせた。


「大丈夫だ。朝になれば三人で出よう」


 その夜、三人は同じ膳を囲んだ。


 父が受け取ってきた米を、母が少し多めに炊いた。


「高みに着いたら、残りで握り飯を作りましょう」


「梅干しも入れてくださいますか」


「一つだけです」


「父さまには二つ入れるのでしょう」


「父さまは働きましたから」


「私も荷をまとめました」


「では、きぬにも二つだ」


 父が勝手に決め、母が「梅干しがなくなります」と呆れた。


 三人で笑った。


 家の外では雨が降り始めていた。


 それが家族で囲む最後の膳になることを、誰も知らなかった。


     ◇


 六月十八日。


 雨は、夜半から激しさを増した。


 水を吸った堤が、低く唸っていた。


 三成が陣を出たとき、闇の向こうで大きな音がした。


 土が崩れる音。


 その直後、地の底から響くような轟音が迫ってきた。


「堤が切れました!」


 兵が泥を蹴って駆けてくる。


「二か所! 忍城方の兵が堤を破ったものと!」


「どちらへ流れている!」


「こちらへ――我らの陣と、南の村へ戻ってまいります!」


 三成の顔色が変わった。


 溜められていた水が、行き場を求めて一気に逆流した。


 柵が折れた。


 馬が倒れた。


 眠っていた兵も、夜通し働いていた人足も、濁流に足を取られた。


「縄を張れ!」


 三成が叫ぶ。


「木と木の間へ縄を渡せ! 舟を出せる者は舟を出せ!」


「治部殿、ここも危のうございます!」


「低地の村へ兵を回せ! 老人と子どもを先に運べ!」


「敵方の者も流されております!」


「敵味方を分けるな!」


 三成は泥の中へ踏み込んだ。


「水の中に、敵も味方もあるものか!」


     ◇


 きぬが目を覚ましたとき、家の中へ水が入っていた。


 土間に置いていた桶が倒れ、暗闇の中を流れていく。


「きぬ!」


 母がきぬを抱き上げた。


 父は戸口を開けようとしていたが、外から押し寄せる水の重さでびくともしない。


「裏へ回る!」


 父が板戸を蹴破る。


 開いた穴から水が噴き込み、三人の足をさらった。


 父が柱へつかまり、もう片方の手で母の腕を取る。


「屋根へ上がれ!」


 三人は水につかりながら、梁を伝った。


 母が先にきぬを押し上げ、父がその身体を支える。


 外へ出ると、村はなくなっていた。


 家々の屋根だけが、黒い水の中に浮いている。


 誰かの叫び声がした。


 牛の鳴く声が、途中で消えた。


「父さま……怖い」


「大丈夫だ」


 父はきぬを抱き寄せた。


「三人一緒だ」


 その言葉が終わるより先に、流木が家へぶつかった。


 屋根が大きく傾く。


 父の身体が滑った。


「あなた!」


 母が手を伸ばした。


 指先が一度だけ触れた。


 だが、次の流れが父を屋根から引き剥がした。


「父さま!」


「きぬを離すな!」


 父の声が、闇の中から聞こえた。


 それが最後だった。


 母は泣かなかった。


 泣く暇などなかった。


 帯を解き、きぬの身体を梁へ固く結びつける。


「母さま、痛い」


「痛くても我慢なさい」


「母さまも一緒に」


「ええ。一緒です」


 母はそう言って、きぬの頬を両手で包んだ。


「よくお聞き、きぬ」


「嫌です」


「どこへ流されても、生きなさい」


「嫌です。母さまも――」


「生きて、必ず帰るのです」


 再び家が揺れた。


 梁が裂ける。


 母の手が、きぬの頬から離れた。


「母さま!」


 きぬが伸ばした手は届かなかった。


 母の姿も、濁った水の中へ消えた。


 きぬは一人、折れた梁へ縛りつけられた。


 父もいない。


 母もいない。


 懐へ入れていた黒い羽根だけが、濡れた小さな手の中に残っていた。


     ◇


 三成は腰まで水につかりながら、流されてきた兵の腕をつかんだ。


 家臣たちも続いた。


 縄へしがみつく者を引き上げ、倒れた人足を背負い、高い場所へ運ぶ。


 そのときだった。


「治部殿! あそこに!」


 流されかけた家の屋根。


 その端に、小さな手が見えた。


 十にもならぬ少女が、折れた梁へ結びつけられている。


 屋根は今にも崩れそうだった。


「舟を回せ!」


「流れが速すぎます!」


「ならば縄を結べ!」


 三成は家臣から縄を奪い、自らの腰へ巻いた。


「治部殿、なりませぬ!」


「引く合図を待て!」


 三成は濁流へ入った。


 足元の泥が崩れる。


 流木が肩へ当たる。


 それでも三成は一歩ずつ進み、少女へ手を伸ばした。


「こちらを見よ!」


 きぬが顔を上げた。


「父さまと、母さまが……」


「必ず捜す。まず、そなたがこちらへ来い!」


 三成は水を吸った帯を短刀で切った。


 その瞬間、屋根が大きく傾いた。


 三成は少女の身体をつかみ、その胸へ抱き寄せた。


「引け!」


 家臣たちが一斉に縄を引く。


 二人の身体が水にのまれた。


 それでも、縄は切れなかった。


 泥の上へ引き上げられた三成は、少女を抱いたまま激しく咳き込んだ。


「父さま……母さま……」


 少女が震えていた。


 三成は周囲を見た。


 家があったはずの場所には、濁った水しかない。


「捜せ」


 三成が命じた。


「まだ近くにおられるやもしれぬ。夜が明けても捜せ」


 兵たちは水際へ散った。


 だが、夜が明けても、父と母は戻らなかった。


     ◇


 助けられた者たちは、高台に設けられた仮の小屋へ運ばれた。


 きぬは泣かなかった。


 泣けば父と母が本当にいなくなる気がして、声を出せなかった。


 配られた粥にも手をつけなかった。


「食べぬのか」


 隣にいた老婆が尋ねた。


「父さまと母さまが戻ったら、一緒に食べます」


「そうかい」


 老婆は、それ以上何も言わなかった。


 一日が過ぎた。


 二日が過ぎた。


 父も母も戻らなかった。


 三日目、きぬは冷たくなった粥を口へ運んだ。


 一口飲み込んだだけで、涙があふれた。


 自分だけが食べることが、父と母を置いて先へ行くことのように思えた。


 それでも腹は減った。


 生きようとする身体が、たまらなく憎かった。


 その日の夕刻、三成が小屋を訪れた。


 全身の泥は落としていたが、肩には流木を受けた痣が残っていた。


 きぬは筵の上に座り、黒い羽根を見つめていた。


「そなたの父母は、まだ見つかっておらぬ」


 三成は言葉を飾らなかった。


 きぬは顔を上げた。


「誰が……」


 声が震えた。


「誰が、この水を放ったのですか」


 小屋の中が静まり返った。


 三成の後ろにいた吉継が、わずかに顔を動かす。


「それは――」


 三成が手で制した。


 命じたのは秀吉だった。


 三成は反対した。


 水では城は落ちぬと、書状にも残した。


 それを告げれば、少女の憎しみから逃れることはできたかもしれない。


 だが、その言葉で少女の父母が戻るわけではない。


 三成は、少女の前へ膝をついた。


「石田三成だ」


 きぬは三成を見た。


「この地で堤を築かせ、水を入れたのは私だ」


「あなたが……」


「そうだ」


「あなたが、父さまと母さまを殺したのですか」


 三成の唇がわずかに動いた。


 それでも、「違う」とは言わなかった。


「私の命で、多くの者が動いた。その責めは、私にある」


 きぬの目から涙がこぼれた。


「許さない」


「うむ」


「絶対に、許さない」


「それでよい」


 三成は少女の目から逃げなかった。


「憎んでよい。忘れずともよい」


「ならば、なぜ私を助けたのです」


 三成は答えられなかった。


 壊した男と、救った男。


 きぬの中で、その二つが同じ顔をしていた。


「そなたに、生きてほしかったからだ」


 ようやく三成が答えた。


「父さまと母さまは助けなかったのに」


 少女の言葉が、三成の胸を刺した。


「……すまぬ」


 それしか言えなかった。


「生きよ」


 三成は続けた。


「憎しみを抱くためでもよい。いつか、私の罪を確かめるためでもよい。生きて、この水の先へ行け」


 生きよ。


 それは、母が最後に残した言葉だった。


 なぜ、この男が同じ言葉を口にするのか。


 きぬは激しく首を振った。


「あなたに言われたくない!」


 初めて、声を上げて泣いた。


 三成は立ち去らなかった。


 少女が泣き疲れて声を失うまで、ただ膝をついたまま、その憎しみを受けていた。


     ◇


 小屋を出たあと、吉継が三成を呼び止めた。


「なぜ、殿下の御命令だったと申さなんだ」


 三成は足を止めた。


「申したところで、あの子の父母が戻るのか」


「戻らぬ」


「命令を受け、実行したのは私だ」


「そなたは、ときに背負わずともよいものまで背負う」


 三成は、濁った水を見た。


「誰も背負わなければ、責めは弱い者へ落ちる」


 流された家。


 泥に埋もれた田。


 泣いている者たち。


 そのすべてを見つめながら、三成は言った。


「死んだ者を、数だけで記すな」


 傍らの家臣が顔を上げる。


「名を調べよ。家族が残っているなら、米と銭を渡せ。家を失った者には、雨をしのぐ場所を用意せよ」


「されど、戦の最中にございます」


「だからこそだ」


 三成は振り返った。


「戦が終わってからでは、遅い」


 忍城は、水攻めでは落ちなかった。


 やがて小田原城が降伏し、忍城も開城することになる。


 後に残ったのは、石田堤という名と――石田三成は水攻めに失敗した、という評判だった。


 三成が水攻めに反対していたこと。


 命令に従いながらも、民を逃がそうとしたこと。


 水に入って人を救ったこと。


 その多くは、語られなかった。


     ◇


 きぬは、生き残った。


 だが、生き延びることと、生きることは同じではなかった。


 雨が降るたび、夜中に目を覚ました。


 屋根を打つ音が、堤の崩れる音に変わった。


 暗闇で誰かの手を探し、何もつかめぬまま朝を迎えた。


 粥を食べれば、最後の膳を思い出した。


 梅干しを見れば、二つ入れてもらえると喜んだ自分を思い出した。


 笑っていた自分が、許せなかった。


 父と母を置いて、自分だけが腹を満たすことも許せなかった。


 それでも、腹は減った。


 眠れば朝が来た。


 母に命じられたとおり、きぬの身体は生き続けた。


 水が引いたあと、一度だけ村へ戻った。


 家はなかった。


 竈も、父が直した板戸も、母が豆を干した筵もなかった。


 泥の中から見つかったのは、欠けた椀一つだけだった。


 きぬは椀を胸へ抱き、何度も父と母の名を呼んだ。


 返事はなかった。


 その日から、きぬは二人の顔を忘れることを恐れるようになった。


 父の笑い声は、どのような声だったか。


 母の手は、右の頬と左の頬、どちらから触れたか。


 思い出そうとするほど、記憶は少しずつ曖昧になった。


 忘れたくない。


 忘れれば、本当に自分一人になる。


 だからきぬは、別のものを忘れぬことにした。


 石田三成という名を。


 憎しみだけは、日ごとに輪郭を失う父と母とは違い、何度でも鮮やかに思い出すことができた。


 憎んでいる間は、自分が誰の娘だったのかを忘れずに済んだ。


     ◇


 忍城が開いたのち、徳川家康が関東へ入った。


 家康の四男・松平忠吉が忍城へ入り、行き場を失った者たちは、新しい支配の下へ組み込まれていった。


 身寄りのないきぬも、その中の一人だった。


 初めに教えられたのは、読み書きだった。


 次に、人の目を避けて歩く術。


 足音を消す方法。


 文を運び、嘘を真実らしく見せ、人の心にある恐れを探る方法。


 きぬはよく覚えた。


 覚えれば褒められた。


 褒められるたび、父に頭を撫でられた日のことを思い出した。


 けれど、誰の手も父の手ではなかった。


 教えた者たちは、きぬの憎しみを消そうとはしなかった。


 むしろ、迷いが生じるたびに同じ名を聞かせた。


 石田三成。


 忍城を水に沈めようとした男。


 そなたから父母を奪った男。


「けれど、あの人は私を助けました」


 一度だけ、きぬはそう言った。


 教え役の男は、薄く笑った。


「自ら沈めた村から、一人拾い上げただけだ。それで罪が消えると思うか」


「思いませぬ」


「ならば迷うな。あれは慈悲ではない。己をよく見せるための振る舞いだ」


 きぬは頷いた。


 頷くしかなかった。


 そうでなければ、三成が差し伸べた手の温かさを、どう受け止めればよいのか分からなかった。


 夜になると、夢の中に二つの手が現れた。


 一つは、濁流へ消えた父の手。


 もう一つは、その濁流から自分を引き上げた三成の手。


 きぬは父の手を取りたかった。


 けれど、夢の中で自分がつかむのは、いつも三成の手だった。


 目を覚ますたび、自分を裏切ったような気がした。


 自分を救った男を憎むことに苦しみ、憎みきれない自分を、さらに憎んだ。


 やがてきぬは、泣かなくなった。


 泣けば心の中を読まれる。


 笑わなくなった。


 笑えば、あの最後の膳を思い出す。


 命じられた文を運び、命じられた嘘をつき、命じられた相手へ近づいた。


 ある冬、敵方の蔵へ火を入れよと命じられた。


 きぬは油を撒き、火打石を取り出した。


 そのとき、蔵の裏から幼い姉弟の声が聞こえた。


 二人は干し草の上で身を寄せ合い、母が迎えに来るのを待っていた。


 きぬは火をつけられなかった。


 姉弟を逃がし、誰もいなくなってから蔵の端へ火を放った。


 戻ったきぬに、教え役は尋ねた。


「なぜ遅れた」


「風向きを見ておりました」


 嘘だった。


 だが、その嘘だけは最後まで見抜かれなかった。


 きぬの中には、まだ父と母の娘が残っていた。


 そのことが、弱さなのか救いなのか、きぬには分からなかった。


 数年が過ぎた頃、古い名を捨てるよう命じられた。


「過ぎた日の名は、働きを鈍らせる。新しい名を選べ」


 きぬは、長く返事をしなかった。


 きぬという名を捨てれば、父と母に呼ばれることは二度となくなる。


 だが、もう誰もその名を呼んではくれなかった。


 きぬは懐から、黒い羽根を取り出した。


 父が拾い、母が髪へ差して笑った羽根。


 家族と過ごした最後の日々を知る、ただ一つのもの。


「黒羽」


 きぬは言った。


「私の名は、黒羽です」


 それは復讐のための名であると同時に、家族を忘れぬための名だった。


 きぬを捨てても、父と母まで捨てたわけではない。


 そう自分へ言い聞かせるための名だった。


     ◇


 十年の間に、黒羽は何度も三成の名を耳にした。


 傲慢な吏僚。


 情を解さぬ男。


 戦を知らぬ奉行。


 徳川方で語られる三成は、憎むのに都合のよい男だった。


 だが、時折、違う話も聞こえた。


 忍城の普請で、働いたその日に米と銭を受け取ったという人足の話。


 濁流の中で、敵味方を分けずに救えと叫んだ武士の話。


 佐和山では、領主の暮らしは質素だが、民から無理に取り立てぬという話。


 黒羽は、そのたびに耳を塞いだ。


 嘘だと思った。


 三成を慕う者が作った話だと、自分へ言い聞かせた。


 もし本当なら、困るのだ。


 三成がただの悪人でなければ、十年抱いた憎しみの置き場所がなくなる。


 父と母を失った理由も、自分だけが生き残った理由も、再び濁った水の中へ沈んでしまう。


 だから黒羽は、真実を求めなかった。


 石田三成が水攻めに反対した書状があることも、知らなかった。


 知ろうとしなかった。


 憎しみは、父と母へ続く最後の道だった。


 それを失えば、自分は本当に帰る場所をなくしてしまう。


     ◇


 そして、慶長五年九月。


 黒羽は関ヶ原の夜に立っていた。


 西軍は敗れた。


 三成は、すべてを失おうとしている。


 それなのに、黒羽の胸に満ちたのは喜びだけではなかった。


 父の笑い声が聞こえた。


 母の手の温もりが頬に戻った。


 三人で囲んだ最後の膳が見えた。


 ――三人が一緒におれば、そこが帰る場所になる。


 父の言葉が、十年の時を越えて胸を刺す。


 佐和山には、三成の妻子がいる。


 三成の帰りを待つ者たちがいる。


 黒羽は知っていた。


 その者たちは、忍城の水攻めとは何の関わりもない。


 自分の父と母が、豊臣と忍城の戦に何の関わりもなかったのと同じように。


 油紙の中で、黒い羽根がかすかに震えた。


 黒羽の指が止まる。


「……今さら」


 誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。


「今さら、戻れませぬ」


 ここで立ち止まれば、これまでの十年は何だったのか。


 雨の夜ごとに目を覚ましたことも。


 きぬという名を捨てたことも。


 父と母の顔を忘れぬため、憎しみにすがったことも。


 すべてが、行き場を失う。


「あなたは、生きよと言った」


 黒羽は、手の中の羽根へ語りかけた。


「ですから、私は生きました」


 遠く、佐和山の方角に灯が見える。


 城へ向かって進む軍勢の松明だった。


「今日、この日のために」


 声は震えていた。


 それでも黒羽は、羽根を油紙へ包み直した。


「水で奪われた帰る場所は、戻らない」


 袖の奥へ、最後の家族の記憶をしまう。


「今度は私が、火であなたの帰る場所を奪う」


 その言葉を口にした瞬間、黒羽の胸に浮かんだのは三成の顔ではなかった。


 濁流へ消えた父と母の顔だった。


 そして、その向こうに――まだ名も知らぬ、三成の家族の顔が重なった。


 黒羽は目を閉じた。


 一滴だけこぼれたものが、雨なのか涙なのか、自分にも分からなかった。


 黒羽は知らない。


 十年前、三成が誰よりも先に水攻めへ異を唱えていたことを。


 秀吉の命令を、自らの責めとして背負ったことを。


 そして今、石田三成の姿をした男の中には、本来の三成の記憶とともに、白瀬湊一という、もう一人の魂が宿っていることも知らない。


 佐和山では、まだ水が流れていた。


 井戸は静かに満ち、湯は冷めずに沸いていた。


 そこには、誰かが帰るのを待っている者たちがいた。


 十年前。


 水の中から三成に救い上げられた少女は今、その三成の帰る場所へ、火を放とうとしていた。


 けれど黒羽の胸の奥では、きぬという名の少女が、今も父と母を呼び続けていた。


今回の舞台は、映画『のぼうの城』でも知られる、かの有名な忍城です。


実は忍城の水攻めを題材に、三つほど別のエピソードを考えていました。どれも捨て難かったのですが、本編へ個別に入れると物語の流れが散ってしまう。そこで三つの核を一つに束ね、黒羽の原点と三成の苦悩を描く挿話として書きました。


三成が水攻めに否定的な意見を示したこと、秀吉から具体的な水攻めの指示が届いたこと、人足に米と銭が支給されたことは、史料を踏まえています。きぬとその家族、三成による救出は本作の創作です。


水で帰る場所を失った少女が、十年後、佐和山へ火を向ける――。


ここから第四十五湯「佐和山、炎上す」へ続きます。


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