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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第五章 敗れても、帰る場所は残る

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第四十一湯 吉継、動かぬ湯気

関ヶ原まで、あと一日。


三十七日の時を越え、湊一は大谷吉継の陣を訪れます。


動かぬ友と、帰ってほしいと願う友。


二人が別れを口にしないまま交わす、最後の白湯です。

挿絵(By みてみん)


 佐和山を発ったあの朝から、三十七日が過ぎた。


 夏の濃い緑は、いつしか実りの色へ変わっていた。


 街道沿いの田では、稲穂が重そうに頭を垂れている。


 本来なら、村人たちが鎌を研ぎ、今年の出来を語り合う頃である。


 だが、その実りを踏み荒らすように、東西の軍勢は美濃へ集まっていた。


 三十七日の間、書状が飛んだ。


 使者が駆けた。


 軍議が開かれ、旗が増え、兵が列をなした。


 初めは威勢のよかった返書が、日を追うごとに遅くなった。


 返ってきても、肝心なところが曖昧だった。


 味方の数は増えている。


 それなのに湊一には、軍勢が一つになっているようには思えなかった。


 大勢の者が同じ方向へ歩きながら、それぞれ違う帰り道を探している。


 そんな気がした。


 湊一もまた、進軍のかたわらで道を見ていた。


 兵を進める道ではない。


 崩れたときに退ける山道。


 傷ついた者が休める寺。


 水を得られる井戸。


 村人に迷惑をかけず、兵糧を分けられる場所。


 勝つための支度だけでは、人は帰れない。


 佐和山で学んだことを、戦場へ持ち込もうとしていた。


 夜になれば、佐和山のことを思った。


 白那は井戸と湯を守っている。


 妻や娘たち、三男、城下の幼い者たちを逃がす道を、あの小さな身体で守っている。


 長男と次男は大坂だ。


 離れた場所に、それぞれの帰るべき場所がある。


 だからこそ、湊一は歩みを止められなかった。


 そして今。


 東西の旗は、関ヶ原に立っていた。


     ◇


 夕暮れの風が、山と山の間を抜けていく。


 降り続いた雨はようやく上がったが、道は深くぬかるみ、草鞋の裏へ泥がまとわりついた。


 無数の旗が風を受けて鳴っている。


 勇ましい音ではない。


 濡れた布が、寒さに震えているような音だった。


 湊一は馬を降り、供回りをその場に残した。


 背後では、石田家の旗印――大一大万大吉が、薄暗い空の下にはためいている。


 胸元には、小さな水袋があった。


 佐和山を発つ朝、白那が押しつけてきたものだ。


『よいか。これは、ただの水袋ではない』


『見れば分かる』


『分かっておらぬ顔をするでない。妾が守りを結んでやったのじゃ』


 白那は水袋の口へ細い紐を結んだ。


 その先には、小さな鈴が付いていた。


『水は道中で汲み替えてよい。されど、汚れた水を入れるでないぞ』


『気をつける』


『漏らすな。捨てるな』


 そこで白那は、わずかに顔を背けた。


『……ついでに、死ぬでない』


『今、何と言った?』


『聞こえぬなら、それでよい。この大愚か者』


 そう言って、白那は湊一の脛を蹴った。


 蹴られたところは、もう痛まない。


 だが、最後の一言だけは、今も胸に残っていた。


     ◇


 山中に置かれた大谷吉継の陣は、松尾山を正面に見据えていた。


 小早川秀秋の軍勢が布陣する山である。


 陣幕の前には、吉継の家臣たちが並んでいた。


 その中央で、白い布に顔を覆った男が、低い声で問いかけている。


「名は」


「湊川新八郎にございます」


「生まれは」


「越前敦賀に」


「家族は」


「母と、弟が二人おります」


「ならば、生きて戻れ」


 家臣が顔を上げた。


「されど、刑部様――」


「わしは、退けとは申しておらぬ」


 吉継は地図から目を離さないまま言った。


「戦え。だが、自分の名を忘れるほど戦うな。帰る者が己を見失えば、待つ者は誰を迎えればよい」


「……はっ」


「次」


 吉継は一人ずつ名を聞いた。


 家族を尋ね、生まれた場所を確かめ、どの者と同じ組で動くのかを確認する。


 湊一は少し離れた場所から、その姿を見ていた。


 病は、以前よりも確実に吉継の身体を削っていた。


 肩は細い。


 地図を押さえる指にも、かつてほど力がない。


 呼吸のたびに、白い布がかすかに揺れる。


 それでも、声は揺れていなかった。


 最後の家臣が下がると、吉継が顔だけを向けた。


「遅かったな、三成」


「お前が早すぎるんだ」


「戦場では、早く来た者からよい場所を取る」


 湊一は松尾山を見上げた。


「そこが本当によい場所ならな」


「少なくとも、よく見える」


「見えすぎるとも言う」


 吉継が小さく笑った。


「ようやく戦場の顔になってきたな」


「褒めるな。嬉しくない」


 湊一は吉継の隣へ膝をついた。


 粗末な木箱の上に、絵図が広げられている。


 東軍。


 西軍。


 街道。


 山道。


 川。


 村。


 井戸。


 そして松尾山を示す石だけが、ほかより大きかった。


「小早川から返事は」


「来ぬ」


「使いは」


「戻ってはきた。だが、持ち帰ったのは言葉ではなく、曖昧な笑みだけだ」


「合図も返さない」


「静かなものよ」


「静かなのが、いちばん怖い」


「そなたがそれを申すか」


 吉継は松尾山から目を離さなかった。


「昔のおぬしなら、返事がない者には、返事をするまで文を送り続けたであろう」


「今でも送りたい」


「送りたいが、送らぬのだな」


「返事を迫れば、逃げ道まで塞ぐことになる」


「少しは人の心を考えるようになったらしい」


「誰かに散々、怒鳴られたからな」


「教えた覚えはない。呆れた覚えならある」


 二人は短く笑った。


 それは、佐和山で白湯を囲んだときと同じ笑いだった。


 だが、その笑いが消えたあと、湊一は地図の上の石をつかんだ。


 松尾山を示す、大きな石だった。


「吉継」


「何だ」


「陣を下げろ」


 周囲にいた者たちが、息を止めた。


 吉継だけが動かなかった。


「聞こえなかったことにしてやる」


「聞け。小早川が山を下りれば、お前の陣が最初に受ける」


「だから、ここにいる」


「分かっているから言っているんだ」


 湊一は松尾山の石を動かした。


 少し下へ滑らせるだけで、吉継の陣を示す木片が押し潰される。


「山を下りた兵がここへ当たる。正面だけではない。脇からも来る。お前の兵は囲まれる」


「わしが退けば、西軍の脇が開く」


「少し下げても監視はできる」


「監視するだけでは足りぬ。受けねばならぬ」


「ほかの者を置け」


「誰を置く」


「それは――」


「三成」


 吉継は、ようやく湊一へ顔を向けた。


「おぬしは今日、陣を見に来たのか。それとも、わしの顔を見に来たのか」


「陣だ」


「ならば、なぜ先ほどから、地図よりもわしばかり見ておる」


 湊一は答えられなかった。


 目の前にいるのは、生きている友だった。


 声がある。


 息をしている。


 くだらない軽口を返してくる。


 それなのに湊一の中では、歴史の一行が、吉継の姿へ重なっていた。


 関ヶ原。


 小早川の裏切り。


 大谷隊の潰走。


 そして――。


「その顔をするな」


 吉継が言った。


「どの顔だ」


「すでに、わしを失った者の顔だ」


 湊一の指が、松尾山の石を強く握った。


「お前には分からない」


「何がだ」


「明日が来れば――」


 言葉が喉に詰まった。


 歴史を知っているとは言えない。


 明日、何が起こるかを知っているとは言えない。


 知っているのに、変えられると証明できない。


「おぬしは時折、明日を見てきた者のような顔をする」


 吉継は静かに言った。


「だが、わしがいるのは今日だ」


「分かっている」


「分かっておらぬ」


 吉継の声が、初めて強くなった。


「今日のわしを見よ。明日失うかもしれぬ者としてではない。今ここに立っている友として見よ」


「だから言っている!」


 湊一の拳が、地図の端を打った。


 木片が一つ倒れた。


「生きて帰れ」


 陣幕の中が静まり返った。


「理屈ではない。戦の都合でもない」


 湊一は吉継を見た。


「俺は、お前に帰ってほしい」


 吉継は黙っていた。


「左近にも言った。生きて帰れと」


「嫌な顔をされたであろう」


「笑われた」


「ならば、わしも笑っておこう」


 吉継は本当に笑った。


 困ったような、優しい笑いだった。


「三成。そなたは変わった」


「知っている」


「以前なら、勝てと申した」


「今も勝てとは思っている」


「では、何が違う」


「勝ったあとに、誰も帰れないのは嫌なんだ」


 吉継の笑いが消えた。


 湊一は、倒れた木片を起こした。


「勝っても、村が焼け、道が消え、飯を作る者がいなくなれば、何も残らない」


「戦とは、そのようなものだ」


「だからといって、全部諦める必要はない」


「おぬし一人で、すべてを背負うつもりか」


「お前にだけは言われたくない」


 吉継はしばらく黙っていた。


 やがて、息をゆっくり吐いた。


「わしとて、帰りたくないわけではない」


 湊一は顔を上げた。


「温い湯へ入りたい」


 吉継の指が、絵図の上をなぞる。


「腹いっぱい、飯も食いたい」


「なら――」


「そなたが宿屋の真似事をして、兵どもに膳を配るところも、また見たい」


「真似事じゃない」


「そうであったな。そなたは立派な若旦那であった」


「茶化すな」


「茶化してはおらぬ」


 吉継は松尾山へ顔を向けた。


「それでも、ここを退けば、あの山から下りた刃が、そなたの背へ届く」


「吉継」


「友の背を守るために立てる場所がある。ならば、わしはここに立つ」


「そんなものを友情と呼ぶな」


 湊一の声が震えた。


「残される側には、迷惑なだけだ」


「ならば、生き残って迷惑を受けよ」


「勝手なことを言うな」


「お互いさまだ」


 二人は睨み合った。


 先に目を逸らしたのは、湊一だった。


     ◇


 湊一はもう一度、地図を見た。


 すると、戦の配置とは別に、細い線がいくつも引かれていることに気づいた。


「これは」


「山中へ抜ける道だ」


 吉継が答えた。


「こちらは寺へ続く。こっちは村道。兵を一度に流せば詰まるゆえ、組ごとに分ける」


「すでに考えていたのか」


「裏切りを疑っておるのは、そなただけではない」


「なぜ命じなかった」


「敗れた後の話を先にすれば、兵は敗れる姿ばかり思い浮かべる」


 湊一は地図へ身を乗り出した。


「だが、道だけでは帰れない」


「何が要る」


「水だ」


 湊一は井戸を示す印を指した。


「退路の途中へ、いくつかに分けて置く。兵糧も一か所へ集めるな。一か所を焼かれれば終わる」


「なるほど」


「傷ついた者を運ぶ組も決める。一人を二人で支える。誰が誰を連れて帰るのか、先に名を確かめさせろ」


「旗は」


「命より重い旗はない。逃げるときは捨てさせろ。具足もだ」


「石田家の者が、それを申すか」


「旗はまた作れる。人は作れない」


 吉継は小さくうなずいた。


「村の井戸を汚すな。飯を奪うな。銭がなければ、名を書いた木札を残せ」


「あとで誰が払う」


「生き残った者だ」


「そなたが払え」


「お前も払え」


「二人とも戻れば、折半だな」


「そうしよう」


 その約束だけは、あまりにも簡単に交わされた。


 吉継は家臣を呼んだ。


「山中へ抜ける道を、もう一度改めよ」


「はっ」


「水と兵糧を分けて置け。一か所へ集めるな」


「されど、これは――」


「歩けぬ者を運ぶ組も決めよ。三人、五人で互いの名を確かめさせるのだ」


 家臣は戸惑った顔をした。


「退却の支度にございましょうか」


「違う」


 吉継の声は低かった。


「一人でも多く、明日の朝へ送り届けるための支度だ」


 家臣は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 走り去る背中を見送り、湊一は言った。


「随分と宿屋らしい命令になったな」


「誰のせいだと思っている」


「白那のせいにしておこう」


 胸元の鈴が、ちりんと鳴った。


 風は止まっていた。


「聞いていたか」


 水袋の中で、水が小さく揺れた。


 耳の奥に、尊大な声が蘇る。


『何でも妾のせいにするでない、この愚か者』


 湊一が眉をひそめると、吉継が肩を揺らした。


「叱られておるのか」


「顔を見れば分かるか」


「昔から、叱られているときだけは素直な顔をする」


「余計なことを言うな」


 吉継の笑いは、途中で咳へ変わった。


 一度。


 二度。


 身体を折るような咳が続いた。


 家臣が駆け寄ろうとしたが、吉継は片手を上げて制した。


 咳が収まっても、呼吸は荒いままだった。


 湊一は水袋を外した。


「少し待て」


 小鍋へ水を移し、火鉢にかける。


 道中で何度も汲み替えた水だった。


 それでも白那の結んだ鈴と紐だけは、佐和山を発った朝のままである。


 湊一が火を強めると、鈴が鋭く鳴った。


 ちりりん。


『煮立てるでない、愚か者。水を殺す気か』


 そんな声が、耳の奥で聞こえた気がした。


 湊一は慌てて火を弱める。


「どうした」


「佐和山から叱られた」


「三十七日も離れておるのにか」


「距離は関係ないらしい」


「よほどの愚か者なのだな」


 水袋が、ちゃぷんと揺れた。


「今、大愚か者と言われた気がする」


「よく分かっておられる」


「お前はどちらの味方だ」


「水守殿の味方だ」


「即答するな」


 白い湯気が立ち始めた。


 湊一は椀へ白湯を注ぎ、吉継へ差し出した。


「飲め」


「水守殿の水を、わしが飲んでもよいのか」


「毒見ということにしておけ」


「それは水守殿の言い分ではないか」


「本人がいないから借りた」


「あとで供物を求められるぞ」


「団子一皿で済めば安い」


 吉継は両手で椀を受け取った。


 白い布を少しずらし、一口飲む。


「どうだ」


「佐和山の湯より、少し冷たいな」


「関ヶ原まで運んだんだ。文句を言うな」


「だが、悪くない」


 吉継はもう一口飲んだ。


 昔、皆が目を逸らした椀を、三成だけは何も言わず取った。


 その記憶を、吉継も思い出したのだろうか。


 椀の縁へ触れた指が、わずかに止まった。


「三成」


「何だ」


「皆は、おぬしを冷たい男だと申した」


「今さら何だ」


「だが、わしは知っておる」


 吉継は湯気の向こうで笑った。


「おぬしは冷たいのではない。熱すぎるものを、見せるのが下手なのだ」


「それは前にも聞いた」


「ならば、覚えておけ」


「お前もな」


「何をだ」


「帰れば、もっと熱い湯を出す」


 吉継の手が止まった。


「膳も付ける」


「それはよい」


「何が食いたい」


「そうさな」


 吉継は少し考えた。


「白飯と汁でよい」


「漬物も付ける」


「塩辛くするな」


「病人は注文が多いな」


「客を選ぶ宿か」


「代金を払わない客は選ぶ」


「では、木札を残そう」


「本人が来い」


 吉継は、しばらく答えなかった。


 やがて椀を湊一へ返す。


「膳を冷ますな」


「当たり前だ」


 先ほどまで山を抜けていた風が、不意に止んだ。


 椀から立つ細い湯気は流されず、二人の間にまっすぐ立った。


 吉継は動かない。


 松尾山の正面から、動こうとしない。


 だが、兵を帰すための支度は、すでに動き始めていた。


     ◇


「刑部様」


 陣幕の外から、家臣が声をかけた。


「松尾山に、わずかな動きがございます」


 湊一と吉継は同時に山を見た。


 ぽつり、ぽつりと灯っていた火の一つが消えた。


 少し離れた場所に、別の火が灯る。


 見張りの交代か。


 兵の移動か。


 ここからでは分からない。


「見張りを増やせ」


 吉継が命じた。


「ただし、矢はつがえるな」


「よろしいので」


「明日の朝までは、まだ味方だ」


「はっ」


 家臣が去った。


 湊一は立ち上がった。


「俺も戻る」


「そうせよ。明日は忙しくなる」


「吉継」


「何だ」


「死ぬな」


 吉継は答えなかった。


 湊一も、返事を求めなかった。


「明日だけでは足りない」


 湊一は言った。


「佐和山の湯まで来い」


 吉継は湯気の向こうで、わずかに笑った。


「膳を冷ますな」


 それが二人の別れの言葉になった。


 湊一は陣幕を出た。


 振り返れば、何かが終わってしまう気がした。


 だから、振り返らなかった。


 ぬかるんだ山道を、一歩ずつ下りていく。


 背後で松尾山の火が、もう一つ揺れた。


 胸元の鈴が、ちりんと鳴った。


     ◇


 湊一の姿が見えなくなったあとも、吉継は松尾山を見続けていた。


 傍らの椀には、まだ細い湯気が残っている。


 吉継は誰にも聞こえぬ声で呟いた。


「三成」


 動かぬ湯気の向こうに、もう友の姿はない。


「そなたこそ、帰れ」


 夜の山に、風が戻った。


 それでも湯気は、ほんの一瞬だけ、まっすぐに立っていた。


関ヶ原まで、あと一日。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


若い頃から三成を知り、その不器用な熱さを誰よりも理解していた吉継。


湊一は歴史の先を知っているからこそ、「勝て」ではなく「帰れ」と願いました。


吉継もまた、生きることを諦めたわけではありません。


湯へ入りたい。飯を食べたい。友ともう一度笑いたい。


それでも、友の背を守るため、松尾山の前から動かない。


二人が交わした「白飯と汁」の約束と、冷ましてはならない膳。


その約束を胸に、物語はいよいよ関ヶ原の朝を迎えます。


次回、第四十二湯「小早川、湯を捨てる」。


松尾山が、動きます。

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