第三十八湯 湯は沸いている。されど戦は来る。
佐和山へ届いた、出陣の命。
これは関ヶ原前夜ではなく、西軍諸隊と合流するための最初の出陣支度です。
千人の声が一つになる高揚の中で、湊一は一人ずつの名を見失う怖さを知ります。
第三十八湯 湯は沸いている。されど戦は来る。
湯は、沸いていた。
朝湯の客が来るより先に、戦の使者が来た。
飯も、炊けていた。
握り飯が一つ出来上がるより先に、出陣の命が城内を駆け巡った。
◇
古井戸の祠へ鈴を結んだ翌朝。
小さき湯番は、湯場の入口に立っていた。
朝湯の支度が整い、いつものように腰へ手を伸ばす。
だが、そこに鈴はない。
自分の鈴は、もう古井戸の祠にある。
「何をぼんやりしておる」
足元の籠から、白那の声が飛んだ。
水の道をひらくために大きな力を使った白那は、まだ普段よりも幼い姿をしている。
布を重ねた籠へ座り、手拭いにくるまっていた。
本人は「水守の御座じゃ」と言い張っているが、どう見ても湯冷めを恐れて包まれた幼子だった。
「鈴を取ろうとしてしまいました」
「鈴がなければ、声を出せばよかろう」
「はい」
「返事だけは立派よな」
小さき湯番は、湯場の柱に下がる別の鈴の紐を握った。
ちりん、ちりん。
二度続けて鳴らす。
湯加減が整った合図である。
「朝湯の支度ができました!」
澄んだ声が、白い湯気の中へ響いた。
その直後だった。
城門の方角から、馬の蹄が聞こえた。
速い。
坂道を休まず、駆け上がってくる。
小さき湯番が振り返る。
白那も籠の中で顔を上げた。
「朝から騒がしい馬よな」
蹄の音が止まる。
続いて、門番の声が飛んだ。
「急使にございます!」
「西軍諸隊より、急ぎの報せ!」
湯場にいた者たちの手が止まった。
薪を抱えた者。
桶へ湯を汲んでいた者。
濡れた床を拭いていた者。
誰もが、城門の方角を見る。
「手を止めるでない」
白那が言った。
「白那さま?」
「報せを見たところで、湯が勝手に沸くものか」
小さき湯番は、湯場の鈴を握り直した。
「皆さま、お手を止めないでくださいませ!」
声を張る。
「お湯が熱くなりすぎてしまいます!」
湯番たちが我に返った。
薪を一本、火から外す。
水を足す。
桶を並べ直す。
湯場が、再び動き始めた。
◇
急使が運んできた文には、西軍諸隊へ出陣の支度を整えるよう記されていた。
出立の刻が定まった。
兵をまとめよ。
武具を改めよ。
兵糧を用意せよ。
明朝以降、いつでも佐和山を発てるよう備えよ。
これは、関ヶ原へ向かう最後の出陣ではない。
決戦の地も、その日も、まだ誰にも見えていなかった。
西軍諸隊と合流するため、佐和山を離れる。
これから続く長い戦の、最初の一歩だった。
文を読み終えた湊一は、しばらく顔を上げられなかった。
来ると分かっていた。
伏見城が落ちた時から。
西と東の間で文が飛び交い、諸将がそれぞれの旗の下へ集まり始めた時から。
佐和山へ、この日が来ることは分かっていた。
それでも、紙の上へ書かれた「出陣」の二文字は重かった。
「殿」
向かいに座る島左近が呼んだ。
「ご命令を」
部屋には、すでに近習や各組の頭が集まっている。
武具蔵を任されている者。
兵糧を管理する者。
馬の世話をする者。
荷駄をまとめる者。
皆が、湊一の言葉を待っていた。
「何人、動かせる」
「今すぐであれば、七百ほど」
組頭の一人が答える。
「明朝まで猶予があれば、さらに三百は整えられます」
「槍と弓は」
「槍は足ります。弓は弦を替えねばならぬものが二十七張り」
「馬は」
「長く走らせられるものが百二十。蹄を傷めているものが八頭おります」
「その八頭は残せ」
「されど、荷駄に回せば――」
「蹄を傷めた馬へ、さらに荷を背負わせるな。佐和山へ残る者が使えばいい」
湊一は文を畳んだ。
「出陣する者は、全員、湯場を通せ」
組頭たちの顔が上がる。
「湯場を?」
「ああ」
「今から千人近くを、湯へ入れるのでございますか」
「全員を湯船へ入れろとは言っていない。足を洗わせろ。腫れや傷を隠していないか、湯番に見せるんだ」
「武具を整える方が先では」
「歩けない者に槍を持たせて、どこへ連れていく」
組頭が言葉を失う。
「草鞋も改めろ。紐が切れかけている者には新しいものを渡す。熱のある者や、足を傷めている者は、荷駄か城の守りへ回せ」
「戦から外せば、臆病者と申す者も出ましょう」
「言わせておけ」
左近が低く笑った。
「戦支度の最初が足洗いとは、殿らしい」
「褒めているのか」
「さて」
左近は立ち上がった。
「聞いたとおりじゃ! 各組、湯場を通ってから武具を取れ!」
「はっ!」
「足を見られるのが恥ずかしい者は、戦場で転んで、もっと大きな恥をかけ!」
組頭たちが部屋を飛び出していく。
「それから」
湊一は、その背へ声をかけた。
「飯場へ、握り飯を増やすよう伝えてくれ」
「兵の分でございますな」
「兵だけではない。馬を引く者、荷を運ぶ者、道を直す者、傷ついた者を運ぶ者の分もだ」
「城へ残る者は」
「同じだ」
「出陣なさる方々と、同じものを?」
「城を守る者が腹を空かせてどうする。湯を沸かす者も、飯を炊く者も食べる」
組頭が深く頭を下げた。
「承知いたしました」
足音が廊下を走る。
武具蔵の戸が開く。
馬屋から、馬を引き出す声が聞こえる。
飯場へ、米俵が運ばれていく。
佐和山全体が、大きく息を吸い込むように動き始めた。
◇
「その草鞋を、お脱ぎくださいませ」
小さき湯番が、若い足軽を止めた。
「急いでおるのだ」
「右のお足を、かばっておられます」
「何ともない」
「では、脱げますね」
足軽の顔が強張った。
「今、組から外されては困る」
「困る?」
「今度が初陣なのだ」
若者は、まだ少年の面影を残していた。
「槍働きをすれば、母も喜ぶ。父にも、ようやく一人前だと――」
「戦場へ着く前に歩けなくなっても、喜ばれるのですか」
娘に尋ねられ、足軽は黙った。
「触るぞ」
白那の声が飛ぶ。
「無理に脱がせれば傷が開く。先に湯をかけよ」
「はい、白那さま」
「水守殿まで……」
「黙れ。小娘に見抜かれて、まだ隠すか」
小さき湯番が、草鞋の上からぬるい湯をかける。
固くなった紐を、少しずつ緩めた。
草鞋を脱がせると、踵の皮が破れ、血と泥がこびりついている。
傷を洗い、清潔な布を巻く。
新しい草鞋を履かせる間も、足軽は槍を手放さなかった。
「戻ってこられた時も、必ずお足を見せてくださいませ」
「戻った時も?」
「行きより、帰りの方がお疲れでございましょう?」
足軽は、槍を握ったまま娘を見た。
「帰れるかは、分からぬぞ」
「では、帰ってから考えます」
「何をだ」
「どのお湯で、お足を洗うかです」
足軽の強張った顔に、わずかな笑みが浮かんだ。
「分かった。戻った時は、おぬしに頼もう」
「お約束でございます」
足軽は立ち上がった。
一歩。
もう一歩。
先ほどまでのように、片足を引きずってはいない。
「かたじけない。小さき湯番殿」
「殿は要りませぬ」
「妾には要る」
白那が口を挟む。
「水守殿にも、かたじけない」
「うむ。生きて戻れば、礼の供物を受け取ってやる」
「団子でよろしいか」
「なぜ分かった!」
足軽が声を立てて笑う。
だが、武具蔵へ向かう背中は、まだ少し震えていた。
湯場には、次々と兵が来る。
足に豆を作った者。
肩の腫れを隠していた者。
熱があるのに平気だと言い張る者。
若い者は、初陣の話を大声で語った。
古参兵は、それを笑いながら聞いている。
だが、古参兵の多くは、予備の草鞋を二足ずつ持っていた。
出陣を待ちきれぬ声。
帰れぬかもしれぬと知る目。
湯気の中に、高揚と不安が入り交じっていた。
◇
城の奥では、妻が女たちをまとめていた。
「握り飯は、強く握りすぎないでください。歩きながらでも食べられるよう、小さめに」
「こちらは塩を多くいたしますか」
「汗をかく者の分だけに。傷ついた方や、城へ残る幼子には辛すぎます」
妻は握り飯を二つ、油紙へ包んだ。
一度、紐を結ぶ。
その上から、もう一度結んだ。
「奥方様」
隣にいた女が尋ねる。
「そちらだけ、結び目が二つございます」
妻の手が止まる。
包みには、湊一の名が書かれていた。
「……ほどけては困りますから」
それだけ答え、妻は包みを脇へ置いた。
「殿へは、明日の朝餉の席でお渡しします」
明朝。
家族と同じ膳を囲んだ後に。
妻は次の握り飯へ手を伸ばした。
その近くでは、三男が木札を並べていた。
「母上。こちらの組は十八人でございます」
「十八人、揃っていますか」
三男は木札へ書かれた名を、一つずつ読む。
「一人、足りませぬ」
「誰です」
「馬屋の弥助です」
「どこにいるか分かりますか」
「確かめてまいります」
三男が立ち上がる。
その時、飯場の前を幼い子どもたちが駆け抜けようとした。
「走るな!」
三男が声を張る。
子どもたちが驚いて足を止めた。
「兵の通る道へ出てはならぬ。俺が一緒に行く」
三男は腰の刀へ手を置いた。
それから、少し考える。
刀を外し、妻へ差し出した。
「母上。これを、しばらくお預かりください」
「よいのですか」
「右手でこの子を。左手で、あの子を連れていきます」
子どもたちが、三男の両手を握る。
「兄上。刀は持たないのですか」
小さき湯番が、湯場から顔を出して尋ねた。
「今は、この手がふさがっている」
三男は少し照れたように答えた。
「刀より、こちらが俺の役目だ」
幼い者たちの名を、一人ずつ呼ぶ。
返事を確かめる。
「兄上も、数へ入っておりますか」
「俺も?」
「白那さまが、自分の手も数へ入れよとおっしゃいました」
三男は、自分の両手を見た。
その手は、幼い者たちに握られている。
「ああ。俺もいる」
「では、皆さまお揃いでございます」
小さき湯番が笑う。
三男も笑った。
妻は預かった刀を、部屋の隅へ静かに置いた。
◇
昼を過ぎた頃。
城門の前へ、村人たちが集まり始めた。
最初に来たのは、腰の曲がった老人だった。
背中には、草鞋を詰めた大きな籠を背負っている。
「城から集めるよう、命は出ておりませぬ」
門番が言った。
「知っておる」
老人は、籠を地面へ下ろした。
「ならば、なぜ」
「兵が歩けば、草鞋は切れる」
「それは、そうですが」
「切れた時に履くものがなければ、帰ってこられんじゃろう」
老人の後ろには、布を抱えた女たちがいた。
古い着物をほどき、洗い、細く裂いた布である。
「傷へ巻くものです」
「新しい布ではございませぬが、煮て、よく干してあります」
若い農夫は、干し飯の包みを荷車へ積んできた。
「こちらは年貢ではございません」
「では、何だ」
「持ってきたい者が、持ってきた分です」
知らせを受け、湊一が城門まで下りる。
そこには、すでに長い列ができていた。
草鞋。
布。
干し飯。
梅干し。
薪。
水筒。
荷を縛る縄。
どれも豪華なものではない。
それでも、戦場で失えば困るものばかりだった。
「誰が、これを集めた」
湊一が尋ねる。
「誰がということもございません」
村の女が答えた。
「佐和山から兵が出ると聞きましたので」
「持ち出せば、村の分が減る」
「全部ではございません」
女は布の束を持ち上げた。
「以前、うちの息子が怪我をした時、こちらの湯で傷を洗っていただきました」
「覚えている」
「あの子は今も、畑へ出ております。その時に使っていただいた布を、お返しするだけです」
「これは返すという量ではない」
「では、先に預けておきます」
女は少し笑った。
「今度は、帰ってくる方へお使いください」
腰の曲がった老人が、草鞋を一足差し出した。
「勝って帰る者だけではないぞ」
「ああ」
「負けて、裸足で逃げてくる者もおる」
門番たちが息を呑む。
だが老人は、湊一から目をそらさなかった。
「そのような者へも、この草鞋を渡してくだされ」
「逃げた兵へも、か」
「逃げねば帰れぬ時もありましょう」
老人の手は、藁と縄で傷だらけだった。
「死んだ者に、草鞋は履けませぬ」
湊一は、草鞋を両手で受け取った。
左右で、わずかに大きさが違う。
不揃いだった。
飾りもない。
それでも、鼻緒は簡単に切れぬよう何度も編み込まれている。
「ありがたく、預かる」
湊一が頭を下げると、村人たちがどよめいた。
「殿、お顔をお上げください」
「頭を下げられるようなことでは」
「いや」
湊一は頭を下げたまま答えた。
「命じてもいないのに、持ってきてくれたものだ。頭くらい下げさせてくれ」
その後ろで、左近が黙って村人たちを見ていた。
老人が草鞋を渡す。
女たちが布を積む。
若者が荷車から干し飯を下ろす。
城の者と村の者が、誰の命令も待たずに品を分け、運ぶ場所を決めていく。
「殿」
左近が低く呼んだ。
「何だ」
「これは、いつお命じになったのでございます」
「命じていない」
「では、なぜ皆が」
「俺にも分からない」
「分からぬと申されるか」
「ああ」
湊一は、積み上がっていく草鞋を見た。
「湯へ来た者の名を呼んだ。腹を空かせた者へ飯を出した。傷を洗い、帰る道を考えた。それだけだ」
「それだけ、でございますか」
「それ以上のことは、していない」
左近は、草鞋を一足手に取った。
大きな左近の足には、少し小さい。
「殿」
「何だ」
「城とは、石垣の内へ兵を集めるものだと思っておりました」
「違うのか」
「今は」
左近は、不揃いな草鞋を見つめた。
「帰ってくる者を待つ場所のように見えます」
◇
夕刻前。
城下を見回っていた近習が、一枚の紙を持ち帰った。
「殿。街道沿いに、これが幾つも落ちております」
紙には、乱れた文字でこう書かれていた。
石田治部は、戦う前から敗北を恐れている。
兵糧を隠し、井戸の下へ逃げ穴を掘った。
兵には死ねと命じながら、己の妻子だけを逃がすつもりである。
紙を結んでいた紐には、黒い羽根が一本挟まっていた。
「古井戸のことまで、知られておりますな」
左近の声が低くなる。
「先日、井戸を探っていた人足姿の男が、見たことを持ち帰ったのだろう」
「では、あの男が書いたので?」
「いや」
湊一は、黒い羽根を抜いた。
「あれは黒羽の手の者にすぎない」
「では、噂を仕立てたのは」
「その先にいる黒羽だ」
見た事実へ、嘘を少し混ぜる。
古井戸の修繕は、逃げ穴を掘るため。
分散した兵糧は、三成が隠したもの。
傷へ巻く布も、帰りの草鞋も、敗北を恐れた証。
すべてが、違う意味へ変えられていた。
「男の顔は分かりますか」
「分かりませぬ」
近習が答える。
「ならば、また別の顔で来る」
「噂を打ち消す文を出しましょう」
左近が言った。
「井戸の修繕は火事への備え。兵糧は出陣する兵のため。布と草鞋は、傷ついた者へ渡すもの。村々へ正しいことを知らせれば――」
「出さない」
「なぜでございます」
「正しい文を一枚出す間に、嘘の文は三枚になる」
「されど、黙っておれば、これが真実だと思われますぞ」
「ああ」
「殿」
「文を書く者も、馬を走らせる者も、今は要る」
湊一は紙を畳んだ。
「その馬で塩を運べる。その手で、握り飯を包める。俺の名を守るために使う余裕はない」
「逃げ支度と笑われても?」
水の落ちる音がした。
ぽたり。
部屋の隅に置かれた籠から、白那が顔を出した。
手には、小さな握り飯がある。
「白那。それをどこから取った」
「取ったとは何事じゃ。兵へ渡す飯に毒がないか、水守が確かめてやっておる」
「それは二つ目だろう」
「二つ目にも毒が入っておるやもしれぬ」
「一つ目と同じ桶の飯だぞ」
「米粒ごとに毒が違うやもしれぬであろう!」
白那は握り飯をひとかじりした。
今の小さな口には、半分ほどの握り飯でも大きい。
両手で抱えたまま、左近へ顔を向ける。
「髭男」
「わしにございますか」
「ほかに、そのような暑苦しい髭がおるか」
「何でございましょう、水守殿」
「逃げ道を作る者を臆病者と笑うのは、帰る場所を持たぬ者よ」
左近の目が細くなる。
「帰る場所を持たぬ者……」
「待つ者が、どれほど長く湯を沸かし続けるか知らぬのじゃ」
白那は尊大に顎を上げた。
「帰り道とは、逃げる者だけが使うものではない。探しに行く者も、迎えに行く者も使う」
「されど、水守殿。噂を信じる者は多うございます」
「信じたければ、信じさせておけ」
「随分と乱暴でございますな」
「水は、己が澄んでおると触れ回らぬ」
白那は握り飯を、もうひとかじりした。
「飲んだ者が知ればよい」
そのまま飲み込もうとして、小さな喉が止まる。
白那の目が見開かれた。
「白那さま?」
小さき湯番が駆け寄ってくる。
「お喉に詰まりましたか」
「ち、違う!」
「お水を」
「要らぬ!」
「お顔が赤うございます」
「この飯が、水守への畏れを忘れ、勝手に大きくなっただけじゃ!」
「握り飯は大きくなりません」
「口答えするでない!」
娘が湯呑みを差し出す。
白那はしばらく睨んでいたが、やがて両手で受け取った。
「そなたが、そこまで申すなら飲んでやる」
「お願いいたします」
白那は水を一口飲んだ。
小さな喉が動く。
ようやく息を吐いた。
「次は、もう少し小さく握ります」
「妾を幼子扱いするでない!」
「では、今と同じ大きさで?」
「……水守へ供える物は、食べやすく作るのが礼儀であろう」
「小さくするのでございますね」
「妾が申す前に決めるでない!」
左近が声を立てて笑った。
張りつめていた部屋の空気が、少しだけ緩む。
湊一は、黒い羽根を紙ごと火へ入れた。
逃げ支度。
臆病者。
敗北を恐れる男。
文字は、炎の中へ消えていく。
だが、噂そのものが消えたわけではない。
噂は残る。
悪名も残る。
それでも、握り飯も残る。
布も。
草鞋も。
帰る道も残る。
「支度を続けよう」
湊一は言った。
「はっ」
左近が、迷わず頭を下げた。
◇
日が西へ傾いた頃。
佐和山の麓へ、出陣する兵たちが集められた。
これは出陣そのものではない。
まして、関ヶ原決戦を明日に控えた最後の軍議でもない。
西軍諸隊との合流へ向け、隊列、人数、武具、馬、荷駄を確かめるための点呼だった。
だが、並ぶ兵たちの顔は、すでに戦場へ向いていた。
鎧が夕日を弾く。
槍の穂先が光る。
馬が鼻を鳴らし、地面を蹴る。
若い足軽たちは、互いの武具を見比べて笑っていた。
笑い声は大きい。
だが、先ほど湯場で足を洗った若者は、槍の紐を結び直していた。
一度。
二度。
三度。
それでも、指の震えは止まらなかった。
古参兵は、若者の肩を叩いた。
「そのように固く結べば、いざという時にほどけぬぞ」
「分かっております」
「分かっておる者は、三度も結び直さぬ」
「手が、少し冷えただけです」
「そういうことにしておこう」
古参兵は笑った。
その腰には、予備の草鞋が二足下がっていた。
城門の内側では、妻や女たちが並んでいる。
誰も「ご武運を」とは口にしない。
ただ、兵糧の包みを渡す。
紐を確かめる。
曲がった襟を直す。
外れかけた緒を結び直す。
妻は、結び目を二つ作った包みを胸元へ抱えていた。
それを湊一へ渡すのは、明朝。
同じ膳を囲んだ後である。
三男は幼い者たちと一緒に、列から離れた場所へ立っている。
右手と左手を、それぞれ小さな手に握られていた。
「父上も、出ていかれるのですか」
子どもの一人が尋ねる。
「ああ」
「帰ってきますか」
三男は答えようとした。
だが、声が出ない。
代わりに、握られた小さな手を握り返した。
「帰る道はある」
それだけ答えた。
小さき湯番は白那の籠を抱え、城門の脇へ立っていた。
兵の多さに驚き、いつものように腰へ手を伸ばす。
そこに鈴はない。
「何をしておる」
籠の中から、白那が尋ねる。
「少しだけ、心細くなりました」
「鈴がなくとも、そなたの声は出るであろう」
「はい」
「ならば、背を丸めるでない」
白那の声も、いつもより少し固かった。
「白那さまも、怖いのでございますか」
「誰がじゃ!」
最初の太鼓が鳴った。
どん。
白那の肩が、わずかに跳ねる。
「驚かれましたか」
「この籠が、勝手に揺れたのじゃ!」
「わたしは動いておりません」
「太鼓が無礼にも、妾の籠を揺らしたのじゃ!」
二度目の太鼓。
どん。
白那の小さな手が、娘の袖をつかむ。
「白那さま?」
「妾が落ちぬよう、そこを持っておれ」
「はい」
「離すでないぞ」
「はい」
小さき湯番は白那の手を包んだ。
白那は文句を言わなかった。
「旗を上げよ!」
左近の声が響いた。
風を受け、大旗が上がる。
大一大万大吉。
夕日を背に、白い旗が佐和山の上へ翻った。
兵たちの顔から笑いが消える。
槍を立てる。
弓を背負う。
手綱を握る。
千人近い者たちが、左近の次の言葉を待った。
「佐和山勢!」
左近が刀を掲げた。
「応えよ!」
「おおっ!」
兵たちの声が、山を揺らした。
槍の石突きが、一斉に地面を打つ。
どん。
大地が鳴る。
馬がいななく。
旗が風をはらむ。
空気そのものが震えていた。
その声を受けた瞬間。
湊一の胸が、熱くなった。
これほどの者が、自分の命令を待っている。
これほどの槍が、自分の指す方角へ進む。
これほどの声が、石田三成の名の下で一つになる。
恐ろしいほど、心地よかった。
これは石田三成の記憶が感じた昂りだと、思いたかった。
武将として生きてきた身体に残る、戦場への熱なのだと。
だが違った。
白瀬湊一の心臓も、同じように激しく鳴っていた。
誰かが死ぬ。
そのことを知っているのに。
未来を変えられなければ、この中の多くが帰らないと知っているのに。
千人の声に、自分も心を奪われかけていた。
「もう一度!」
左近の号令が飛ぶ。
「おおっ!」
声が重なる。
一つになる。
誰の声か、分からなくなる。
湊一は、兵たちの顔を見た。
最初に見えたのは、軍勢だった。
槍。
鎧。
旗。
馬。
だが目を凝らす。
初陣の若者がいる。
槍を握る手が震えている。
家族の立つ城門を、何度も振り返る男がいる。
予備の草鞋を二足下げた古参兵がいる。
熱を隠し、列から外されたことを悔しがる者がいる。
馬の首を撫で続ける小者がいる。
皆、それぞれに名を持っていた。
家族がいる。
食べたい飯がある。
帰りたい場所がある。
声が一つになれば、一人ずつの名が聞こえなくなる。
湊一は、それが怖かった。
「点呼を始めよ!」
左近の声が飛ぶ。
組頭が、一人ずつ名を呼ぶ。
「源左衛門!」
「ここに!」
「弥助!」
「おります!」
「市兵衛!」
「はっ!」
一つずつ。
声が返る。
同じ「おお」という大音声ではない。
少し高い声。
低い声。
震える声。
張り切りすぎた声。
一人ずつ違う返事だった。
湊一の胸にあった熱が、少しずつ人の形へ戻っていった。
◇
すべての点呼が終わる頃には、日は山の向こうへ沈みかけていた。
左近が湊一の前へ進み、膝をつく。
「出陣の支度、整い申した」
兵たちが静まる。
「殿」
左近が顔を上げる。
「皆へ、お言葉を」
千人近い目が、湊一へ向いた。
勝つと叫べば、応えるだろう。
敵を討てと命じれば、槍を掲げるだろう。
石田三成のために死ねと告げても、この熱の中ならば声は一つになる。
湊一は息を吸った。
「今夜は、飯を食え」
兵たちが目を瞬いた。
「殿?」
「足を洗え。傷のある者は、もう一度湯番に見せろ」
列の端から、小さな笑いが漏れる。
「眠れる者は眠れ。武具を抱えたまま朝を迎えるな」
笑いが少しずつ広がった。
張りつめていた肩から、力が抜けていく。
「明日のことは、明日命じる」
湊一は兵たちを見渡した。
「今夜のお前たちの役目は、飯を食い、身体を休めることだ」
しばらく、誰も声を出さなかった。
やがて、先ほどの若い足軽が声を上げた。
「承知いたしました!」
今度の声も震えていた。
だが、無理に大きくはなかった。
古参兵が続く。
「殿のご命令だ! 飯を食い尽くすぞ!」
「お前は食いすぎるな!」
兵たちから笑い声が上がった。
「各組、戻れ!」
左近が命じる。
整っていた隊列が、少しずつ解けていく。
槍を肩へ担ぐ者。
馬を引いて馬屋へ戻る者。
握り飯を受け取りに行く者。
湯場へ向かう者。
千人の軍勢が、一人ずつの人間へ戻っていった。
左近は、その様子をしばらく見ていた。
「勇ましいお言葉を、皆が待っておりましたぞ」
「明日になれば、嫌でも勇ましくなる」
「飯を食えとは」
「腹を空かせて戦へ行くよりいい」
「足を洗え、とも」
「草鞋が血だらけでは歩けない」
「まこと、殿らしい」
「今度は褒めているのか」
「さて」
左近は笑った。
だが、その笑みはすぐに消えた。
「殿」
「何だ」
「先ほどの声を、どう思われました」
湊一は、すぐには答えなかった。
「怖かった」
「千人の兵が揃ったことが?」
「心地よいと思ったことがだ」
左近が湊一を見る。
「一つになった声を聞けば、何でもできるような気がした」
「兵を率いる者ならば、誰しも覚える熱にございます」
「だから怖い」
湊一は、湯場へ向かう兵たちの背中を見た。
「一つの声になれば、一人足りなくても分からない」
左近は何も言わなかった。
しばらくして、不揃いな草鞋が積まれた場所へ目を向ける。
「ならば、名を呼び続けるしかございませぬな」
「ああ」
「一人ずつ」
「ああ」
左近は深く頭を下げた。
「心得ました」
◇
夜。
最後の兵が湯場から出た後も、大釜の火は消されなかった。
湯番が灰を整え、朝までもつよう太い薪を一本入れる。
白い湯気が、天井へ昇っていく。
昼間、山を揺らした声は、もう聞こえない。
太鼓も止んでいた。
聞こえるのは、湯の流れる音。
桶を重ねる音。
遠くの飯場で、釜の蓋を閉める音だけだった。
湊一は一人、湯場の入口に立っていた。
「また、辛気臭い顔をしておる」
足元から白那の声がした。
小さな白那が籠から下り、湯場の柱につかまって立っている。
「一人で歩けるのか」
「妾を幼子扱いするでない」
「手を貸そうか」
「要らぬ」
白那が一歩進む。
身体が傾く。
湊一が手を出そうとすると、白那は素早くその指をつかんだ。
「そなたが、どうしても支えたいと申すなら、仕方あるまい」
「俺は何も言っていない」
「顔が申しておる」
「便利な顔だな」
「細かいことを申すでない」
白那は湊一の指につかまり、湯場へ入った。
湯船の縁へ座る。
小さな足を、湯気の中へぶら下げた。
「千の声は、どうであった」
「聞いていたのか」
「佐和山の水すべてが震えておった。嫌でも聞こえる」
「白那も、太鼓に驚いていたな」
「驚いておらぬ!」
「小さき湯番の袖をつかんでいただろう」
「あの小娘が、妾から離れまいとするゆえ、仕方なくつかませてやったのじゃ!」
「逆に見えたが」
「見間違いじゃ!」
白那は湯面を蹴った。
小さな水滴が、湊一の足へ飛ぶ。
「それより、そなたも昂ぶっておったであろう」
湊一は答えなかった。
「隠しても無駄じゃ。水音は、嘘をつかぬ」
「心地よかった」
湊一は認めた。
「あれほど大勢の声が、自分へ向けられることが」
「そうであろうな」
「怒らないのか」
「なぜじゃ」
「誰かが死ぬと知りながら、俺は――」
「湯も、熱くなければ人を温められぬ」
白那は足元の湯を見た。
「されど、熱が過ぎれば人を煮る」
「戦の高揚も同じか」
「熱を持つことが悪いのではない」
白那は尊大に顎を上げた。
「加減を忘れる者が、愚かなのじゃ」
湯口から落ちる水が、湯船へ小さな輪を作る。
「群れの声は大きい」
白那が言った。
「されど、帰ってくる者の足音は一つずつじゃ」
「一つずつ……」
「千人を待つのではない。一人を千度待つのじゃ」
湊一は、昼間の兵たちの顔を思い出した。
初陣の若者。
古参兵。
馬を引く小者。
名を呼ばれ、返事をした者たち。
「昔」
湊一は言った。
「湯は沸いているのに、客が来なかった」
「白峰とやらか」
「ああ」
「今は、大勢おるではないか」
「明日には出ていく」
「そうじゃな」
「帰ってこない者もいる」
「そうであろうな」
白那は慰めなかった。
嘘でも皆帰るとは言わなかった。
「客ではない」
「何が」
「明日、ここを出る者たちじゃ」
「では、何だ」
「帰る者よ」
「まだ出てもいないぞ」
「愚か者」
白那は小さな鼻を鳴らした。
「帰り道とは、出てから探すものではない」
遠くで、夜番の太鼓が一度だけ鳴った。
どん。
出陣の太鼓ではない。
明朝、佐和山を離れる者たちへ、夜の刻を知らせる音だった。
湯場の外では、最後の見回りをする足音が聞こえる。
小さき湯番が、湯場の鈴を二度鳴らした。
ちりん、ちりん。
朝まで湯を保つため、最後の湯加減を確かめた合図だった。
さらに遠く。
古井戸の祠からも、鈴の音が一度だけ届いた。
ちりん。
風が鳴らしたのか。
水が鳴らしたのか。
誰にも分からない。
白那だけが、わずかに笑った。
「聞こえたか、若旦那」
「ああ」
「ならば覚えておけ」
白那は湯気の向こうで胸を張った。
「戦の音より先に、この鈴が鳴っておったことをな」
昼には、千人の声が佐和山を揺らした。
今、聞こえるのは湯の沸く音と、帰る方角を知らせる鈴だけだった。
湊一は、大釜へ薪を一本足した。
火の粉が舞う。
白い湯気が、再び高く立ち上った。
明朝には、家族と同じ膳を囲む。
それを最後の朝餉だと、まだ誰も呼ばない。
湯は沸いている。
されど、戦は来る。
関ヶ原まで、あと四十日。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
戦へ向かう熱気に胸が高鳴ることも、残される家族が不安を抱くことも、どちらも偽りではありません。
だからこそ湊一は、軍勢を一つの大きな力として見るのではなく、一人ずつ名を呼び、帰る者として送り出そうとします。
第38湯は、関ヶ原まであと四十日。決戦前夜ではなく、長い戦へ踏み出す最初の出陣前夜です。
次回、第39湯「出陣の朝、湯気は白い」。
家族と囲む朝餉を、誰も最後の膳とは呼びません。




