第四十二湯 小早川、湯を捨てる
関ヶ原当日。
松尾山に陣取った小早川秀秋は、東にも西にも心を許せぬまま、酒と白湯の間で揺れ続けます。
動くのか。
動かぬのか。
そして、その刃を誰へ向けるのか。
一人の若者が「裏切り者」と呼ばれる決断へ至るまでを描きます
夜が明けても、松尾山は動かなかった。
山裾を覆っていた霧が薄れ、関ヶ原の盆地が少しずつ姿を現してゆく。
無数の旗。
槍の穂。
馬の背。
湿った土の上を行き交う兵。
東も西も、夜のうちに互いを見失わぬ距離まで近づいていた。
あとは、誰かが最初の一矢を放つだけだった。
そのすべてを見下ろす松尾山の陣で、小早川秀秋は酒を飲んでいた。
朝の酒だった。
いや。
昨夜から、途切れていない。
「もう一杯」
秀秋が盃を差し出す。
小姓は徳利を抱いたまま、動かなかった。
「聞こえぬのか」
「殿。これ以上は……」
「これ以上は、何だ」
「戦が始まります」
「だから飲むのだ」
秀秋は小姓の手から徳利を奪った。
盃へ注ごうとして、酒を畳の上へこぼす。
手が震えていた。
寒さではない。
酒が足りぬからか。
酒が多すぎるからか。
もはや自分でも分からなかった。
「殿」
年嵩の側近が膝を進めた。
「白湯をお持ちいたしました」
膳の上に、湯気の立つ椀が置かれた。
澄んだ白湯だった。
何も浮いていない。
色もない。
匂いもない。
ただ、静かに湯気だけが立っている。
秀秋はその椀を睨んだ。
「誰が汲んだ」
「陣中の井戸より」
「誰が沸かした」
「炊事方にございます」
「炊事方の誰だ」
「それは……」
「分からぬのか」
側近が口を閉じる。
秀秋は椀を指差した。
「毒が入っておるかもしれぬ」
「そのようなことは」
「なぜ言い切れる」
「我らの陣中にございます」
「我らの陣中だから、安心だと?」
秀秋は笑った。
喉の奥で、乾いた声が鳴った。
「東の者が紛れ込んでおらぬと、誰が言える。西の者が、俺が寝返る前に殺そうとしておらぬと、誰が言える」
「殿……」
「それとも、お前が入れたのか」
側近の顔が強張った。
その顔を見た瞬間、秀秋の胸に別の疑いが生まれた。
なぜ、顔を強張らせた。
図星だからか。
怒りを堪えたからか。
それとも、哀れんでいるのか。
自分を、決めることもできぬ臆病者と。
「毒見をせよ」
「はっ」
小姓が椀へ手を伸ばす。
「待て」
秀秋は止めた。
「お前が先に飲んで倒れなければ、毒ではないと申すのか」
「……はい」
「遅れて効く毒ならどうする」
小姓は答えられなかった。
「もうよい。下げろ」
「殿。せめて一口だけでも」
「下げろ!」
秀秋が腕を振る。
椀が膳の上で揺れ、白湯が縁からこぼれた。
透明な雫が、酒で濡れた畳へ落ちる。
酒と白湯が混じった。
どちらが酒で。
どちらが水なのか。
もう見分けがつかなかった。
◇
佐和山で飲んだ白湯は、こんな味ではなかった。
秀秋は、そう思った。
まだ口にしてもいないのに。
佐和山を訪れた折、治部少輔――石田三成は、何も問わず湯を出した。
東につくのか。
西につくのか。
その場では、問い詰めなかった。
『まずは飲め』
そう言って、白湯を差し出した。
秀秋は、あのときも椀を疑った。
『毒が入っておるかもしれませぬぞ』
半ば冗談のつもりだった。
三成は笑わなかった。
『その疑いを持つのは、今のそなたなら当然だ』
秀秋の方が、言葉を失った。
叱られると思った。
疑うとは無礼だと責められると思った。
だが三成は、自分の椀から先に白湯を飲んだ。
『これで足りるか』
『同じ釜とは限りませぬ』
『では、椀を替えるか』
『椀に塗ってあるやもしれませぬ』
『ならば、わしの椀を使え』
何を言っても、三成は怒らなかった。
最後には秀秋の方が根負けして、その白湯を飲んだ。
味など、ほとんどなかった。
けれど、喉を通った温かさだけは覚えている。
『治部少輔殿』
『何だ』
『私に、どちらへつけと仰せになる』
三成はすぐには答えなかった。
『自分で選べ』
秀秋は腹を立てた。
『それができぬから聞いておるのです』
『ならば、できるまで考えろ』
『戦は待ってくれませぬ』
『そうだな』
『東につけば西から裏切り者と呼ばれる。西へ残れば、徳川に滅ぼされるやもしれぬ』
『そうだな』
『そうだな、では困る!』
秀秋が声を荒らげても、三成は目を逸らさなかった。
『誰かに選ばせれば、負けたときにその者を恨める』
『……何が仰りたい』
『そなたは、恨む相手を探しておる』
言い返せなかった。
『選ぶのが怖いのではない。選んだ責任を、自分で負うのが怖いのだ』
あの言葉が、今も秀秋の胸に刺さっている。
『ただし覚えておけ。選ばなかった責任も残る』
「黙れ」
秀秋は呟いた。
目の前には、もう三成はいない。
あるのは、酒の入った盃だけだ。
「黙れと言っておる」
盃へ口をつける。
酒が舌を焼いた。
喉を焼いた。
腹へ落ちると、一瞬だけ身体が温まった。
その一瞬だけ、三成の声が遠のいた。
だから、もう一口飲む。
すると今度は、別の声が聞こえた。
『秀俊』
太閤の声だった。
幼い頃、自分を抱き上げた男。
後継となるかもしれぬと、周囲から傅かれた日々。
『そなたは、わしの子じゃ』
だが、実の子が生まれれば、自分は要らぬ者になった。
小早川へ送られた。
名を変えた。
父と呼ぶ相手を変えた。
家を変えた。
国を変えた。
命じられるままに。
選ばされるままに。
『小早川家を頼む』
隆景の声がする。
『豊臣家を守れ』
北政所の声がする。
『内府様へお味方を』
東軍の使者が言う。
『秀頼様への御恩をお忘れか』
西軍の使者が言う。
秀頼を守れ。
豊臣を守れ。
北政所の心に従え。
徳川の世を見定めよ。
どちらの文にも、もっともらしい言葉が並んでいた。
どちらも、自分を必要としていると言った。
だが秀秋には、もう分かっていた。
必要なのは、自分ではない。
松尾山に並べた一万を超える兵だ。
小早川の旗だ。
大谷の脇腹へ突き立てられる槍だ。
自分はまた、誰かの都合で置かれた養子にすぎない。
「殿!」
使者が陣へ駆け込んだ。
「東軍より、重ねて御催促にございます!」
秀秋の肩が跳ねた。
「何と申しておる」
「ただちに兵を動かされよ、と」
「動かさねば?」
「それは……」
「何と書いてある」
使者が書状を差し出す。
秀秋は奪い取り、開いた。
忠節。
御恩。
御加増。
御安堵。
美しい言葉の中に、脅しだけが隠されている。
動かなければ、敵と見なす。
そう書いていなくとも、そう読めた。
「西軍からも使者が参っております!」
「今度は何だ」
「狼煙を上げ、山を下りよと」
「下りねば?」
「……裏切りを疑われましょう」
秀秋は笑った。
「どちらも同じではないか」
誰も答えない。
「東も西も、俺を信じておらぬ」
「殿」
「信じておらぬから、急かす。信じておらぬから、人質を欲しがる。信じておらぬから、何度も文を送る」
「御決断を」
「決断」
秀秋はその言葉を繰り返した。
「誰のための決断だ」
秀頼のためか。
北政所のためか。
徳川のためか。
小早川家のためか。
ここにいる兵のためか。
自分のためか。
どれかひとつを選べば、残りを捨てることになる。
秀秋は再び盃を持ち上げた。
空だった。
「酒を」
小姓が動かない。
「酒を持て」
「もう、ございませぬ」
「嘘を申すな」
「殿のお身体を案じ、下げさせました」
「誰の命令だ」
「家臣一同にございます」
「俺の酒を、お前たちが勝手に下げたのか」
「殿」
「俺が決める前に、お前たちが決めたのか!」
秀秋は徳利を投げつけた。
空の徳利が柱に当たり、鈍い音を立てて落ちる。
その音に、陣中の者たちが身を竦めた。
誰も自分を見ていない。
目を伏せている。
だが、伏せた目の裏で笑っているように思えた。
また決められぬ。
また酒へ逃げた。
天下を左右する兵を持ちながら、自分の盃ひとつ満たせぬ男だと。
「白湯を」
秀秋は言った。
側近が顔を上げる。
「白湯を持て」
「ただちに」
「待て」
立とうとした側近を止める。
「先ほどの白湯は、どうした」
「下げさせました」
「捨てたのか」
「冷めてしまいましたので」
「冷めたから、捨てた?」
「はい」
「誰が捨てろと言った」
「殿が下げよと……」
「下げろとは言った。捨てろとは言っておらぬ!」
自分でも、何に怒っているのか分からなかった。
冷めた白湯など、また沸かせばよい。
どこにでもある水だ。
それなのに。
胸の奥で、何か取り返しのつかぬものを捨てられたような気がした。
◇
銃声が響いた。
一発。
続いて、いくつもの音が盆地を揺らした。
秀秋は立ち上がった。
「こちらへ撃ったのか」
「いえ。山下の戦にございます」
「本当にそうか」
「はっ」
「東軍が、我らを脅すために撃ったのではないのか」
「ここまでは届きませぬ」
「届くか届かぬかではない!」
秀秋は山下へ目を凝らした。
霧と煙が混じり、どの旗がどこにあるのか判然としない。
東軍がこちらを見ている。
西軍もこちらを見ている。
そう感じた。
関ヶ原にいる何万もの目が、すべて松尾山へ向けられている。
早く選べ。
早く裏切れ。
早く忠義を示せ。
どちらへ動いても、その瞬間から人が死ぬ。
動かなくても、人は死ぬ。
「治部少輔殿」
秀秋は呟いた。
「あなたは、これも分かっていたのか」
『選ばなかった責任も残る』
「だから、黙れ!」
秀秋は耳を塞いだ。
だが声は、頭の中にある。
塞いでも消えない。
「酒を持て!」
「殿!」
「何でもよい! 持ってこい!」
小姓が残っていた徳利を一本、差し出した。
秀秋は栓を抜き、盃も使わずに口をつけた。
酒が喉へ流れ込む。
胃が縮んだ。
吐き気が込み上げた。
それでも飲んだ。
飲めば考えずに済むと思った。
飲めば誰かの声が消えると思った。
だが、酒は何も消してくれなかった。
声は増えた。
『裏切り者』
まだ何もしていないのに。
『臆病者』
まだ選んでいないのに。
『恩知らず』
どちらへ行っても、そう呼ばれる。
秀秋は徳利を投げ捨てた。
口元から酒が垂れる。
「白湯を持て」
今度は誰も動かなかった。
「聞こえぬのか」
「殿」
側近が静かに言った。
「白湯を飲まれても、酒を飲まれても、決めねばならぬことは変わりませぬ」
秀秋は側近を睨んだ。
斬ろうと思った。
一瞬だけ、本気で。
この男を斬れば、誰も自分を責めなくなる。
だが、腰の刀へ伸ばした手は途中で止まった。
「お前も、俺を責めるのか」
「責めてはおりませぬ」
「嘘だ」
「恐れております」
「何を」
「殿が、御自身を見失われることを」
「俺自身?」
秀秋は笑った。
「俺自身など、どこにある」
豊臣の養子。
小早川の養子。
太閤の甥。
北政所の縁者。
五十万石を率いる大名。
東軍の内応者。
西軍の一将。
名はいくつもある。
立場もいくつもある。
だが、そのどれを剥がしても、小早川秀秋という人間が残る気がしなかった。
「俺は、ずっと誰かが注いだ酒を飲んできた」
秀秋は畳へ座り込んだ。
「飲めと言われれば飲み、笑えと言われれば笑い、行けと言われれば行った」
側近は黙って聞いている。
「今度だけ、自分で選べと申す」
秀秋は震える手を見つめた。
「今さら、どうやって選べというのだ」
そのとき。
小姓が、新しい白湯を持ってきた。
今度は秀秋の目の前で、湯を沸かした。
水を汲むところから見せた。
釜へ入れ。
火を焚き。
椀へ注いだ。
「殿」
小姓は椀を両手で差し出した。
「毒はございませぬ」
秀秋は白湯を見た。
透明だった。
酒のように、味で舌を痺れさせてはくれない。
香りで頭を惑わせてもくれない。
ただ、そのままの自分を映している。
目の下に隈を作り。
唇を震わせ。
決めることから逃げ続けている自分を。
秀秋は椀を受け取った。
両手に温かさが伝わる。
一口。
飲もうとした。
だが、椀は唇の手前で止まった。
白湯を飲めば、頭が澄んでしまう。
頭が澄めば、自分で決めなければならない。
酒のせいにはできない。
脅されたせいにもできない。
三成のせいにも。
家康のせいにも。
誰のせいにもできなくなる。
「殿」
山下から、再び銃声が響いた。
今度は先ほどより近く感じた。
秀秋の手が跳ねた。
椀の白湯がこぼれ、指を濡らす。
「撃たれた」
「殿?」
「俺が撃たれたのだ」
「弾は届いておりませぬ」
「同じことだ!」
秀秋は立ち上がった。
「東は、俺が動かぬなら敵とする。西も、俺が動かぬなら裏切り者とする」
椀の中で白湯が揺れている。
右へ。
左へ。
右へ。
左へ。
どちらへ傾いても、最後には縁へぶつかる。
秀秋は、その揺れを見つめた。
「俺に選ばせるつもりなど、初めからなかったのだ」
側近が息を呑む。
「東も西も、俺を追い詰め、望む方へ落とそうとしている」
「殿。それでも――」
「分かっておる!」
秀秋は椀を握り締めた。
「分かっておる。最後に命じるのは、俺だ」
大谷吉継の陣が見えた。
白い頭巾。
揺れぬ旗。
こちらが来ることを予期しているかのように、静かに構えている。
「刑部も、俺を疑っておる」
「大谷勢は、我らの動きに備えております」
「やはりそうではないか」
「それは……」
「俺を信じていれば、こちらへ兵など向けぬ!」
側近は答えなかった。
それは信じていないからではない。
戦場で、起こり得ることへ備えているだけだ。
だが今の秀秋には、その沈黙さえ肯定に聞こえた。
大谷も自分を敵だと思っている。
三成も、心の底では疑っていた。
白湯を出したのも、味方へ引き入れるためだ。
自分で選べと言ったのも、責任だけを押しつけるためだ。
そう考えれば、すべてがつながった。
つながってしまった。
「治部少輔殿」
秀秋は、白湯の中へ語りかけた。
「あなたも、俺を使ったのか」
返事はない。
澄んだ水面に、自分の顔だけが映っている。
それが答えだった。
使ったのは誰か。
騙したのは誰か。
追い詰めたのは誰か。
本当はもう、どうでもよかった。
このまま動かず、両軍から見つめられ続けることに耐えられなかった。
早く終わらせたかった。
どちらかを選ぶのではない。
選ばされ続ける時間を、終わらせたかった。
「小早川勢」
秀秋は立ち上がった。
側近たちが一斉に顔を上げる。
「山を下りる」
「向かう先は」
秀秋は答えようとした。
だが、声が出ない。
右か。
左か。
東か。
西か。
酒を飲むか。
白湯を飲むか。
誰を信じるか。
誰を裏切るか。
頭の中で、すべてがまた回り始める。
『選ばなかった責任も残る』
秀秋は目を閉じた。
「大谷勢」
声が出た。
ひどく小さな声だった。
「殿」
「大谷勢を……攻めよ」
側近が動かない。
「聞こえなかったか!」
秀秋は叫んだ。
「大谷勢を攻めよ!」
その声は、ほとんど悲鳴だった。
法螺貝が鳴る。
旗が動く。
兵たちが松尾山を下り始めた。
決断した瞬間、秀秋の震えは止まった。
だが、心が定まったわけではない。
もう後戻りできなくなっただけだった。
秀秋は手の中の椀を見た。
白湯は、まだ温かい。
一口も飲んでいない。
火へ戻せば、何度でも温め直せる。
冷めたとしても、飲むことはできる。
それでも秀秋は、椀から手を放した。
白湯が土の上へ落ちた。
湯気が、ほんの一瞬だけ立ち上る。
そして消えた。
◇
遠く離れた佐和山。
井戸の祠に結ばれた鈴が、誰も触れていないのに鳴った。
ちりん。
白那が顔を上げる。
幼い姿のまま、井戸の縁へ手を置いた。
水面に小さな波紋が広がっている。
「……愚か者め」
白那は目を細めた。
「酒で濁した目に、清水の底が見えるものか」
そばにいた娘が、不安そうに白那を見る。
「何かあったの?」
「ひとりの愚か者が、湯を捨てた」
「冷めてしまったの?」
「冷めた湯なら、また温めればよい」
白那は、水面に映る空を見つめた。
「されど、自ら地へ捨てた湯は、同じ椀へは戻らぬ」
井戸の底から、低い水音が返ってきた。
ちりん。
鈴が、もう一度鳴った。
◇
「松尾山が動きました!」
使番の叫びが、石田勢の陣を走った。
湊一は振り返った。
大一大万大吉の旗の向こう。
山肌を覆うように、小早川の軍勢が下りてくる。
向かう先は、東軍ではない。
大谷吉継の陣だった。
「そうか」
湊一の声は、自分でも驚くほど静かだった。
知っていた。
現代で歴史を学んだときから、知っていた。
小早川秀秋が寝返る。
その一撃で、大谷勢が崩れる。
やがて西軍全体が敗れる。
知っていたからこそ、書状を送った。
湯を出した。
話をした。
北政所へも道を求めた。
歴史に記された「裏切り」という一行の裏に、迷い、怯え、追い詰められた一人の若者がいると信じた。
それでも。
松尾山は動いた。
「殿!」
兵が叫んだ。
「小早川が裏切りました!」
裏切った。
確かに、その言葉は間違っていない。
吉継の兵が死ぬ。
西軍の兵が死ぬ。
佐和山へ帰れぬ者が増える。
許せるはずはなかった。
だが湊一は、すぐには同じ言葉を返せなかった。
あの若者が、東からも西からも手を伸ばされていたことを知っている。
その手のどれもが、秀秋自身を救うためのものではなかったことも知っている。
「裏切りは、裏切りだ」
湊一は言った。
「許すつもりはない」
兵たちが息を止める。
「だが、あの男一人へ、この戦のすべての罪を背負わせるな」
湊一は前を向いた。
「今は吉継を援ける。退路を塞がせるな。傷ついた者を後ろへ運べ」
「はっ!」
「動ける者から動かせ。旗より人を見ろ。倒れた者を踏むな!」
命令が走る。
そのとき。
湊一の懐で、小さな水音がした。
ちゃぷん。
白那が持たせた、小さな水袋。
戦場へ持ってゆくには頼りなく、喉を潤すにも足りない。
けれど、そのわずかな水は濁っていなかった。
遠い佐和山の井戸から、鈴の音が届いたような気がした。
「分かっている」
湊一は水袋を押さえた。
「まだ終わらせない」
◇
小早川勢は、大谷勢へ襲いかかった。
だが、大谷吉継は慌てなかった。
「来たか」
輿の上で、静かに言った。
松尾山の動きは、初めから警戒していた。
陣を下げることもできた。
もっと安全な場所へ移ることもできた。
それでも吉継は、この場所を選んだ。
小早川が東へ寝返ったとき、その刃を最初に受け止めるために。
「向きを変えよ」
吉継の命令に、兵たちが応じた。
旗が回る。
槍が揃う。
山を駆け下りてきた小早川勢を、大谷勢は真正面から迎え撃った。
一度、押し返した。
二度、押し返した。
山中に激しい喊声が響く。
「まだだ!」
「大谷勢を侮るな!」
「殿をお守りせよ!」
兵たちは踏みとどまった。
吉継は動かない。
白い頭巾も、揺れなかった。
だが、小早川の動きに呼応するように、別の軍勢までが西軍へ刃を向け始めた。
横から。
背後から。
大谷勢へ、次々と敵が押し寄せる。
ひとつの陣だけで支えられる数ではなかった。
兵が倒れる。
旗が折れる。
それでも吉継は、逃げる者を責めなかった。
「退く者を斬るな」
「殿!」
「ここに残るは、残ると決めた者だけでよい」
「されど!」
「帰る場所を持つ者まで、道連れにするな」
近習が唇を噛んだ。
吉継は、傍らに置かれていた椀へ手を伸ばした。
朝、兵が汲んだ白湯だった。
戦の音に紛れ、すでに冷め始めている。
吉継は椀を両手で包んだ。
「佐和山の白湯の方が、少しばかり旨かったな」
近習が顔を伏せた。
「治部少輔殿へ、伝えよ」
「何と」
吉継は冷めた白湯を一口飲んだ。
「湯を絶やすな、と」
「殿……」
「戦に負けても、腹は減る。傷ついた者は水を欲しがる。帰った者は、温かい湯を欲しがる」
吉継は笑った。
「まったく。あやつに付き合っておると、最期まで戦らしくならぬ」
敵の喊声が近づいた。
近習が刀へ手をかける。
吉継は椀を置いた。
「行け」
「行けませぬ」
「愚か者」
その叱り方は、どこか優しかった。
「あやつは、生きて帰れと申したのであろう」
近習の目から涙が落ちた。
「ならば一人くらい、言うことを聞いてやれ」
吉継は再び松尾山を見上げた。
遠すぎて、秀秋の顔は見えない。
ただ、山を下る軍勢だけが見えた。
「小早川殿」
吉継は誰にも届かぬ声で呼んだ。
「そなたが捨てた湯は、二度とは戻らぬぞ」
白い頭巾が、押し寄せる兵の中へ消えた。
◇
知らせが届いたのは、西軍の陣形が崩れ始めた頃だった。
「大谷刑部殿の陣……壊滅」
使者は、その先を言えなかった。
泥に両手をつき、肩を震わせている。
湊一は目を閉じた。
昨夜、吉継と交わした白湯。
湯気の向こうにあった顔。
別れを口にしなかった友。
『生きて帰れ』
そう言った。
言ったのに。
「殿」
誰かが呼んだ。
湊一は目を開いた。
泣くのは、まだ後だ。
怒るのも、まだ後だ。
今は、生きている者を帰さなければならない。
「西へ下がる道を開け」
「しかし、敵が!」
「敵を討つより、味方を一人多く帰せ!」
湊一は声を張り上げた。
「旗を失った者を集めろ! 負傷者を背負え! 水を持つ者は分けよ! 逃げる者を臆病者と呼ぶな!」
兵たちが動いた。
勝つための陣ではない。
生きて帰すための道を作る。
それが、今の湊一にできる戦だった。
盆地のあちこちで、西軍の旗が倒れてゆく。
東軍の兵が押し寄せる。
土煙の向こうで、松尾山の軍勢はさらに進んでいた。
その中で。
ひとつだけ、動かぬ陣があった。
敵に背を向けず。
味方の敗走にも加わらず。
まるで黒い岩のように、戦場のただ中へ留まっている。
「島津……」
湊一は、その陣を見つめた。
やがて、島津の旗がゆっくりと向きを変えた。
逃げるためではない。
敵の最も厚い場所へ、正面から突き抜けるために。
関ヶ原の戦は、終わろうとしていた。
だが、帰るための戦は――。
まだ、始まったばかりだった。
◇
松尾山の陣跡。
酒の染みた土の上に、白湯の椀が転がっていた。
割れてはいない。
拾い上げれば、まだ使える。
だが、中身はもうない。
こぼれた湯は土へ染み込み、酒の匂いと混じっていた。
酒で目を濁らせても。
白湯で目を覚まそうとしても。
最後に下した命令だけは、消えない。
湯は捨てられた。
だが、選んだ責任まで捨てることはできなかった。
慶長五年九月十五日。
関ヶ原。
お読みいただき、ありがとうございます。
今回は、小早川秀秋の決断を、単なる野心や臆病さだけではなく、酒への逃避、周囲への疑い、そして自分で責任を負うことへの恐怖から描きました。
冷めた白湯なら、もう一度温められる。
けれど、自ら捨てた湯を、同じ椀へ戻すことはできません。
松尾山が動き、大谷吉継の陣は崩れ始めます。
次回、第四十三湯「島津の退き口」。
戦に敗れても、生きて帰るための戦が始まります。




