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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第五章 敗れても、帰る場所は残る

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第四十湯 左近、死地へ向かう

第四章、最終話です。


戦を知らない湊一に、左近が教える「軍を率いる」ということ。


そして、死地へ向かうことを当然としてきた左近に、湊一が伝える「帰る者の中へ、自分も入れ」という願い。


主従でありながら、少しずつ友となってきた二人。


今回は、左近が湊一を戦場へ導き、湊一が左近の帰る道を残す物語です。

挿絵(By みてみん)


出立の太鼓が、佐和山の朝を震わせた。


どん、と一つ。


続いて、腹の底へ響くように、もう一つ。


城門の前では、すでに兵たちが列を組んでいた。


槍の穂先が朝日に濡れ、馬が白い息を吐く。


荷車には米、塩、薪、水桶。


その隙間には、誰かを乗せて帰るための空きが残されていた。


湊一が馬へ足を掛けようとしたとき、小さな声が飛んだ。


「左近。待て」


白那だった。


旅装の上から薄い布をかぶり、両手で何かを抱えている。


呼び止められた島左近は、馬上から身をかがめた。


「何でございましょう、白那様」


白那が差し出したのは、小さな水袋だった。


左近の大きな掌に載せると、まるで幼子の持ち物に見える。


左近は表と裏を確かめ、眉を上げた。


「これはまた、ずいぶんと可愛らしゅうございますな」


「何じゃ。不服か」


「わしの口では、一口にも足りませぬ」


「そなたの口が大きすぎるのじゃ」


近くにいた兵たちから、押し殺した笑いが漏れた。


出陣前の張り詰めた空気が、ほんの少しだけ緩む。


左近は水袋を耳元で振った。


小さく、ちゃぷりと鳴る。


「白那様の霊水にございますか」


「ただの水じゃ」


白那はそっけなく答えた。


「佐和山の古井戸から汲んだだけの、何の力も持たぬ水よ」


「それはまた、ありがたき品にございますな」


「馬鹿にするでない」


白那は左近を睨んだ。


「ただの一口で、もう一歩歩けることがある」


左近の笑みが、わずかに消えた。


白那は、左近の掌にある水袋へ目を落とす。


「返せとは申さぬ」


そして、顔を上げた。


「そなたが生きて戻れば、勝手に返しに来るであろう」


しばし、左近は何も言わなかった。


やがて水袋を具足の内側へ、大切に結びつける。


「承知いたしました」


白那は今度、湊一へ同じ形の水袋を突き出した。


「そなたもじゃ」


「俺にもあるのか」


「要らぬなら妾が飲む」


「いる」


湊一は慌てて受け取った。


白那は鼻を鳴らす。


「ならば、落とすでないぞ」


それだけ言うと、白那はくるりと背を向けた。


二人へ水を渡すことが、自分の役目だとでもいうように。


太鼓が、三度目の音を鳴らした。


城門が開く。


西軍の一隊は、佐和山を離れた。


          ◇


湊一は、馬上から前方ばかりを見ていた。


街道の先。


林の切れ目。


丘の向こう。


どこから敵が現れるのか分からない。


千を超える人間の命が、自分の判断一つに懸かっている。


そう考えるだけで、手綱を握る指に力が入った。


「殿」


いつの間にか、左近が馬を並べていた。


「前ばかり見てはなりませぬ」


「前を見ないで、どこを見る」


「後ろにございます」


湊一が振り返ろうとすると、左近は首を横に振った。


「大きく振り向く必要はございませぬ。音をお聞きくだされ」


湊一は耳を澄ませた。


兵たちの足音。


車輪が土を噛む音。


槍の石突が揺れる音。


馬の蹄。


人の息遣い。


「何が分かる」


「今は揃うております」


左近は言った。


「されど、後方の旗が遅れれば、足音がばらけまする。荷車の軸が傷めば、車輪の音が変わる。疲れた馬は、蹄より先に息が乱れる」


「全部、聞き分けるのか」


「すべては無理にございます」


左近は笑った。


「ゆえに、違う音を探すのでございます」


島左近。


名を清興という。


三成に仕える以前から幾つもの戦場を渡り、兵の進め方も、退かせ方も知る男だった。


後の世には、


――治部少に過ぎたるものが二つあり。島の左近と佐和山の城。


そう謳われるほどの武将である。


だが、今の湊一にとって、左近は伝説の猛将ではなかった。


戦を知らぬ自分を笑わず、馬を並べて、進む道を教えてくれる男だった。


湊一は、もう一度前を見た。


けれど、視界の端に、道の脇を歩く兵たちも入れる。


荷車の音も聞く。


旗の揺れも確かめる。


「殿」


「今度は何だ」


「佐和山を振り返ろうとなさいましたな」


図星だった。


湊一はわずかに顔をしかめる。


「一度くらい、いいだろう」


「総大将が後ろばかり見れば、兵は進む道を疑いまする」


「では、帰る場所を見るなというのか」


左近は前を向いたまま答えた。


「見ずとも忘れぬのが、帰る場所でございましょう」


湊一は黙った。


山の向こうに、佐和山がある。


妻がいる。


子どもたちがいる。


長男と次男は大坂にいるが、佐和山には三男と娘たちが残っている。


井戸がある。


湯がある。


帰りを待つ者がいる。


見えなくなったからといって、なくなったわけではない。


「左近」


「はっ」


「怖い」


口から出た言葉に、自分で驚いた。


左近は笑わなかった。


「何が、でございましょう」


「全部だ」


湊一は答えた。


「自分の判断で人が死ぬことも、逃げれば別の者が死ぬことも。勝っても戻れない者が出ることも」


左近はしばらく黙っていた。


「恐れぬ大将ほど、兵を早く死なせまする」


「慰めているのか」


「いいえ」


左近は首を横へ振った。


「恐れは、先を見る目にございます。ただし、恐れに手綱を握らせてはなりませぬ」


湊一は手元を見た。


自分の指が、白くなるほど手綱を締めている。


「昔の殿は、そのようなことを口にはされませなんだ」


「三成は、弱みを見せなかったのか」


「見せぬことを、強さと思うておられました」


左近は少しだけ目を細めた。


「今の殿とは、戦の話がしやすうございます」


「弱くなったからか」


「恐ろしいものが同じになったからにございます」


左近の声に、からかう響きはなかった。


湊一は、それ以上尋ねなかった。


          ◇


しばらく進んだところで、隊列の中ほどから声が上がった。


「止まれ! 人が倒れた!」


湊一は手綱を引いた。


「全軍を止めろ!」


だが、左近の声が重なる。


「止めてはなりませぬ!」


「負傷者がいる!」


「急に止めれば、後ろが詰まりまする!」


すでに後方では、前の隊へ追いつきかけた兵が足を緩めていた。


荷車の馬が首を振る。


一本の槍が隣の兵の肩へぶつかった。


「では、置いていけというのか」


湊一が声を荒らげる。


左近は答えず、馬を降りた。


足を痛めた足軽のそばへ駆け寄り、脚を確かめる。


「折れてはおらぬ。歩かせれば悪うなる」


左近は後方へ手を上げた。


「空けてある荷車を寄せよ! 隊列は右へ半歩ずれ、そのまま進め!」


兵たちが動く。


荷車が道の脇へ寄せられ、足軽が二人がかりで乗せられた。


軍勢は完全に足を止めることなく、負傷者も置き去りにせず進んでいく。


左近が馬へ戻った。


「全軍を止めれば、かえって怪我人を増やしまする」


湊一は荷車の上の足軽を見た。


男は悔しそうに顔を伏せていたが、置き去りにはされていない。


「俺は、一人を守るために、残りを危険にさらしかけた」


「されど、一人を捨てようとはなさらなかった」


左近は言った。


「殿が守りたい者を、戦場でどう守るか。それを形にするのが、わしの役目にございます」


「俺の甘さを、か」


「願いにございます」


左近は前を見た。


「甘さだけなら、わしが削りまする。願いまで捨てれば、殿が殿でなくなりましょう」


湊一は返す言葉を失った。


左近もまた、変わっている。


以前の左近なら、進軍を優先し、一兵を道端へ残したかもしれない。


だが今、その一兵を、帰る者の中に数えている。


湊一が左近へ学んでいるように。


左近もまた、湊一から何かを受け取っていた。


          ◇


昼過ぎ、一行は街道沿いの小寺へ着いた。


第三十一湯の軍議で、湊一と左近が絵図へ印をつけた場所である。


小さな井戸。


積まれた米俵と塩。


替えの草鞋。


乾いた薪。


筵。


空の荷車。


佐和山へ戻る道を示す、小さな木札。


左近は、兵たちへ休息を命じた。


「井戸水は二桶ずつ汲め。飲む分と、傷を洗う分を分けよ。草鞋は破れてからでは遅い。紐の緩んだ者は今のうちに替えよ」


湊一は、小寺へ運び込まれた足軽を見た。


筵の上へ寝かされ、水を与えられている。


「俺が準備を命じた物なのに」


湊一は言った。


「戦場でどう使うかは、お前の方が分かっている」


「殿は、帰る場所を作られました」


左近は、空の荷車へ手を置く。


「わしは、そこまで兵を戻す道を作りまする」


「俺一人では、場所を作るだけだった」


「わし一人では、戻す者を選んでおりました」


左近は笑わなかった。


「二人であれば、少しは多く帰せましょう」


それは主君を持ち上げる家臣の言葉ではなかった。


同じ目的を持つ者同士の、静かな確認だった。


          ◇


休息が終わろうとした頃、物見の兵が駆け込んできた。


「申し上げます! この先の細道に、騎馬の跡がございます!」


左近の目が鋭くなる。


「数は」


「十を超えるかと。ただし、道を往復しております」


「伏兵の物見やもしれぬな」


左近は地面へ枝で線を引いた。


道の右は林。


左は丘。


抜けた先には浅い川がある。


「ここを通らねば、次の陣地へは進めませぬ」


「ならば、斥候を増やす」


湊一が言うと、左近は首を振った。


「半端な数では食われまする」


左近は立ち上がった。


「わしが先陣を務めます」


「ならば俺も行く」


言葉が、考えるより先に出た。


左近が湊一を見る。


「殿は、ここにお残りくだされ」


「お前だけを危険な場所へ行かせられるか」


「それでは、先ほどまでの話が無駄になりまする」


「話と命は別だ」


左近は、少し困ったように笑った。


「友と一緒に死ぬのは容易い」


湊一は息を止めた。


左近が続ける。


「友を危うい場所へ送り、それでも全軍を進める方が難しゅうございます」


「俺は、お前を信用していないわけじゃない」


「承知しております」


「一人で行かせるのが、怖いんだ」


湊一は正直に言った。


左近は笑わなかった。


ただ、深くうなずいた。


「信じるとは、止めぬことでもございます」


湊一は拳を握った。


左近と共に行けば、自分の恐怖は少し軽くなる。


だが、その間、誰が全軍を動かす。


誰が水を残す。


誰が負傷者を戻す。


誰が、左近たちの帰る場所を守る。


「策を聞かせろ」


湊一は言った。


左近は地面の線を指した。


「道の手前と奥、二か所の水場を取りまする。負傷者はこの寺へ戻す。荷車は一台、必ず空けておく」


さらに線を加える。


「弓兵は三射したら後ろへ下がる。二組が交代しながら退路を守る。敵が退いても深追いはいたしませぬ」


「最後の一組は」


「わしが連れて戻りまする」


湊一は軍事の細部へ口を挟まなかった。


最後まで聞いた。


そして、一つだけ尋ねる。


「その帰る者の中に、お前も入っているのか」


左近が黙った。


ほんのわずかな間だった。


だが、その沈黙だけで、湊一には分かった。


左近はこれまで、自分自身を帰る者へ数えてこなかった。


「答えろ」


湊一が言う。


左近は静かに頭を下げた。


「一番最後ではございますが、入っております」


「本当だな」


「武士に二言はございませぬ」


左近は顔を上げる。


「では、わしからもお尋ねいたします」


「何だ」


「殿の帰る道は、どこにございます」


湊一は懐へ手を入れた。


妻から渡された握り飯。


そして、白那の小さな水袋。


「ここから佐和山までだ」


湊一は答えた。


「今度は、俺も自分を数から外していない」


左近の口元が、わずかに緩んだ。


          ◇


左近が馬へ乗ろうとしたとき、湊一の馬が首を振った。


落ち着かない。


左近が湊一の手元を見た。


「殿」


「何だ」


「手綱を」


湊一は無意識のうちに、強く引き締めていた。


左近が手を伸ばし、握り方を直す。


「馬は、乗る者の恐れを先に知りまする」


「恐れるな、と言うのか」


「恐れるなとは申しませぬ」


左近は手を離した。


「されど、恐れに手綱を握らせてはなりませぬ」


馬の首から、少し力が抜けた。


湊一も息を吐く。


「帰ってから、続きを教えろ」


「まだ教えることが山ほどございます」


左近は笑った。


湊一は、その笑顔を見つめた。


「左近」


「はっ」


「これは主命だ」


左近の表情が引き締まる。


「生きて帰れ」


左近は馬上で深く頭を下げた。


家臣として。


そして、再び顔を上げる。


「では、わしからも一つ」


「何だ」


「これは家臣の諫言ではなく、友としての願いにございます」


左近はまっすぐ湊一を見た。


「殿も、わしの見えぬところで勝手に死なれますな」


湊一は、必ず帰るとは言わなかった。


戦を前にして、その言葉を軽く口にはできない。


「最初から自分を死者には数えない」


それだけを答えた。


左近もうなずく。


「わしも同じにございます」


「約束だ」


「まことに、面倒な主になられた」


「お前も、面倒な友になった」


左近が声を上げて笑った。


「それは、お互い様にございましょう」


          ◇


左近が先陣を率いて進み始めた。


槍を持つ兵。


弓兵。


水を運ぶ者。


負傷者を戻すための空の荷車。


そのすべてを連れ、細い道へ入っていく。


左近は死地へ向かっている。


だが、死ぬためではない。


後ろに続く者が進める道を開き、自分自身も帰るために向かっている。


左近は、湊一を戦場へ導く。


湊一は、左近が戦場から帰れるよう、後ろに水と飯と居場所を残す。


二人は離れた場所にいても、同じ帰還路を作っている。


左近の背が林の向こうへ消えようとした、そのとき。


ちりん。


湊一の背後で、鈴が一度鳴った。


佐和山の方角から届いたような、澄んだ音だった。


左近は振り返らなかった。


ただ、片手を上げた。


聞こえたのだろうか。


それとも、湊一の気配を感じただけなのか。


湊一も、佐和山を振り返らなかった。


手綱を強く握りすぎぬよう、指の力を抜く。


そして、残る兵たちへ声を張った。


「全軍、前へ進め!」


左近は、湊一を戦場へ導く。


湊一は、左近が戦場から帰る道を残す。


主君が家臣へ命を預け、家臣が主君へ生き方を教える。


二人は主従でありながら、互いの命を相手へ預ける友になっていた。


――関ヶ原まで、あと三十八日。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


第四章「勝つ支度ではなく、残す支度」は、これにて完結です。


今回描きたかったのは、左近を単なる「有能な家臣」にせず、戦を知らない湊一を導く存在とすることでした。


湊一の「一人も置いていきたくない」という願いは、そのままでは軍を動かせない甘さでもあります。


けれど左近は、それを否定するのではなく、戦場で実現できる形へ変えてくれます。


一方の湊一も、死ぬことまで武将の務めだと思っていた左近に、自分自身も「帰る者」の数へ入れるよう求めました。


左近が教えるのは、戦場へ行く道。


湊一が残すのは、戦場から帰る道。


主君と家臣でありながら、互いの命を預ける友となった二人を感じていただけたなら嬉しいです。


次回から第五章「敗れても、帰る場所は残る」。


戦は、いよいよ避けられないところまで迫ります。

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