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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第四章 勝つ支度ではなく、残す支度

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第三十八湯 湯は沸いている。されど戦は来る。

佐和山へ届いた、出陣の命。


これは関ヶ原前夜ではなく、西軍諸隊と合流するための最初の出陣支度です。


千人の声が一つになる高揚の中で、湊一は一人ずつの名を見失う怖さを知ります。

第三十八湯 湯は沸いている。されど戦は来る。


 湯は、沸いていた。


 朝湯の客が来るより先に、戦の使者が来た。


 飯も、炊けていた。


 握り飯が一つ出来上がるより先に、出陣の命が城内を駆け巡った。


     ◇


 古井戸の祠へ鈴を結んだ翌朝。


 小さき湯番は、湯場の入口に立っていた。


 朝湯の支度が整い、いつものように腰へ手を伸ばす。


 だが、そこに鈴はない。


 自分の鈴は、もう古井戸の祠にある。


「何をぼんやりしておる」


 足元の籠から、白那の声が飛んだ。


 水の道をひらくために大きな力を使った白那は、まだ普段よりも幼い姿をしている。


 布を重ねた籠へ座り、手拭いにくるまっていた。


 本人は「水守の御座じゃ」と言い張っているが、どう見ても湯冷めを恐れて包まれた幼子だった。


「鈴を取ろうとしてしまいました」


「鈴がなければ、声を出せばよかろう」


「はい」


「返事だけは立派よな」


 小さき湯番は、湯場の柱に下がる別の鈴の紐を握った。


 ちりん、ちりん。


 二度続けて鳴らす。


 湯加減が整った合図である。


「朝湯の支度ができました!」


 澄んだ声が、白い湯気の中へ響いた。


 その直後だった。


 城門の方角から、馬の蹄が聞こえた。


 速い。


 坂道を休まず、駆け上がってくる。


 小さき湯番が振り返る。


 白那も籠の中で顔を上げた。


「朝から騒がしい馬よな」


 蹄の音が止まる。


 続いて、門番の声が飛んだ。


「急使にございます!」


「西軍諸隊より、急ぎの報せ!」


 湯場にいた者たちの手が止まった。


 薪を抱えた者。


 桶へ湯を汲んでいた者。


 濡れた床を拭いていた者。


 誰もが、城門の方角を見る。


「手を止めるでない」


 白那が言った。


「白那さま?」


「報せを見たところで、湯が勝手に沸くものか」


 小さき湯番は、湯場の鈴を握り直した。


「皆さま、お手を止めないでくださいませ!」


 声を張る。


「お湯が熱くなりすぎてしまいます!」


 湯番たちが我に返った。


 薪を一本、火から外す。


 水を足す。


 桶を並べ直す。


 湯場が、再び動き始めた。


     ◇


 急使が運んできた文には、西軍諸隊へ出陣の支度を整えるよう記されていた。


 出立の刻が定まった。


 兵をまとめよ。


 武具を改めよ。


 兵糧を用意せよ。


 明朝以降、いつでも佐和山を発てるよう備えよ。


 これは、関ヶ原へ向かう最後の出陣ではない。


 決戦の地も、その日も、まだ誰にも見えていなかった。


 西軍諸隊と合流するため、佐和山を離れる。


 これから続く長い戦の、最初の一歩だった。


 文を読み終えた湊一は、しばらく顔を上げられなかった。


 来ると分かっていた。


 伏見城が落ちた時から。


 西と東の間で文が飛び交い、諸将がそれぞれの旗の下へ集まり始めた時から。


 佐和山へ、この日が来ることは分かっていた。


 それでも、紙の上へ書かれた「出陣」の二文字は重かった。


「殿」


 向かいに座る島左近が呼んだ。


「ご命令を」


 部屋には、すでに近習や各組の頭が集まっている。


 武具蔵を任されている者。


 兵糧を管理する者。


 馬の世話をする者。


 荷駄をまとめる者。


 皆が、湊一の言葉を待っていた。


「何人、動かせる」


「今すぐであれば、七百ほど」


 組頭の一人が答える。


「明朝まで猶予があれば、さらに三百は整えられます」


「槍と弓は」


「槍は足ります。弓は弦を替えねばならぬものが二十七張り」


「馬は」


「長く走らせられるものが百二十。蹄を傷めているものが八頭おります」


「その八頭は残せ」


「されど、荷駄に回せば――」


「蹄を傷めた馬へ、さらに荷を背負わせるな。佐和山へ残る者が使えばいい」


 湊一は文を畳んだ。


「出陣する者は、全員、湯場を通せ」


 組頭たちの顔が上がる。


「湯場を?」


「ああ」


「今から千人近くを、湯へ入れるのでございますか」


「全員を湯船へ入れろとは言っていない。足を洗わせろ。腫れや傷を隠していないか、湯番に見せるんだ」


「武具を整える方が先では」


「歩けない者に槍を持たせて、どこへ連れていく」


 組頭が言葉を失う。


「草鞋も改めろ。紐が切れかけている者には新しいものを渡す。熱のある者や、足を傷めている者は、荷駄か城の守りへ回せ」


「戦から外せば、臆病者と申す者も出ましょう」


「言わせておけ」


 左近が低く笑った。


「戦支度の最初が足洗いとは、殿らしい」


「褒めているのか」


「さて」


 左近は立ち上がった。


「聞いたとおりじゃ! 各組、湯場を通ってから武具を取れ!」


「はっ!」


「足を見られるのが恥ずかしい者は、戦場で転んで、もっと大きな恥をかけ!」


 組頭たちが部屋を飛び出していく。


「それから」


 湊一は、その背へ声をかけた。


「飯場へ、握り飯を増やすよう伝えてくれ」


「兵の分でございますな」


「兵だけではない。馬を引く者、荷を運ぶ者、道を直す者、傷ついた者を運ぶ者の分もだ」


「城へ残る者は」


「同じだ」


「出陣なさる方々と、同じものを?」


「城を守る者が腹を空かせてどうする。湯を沸かす者も、飯を炊く者も食べる」


 組頭が深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 足音が廊下を走る。


 武具蔵の戸が開く。


 馬屋から、馬を引き出す声が聞こえる。


 飯場へ、米俵が運ばれていく。


 佐和山全体が、大きく息を吸い込むように動き始めた。


     ◇


「その草鞋を、お脱ぎくださいませ」


 小さき湯番が、若い足軽を止めた。


「急いでおるのだ」


「右のお足を、かばっておられます」


「何ともない」


「では、脱げますね」


 足軽の顔が強張った。


「今、組から外されては困る」


「困る?」


「今度が初陣なのだ」


 若者は、まだ少年の面影を残していた。


「槍働きをすれば、母も喜ぶ。父にも、ようやく一人前だと――」


「戦場へ着く前に歩けなくなっても、喜ばれるのですか」


 娘に尋ねられ、足軽は黙った。


「触るぞ」


 白那の声が飛ぶ。


「無理に脱がせれば傷が開く。先に湯をかけよ」


「はい、白那さま」


「水守殿まで……」


「黙れ。小娘に見抜かれて、まだ隠すか」


 小さき湯番が、草鞋の上からぬるい湯をかける。


 固くなった紐を、少しずつ緩めた。


 草鞋を脱がせると、踵の皮が破れ、血と泥がこびりついている。


 傷を洗い、清潔な布を巻く。


 新しい草鞋を履かせる間も、足軽は槍を手放さなかった。


「戻ってこられた時も、必ずお足を見せてくださいませ」


「戻った時も?」


「行きより、帰りの方がお疲れでございましょう?」


 足軽は、槍を握ったまま娘を見た。


「帰れるかは、分からぬぞ」


「では、帰ってから考えます」


「何をだ」


「どのお湯で、お足を洗うかです」


 足軽の強張った顔に、わずかな笑みが浮かんだ。


「分かった。戻った時は、おぬしに頼もう」


「お約束でございます」


 足軽は立ち上がった。


 一歩。


 もう一歩。


 先ほどまでのように、片足を引きずってはいない。


「かたじけない。小さき湯番殿」


「殿は要りませぬ」


「妾には要る」


 白那が口を挟む。


「水守殿にも、かたじけない」


「うむ。生きて戻れば、礼の供物を受け取ってやる」


「団子でよろしいか」


「なぜ分かった!」


 足軽が声を立てて笑う。


 だが、武具蔵へ向かう背中は、まだ少し震えていた。


 湯場には、次々と兵が来る。


 足に豆を作った者。


 肩の腫れを隠していた者。


 熱があるのに平気だと言い張る者。


 若い者は、初陣の話を大声で語った。


 古参兵は、それを笑いながら聞いている。


 だが、古参兵の多くは、予備の草鞋を二足ずつ持っていた。


 出陣を待ちきれぬ声。


 帰れぬかもしれぬと知る目。


 湯気の中に、高揚と不安が入り交じっていた。


     ◇


 城の奥では、妻が女たちをまとめていた。


「握り飯は、強く握りすぎないでください。歩きながらでも食べられるよう、小さめに」


「こちらは塩を多くいたしますか」


「汗をかく者の分だけに。傷ついた方や、城へ残る幼子には辛すぎます」


 妻は握り飯を二つ、油紙へ包んだ。


 一度、紐を結ぶ。


 その上から、もう一度結んだ。


「奥方様」


 隣にいた女が尋ねる。


「そちらだけ、結び目が二つございます」


 妻の手が止まる。


 包みには、湊一の名が書かれていた。


「……ほどけては困りますから」


 それだけ答え、妻は包みを脇へ置いた。


「殿へは、明日の朝餉の席でお渡しします」


 明朝。


 家族と同じ膳を囲んだ後に。


 妻は次の握り飯へ手を伸ばした。


 その近くでは、三男が木札を並べていた。


「母上。こちらの組は十八人でございます」


「十八人、揃っていますか」


 三男は木札へ書かれた名を、一つずつ読む。


「一人、足りませぬ」


「誰です」


「馬屋の弥助です」


「どこにいるか分かりますか」


「確かめてまいります」


 三男が立ち上がる。


 その時、飯場の前を幼い子どもたちが駆け抜けようとした。


「走るな!」


 三男が声を張る。


 子どもたちが驚いて足を止めた。


「兵の通る道へ出てはならぬ。俺が一緒に行く」


 三男は腰の刀へ手を置いた。


 それから、少し考える。


 刀を外し、妻へ差し出した。


「母上。これを、しばらくお預かりください」


「よいのですか」


「右手でこの子を。左手で、あの子を連れていきます」


 子どもたちが、三男の両手を握る。


「兄上。刀は持たないのですか」


 小さき湯番が、湯場から顔を出して尋ねた。


「今は、この手がふさがっている」


 三男は少し照れたように答えた。


「刀より、こちらが俺の役目だ」


 幼い者たちの名を、一人ずつ呼ぶ。


 返事を確かめる。


「兄上も、数へ入っておりますか」


「俺も?」


「白那さまが、自分の手も数へ入れよとおっしゃいました」


 三男は、自分の両手を見た。


 その手は、幼い者たちに握られている。


「ああ。俺もいる」


「では、皆さまお揃いでございます」


 小さき湯番が笑う。


 三男も笑った。


 妻は預かった刀を、部屋の隅へ静かに置いた。


     ◇


 昼を過ぎた頃。


 城門の前へ、村人たちが集まり始めた。


 最初に来たのは、腰の曲がった老人だった。


 背中には、草鞋を詰めた大きな籠を背負っている。


「城から集めるよう、命は出ておりませぬ」


 門番が言った。


「知っておる」


 老人は、籠を地面へ下ろした。


「ならば、なぜ」


「兵が歩けば、草鞋は切れる」


「それは、そうですが」


「切れた時に履くものがなければ、帰ってこられんじゃろう」


 老人の後ろには、布を抱えた女たちがいた。


 古い着物をほどき、洗い、細く裂いた布である。


「傷へ巻くものです」


「新しい布ではございませぬが、煮て、よく干してあります」


 若い農夫は、干し飯の包みを荷車へ積んできた。


「こちらは年貢ではございません」


「では、何だ」


「持ってきたい者が、持ってきた分です」


 知らせを受け、湊一が城門まで下りる。


 そこには、すでに長い列ができていた。


 草鞋。


 布。


 干し飯。


 梅干し。


 薪。


 水筒。


 荷を縛る縄。


 どれも豪華なものではない。


 それでも、戦場で失えば困るものばかりだった。


「誰が、これを集めた」


 湊一が尋ねる。


「誰がということもございません」


 村の女が答えた。


「佐和山から兵が出ると聞きましたので」


「持ち出せば、村の分が減る」


「全部ではございません」


 女は布の束を持ち上げた。


「以前、うちの息子が怪我をした時、こちらの湯で傷を洗っていただきました」


「覚えている」


「あの子は今も、畑へ出ております。その時に使っていただいた布を、お返しするだけです」


「これは返すという量ではない」


「では、先に預けておきます」


 女は少し笑った。


「今度は、帰ってくる方へお使いください」


 腰の曲がった老人が、草鞋を一足差し出した。


「勝って帰る者だけではないぞ」


「ああ」


「負けて、裸足で逃げてくる者もおる」


 門番たちが息を呑む。


 だが老人は、湊一から目をそらさなかった。


「そのような者へも、この草鞋を渡してくだされ」


「逃げた兵へも、か」


「逃げねば帰れぬ時もありましょう」


 老人の手は、藁と縄で傷だらけだった。


「死んだ者に、草鞋は履けませぬ」


 湊一は、草鞋を両手で受け取った。


 左右で、わずかに大きさが違う。


 不揃いだった。


 飾りもない。


 それでも、鼻緒は簡単に切れぬよう何度も編み込まれている。


「ありがたく、預かる」


 湊一が頭を下げると、村人たちがどよめいた。


「殿、お顔をお上げください」


「頭を下げられるようなことでは」


「いや」


 湊一は頭を下げたまま答えた。


「命じてもいないのに、持ってきてくれたものだ。頭くらい下げさせてくれ」


 その後ろで、左近が黙って村人たちを見ていた。


 老人が草鞋を渡す。


 女たちが布を積む。


 若者が荷車から干し飯を下ろす。


 城の者と村の者が、誰の命令も待たずに品を分け、運ぶ場所を決めていく。


「殿」


 左近が低く呼んだ。


「何だ」


「これは、いつお命じになったのでございます」


「命じていない」


「では、なぜ皆が」


「俺にも分からない」


「分からぬと申されるか」


「ああ」


 湊一は、積み上がっていく草鞋を見た。


「湯へ来た者の名を呼んだ。腹を空かせた者へ飯を出した。傷を洗い、帰る道を考えた。それだけだ」


「それだけ、でございますか」


「それ以上のことは、していない」


 左近は、草鞋を一足手に取った。


 大きな左近の足には、少し小さい。


「殿」


「何だ」


「城とは、石垣の内へ兵を集めるものだと思っておりました」


「違うのか」


「今は」


 左近は、不揃いな草鞋を見つめた。


「帰ってくる者を待つ場所のように見えます」


     ◇


 夕刻前。


 城下を見回っていた近習が、一枚の紙を持ち帰った。


「殿。街道沿いに、これが幾つも落ちております」


 紙には、乱れた文字でこう書かれていた。


 石田治部は、戦う前から敗北を恐れている。


 兵糧を隠し、井戸の下へ逃げ穴を掘った。


 兵には死ねと命じながら、己の妻子だけを逃がすつもりである。


 紙を結んでいた紐には、黒い羽根が一本挟まっていた。


「古井戸のことまで、知られておりますな」


 左近の声が低くなる。


「先日、井戸を探っていた人足姿の男が、見たことを持ち帰ったのだろう」


「では、あの男が書いたので?」


「いや」


 湊一は、黒い羽根を抜いた。


「あれは黒羽の手の者にすぎない」


「では、噂を仕立てたのは」


「その先にいる黒羽だ」


 見た事実へ、嘘を少し混ぜる。


 古井戸の修繕は、逃げ穴を掘るため。


 分散した兵糧は、三成が隠したもの。


 傷へ巻く布も、帰りの草鞋も、敗北を恐れた証。


 すべてが、違う意味へ変えられていた。


「男の顔は分かりますか」


「分かりませぬ」


 近習が答える。


「ならば、また別の顔で来る」


「噂を打ち消す文を出しましょう」


 左近が言った。


「井戸の修繕は火事への備え。兵糧は出陣する兵のため。布と草鞋は、傷ついた者へ渡すもの。村々へ正しいことを知らせれば――」


「出さない」


「なぜでございます」


「正しい文を一枚出す間に、嘘の文は三枚になる」


「されど、黙っておれば、これが真実だと思われますぞ」


「ああ」


「殿」


「文を書く者も、馬を走らせる者も、今は要る」


 湊一は紙を畳んだ。


「その馬で塩を運べる。その手で、握り飯を包める。俺の名を守るために使う余裕はない」


「逃げ支度と笑われても?」


 水の落ちる音がした。


 ぽたり。


 部屋の隅に置かれた籠から、白那が顔を出した。


 手には、小さな握り飯がある。


「白那。それをどこから取った」


「取ったとは何事じゃ。兵へ渡す飯に毒がないか、水守が確かめてやっておる」


「それは二つ目だろう」


「二つ目にも毒が入っておるやもしれぬ」


「一つ目と同じ桶の飯だぞ」


「米粒ごとに毒が違うやもしれぬであろう!」


 白那は握り飯をひとかじりした。


 今の小さな口には、半分ほどの握り飯でも大きい。


 両手で抱えたまま、左近へ顔を向ける。


「髭男」


「わしにございますか」


「ほかに、そのような暑苦しい髭がおるか」


「何でございましょう、水守殿」


「逃げ道を作る者を臆病者と笑うのは、帰る場所を持たぬ者よ」


 左近の目が細くなる。


「帰る場所を持たぬ者……」


「待つ者が、どれほど長く湯を沸かし続けるか知らぬのじゃ」


 白那は尊大に顎を上げた。


「帰り道とは、逃げる者だけが使うものではない。探しに行く者も、迎えに行く者も使う」


「されど、水守殿。噂を信じる者は多うございます」


「信じたければ、信じさせておけ」


「随分と乱暴でございますな」


「水は、己が澄んでおると触れ回らぬ」


 白那は握り飯を、もうひとかじりした。


「飲んだ者が知ればよい」


 そのまま飲み込もうとして、小さな喉が止まる。


 白那の目が見開かれた。


「白那さま?」


 小さき湯番が駆け寄ってくる。


「お喉に詰まりましたか」


「ち、違う!」


「お水を」


「要らぬ!」


「お顔が赤うございます」


「この飯が、水守への畏れを忘れ、勝手に大きくなっただけじゃ!」


「握り飯は大きくなりません」


「口答えするでない!」


 娘が湯呑みを差し出す。


 白那はしばらく睨んでいたが、やがて両手で受け取った。


「そなたが、そこまで申すなら飲んでやる」


「お願いいたします」


 白那は水を一口飲んだ。


 小さな喉が動く。


 ようやく息を吐いた。


「次は、もう少し小さく握ります」


「妾を幼子扱いするでない!」


「では、今と同じ大きさで?」


「……水守へ供える物は、食べやすく作るのが礼儀であろう」


「小さくするのでございますね」


「妾が申す前に決めるでない!」


 左近が声を立てて笑った。


 張りつめていた部屋の空気が、少しだけ緩む。


 湊一は、黒い羽根を紙ごと火へ入れた。


 逃げ支度。


 臆病者。


 敗北を恐れる男。


 文字は、炎の中へ消えていく。


 だが、噂そのものが消えたわけではない。


 噂は残る。


 悪名も残る。


 それでも、握り飯も残る。


 布も。


 草鞋も。


 帰る道も残る。


「支度を続けよう」


 湊一は言った。


「はっ」


 左近が、迷わず頭を下げた。


     ◇


 日が西へ傾いた頃。


 佐和山の麓へ、出陣する兵たちが集められた。


 これは出陣そのものではない。


 まして、関ヶ原決戦を明日に控えた最後の軍議でもない。


 西軍諸隊との合流へ向け、隊列、人数、武具、馬、荷駄を確かめるための点呼だった。


 だが、並ぶ兵たちの顔は、すでに戦場へ向いていた。


 鎧が夕日を弾く。


 槍の穂先が光る。


 馬が鼻を鳴らし、地面を蹴る。


 若い足軽たちは、互いの武具を見比べて笑っていた。


 笑い声は大きい。


 だが、先ほど湯場で足を洗った若者は、槍の紐を結び直していた。


 一度。


 二度。


 三度。


 それでも、指の震えは止まらなかった。


 古参兵は、若者の肩を叩いた。


「そのように固く結べば、いざという時にほどけぬぞ」


「分かっております」


「分かっておる者は、三度も結び直さぬ」


「手が、少し冷えただけです」


「そういうことにしておこう」


 古参兵は笑った。


 その腰には、予備の草鞋が二足下がっていた。


 城門の内側では、妻や女たちが並んでいる。


 誰も「ご武運を」とは口にしない。


 ただ、兵糧の包みを渡す。


 紐を確かめる。


 曲がった襟を直す。


 外れかけた緒を結び直す。


 妻は、結び目を二つ作った包みを胸元へ抱えていた。


 それを湊一へ渡すのは、明朝。


 同じ膳を囲んだ後である。


 三男は幼い者たちと一緒に、列から離れた場所へ立っている。


 右手と左手を、それぞれ小さな手に握られていた。


「父上も、出ていかれるのですか」


 子どもの一人が尋ねる。


「ああ」


「帰ってきますか」


 三男は答えようとした。


 だが、声が出ない。


 代わりに、握られた小さな手を握り返した。


「帰る道はある」


 それだけ答えた。


 小さき湯番は白那の籠を抱え、城門の脇へ立っていた。


 兵の多さに驚き、いつものように腰へ手を伸ばす。


 そこに鈴はない。


「何をしておる」


 籠の中から、白那が尋ねる。


「少しだけ、心細くなりました」


「鈴がなくとも、そなたの声は出るであろう」


「はい」


「ならば、背を丸めるでない」


 白那の声も、いつもより少し固かった。


「白那さまも、怖いのでございますか」


「誰がじゃ!」


 最初の太鼓が鳴った。


 どん。


 白那の肩が、わずかに跳ねる。


「驚かれましたか」


「この籠が、勝手に揺れたのじゃ!」


「わたしは動いておりません」


「太鼓が無礼にも、妾の籠を揺らしたのじゃ!」


 二度目の太鼓。


 どん。


 白那の小さな手が、娘の袖をつかむ。


「白那さま?」


「妾が落ちぬよう、そこを持っておれ」


「はい」


「離すでないぞ」


「はい」


 小さき湯番は白那の手を包んだ。


 白那は文句を言わなかった。


「旗を上げよ!」


 左近の声が響いた。


 風を受け、大旗が上がる。


 大一大万大吉。


 夕日を背に、白い旗が佐和山の上へ翻った。


 兵たちの顔から笑いが消える。


 槍を立てる。


 弓を背負う。


 手綱を握る。


 千人近い者たちが、左近の次の言葉を待った。


「佐和山勢!」


 左近が刀を掲げた。


「応えよ!」


「おおっ!」


 兵たちの声が、山を揺らした。


 槍の石突きが、一斉に地面を打つ。


 どん。


 大地が鳴る。


 馬がいななく。


 旗が風をはらむ。


 空気そのものが震えていた。


 その声を受けた瞬間。


 湊一の胸が、熱くなった。


 これほどの者が、自分の命令を待っている。


 これほどの槍が、自分の指す方角へ進む。


 これほどの声が、石田三成の名の下で一つになる。


 恐ろしいほど、心地よかった。


 これは石田三成の記憶が感じた昂りだと、思いたかった。


 武将として生きてきた身体に残る、戦場への熱なのだと。


 だが違った。


 白瀬湊一の心臓も、同じように激しく鳴っていた。


 誰かが死ぬ。


 そのことを知っているのに。


 未来を変えられなければ、この中の多くが帰らないと知っているのに。


 千人の声に、自分も心を奪われかけていた。


「もう一度!」


 左近の号令が飛ぶ。


「おおっ!」


 声が重なる。


 一つになる。


 誰の声か、分からなくなる。


 湊一は、兵たちの顔を見た。


 最初に見えたのは、軍勢だった。


 槍。


 鎧。


 旗。


 馬。


 だが目を凝らす。


 初陣の若者がいる。


 槍を握る手が震えている。


 家族の立つ城門を、何度も振り返る男がいる。


 予備の草鞋を二足下げた古参兵がいる。


 熱を隠し、列から外されたことを悔しがる者がいる。


 馬の首を撫で続ける小者がいる。


 皆、それぞれに名を持っていた。


 家族がいる。


 食べたい飯がある。


 帰りたい場所がある。


 声が一つになれば、一人ずつの名が聞こえなくなる。


 湊一は、それが怖かった。


「点呼を始めよ!」


 左近の声が飛ぶ。


 組頭が、一人ずつ名を呼ぶ。


「源左衛門!」


「ここに!」


「弥助!」


「おります!」


「市兵衛!」


「はっ!」


 一つずつ。


 声が返る。


 同じ「おお」という大音声ではない。


 少し高い声。


 低い声。


 震える声。


 張り切りすぎた声。


 一人ずつ違う返事だった。


 湊一の胸にあった熱が、少しずつ人の形へ戻っていった。


     ◇


 すべての点呼が終わる頃には、日は山の向こうへ沈みかけていた。


 左近が湊一の前へ進み、膝をつく。


「出陣の支度、整い申した」


 兵たちが静まる。


「殿」


 左近が顔を上げる。


「皆へ、お言葉を」


 千人近い目が、湊一へ向いた。


 勝つと叫べば、応えるだろう。


 敵を討てと命じれば、槍を掲げるだろう。


 石田三成のために死ねと告げても、この熱の中ならば声は一つになる。


 湊一は息を吸った。


「今夜は、飯を食え」


 兵たちが目を瞬いた。


「殿?」


「足を洗え。傷のある者は、もう一度湯番に見せろ」


 列の端から、小さな笑いが漏れる。


「眠れる者は眠れ。武具を抱えたまま朝を迎えるな」


 笑いが少しずつ広がった。


 張りつめていた肩から、力が抜けていく。


「明日のことは、明日命じる」


 湊一は兵たちを見渡した。


「今夜のお前たちの役目は、飯を食い、身体を休めることだ」


 しばらく、誰も声を出さなかった。


 やがて、先ほどの若い足軽が声を上げた。


「承知いたしました!」


 今度の声も震えていた。


 だが、無理に大きくはなかった。


 古参兵が続く。


「殿のご命令だ! 飯を食い尽くすぞ!」


「お前は食いすぎるな!」


 兵たちから笑い声が上がった。


「各組、戻れ!」


 左近が命じる。


 整っていた隊列が、少しずつ解けていく。


 槍を肩へ担ぐ者。


 馬を引いて馬屋へ戻る者。


 握り飯を受け取りに行く者。


 湯場へ向かう者。


 千人の軍勢が、一人ずつの人間へ戻っていった。


 左近は、その様子をしばらく見ていた。


「勇ましいお言葉を、皆が待っておりましたぞ」


「明日になれば、嫌でも勇ましくなる」


「飯を食えとは」


「腹を空かせて戦へ行くよりいい」


「足を洗え、とも」


「草鞋が血だらけでは歩けない」


「まこと、殿らしい」


「今度は褒めているのか」


「さて」


 左近は笑った。


 だが、その笑みはすぐに消えた。


「殿」


「何だ」


「先ほどの声を、どう思われました」


 湊一は、すぐには答えなかった。


「怖かった」


「千人の兵が揃ったことが?」


「心地よいと思ったことがだ」


 左近が湊一を見る。


「一つになった声を聞けば、何でもできるような気がした」


「兵を率いる者ならば、誰しも覚える熱にございます」


「だから怖い」


 湊一は、湯場へ向かう兵たちの背中を見た。


「一つの声になれば、一人足りなくても分からない」


 左近は何も言わなかった。


 しばらくして、不揃いな草鞋が積まれた場所へ目を向ける。


「ならば、名を呼び続けるしかございませぬな」


「ああ」


「一人ずつ」


「ああ」


 左近は深く頭を下げた。


「心得ました」


     ◇


 夜。


 最後の兵が湯場から出た後も、大釜の火は消されなかった。


 湯番が灰を整え、朝までもつよう太い薪を一本入れる。


 白い湯気が、天井へ昇っていく。


 昼間、山を揺らした声は、もう聞こえない。


 太鼓も止んでいた。


 聞こえるのは、湯の流れる音。


 桶を重ねる音。


 遠くの飯場で、釜の蓋を閉める音だけだった。


 湊一は一人、湯場の入口に立っていた。


「また、辛気臭い顔をしておる」


 足元から白那の声がした。


 小さな白那が籠から下り、湯場の柱につかまって立っている。


「一人で歩けるのか」


「妾を幼子扱いするでない」


「手を貸そうか」


「要らぬ」


 白那が一歩進む。


 身体が傾く。


 湊一が手を出そうとすると、白那は素早くその指をつかんだ。


「そなたが、どうしても支えたいと申すなら、仕方あるまい」


「俺は何も言っていない」


「顔が申しておる」


「便利な顔だな」


「細かいことを申すでない」


 白那は湊一の指につかまり、湯場へ入った。


 湯船の縁へ座る。


 小さな足を、湯気の中へぶら下げた。


「千の声は、どうであった」


「聞いていたのか」


「佐和山の水すべてが震えておった。嫌でも聞こえる」


「白那も、太鼓に驚いていたな」


「驚いておらぬ!」


「小さき湯番の袖をつかんでいただろう」


「あの小娘が、妾から離れまいとするゆえ、仕方なくつかませてやったのじゃ!」


「逆に見えたが」


「見間違いじゃ!」


 白那は湯面を蹴った。


 小さな水滴が、湊一の足へ飛ぶ。


「それより、そなたも昂ぶっておったであろう」


 湊一は答えなかった。


「隠しても無駄じゃ。水音は、嘘をつかぬ」


「心地よかった」


 湊一は認めた。


「あれほど大勢の声が、自分へ向けられることが」


「そうであろうな」


「怒らないのか」


「なぜじゃ」


「誰かが死ぬと知りながら、俺は――」


「湯も、熱くなければ人を温められぬ」


 白那は足元の湯を見た。


「されど、熱が過ぎれば人を煮る」


「戦の高揚も同じか」


「熱を持つことが悪いのではない」


 白那は尊大に顎を上げた。


「加減を忘れる者が、愚かなのじゃ」


 湯口から落ちる水が、湯船へ小さな輪を作る。


「群れの声は大きい」


 白那が言った。


「されど、帰ってくる者の足音は一つずつじゃ」


「一つずつ……」


「千人を待つのではない。一人を千度待つのじゃ」


 湊一は、昼間の兵たちの顔を思い出した。


 初陣の若者。


 古参兵。


 馬を引く小者。


 名を呼ばれ、返事をした者たち。


「昔」


 湊一は言った。


「湯は沸いているのに、客が来なかった」


「白峰とやらか」


「ああ」


「今は、大勢おるではないか」


「明日には出ていく」


「そうじゃな」


「帰ってこない者もいる」


「そうであろうな」


 白那は慰めなかった。


 嘘でも皆帰るとは言わなかった。


「客ではない」


「何が」


「明日、ここを出る者たちじゃ」


「では、何だ」


「帰る者よ」


「まだ出てもいないぞ」


「愚か者」


 白那は小さな鼻を鳴らした。


「帰り道とは、出てから探すものではない」


 遠くで、夜番の太鼓が一度だけ鳴った。


 どん。


 出陣の太鼓ではない。


 明朝、佐和山を離れる者たちへ、夜の刻を知らせる音だった。


 湯場の外では、最後の見回りをする足音が聞こえる。


 小さき湯番が、湯場の鈴を二度鳴らした。


 ちりん、ちりん。


 朝まで湯を保つため、最後の湯加減を確かめた合図だった。


 さらに遠く。


 古井戸の祠からも、鈴の音が一度だけ届いた。


 ちりん。


 風が鳴らしたのか。


 水が鳴らしたのか。


 誰にも分からない。


 白那だけが、わずかに笑った。


「聞こえたか、若旦那」


「ああ」


「ならば覚えておけ」


 白那は湯気の向こうで胸を張った。


「戦の音より先に、この鈴が鳴っておったことをな」


 昼には、千人の声が佐和山を揺らした。


 今、聞こえるのは湯の沸く音と、帰る方角を知らせる鈴だけだった。


 湊一は、大釜へ薪を一本足した。


 火の粉が舞う。


 白い湯気が、再び高く立ち上った。


 明朝には、家族と同じ膳を囲む。


 それを最後の朝餉だと、まだ誰も呼ばない。


 湯は沸いている。


 されど、戦は来る。


 関ヶ原まで、あと四十日。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


戦へ向かう熱気に胸が高鳴ることも、残される家族が不安を抱くことも、どちらも偽りではありません。


だからこそ湊一は、軍勢を一つの大きな力として見るのではなく、一人ずつ名を呼び、帰る者として送り出そうとします。


第38湯は、関ヶ原まであと四十日。決戦前夜ではなく、長い戦へ踏み出す最初の出陣前夜です。


次回、第39湯「出陣の朝、湯気は白い」。


家族と囲む朝餉を、誰も最後の膳とは呼びません。

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