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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第四章 勝つ支度ではなく、残す支度

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挿話七湯 小さき湯番、鈴だけを残す

第三十七湯と同じ一日を、小さき湯番の視点から描きます。


井戸の祠へ鈴を残すことを決めた少女。


けれど、その鈴は彼女にとって、ただの道具ではありませんでした。

挿話 七湯 小さき湯番、鈴だけを残す


 小さき湯番は、鈴を外す前に三度、腰へ手を置いた。


 一度目は、紐が緩んでいないか確かめるため。


 二度目は、鈴がきちんと鳴るか確かめるため。


 三度目は――自分でも、よく分からなかった。


「先ほどから、何を鈴ばかり撫でておる」


 籠の中から、白那が言った。


 昨日、水の道をひらくために大きな力を使った白那は、普段よりもさらに幼い姿になっている。


 布を重ねた籠へ座っていても、頭が縁からようやく出るほどだった。


「紐が緩んでいないか、確かめておりました」


「一度見れば分かるであろう」


「鈴の音も、確かめておりました」


「それも、一度鳴らせば分かる」


「では、もう一度だけ」


 小さき湯番は鈴を鳴らした。


 ちりん。


 澄んだ音が、朝の古井戸へ落ちていく。


 昨日、この音は井戸の底まで届いた。


 暗い水の道へ下りた父と白那は、この鈴を頼りに帰ってきた。


 泥だらけになった父の背には、力を使い果たした白那がしがみついていた。


 あの姿を見た時、小さき湯番は思った。


 この鈴は、自分の腰へ下げておくよりも、古井戸の祠へ結んだ方がよいのではないか。


 自分が湯場にいる時も。


 飯場を手伝っている時も。


 眠っている時も。


 祠へ来れば、必ず鈴がある。


 誰かが暗い道へ入っても、帰る方角を伝えられる。


 そう考えて、父へ願い出た。


「本当に、ここへ残すのか」


 父は尋ねた。


「はい」


「お前が小さき湯番になった時から、使っている鈴だろう」


「はい」


「祠へ結べば、もう腰には戻せないぞ」


「それでよいのでございます」


 小さき湯番は、鈴を両手で包んだ。


「鈴は、自分のために鳴らすものではございませぬから」


「ほう」


 白那が籠の中から、小さき湯番を見上げた。


「ようやく鈴に鳴らされるだけの小娘ではなくなったか」


「わたしが、鈴に鳴らされていたのでございますか」


「細かいことを申すでない」


「白那さまが、おっしゃったのではありませんか」


「妾へ言い返すとは、随分と偉くなったものよな」


 白那は尊大に鼻を鳴らした。


 けれど、その口元はわずかに緩んでいた。


     ◇


 鈴を祠へ結ぶ前に、皆で合図を決めることになった。


 危険が迫った時は、三度続けて鳴らす。


 ちりん、ちりん、ちりん。


 その音を聞いた者は、何をしていても湯場へ集まる。


 火事でも。


 敵が迫った時でも。


 同じ合図を使う。


 白那が水の道へ入り、その途中にいる時は一度。


 ちりん。


 外の出口まで水を通し、道の安全を確かめた時は、少し間を置いてもう一度。


 ちりん。


 しばらく待って。


 ちりん。


「湯場の鈴は、続けて二度鳴らします」


 小さき湯番は皆へ説明した。


「水の道は、離して二度でございます。聞き間違えないよう、お願いいたします」


「妾の説明を、小娘が言い直すでない」


 白那が不満そうに言う。


「皆さまに分かりやすく、お伝えしただけでございます」


「妾の話も、十分に分かりやすかったであろう!」


 湯番たちの間から、笑い声が上がった。


「笑うでない!」


 白那が怒鳴る。


 さらに笑い声が広がった。


 小さき湯番も笑った。


 けれど、父がそれぞれの役目を伝えるうち、胸の奥に小さな疑問が生まれた。


 母は、湯場へ集まった者の名を呼ぶ。


 兄たちは、城内にいる幼い者を連れてくる。


 湯番たちは、老人や傷ついた者を戸板で運ぶ。


 白那は、水の道を確かめる。


 小さき湯番は、井戸の祠で鈴を鳴らす。


 皆が水の道へ入った後も、鈴を鳴らす者は祠に残らなくてはならない。


 では、自分はいつ、道へ入るのだろう。


 最後の一人が井戸の底へ消えた後も、一人で鈴を鳴らし続けるのだろうか。


 誰もいなくなった佐和山で。


 自分だけが、残るのだろうか。


「小さき湯番」


 父に呼ばれ、娘は顔を上げた。


「聞いていたか」


「はい。危険の時は、三度でございます」


「その後は?」


「皆さまを湯場へ集めます。走らず、転ばぬよう声をかけます」


「そうだ」


 父は頷き、次の者へ役目を伝え始めた。


 小さき湯番は、問いを口にできなかった。


 父も母も、忙しそうだった。


 湯番たちも、自分の役目を覚えようとしている。


 話を止めてはならない。


 自分は小さき湯番なのだから、任された役目をきちんと果たさなくてはならない。


 娘は唇を結び、胸の中へ問いをしまった。


     ◇


 最初の稽古が始まった。


 小さき湯番は湯場から薪棚の裏を抜け、古井戸へ向かった。


「走ってはなりませぬ!」


 後ろへ声をかける。


 そう言った自分が一番速く走っていることに気づき、慌てて足を緩めた。


「鈴を鳴らす者も、転んではなりません」


 今度は、自分へ言い聞かせる。


 濡れた場所を避ける。


 曲がり角では、後ろの者が見えるまで待つ。


 祠へ着くと、まだ結んでいない鈴を取り出した。


 ちりん、ちりん、ちりん。


 三度の音が、佐和山へ広がった。


 湯場から声が返る。


 母が、一人ずつ名を呼んでいる。


 戸板を運ぶ湯番たちの掛け声も聞こえる。


 姿は見えない。


 それでも鈴を通して、佐和山のあちらこちらで人が動いていることが分かった。


 鈴は、自分一人の声ではなかった。


 鳴らせば、皆が返事をしてくれる。


 そのことが、小さき湯番には少し嬉しかった。


 二度目の稽古を始めようとした時、人足姿の男が現れた。


 見たことのない顔だった。


 肩に縄を担ぎ、腰には道具袋を下げている。


 けれど、男は働く者の手をしていなかった。


 湯番の手には、湯気でふやけた跡がある。


 人足の手には、縄や木でできた傷がある。


 飯炊きの者の手には、火や包丁で負った小さな跡が残っている。


 男の手は、妙にきれいだった。


 それに男は、仕事を手伝おうともせず、積まれた角材や油紙の包みばかり見ている。


 最後に、その目が古井戸で止まった。


「この井戸も、使えるようになさるので?」


 男が尋ねた。


「火を消すには、水が必要でございます」


 母が穏やかに答える。


「中を確かめてもよろしいですかな」


 男が、井戸へ近づく。


 小さき湯番の背中が冷たくなった。


「近づけるでない」


 籠の中から、白那の低い声がした。


 小さき湯番は、すぐに男の前へ出た。


「お待ちくださいませ」


「何だ」


「井戸へ触れられる前に、手を清めていただきます」


「中をのぞくだけだ」


「それでも、お願いいたします」


 娘は水桶を持ち上げた。


「どうぞ」


「必要ない」


「皆さまにお願いしております」


 男が一歩退く。


 小さき湯番は、一歩進む。


「手を、お出しくださいませ」


「しつこい娘だな」


「小さき湯番のもてなしを断るとは、無礼な男よな」


 白那の声がした。


 男が辺りを見回す。


「今、誰か――」


 小さき湯番は、素早く白那の籠へ布を掛けた。


「古井戸の音でございます」


「その布の下に、何かいるのではないか」


「何もおりません」


「妾を何もないと言うでない!」


 布の下から白那の声が響く。


 男の眉が動いた。


 小さき湯番は、抱えていた水桶を傾けた。


「あっ」


 水が男の足元へこぼれる。


 草鞋が濡れ、男は慌てて井戸から離れた。


「申し訳ございません!」


 娘は深く頭を下げた。


 広がった水が、昨日、水の道から流れ出した細い跡を覆っていく。


 男は濡れた足を見た。


 それから、もう一度古井戸を見る。


「井戸の修繕と、火事の稽古。それだけでございますな」


「はい」


 母は、表情を変えずに答えた。


 男は一礼し、人足たちのいる方へ戻っていった。


 その姿が見えなくなってから、小さき湯番は大きく息を吐いた。


「白那さま。もうよろしゅうございます」


 籠の布を外す。


 白那が、真っ赤な顔で座っていた。


「息苦しいではないか!」


「申し訳ございません」


「妾を漬物のように包みおって!」


「見つかってしまうと思ったのでございます」


「だからといって、もっと掛け方というものがあろう!」


「次から気をつけます」


「次があってたまるものか!」


 白那は怒鳴った。


 それでも男が消えた方角を見る目は、笑っていなかった。


「よく、あの男の手を見ておったな」


「働く方の手には見えませんでした」


「何者か、分かったのか」


「いいえ」


「それでよい」


 白那は尊大に鼻を鳴らした。


「分からぬ者を、分かったつもりになる方が危うい。顔だけでなく、手も足も見る。それでこそ湯番じゃ」


「はい」


「されど、水のこぼし方は雑よな」


「あれは、偶然でございます」


「妾へ嘘を申すか」


「……井戸を、見られたくなかったのでございます」


「ならば最初から、そう申せ」


「水を粗末にしてしまいました」


「それは妾が叱る」


「申し訳ございません」


「されど、水で道を隠したことは悪くない」


 白那は小さな腕を組んだ。


「今日だけは、差し引きなしにしてやる」


「ありがとうございます」


「次にこぼす時は、もう少し上手にせよ」


「また、こぼしてよいのですか?」


「細かいことを申すでない!」


 小さき湯番は笑った。


 白那も、自分へ判断を任せてくれた。


 そのことが、少し誇らしかった。


     ◇


 夕刻。


 小さき湯番は、小祠の前へ座った。


 祠の屋根は古く、端が少し欠けている。


 扉の木も、長い雨風で黒くなっていた。


 それでも、濡らした布で拭えば木目が見える。


 娘は鈴へ麻紐を通した。


 一度、巻く。


 二度、巻く。


 最後に、ほどけないよう固く結ぶ。


 そのはずだった。


 けれど、指が止まった。


「結ばぬのか」


 白那が尋ねた。


「結びます」


「ならば、なぜ止まる」


「少しだけ、考えておりました」


「小娘が考えても、腹は膨れぬぞ」


「団子のことではございません」


「妾も団子とは申しておらぬ!」


「白那さま」


 小さき湯番は、鈴を両手で包んだ。


「鈴をここへ残したら、わたしは小さき湯番ではなくなるのでしょうか」


 白那は、すぐには答えなかった。


 籠から下りようとして、小さな身体を傾かせる。


 娘が慌てて両手を差し出した。


「白那さま」


「手を出すでない。妾は一人で立てる」


「では、離します」


「待て」


 白那は娘の指をつかんだ。


「……そこまで支えたいと申すなら、支えさせてやる」


「わたしは、まだ何も申しておりません」


「顔が申しておる」


 白那は娘の手につかまり、小祠の前へ立った。


 今の白那は、小さき湯番よりもずっと小さい。


 それでも見上げる目には、水守の強い光が宿っていた。


「そなたは、鈴を下げておるから湯番なのか」


「違うと思います」


「ならば、何を見る」


「お湯の加減を見ます」


「それだけか」


「床が濡れていないか。桶が足りているか。お年寄りや、傷ついた方が困っていないか」


「ほかには」


「皆さまのお顔と、足を見ます」


「なぜじゃ」


「お顔と足を見れば、お疲れかどうか分かるからでございます」


「ならば、鈴がなくても見られるであろう」


「はい」


「名を呼び、返事を聞けるか」


「できます」


「転びそうな者へ、手を伸ばせるか」


「はい」


「ならば、何を悩む」


 白那は小さな指で、娘の額をつついた。


「鈴は道具じゃ。そなたの名ではない」


「でも、鈴がなければ、遠くの方へ声が届きません」


「ゆえに、ここへ置くのであろう」


 白那は祠を見上げた。


「そなた一人の腰へ下げておけば、そなたがおらぬ時には鳴らぬ。ここへ結べば、別の者も鳴らせる」


「わたしがいなくても?」


「そうじゃ」


「それは、少し寂しゅうございます」


「寂しいものを、寂しくないなどと申すな」


 白那は小さな鼻を鳴らした。


「妾の前でまで強がるでない、愚か者」


 小さき湯番は目を瞬いた。


 白那の手を支える自分の指へ、少しだけ力が入る。


「白那さま」


「何じゃ」


「もう一つ、聞いてもよろしいですか」


「今さら一つ増えたところで同じじゃ。申せ」


「皆さまが水の道へ入った後、わたしはどうすればよいのでしょう」


 白那の目が、少し細くなった。


「それを、朝から気にしておったのか」


「はい」


「なぜ、その場で尋ねぬ」


「父上も母上も、お忙しそうでした」


「そなたは一人で、ここへ残るつもりでおったのか」


 娘は鈴を握ったまま、ゆっくりと頷いた。


「鈴を鳴らす者が、いなくなっては困ります」


「この大愚か者め!」


 白那の声が、古井戸へ響いた。


「妾がひらいた道を、何だと思うておる!」


「皆さまが帰るための道でございます」


「ならば、なぜそなた一人を置いてゆく!」


「でも、鈴が――」


「置いてゆくのは、鈴だけじゃ!」


 白那は祠を指した。


「皆が揃うまで鈴を鳴らし、最後の組とともに、そなたも道へ入れ」


「よいのでございますか」


「よいも悪いもあるか。そなたまで入って初めて、皆が揃うのじゃ」


「誰かが遅れてきたら?」


「一人ずつ名を呼んで確かめよ。見つからぬ者がおれば、大人へ知らせよ」


 白那の指が、もう一度娘の額へ触れた。


 今度は、先ほどよりも優しかった。


「一人で待つでない。一人で迎えにも行くでない」


「はい」


「誰の手も離すなと教わったのであろう」


「はい」


「ならば、そなた自身の手も、その中へ入れておけ」


 娘は白那を見た。


 胸の中へ押し込めていた不安が、ゆっくりとほどけていく。


「白那さまも、一緒に来てくださいますか」


「妾を誰だと思うておる」


「水守さまでございます」


「水の道へそなたを置き去りにすれば、鈴より先に泣き声が響くであろう。騒がしくてかなわぬ」


「泣かないと思います」


「どうかのう」


「泣きません」


「ならば、試しに一人で――」


「白那さま」


「冗談じゃ。袖を引くでない」


 白那の袖をつかんでいたことに気づき、小さき湯番は手を緩めた。


 けれど、完全には離さなかった。


 白那も、振り払わなかった。


「遠くへ流されようとも、水音を忘れるでない」


 白那が言った。


「水音を?」


「湯が桶へ満ちる音。雨が屋根を打つ音。釜の中で湯が踊る音。川が石を転がす音じゃ」


「雪の降るところでも、水音は聞こえますか」


「雪も水じゃ」


「でも、雪は静かです」


「春になれば解ける。長く黙っておるだけよ」


 白那は尊大に顎を上げた。


「水は、形を変えたくらいで己を忘れぬ」


「わたしも、忘れずにいられますか」


「それは、そなた次第じゃ」


「もし、忘れてしまったら?」


「妾が夢へ出て、朝まで説教してやる」


「毎晩ですか」


「思い出すまで毎晩じゃ」


「それは大変でございます」


「ならば、忘れるでない!」


 小さき湯番は笑った。


 目の端が少し熱くなったが、拭わなかった。


 白那の前でまで、強がる必要はない。


 娘は鈴へ通した麻紐を、もう一度確かめた。


 一度巻き。


 二度巻き。


 今度は、迷わず結び目を作った。


「これで、よろしいですか」


「引いてみよ」


 娘は紐を引いた。


 鈴は祠の軒へ、しっかりと下がっている。


「ほどけません」


「紐は、いつか切れるぞ」


「切れる前に替えます」


「祠の屋根も朽ちる」


「直します」


「鈴も錆びる」


「磨きます」


「それでも、鳴らなくなったら?」


 小さき湯番は、少し考えた。


「新しい鈴を、結びます」


「今の鈴でなくてもよいのか」


「はい」


 娘は、自分で結んだ鈴を見上げた。


「同じ場所で、帰る方のために鳴るのであれば、それでよいのでございます」


「ようやく分かったか」


 白那は満足そうに頷いた。


「鈴を残すとは、同じ物を残すことではない。次の者も、ここへ結ぶと決めることじゃ」


「では、わたしも誰かへ伝えます」


「何をじゃ」


「鈴を結ぶ場所と、帰る方角を」


 小さき湯番は、祠の鈴へ手を伸ばした。


 ちりん、ちりん、ちりん。


 三度の音が、夕暮れの佐和山へ広がる。


 湯場から声が返った。


 母が、一人ずつ名を呼ぶ。


 湯番たちが戸板を運ぶ。


 幼い者も、老人も、傷ついた者も、決められた場所へ集まっていく。


 やがて、最後の一人の返事が聞こえた。


「皆さま、揃いました!」


 小さき湯番は、大きな声で知らせた。


「では、そなたも行け」


 白那が言う。


「はい!」


 娘は古井戸へ向かって一歩踏み出した。


 その腰に、もう鈴はない。


 それでも、自分が小さき湯番ではなくなったとは思わなかった。


     ◇


 稽古が終わり、湯場へ戻る頃には、辺りは暗くなっていた。


 戸を開けると、温かな湯気が娘の頬を包む。


 釜の中で、湯が鳴っている。


 桶へ湯を汲む音。


 床を流れる水の音。


 湯を使った者が、安堵の息を吐く音。


 鈴がなくても、湯場にはたくさんの音があった。


「白那さま」


「何じゃ」


 白那は籠の中で、柔らかな手拭いにくるまっていた。


 眠たそうにしているが、寝てはいないと言い張っている。


「約束の物がございます」


 小さき湯番は懐の包みを取り出した。


 白那の目が、すぐに開いた。


「何のことであったかのう」


「お忘れですか」


「水守は、細かな供物の約束など覚えておらぬ」


「では、これはわたしがいただきます」


「待て!」


 白那が手拭いを跳ねのける。


 その拍子に身体が傾き、娘はすぐに両手で受け止めた。


「騒ぐでない。籠が勝手に傾いたのじゃ」


「お座りくださいませ」


「妾へ命じるでない」


「では、団子は要りませんか」


「誰が要らぬと申した!」


 小さき湯番が包みを開く。


 中には、丸い団子が一つ入っていた。


「昨日のお約束どおり、一つ全部でございます」


「うむ」


 白那は両手を差し出した。


「祠へ鈴を結んだ祝いの供物として、妾が受け取ってやる」


「お祝いは、わたしのものではないのですか」


「妾が祝ってやるのじゃ。ありがたく思え」


「白那さまがお召し上がりになるのに?」


「神の祝い方へ口を出すでない」


 娘は団子を白那へ渡した。


 白那は小さな両手で抱え、ひとかじりする。


「毒はございますか」


「まだ分からぬ」


 もうひとかじり。


「いかがでしょう」


「急かすでない」


「水守のお務めは大変でございますね」


「そうじゃ。ゆえに、もう一つあってもよい」


「ございません」


「何?」


「一つ全部と、お約束しました」


「一つだけとは申しておらぬであろう!」


「白那さまも、一つ全部とおっしゃいました」


「小娘のくせに、言葉尻ばかり覚えおって!」


 小さき湯番は声を立てて笑った。


 遠くから、鈴の音が届いた。


 ちりん。


 古井戸の祠へ結んだ鈴だった。


 風が鳴らしたのか。


 水が揺らしたのか。


 ここからでは分からない。


 白那は団子を食べる手を止め、湯場の床へ目を向けた。


 板の隙間を流れる水が、その小さな足元で丸い輪を作っている。


「白那さま。今の鈴は、何の合図でございますか」


「何の合図でもない」


「では、どうして鳴ったのでしょう」


「そなたが、きちんと戻ったか確かめただけであろう」


「鈴が、わたしを?」


「鈴ではない」


 白那は団子を抱えたまま、尊大に顎を上げた。


「佐和山の水じゃ」


 小さき湯番は、湯場を流れる音へ耳を澄ませた。


「わたしは、ここにおります」


 水へ向かって答える。


 湯口の下で、鈴に似た澄んだ音が一度だけした。


 白那は何も言わず、団子をもうひとかじりした。


 その口元が、わずかに笑っていた。


 小さき湯番は、何もない腰へ手を置いた。


 今度は、寂しくなかった。


 関ヶ原まで、あと四十一日。

第三十七湯と同じ一日を、小さき湯番の視点から描きます。


井戸の祠へ鈴を残すことを決めた少女。


けれど、その鈴は彼女にとって、ただの道具ではありませんでした。


### 後書き


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


鈴を手放せば、自分は小さき湯番ではなくなるのではないか。


皆を送り出した後、自分だけが佐和山へ残るのではないか。


口にできなかった不安を見抜き、叱りながらも受け止める白那。小さき湯番もまた、弱った白那を支え、二人の間には言葉だけではない信頼が育っています。


置いてゆくのは、鈴だけ。


その音と水の記憶は、いつか遠く離れた地でも、少女を佐和山へつないでくれるはずです。


次回も、佐和山に「残す支度」が続きます。

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