第三十九湯 出陣の朝、湯気は白い
出陣の朝。
湊一は妻子や家臣、領民の帰り道を用意しながら、自分自身だけを帰る者の数から外していました。
三成が胸の奥へ残した記憶と、白那の厳しい言葉。
誰も「最後」と呼ばない、佐和山の朝餉です
夜が、まだ山の裾に残っていた。
佐和山の飯場では、夜明けより先に米が炊けていた。
粥をよそう音。
汁を温め直す音。
漬物を切る音。
握り飯を油紙で包む音。
城門の外では馬がいななき、武具蔵では槍や弓を運び出す声が響いている。
それでも、朝餉の支度だけは、昨日までと同じように進められていた。
戦の朝だからといって、竈の火が青くなるわけではない。
別れの朝だからといって、米の炊ける匂いが変わるわけでもない。
その当たり前が、今朝の湊一には苦しかった。
◇
「奥方様。まことに、われらまで同じ座敷でよろしいのでございますか」
年かさの湯番が、座敷の入口で足を止めた。
中には、同じ大きさの膳が並んでいる。
湊一と妻。
三男と小さき湯番。
島左近をはじめとする家臣たち。
その向かいには、湯番や飯炊き、荷造りを手伝った女たちの席まで用意されていた。
「よろしいのです」
妻が答えた。
「ですが、われらは後ほど、台所でいただきますので」
「後ほどでは、いつになるか分かりませぬ」
飯場では、出陣する兵へ持たせる握り飯を、まだ作り続けている。
湯場では、最後の組が足を洗っている。
後で食べようと思えば、昼を過ぎても膳につけない者が出るだろう。
「皆で食べるための朝餉です。どうぞ、お座りください」
「されど、殿と同じ座敷とは……」
「いつまで立っている」
湊一が声をかけた。
「粥が冷めるぞ」
湯番たちは顔を見合わせ、ようやく膳の前へ座った。
飯炊きの女たちも、落ち着かない様子で腰を下ろす。
湊一は、その一人ずつの顔を見た。
濁り井戸を直した時、腰まで泥に浸かって働いた男。
熱を出した人足へ、夜通し水を運んだ女。
湯場で転んだ子どもを抱き上げた老人。
白那の団子を、毎回少しだけ大きく作る飯炊き。
二月近く。
長い年月ではない。
それでも、ともに井戸を掘り、湯を沸かし、飯を分け、黒羽の噂に耐えてきた。
初めは「三成が妙なことを始めた」と遠巻きに見ていた者たちが、今では自分から草鞋を数え、帰ってくる兵のために布を煮ている。
その者たちを、戦へ巻き込んだのは誰だ。
家康か。
豊臣の世か。
西軍を立ち上げた者たちか。
それとも、石田三成か。
答えを一つに決めることはできなかった。
ただ、彼らが「殿」と呼ぶ相手は、自分だった。
出陣を命じるのも。
城へ残れと命じるのも。
生きて帰れと言うのも。
今は、すべて自分だった。
「皆が座ってしまえば、誰が給仕をするのでございましょう」
飯炊きの女が困ったように言った。
「自分の膳くらい、自分で食べられる」
「殿へ、そのようなことは――」
「俺の手は、箸も持てぬほど偉くなったのか」
湊一が箸を持ち上げる。
左近が低く笑った。
「殿。戦場へ出れば、ご自分で何でもなさらねばなりませぬ。今朝から慣れておくのも、よろしゅうございましょう」
「左近。お前は俺を助けるのか、笑っているのか、どちらだ」
「両方にございます」
張りつめていた座敷に、小さな笑いが広がった。
左近の笑い声を聞いた瞬間、湊一の胸の奥が痛んだ。
それは、湊一だけの痛みではなかった。
三成の記憶が、身体の奥で目を覚ましていた。
記憶は、古い絵巻のように過去を見せるものではない。
左近が部屋へ入れば、背を預けてもよい相手だと身体が先に知る。
低い笑い声を聞けば、幾度も険しい軍議を越えてきた安堵が胸へ戻る。
血と泥にまみれた左近が、それでも平然と報告へ来た日の怒り。
傷を隠していたことへの苛立ち。
誰にも言えなかった信頼。
それらが、湊一自身の感情と区別できぬまま湧き上がる。
現代の湊一は、島左近のその後を知っている。
関ヶ原で討死したとも、戦場から落ち延びたとも伝わる。
確かなことは、帰還の記録がないということだけだ。
目の前で笑っている男が、あと四十日もせぬうちに歴史の中から姿を消す。
そう思うと、粥の匂いさえ遠くなった。
「殿?」
左近が湊一を見る。
「何だ」
「何やら、わしの顔に見惚れておられたような」
「誰がお前の髭に見惚れるか」
「では、まだ見飽きてはおられぬということで」
「朝から気味の悪いことを言うな」
「それだけお元気なら、心配は要りませぬな」
違う。
心配だから見ているのだ。
この顔を、覚えておこうとしている。
だが、そんなことは言えなかった。
言えば、この朝が本当に最後になってしまう。
湊一は左近から目をそらした。
その先で、白那だけが不満そうに腕を組んでいた。
水の道をひらいた反動は、まだ抜けきっていない。
普段よりも幼い姿の白那は、布を幾重にも重ねた座布団の上へ座っていた。
その前には、小さな椀と、小さな箸が置かれている。
「なぜ、妾の膳だけ小さいのじゃ」
「白那さまがお使いやすいようにいたしました」
妻が穏やかに答える。
「妾を幼子扱いするでない」
「では、大きな椀へ替えましょうか」
「待て」
白那は小さな椀を両手で囲った。
「この椀が、どうしても妾に使われたいと申しておる」
「椀が話すのか」
「水守には聞こえるのじゃ」
「昨日は、手拭いも離れたくないと言っていたな」
「物に慕われるのも神の務めよ」
白那が尊大に鼻を鳴らす。
その前へ、小さき湯番が包みを一つ差し出した。
「白那さま。こちらを」
「何じゃ」
「出陣前の供物でございます」
包みを開くと、丸い団子が一つ入っていた。
白那の目が、わずかに大きくなる。
「出陣するのは妾ではないぞ」
「では、要りませんか?」
「誰が要らぬと申した!」
白那は素早く団子を引き寄せた。
「出陣前の供物を無駄にするわけにはゆかぬ。傷みでもすれば、佐和山の水守たる妾の名に関わる」
「今、作ったばかりでございます」
「今から傷むやもしれぬ」
「お粥より先に召し上がるのですか」
妻に尋ねられ、白那の手が止まった。
「これは毒見じゃ」
「団子だけに毒が入っているのでしょうか」
「粥にも入っておるやもしれぬ」
「では、先にお粥をお願いいたします」
白那は妻と団子を見比べた。
やがて、しぶしぶ団子を包みへ戻す。
「仕方あるまい。水守が、すべての膳を確かめてやる」
「白那さまの分だけで結構でございます」
「ほかの者の膳まで食べるつもりはないわ!」
今度は、座敷のあちこちから笑いが起きた。
「笑うでない!」
白那の怒鳴り声を合図にしたように、朝餉が始まった。
◇
粥。
大根と豆の入った味噌汁。
浅く漬けた菜。
梅干し。
それだけだった。
城主の出陣を祝う豪華な膳ではない。
勝利を願う鯛も、酒もない。
湯番も、飯炊きも、家臣も、妻子も、同じものを食べている。
戦へ向かう朝だからこそ、佐和山でいつも食べてきたものを出したのだろう。
誰も、これを最後の膳とは呼ばなかった。
「お口に合いませぬか」
妻の声に、湊一が顔を上げた。
「いや。うまい」
「先ほどから、ほとんど減っておりませぬ」
言われて、椀を見る。
人の顔ばかりを見て、箸が止まっていた。
「少し、考え事をしていた」
「考え事は、召し上がってからになさってください」
「今朝くらいは、優しくしてくれてもいいだろう」
「今朝だからこそ、申し上げております」
妻は湊一の前の粥椀を、少しだけ近くへ押した。
「膳を残さず召し上がってください」
ご武運を。
妻は、そう言わなかった。
必ず帰ってきてくださいとも言わない。
ただ、冷める前に食べろと言った。
三成の記憶の中でも、妻は同じだった。
政務に追われ、帰りが遅くなった夜。
冷めた膳の前で、何も言わず待っていた。
三成は謝る言葉を持たず、
――先に休めばよかった。
とだけ言った。
妻は怒らなかった。
ただ、冷めた汁を温め直した。
別の日には、幼い子が熱を出した。
三成は大坂から戻れず、文でしか様子を聞けなかった。
妻は文末に、恨み言ではなく、
――今朝は粥を半椀、食べました。
とだけ書いた。
三成は、その一文を何度も読んだ。
だが、帰ってから礼を言った記憶はない。
妻の前にいると、大切な言葉ほど足りなくなる。
それは三成も、湊一も同じだった。
妻が笑いを堪える時、右の目元だけが少し下がることも、三成の記憶は知っていた。
その記憶に触れるたび、湊一の胸へ懐かしさが込み上げる。
誰の感情なのか、今では分からない。
分ける必要も、ないのかもしれない。
三成が愛した妻を、湊一も守りたい。
湊一が二月近くともに過ごした家族を、三成の記憶も失いたくないと叫んでいる。
湊一は箸を取った。
粥を口へ運ぶ。
米の甘みと、わずかな塩気が広がった。
「いかがですか」
「少し薄いな」
「出陣前に喉が渇かぬよう、塩を控えております」
「なら、ちょうどいい」
「今、薄いとおっしゃったではありませんか」
「身体には、ちょうどいいという意味だ」
「言い訳だけは、お上手になられました」
妻の右の目元が、わずかに下がった。
その顔を見て、湊一はもう一口粥を食べた。
◇
向かいでは、三男が何度も懐へ手を入れている。
「何を持っている」
三男は懐から、細長い木札の束を取り出した。
「出陣する者の名を、組ごとに確かめておりました」
「朝餉の席にまで持ってきたのか」
「一人、まだ返事を確かめておりませぬ」
「誰だ」
三男は木札の一枚へ目を落とした。
そこには、父の名が書かれていた。
「父上にございます」
「俺か」
「皆が父上を殿と呼びます。ですが、父上からは、一人ずつ名を呼び、返事を聞けと教わりました」
三男は木札を両手で持った。
「父上も、皆と同じように、お呼びしてよろしいのでございますか」
「呼べばいい」
「しかし、皆の前で」
「今、ここにいるか確かめるのだろう」
「はい」
「ならば呼べ」
三男は姿勢を正した。
手にした木札を見る。
それから、父の顔をまっすぐに見た。
「父上」
「ここにいる」
湊一は答えた。
座敷が静かになる。
三男は木札を、一枚だけ裏返した。
「確かめました」
「ああ」
「お戻りになった時も、もう一度お呼びいたします」
三男の声は震えていなかった。
「その時も、必ずお返事ください」
湊一の喉が詰まった。
必ず帰る。
その言葉を口にするのは簡単だった。
だが、守れる保証はない。
三成の記憶の奥から、もっと幼い三男の声が聞こえた。
父上。
初めてそう呼ばれた日の記憶だった。
三成は書状を読んでいて、すぐには返事をしなかった。
もう一度呼ばれて、ようやく顔を上げた。
今度は、すぐに答えなければならない。
「聞こえるように呼べ」
湊一は答えた。
「どこにいても、聞き逃さぬようにな」
「承知いたしました」
「兄上。わたしもお呼びします」
小さき湯番が言った。
「父上がお戻りになった時は、湯場でお名を呼びます」
「二人で呼べば、うるさいぞ」
「お返事がなければ、三度でも四度でもお呼びします」
「それでは危険の鈴と同じだな」
「お返事がないことも、危険でございます」
小さき湯番は真剣な顔をしていた。
「それから、お足も見せてくださいませ」
「俺の足を?」
「出陣なさる皆さまに、お戻りになった時も足を見せてくださいとお願いしました」
「ああ」
「父上だけ、見せてくださらないのは不公平でございます」
「分かった。戻ったら、お前に見せる」
「お約束でございます」
小さき湯番が、ようやく笑った。
「傷がなくても、きちんと洗ってやれ」
白那が団子を両手で持ちながら言う。
いつの間にか粥を食べ終え、供物の検分へ移っていた。
「この愚か者は、平気な顔で泥を持ち込むからのう」
「白那。まだ出てもいない」
「出る前から申しておかねば、そなたは忘れる」
「白那さまも、一緒にお待ちくださいませ」
小さき湯番が言った。
「妾に指図するでない」
「では、お待ちにならないのですか」
「誰が待たぬと申した!」
白那は団子をひとかじりした。
「妾は佐和山の水を守る。そのついでに、この愚か者が泥だらけで戻れば、湯へ沈めてやるだけじゃ」
「沈めるのか」
「汚れが落ちるまでな」
「息はさせてくれ」
「そなたの働き次第じゃ」
左近が声を立てて笑った。
「殿。これは何としても、生きて戻らねばなりませぬな」
「戻った途端、湯へ沈められるらしいぞ」
「戦場よりは、ましにございましょう」
「髭男。そなたもじゃ」
「わしもでございますか」
「その髭には、泥がよく絡みそうじゃからのう」
「では、水守殿に洗っていただけますかな」
「妾を髭洗いの女中にするでない!」
座敷に、もう一度笑いが広がった。
誰も笑いながら泣かなかった。
泣けば、これが別れの膳になってしまう。
だから皆、粥を食べた。
汁を飲んだ。
漬物を噛んだ。
明日も同じ朝餉があるように。
◇
膳が空になると、妻が油紙の包みを持ってきた。
「こちらを、お持ちください」
握り飯が二つ、包まれている。
紐には、結び目が二つあった。
昨日、飯場の隅へ取り分けられていた包みだ。
「やはり、俺の分だったのか」
「お名前を書いておりましたでしょう」
「結び目まで二つある」
「ほどけては困りますから」
妻は、それ以上を説明しなかった。
湊一も、なぜ二つなのかとは尋ねなかった。
包みを受け取る。
まだ、わずかに温かい。
「食べ終わった包みは、どうすればいい」
「お持ち帰りください」
「油紙だけを?」
「空になったと分かります」
「返すために、戻れということか」
妻は答えなかった。
ただ、湊一の手へ包みを押しつける。
「中身が残っていれば、もう一度お出しします」
「悪くなっているかもしれないぞ」
「その時は、作り直します」
「何度でも?」
「米と水がある限り」
妻の指先には、小さな火傷の跡があった。
昨夜から飯場に立ち、握り飯を作り続けたのだろう。
子を抱いた手。
冷めた膳を温め直した手。
文を折り、夫の帰りを待った手。
三成は、この手を幾度見ながら、ほとんど握らなかった。
湊一は、その手へ自分の手を重ねた。
妻の指が、わずかに震えた。
「心配ではないのか」
湊一は尋ねた。
「何が、でございましょう」
「俺が戻らないかもしれない」
妻は目を伏せなかった。
「心配にございます」
「なら、なぜ止めない」
「止めれば、お残りになりますか」
答えられなかった。
「お残りになれば、戦はなくなりますか」
「いや」
「佐和山は攻められませんか」
「それも、分からない」
「ならば、私が申せることは一つだけです」
妻は湊一の手から、静かに指を抜いた。
「膳を残さず召し上がってください」
先ほどと同じ言葉だった。
だが今度は、声が少しだけ震えていた。
「帰れると、約束できない」
「存じております」
「大坂にいる二人にも、何も言えないままだ」
長男と次男。
大坂にいる二人の息子は、この朝餉の席にいない。
三成の記憶には、二人が佐和山を離れた日の背中が残っている。
父の役に立ちたいと強がる長男。
何度も城を振り返った次男。
あの時も三成は、役目を果たせ、行儀を忘れるなとしか言えなかった。
生きて戻れ。
父は待っている。
なぜ、そう言えなかったのか。
「二人は、父上が何をなさろうとしているか分かっております」
三男が言った。
「分かっていても、言わねば伝わらないことがある」
「では、戻られてからおっしゃってください」
三男は真っ直ぐに答えた。
簡単に言う。
子どもだからではない。
そう言わなければ、この朝を越えられないのだ。
湊一は、握り飯の包みを懐へ入れた。
二つの結び目が胸へ当たった。
「湯を絶やすな」
ようやく出たのは、その一言だった。
妻が頷く。
「承知いたしました」
「出陣した者のためだけではない。城へ残る者もいる。女も、子どもも、老人も、傷ついた者もいる」
「分かっております」
「湯だけではない。飯も――」
「それも、分かっております」
「井戸の祠と、水の道は」
「毎朝、確かめます」
「危険の鈴は三度。道の安全は、間を置いて二度だ」
「何度も稽古をいたしました」
「三男は、幼い者の名を一人ずつ呼べ」
「はい、父上」
「小さき湯番は、井戸の祠を離れるな」
「はい」
それでも不安は消えなかった。
火が先に回ったら。
鈴を鳴らす者が倒れたら。
敵が井戸へたどり着いたら。
逃げる途中で、子どもの手が離れたら。
白那が力を使い果たしたら。
三つの道を用意すれば、三つの道が潰れる光景まで思い浮かぶ。
「殿」
妻が、わずかに眉を寄せた。
「今、お顔の中で三つの道をすべて歩いておられましたね」
「分かるのか」
「同じところで、何度も眉間に皺が寄りますので」
妻の右の目元が、また少し下がった。
「私たちも考えます」
「だが――」
「殿が戦場におられる間も、こちらの時は止まりませぬ」
妻は三男と小さき湯番を見る。
「残る者を、命じられなければ一歩も動けぬ者と思わないでくださいませ」
湊一は返事ができなかった。
白那だけが、何も言わず湊一を見ていた。
◇
朝餉を終えた者たちが、それぞれの持ち場へ戻っていく。
家臣は武具蔵へ。
湯番は湯場へ。
飯炊きたちは、残りの握り飯を包むため飯場へ。
三男は木札を抱え、出陣する組の名を確かめに向かった。
小さき湯番は、古井戸の祠へ鈴を見にいく。
妻も、城へ残る者たちの支度へ戻った。
湊一は一人、湯場へ向かった。
残り湯を確かめるため。
そう自分へ言い訳をした。
本当は、妻子の顔を見続けることに耐えられなかった。
湯場には、朝の白い湯気が残っていた。
壁際には、水袋、布、薬、草鞋が並べられている。
妻子のための道。
領民のための備え。
負傷者を運ぶ戸板。
兵へ渡す水。
湊一は、一つずつ指で確かめた。
「逃げるように席を立ちおって」
背後から白那の声がした。
振り返ると、小さな白那が湯場の入口に立っていた。
柱へ片手をつき、肩で息をしている。
「追ってきたのか」
「誰がそなたを追っておると申した。妾も湯を見に来ただけじゃ」
「息を切らしているぞ」
「湯場までの廊下が、勝手に長くなったのじゃ」
白那が一歩進む。
身体が傾いた。
湊一が手を差し出す。
「触るでない」
「転ぶぞ」
「妾は転ばぬ」
もう一歩進み、再び傾く。
湊一は白那の脇へ手を入れ、そのまま抱き上げた。
「無礼者! 妾を幼子のように扱うでない!」
「自分で歩けるようになってから言え」
「これは、そなたの腕が鈍っておらぬか確かめてやっておるのじゃ!」
「便利な言い訳だな」
白那を湯船の縁へ座らせる。
小さな足が湯気の中へ垂れた。
「それで」
白那が尋ねる。
「妻子の道は?」
「三つ用意した」
「領民は?」
「危険の鈴が鳴れば湯場へ集める。老人と幼子から逃がす」
「傷ついた者は?」
「戸板で運ぶ。水と布も分けてある」
「兵は?」
「退路と水場を左近に伝えた」
「家臣は?」
「無駄に城へ残すなと命じた」
「では、そなたは?」
湊一の返事が止まった。
「俺は、皆を逃がす側だ」
「答えになっておらぬ」
「大将が先に逃げ道を考えるわけにはいかない」
「また、つまらぬ顔をし始めたのう」
「つまらぬ顔とは何だ」
「妻子、家臣、領民、傷ついた者、馬まで数えておいて、一人足りぬ」
「誰だ」
「そなたじゃ、愚か者」
白那は小さな足で、湯船の縁を叩いた。
「自分だけを、最初から帰らぬ者の数へ入れておる」
「そんなつもりはない」
「ならば、そなたの帰り道を申してみよ」
「戦場で決める」
「逃げる時は?」
「状況を見て」
「傷ついたら?」
「動ける者を先へ行かせる」
「左近が、そなたを逃がすために残ると申したら?」
湊一は答えられなかった。
「ほれ見よ」
「俺を守るために、誰かが死ぬのは違う」
「誰かを盾にせよとは申しておらぬ」
「大将が生き残ろうとすれば、誰かが残る」
「そなたが死ねば、誰も傷つかぬとでも思うておるのか」
白那の声が低くなった。
「妻も。子らも。左近も。領民も。そなたが自ら死を選んだと知れば、何とも思わぬと?」
「死を選ぶつもりはない」
「同じじゃ」
「何がだ」
「そなたは、後の世に書かれた三成の死へ、自分を合わせようとしておる」
湊一の胸を、白那の言葉が刺した。
「俺の知る歴史では、三成は――」
「また歴史か!」
白那が怒鳴る。
湯面が大きく揺れた。
「後の世の者が書いた一行を、今ここで生きておる者より信じるのか!」
「そうじゃない」
「ならば、今を見よ」
白那は朝餉の座敷がある方角を指した。
「妻は生きておる」
「ああ」
「子らも生きておる」
「ああ」
「左近も、家臣も、領民も、そなたも、今はまだ生きておる」
湊一は拳を握った。
「俺の知る後世には、妻が生き延びたという話がある」
白那が黙る。
「関ヶ原の後も生き、洛中へ身を隠し、やがて娘との縁から会津へ移ったという説だ」
「ならば、何をそのような顔でおる」
「説にすぎない」
「説ではない」
白那は、きっぱりと言った。
「あの女は、今ここで生きておる」
「分かっている」
「分かっておらぬ。死んだと書かれたから死ぬ、生きたと書かれたから生きる。そのような順ではない」
「では、どういう順だ」
「生きようとした者がおった」
白那は湯面へ小さな指を入れた。
「守ろうとした者がおった。逃がそうとした者がおった。手を引く者がおった。その後に、後の世の話ができるのじゃ」
水面へ輪が広がる。
「そなたは今、その妻が生きたという未来へ、水路を掘っておるのであろう」
「ああ」
「ならば、説を眺めて安心するでない」
「安心などしていない」
「死ぬ方ばかりを恐れるのもやめよ」
「簡単に言うな」
「簡単ではないから、そなたは二月近くも泥まみれになったのであろう!」
白那の声が、湯場へ響いた。
「妻が生きたという話を、本当にしたいのであろう」
「ああ」
「ならば、生かせ」
湊一は目を閉じた。
三成の記憶が蘇る。
冷めた膳を温め直す妻。
幼い息子に呼ばれても、書状から顔を上げられなかった日。
娘を抱き上げる方法が分からず、妻へ任せた記憶。
大坂へ向かう長男と次男の背中。
傷を隠して戻った左近への怒り。
領民の訴えを聞きながら、正しい裁定だけを急ぎ、相手の顔まで見られなかった悔い。
三成は家族を大切に思っていなかったのではない。
失うことが怖いほど大切だったから、役目や政務の言葉へ隠した。
「三成は、不器用だった」
「今さら気づいたか」
「家族を守りたかった」
「知っておる」
「なぜ、お前が知っている」
「妾は、三成が一人で井戸へ来た時の顔を見ておる」
「三成も、井戸へ?」
「家族へ言えぬことを、水へ向かって申す、面倒な男であった」
「俺と同じだな」
「そなたの方が、さらに面倒じゃ」
白那は湯面へ映る三成の顔を見た。
水が揺れる。
一瞬、その顔の奥へ、現代の白瀬湊一の面影が重なった。
「三成の記憶は、後の世に書かれた通り死ねと申しておるのではない」
「では、何を」
「今度こそ守れと申しておる」
「妻を?」
「妻も。子らも。家臣も。領民もじゃ」
白那は指を一本立てた。
「家族を守れ」
「水の道へ逃がす」
二本目。
「領民を守れ」
「城より人を優先する」
三本目。
「家臣を守れ」
「無駄死にはさせない」
白那は小さな手を開いた。
「そして、そなた自身を守れ」
「俺は後でいい」
「順番をつけるでない!」
「だが、俺を守るために誰かを盾にはできない」
「助けを求めることと、他人を盾にすることを同じにするな」
白那が湊一を睨む。
「そなたは死ぬことで、皆への借りを返したつもりになる気か」
「そんなつもりはない」
「ならば、生きて返せ」
「何を」
「飯を。湯を。名を呼ばれた時の返事をじゃ」
三男の声が胸へ戻る。
父上。
ここにいる。
「そなたが帰らねば、帰り道は片道になる」
白那は続けた。
「帰る場所を作った者が、最初から帰ることを諦めてどうする」
「帰れると、約束はできない」
「嘘を申すよりはましじゃ」
「勝つとも言えない」
「妾は勝てと申しておらぬ」
「だが、死ぬことを答えにはしない」
白那が湊一を見る。
「もう一度申せ」
「最初から、自分を死んだ者の数へ入れない」
「うむ」
「逃げるべき時は逃げる。助けを求めるべき時は求める。食える時に食い、水を飲む」
「当然のことを、随分と偉そうに申すのう」
「お前が言わせたんだろう」
「名を呼ばれたら?」
「返事をする」
「道がなければ?」
「作る」
「塞がれれば?」
「別の道を探す」
「それもなければ?」
「生きている限り、探す」
白那は、ようやく満足そうに鼻を鳴らした。
「少しは、若旦那らしい顔になったわ」
「白那」
「何じゃ」
「お前はどうする」
「妾は佐和山へ残る」
「力を使いすぎるな」
「そなたに言われとうない」
「妻子を守るためでも、水へ還るな」
「神へ命令する気か」
「俺も守られる者の中へ入れと言ったのは、お前だ」
「……口だけは達者になりおって」
「家族を守れ。領民を守れ。俺も守れ」
「欲張りな愚か者よな」
「それから、お前自身も守れ」
白那の口が止まった。
「妾まで数へ入れるか」
「当たり前だ」
「妾は神じゃ」
「名を呼べば返事をするだろう」
「当然じゃ」
「なら、一人だ」
白那はしばらく湊一を睨んでいた。
やがて顔を背ける。
「……仕方あるまい。妾も、勝手に生き残ってやる」
「約束だ」
「神へ約束を迫るでない」
「返事は?」
「聞こえておる!」
「返事になっていない」
「妾も生きる! これでよいか!」
「ああ」
「まったく、しつこい男よな」
白那は腕を組み直した。
「それに、そなたが戻らねば、供物を取り立てられぬではないか」
「やっぱり団子か」
「団子だけではない!」
「では、ほかに何がある」
「……細かいことを申すでない!」
白那が湯船の縁を叩いた。
遠く、古井戸の祠から鈴が一度だけ鳴る。
ちりん。
二人が、互いを生きる者の数へ入れた音だった。
◇
湯場を出る頃には、空はすっかり白んでいた。
城内には、出陣する兵が集まっている。
槍が並ぶ。
弓が並ぶ。
荷駄へ兵糧と水袋が積まれる。
馬の鞍が、もう一度締め直される。
大一大万大吉の旗が、朝の風を受けて開いた。
まだ、誰も城門の外へは出ていない。
出立の太鼓を待っている。
「殿」
左近が、酒の入った小さな徳利を持ってきた。
「朝から酒か」
「出陣の一献にございます」
「皆には出していないだろう」
「出しておりませぬ」
「では、俺も要らない」
「殿と、わしの分だけです」
左近は盃を二つ置いた。
「一杯だけでも」
「酒を飲んだ兵に、足元を見ろとは言えない」
「相変わらず、固いお方じゃ」
「お前がそれを言うのか」
「これは別れの酒ではございませぬ」
左近が言った。
「先に、そう申しておきましょう」
湊一は徳利を見た。
「ならば、なおさら今飲む必要はない」
「では、いつ」
「帰ってからだ」
「それまで取っておけと?」
「嫌なら、一人で飲め」
左近はしばらく徳利を見つめた。
やがて、近くの縁台へ置く。
「仕方ありませぬな」
「飲まないのか」
「殿が帰るまで残しておきましょう」
「酒は悪くなるぞ」
「その時は、別の酒を用意いたします」
妻と同じようなことを言う。
湊一は苦笑した。
「左近」
「はっ」
「生きて帰れ」
「また、そのお話でございますか」
「何度でも言う」
「それは、命令にございますか」
「命令だ」
「殿も、生きてお戻りください」
「俺の命令に条件をつけるな」
「主が戻らぬ城へ、一人で帰るのは気まずうございます」
「湯はあるぞ」
「殿がおらねば、酒を開ける口実がありませぬ」
「勝手に飲め」
「それでは、ただの盗み酒になりますゆえ」
左近が笑う。
今度の笑みは、先ほどより少しだけ苦かった。
「では、何を飲む」
「水でよろしいのでは」
小さき湯番が、水の入った椀を二つ運んできた。
「白那さまが、出陣前に喉を乾かす愚か者が二人いるとおっしゃいました」
「誰が愚か者だ」
湊一と左近の声が重なった。
「お二人ともでございます」
小さき湯番は、困ったように笑った。
左近が水椀を取る。
「水守殿より酒を止められては、従うほかありますまい」
「白那は酒を止めていない。団子を取られたくないだけだ」
「聞こえておるぞ!」
湯場の方から、白那の声が飛んだ。
左近が笑い、水を一口飲む。
湊一も椀を取った。
古井戸から汲まれた、冷たい水だった。
酒のように身体を熱くはしない。
喉をまっすぐ通り、胸の奥へ落ちていく。
「うまいな」
「左様ですな」
左近が椀の底を見る。
「この水を飲めば、戦場でも佐和山の方角を忘れずに済みそうでございます」
「忘れたら、白那が夢へ出るぞ」
「それは恐ろしい」
「髭男! 夢どころか、枕元へ水をぶちまけてやる!」
「それは何としても、生きて逃げねばなりませぬな」
「逃げるなとは申しておらぬ。生きて戻れと申しておる!」
白那の声に、周りの兵たちが笑った。
その笑いが、朝の佐和山へ広がっていく。
兵は千人。
されど、千という一つの塊ではない。
名のある者が、一人ずついる。
家族のいる者。
帰る村のある者。
借りた草鞋を返す者。
小さき湯番へ足を見せると約束した者。
酒を残している者。
空の油紙を持ち帰る者。
湊一も、その中の一人だった。
◇
東の山から、朝日が差し込んだ。
湯場の屋根から昇っていた湯気が、光を受ける。
夜の中では灰色に見えた湯気が、白く変わっていく。
妻が、座敷の前に立っている。
その隣には三男。
小さき湯番は、古井戸の方から戻った白那の手を握っていた。
白那は幼い姿のまま、尊大に胸を張っている。
妻の後ろには、城へ残る湯番や飯炊きたちがいる。
さらにその向こうには、城下と村がある。
今朝も水を汲み、畑へ出て、子どもへ飯を食べさせる者たちがいる。
三成は、この城を守ろうとしてきた。
湊一も、この二月近く、守ろうとしてきた。
だが、守るために離れなければならない。
守るために戦へ向かい。
戦へ向かうことで、最も危険な場所へ変えてしまうかもしれない。
その矛盾から、最後まで逃げることはできなかった。
心配は消えない。
妻子も。
家臣も。
領民も。
城も。
白那も。
何一つ、失わずに済むとは思えない。
それでも湊一は、皆をすでに失った者のように見ることだけはやめた。
妻が生きたという未来は、まだ説ではない。
今ここから、生きる者たちが作る道だった。
誰も、ご武運をとは言わなかった。
誰も、最後とは言わなかった。
湊一も、必ず帰るとは約束しなかった。
ただ、妻から受け取った握り飯の包みを、懐の上から確かめた。
二つの結び目は、まだ温かかった。
「父上」
三男が呼んだ。
湊一はすぐに答えた。
「ここにいる」
三男が頷く。
小さき湯番は、何も言わずに父の足元を見た。
戻った時、その足を洗うつもりなのだろう。
妻は、湊一の袖へ目を向けた。
もう米粒はついていない。
白那だけが、いつものように不機嫌そうな顔をしている。
「殿」
左近が呼ぶ。
城門の向こうで、出立の太鼓を打つ者が撥を上げている。
「参りましょう」
「ああ」
湊一は一歩、兵たちの方へ進んだ。
その時。
古井戸の方角から、鈴の音が聞こえた。
ちりん。
一度だけ。
危険を知らせる三度の音ではない。
道の安全を伝える二度の音でもない。
白那が、水の中から返事をする時の音だった。
朝日に照らされた白い湯気を、鈴の音が静かに横切っていく。
家族を守る。
領民を守る。
家臣を守る。
白那を守る。
そして、自分自身も、最初から死んだ者の数へ入れない。
湊一は振り返らなかった。
振り返らなくても、どこに帰ればよいか分かっていた。
関ヶ原まで、あと三十九日。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
第39湯では、湊一が三成の記憶を「史実どおり死ぬための道しるべ」ではなく、「今度こそ大切な者を守るための声」として受け止め直しました。
本作では、三成の妻は関ヶ原後も生き延び、洛中を経て会津へ移ったとする生存説を物語上の設定として採用しています。湊一たちが作った水の道が、その未来へつながっていきます。
家族を守る。領民を守る。家臣を守る。そして、自分自身も守る。
「必ず帰る」とは約束できなくても、初めから死んだ者の数には入らない。それが、白那と交わした約束です。
次回、第40湯「左近、死地へ向かう」。
佐和山を離れる一行へ、白那が小さな水袋を託します。




