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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第四章 勝つ支度ではなく、残す支度

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第三十七湯 井戸の祠に、鈴を結ぶ

白那がひらいた、古井戸の水の道。


小さき湯番は、帰る方角を伝えるため、自分の鈴を祠へ結ぶことを決めます。


一方、役目を見つけられずにいた三男。


そして井戸の底では、“古い水の客”が再び目を覚ましたようで――。

第三十七湯 井戸の祠に、鈴を結ぶ


 水の道をひらいた翌朝。


 古井戸へ続く坂道を、三男が慎重に歩いていた。


 両手で抱えているのは、布を重ねた小さな手籠である。


「兄上。もう少し、ゆっくりお願いいたします」


 後ろを歩く小さき湯番が言った。


「十分ゆっくり歩いている」


「でも、白那さまが傾いておられます」


「道が傾いているのだ」


「妾を荷物のように申すでない!」


 手籠の中から、白那が顔を出した。


 昨日、水の道をひらくために大きな力を使った白那は、普段よりさらに幼い姿のままだった。


 自分では歩けると言い張るものの、三歩も進めば身体が傾く。


 今朝も湯場を出たところで転びかけ、三男に捕まった。


「白那さま。籠の中で立たれると危のうございます」


「妾へ指図するでない」


「では、下りてお歩きになりますか」


「今日は、そなたを働かせてやっておるのじゃ!」


 白那は敷かれた布へ座り直した。


「妾が自ら歩けば、そなたが楽をしてしまうであろう」


「お心遣い、ありがとうございます」


 小さき湯番が真面目に頭を下げる。


「うむ。分かればよい」


「妹を甘やかすな」


 三男が言った。


「白那さまは、妹ではございません」


「誰が、この小娘の妹じゃ!」


「背丈は、わたしより小さくなられました」


「これは力を慎んでおる姿じゃ!」


「白那。籠から落ちるぞ」


 前を歩いていた湊一が振り返る。


「そなたまで妾を幼子扱いするでない!」


 白那は怒鳴ったが、籠の縁から手を離さなかった。


     ◇


 古井戸の周りでは、すでに湯番や人足たちが働いていた。


 伸びた草を刈る者。


 傷んだ石組みへ縄を張る者。


 小祠の屋根から、苔と枯れ葉を払う者。


 傍目には、長く使われていなかった井戸を手入れしているだけに見える。


 だが、運び込まれた角材は、水の道の天井を支えるためのものだった。


 束ねられた縄は、暗い道で手すりとなる。


 油紙に包まれた草鞋と布は、逃げる者や傷ついた者へ渡すための備えである。


 三男も昨夜から、人足たちに交じって草を刈り、角材を運んでいた。


 慣れない作業で、手のひらには小さな豆ができている。


「兄上。白那さまのお席は、こちらです」


 小さき湯番が、小祠の前へ敷物を用意した。


 三男が手籠を下ろす。


「随分と立派な席だな」


「水守を地べたへ置くわけにはゆきません」


「俺が休む場所は?」


「ございません」


「兄と白那さまで、扱いが違いすぎないか」


「当然じゃ」


 白那が籠の中で胸を張る。


「そなたは昨夜、何度も休んでおったであろう」


「あれは角材を置くために止まっただけです」


「言い訳だけは一人前よな」


「白那さまは、ずっと父上の背で眠っておられました」


「眠っておらぬ!」


「では、目を閉じて何をなさっていたのですか」


「水の声を聞いておったのじゃ!」


「いびきも、水の声でございますか?」


「妾はいびきなどかかぬ!」


 小さき湯番が笑う。


 三男も、わずかに口元を緩めた。


 湊一は、その顔を見ていた。


 大坂にいる二人の兄には、それぞれ人質と小姓という役目がある。


 父は、間もなく戦へ向かう。


 母は、城に残る女や老人、傷ついた者たちをまとめる。


 小さき湯番には鈴がある。


 白那には、水を導く力がある。


 三男だけが、自分の役目を見つけられずにいる。


 昨夜から黙々と働いていたのも、何かを任せてほしかったからだろう。


 小さき湯番が、小祠の前へ膝をついた。


 古井戸の脇に建つ、片手で抱えられそうなほど小さな祠である。


 屋根の端は欠け、扉の木も黒く変色している。


 それでも娘は、以前この小祠を見つけた時から、時折ここを掃いていた。


 濡らした布で、扉を丁寧に拭う。


「まだ使うつもりか」


 湊一が尋ねる。


「お祠は、古くなったから捨てるものではございませぬ」


「そうだな」


「道を忘れぬために、ここにあるのだと白那さまから教わりました」


「妾は、そこまで殊勝な言い方はしておらぬ」


「でも、そのような意味でございました」


「小娘のくせに、勝手に神の言葉を整えるでない」


 文句を言う白那の口元は、少しだけ緩んでいた。


 娘は腰へ手を伸ばした。


 いつも小さき湯番として身につけている鈴を外す。


「父上。この鈴を、お祠へ結んでもよろしいですか」


「お前の鈴だぞ」


「はい」


「湯場で使わなくてよいのか」


「湯場には、別の鈴がございます」


 娘は両手の上へ鈴を載せた。


「昨日、この音が井戸の底まで届きました」


 白那が水の道をひらいた時。


 暗い井戸の底で、湊一たちはこの鈴の音を頼りに帰ってきた。


「この鈴を、ここへ残したいのでございます」


「なぜだ」


「道へ入る方が、帰る方角を間違えないためです」


 娘は古井戸を見た。


「わたしがいない時も、ここへ来れば鈴がございます」


「自分で持っていた方が、いつでも鳴らせるだろう」


「それでは、鈴のあるところが毎日変わります」


 娘は首を横へ振った。


「ここへ来れば、必ず鈴がある。その方が、皆さまも安心なさると思います」


 湊一は答えず、娘の顔を見た。


 鈴を外した腰元が、妙に寂しく見える。


 娘にとって、この鈴はただの道具ではない。


 失敗しながら、叱られながら、それでも湯番として鳴らしてきた鈴だ。


「寂しくないのか」


「少しだけ」


 娘は正直に答えた。


「でも、鈴は自分のために鳴らすものではございませぬ」


「ほう」


 白那が娘を見上げる。


「ようやく、鈴に鳴らされるだけの小娘ではなくなったか」


「わたしが、鈴に鳴らされていたのですか?」


「細かいことを申すでない」


 白那は尊大に鼻を鳴らした。


     ◇


 鈴を結ぶ前に、使い方を決めることになった。


 妻。


 三男。


 小さき湯番。


 湯場を任されている者たち。


 傷ついた者を運ぶ役の人足。


 そして、布を敷いた籠の中から皆を見下ろす白那。


 湊一は娘から鈴を借りた。


「まず、危険が迫った時だ」


 鈴を三度、続けて鳴らす。


 ちりん、ちりん、ちりん。


「この音が聞こえたら、何をしていても湯場へ集まる」


「三度続けて。危険の合図でございますね」


 小さき湯番が確認する。


「ああ。火事でも、敵が迫った時でも同じだ」


「戦のことは、口に出さぬのですか」


 三男が尋ねた。


「出す必要はない」


 湊一は答えた。


「火事の備えなら、日頃から稽古をしても怪しまれない。敵が来た時だけ使う合図にすれば、その時になって誰も動けなくなる」


 妻が頷く。


「湯場へ集まった者は、私が人数を確かめます。女たちと幼子、老人、傷ついた者の順に組を分けます」


「湯番たちは、歩けぬ者を戸板で運ぶ」


 湊一が続ける。


「水と布を持つ者、後ろから支える者、最後に湯場を確認する者を決めておけ」


「小さき湯番のお役目は?」


 娘が手を上げた。


「お前は、井戸の祠で鈴を鳴らす」


「ここで待つのでございますか」


「ああ。皆が進む方角を見失わぬようにな」


 娘は少しだけ不満そうな顔をした。


「わたしも、水の道へ入りたいです」


「そなたが道へ入れば、鈴を鳴らす者がおらぬであろう」


 白那が言った。


「でも、白那さまだけでは――」


「妾を一人で歩けぬ幼子のように申すでない!」


「昨日は、父上に背負われておられました」


「あれは、この愚か者が背負いたいと申すゆえ――」


「まだ言うか」


「妾が話しておる!」


 白那は湊一を睨んでから、娘へ顔を戻した。


「そなたは、ここにおれ」


 先ほどまでより、少しだけ静かな声だった。


「道の中におる者は、外のことが分からぬ。外に残る者は、中のことが分からぬ。ゆえに鈴が要る」


「はい」


「妾が水の道を確かめておる間は、鈴を一度鳴らす」


「白那さまが、ここにいなくてもですか」


「この井戸の水と、道の水はつながっておる。妾が水を通せば、鈴も応える」


 白那が小さな指を一本立てた。


「一度だけなら、妾は道の途中におる。まだ誰も入れるでない」


「では、道が安全な時は?」


「一度鳴らした後、間を置いて、もう一度じゃ」


 ちりん。


 しばらく待って。


 ちりん。


「二度目が鳴れば、妾が外の出口まで水を通した合図じゃ。最初の組を入れてよい」


 妻が鈴の間隔を確かめる。


「湯場では、湯加減が整った時にも二度鳴らします」


「湯場の鈴は、続けて二度です」


 小さき湯番が言った。


「道の鈴は、ゆっくり、離して二度。聞き間違えぬよう、皆さまにも覚えていただきます」


「そのとおりだ」


「妾の説明を、小娘が言い直すでない」


「皆さまに分かりやすくお伝えしただけでございます」


「妾の話も分かりやすかったであろう!」


 湯番たちの間から、笑い声が上がった。


「笑うでない!」


 白那が怒鳴る。


 さらに笑い声が広がった。


「父上」


 三男が進み出た。


「私の役目は、まだ伺っておりません」


「お前には、城内にいる幼い者を集めてもらう」


「幼い者を?」


「ああ。全員が揃っているか確かめ、母上のところへ連れていく」


 三男の顔に、落胆が浮かんだ。


「私にも、刀をお預けください」


「刀は要らない」


「では、私は何のために、ここにいるのでございますか」


 湊一は、すぐには答えなかった。


「まず、稽古をしてみろ」


「稽古をすれば、刀を?」


「それを決めるのは、稽古の後だ」


 三男は納得していない顔だった。


 それでも父へ頭を下げる。


「承知いたしました」


     ◇


 最初の稽古が始まった。


 妻は奥向きから湯場へ。


 三男は別の廊下を通り、飯場にいる幼い者たちを集める。


 小さき湯番は湯場から薪棚の裏を抜け、古井戸の祠へ向かう。


 湯番たちは、二人一組で戸板を運ぶ。


 皆が違う場所から動き、湯場の裏で一つの流れとなった。


「走ってはなりませぬ!」


 小さき湯番の声が飛ぶ。


「逃げる時に転べば、後ろの方も皆、転んでしまいます!」


「お前が一番走っているぞ」


 三男が言う。


「わたしは、鈴を鳴らす役でございますから」


「鈴を鳴らす者も転ぶ」


 小さき湯番は、急いで足を止めた。


「では、少しだけ早足にいたします」


「それを走ると言うのだ」


「兄上は、歩くのが遅すぎます」


「子どもたちに合わせている」


「皆さま、兄上を追い越しておられます」


 三男が振り返る。


 幼い子どもに見立てられた湯番たちが、三男の横を次々と通り過ぎていた。


「稽古だからといって、真面目にやれ!」


「幼い者は、言うことを聞かぬものにございます」


 年かさの湯番が笑う。


「わざとか!」


「本番で困らぬための稽古でございます」


 三男は子ども役の湯番たちを追いかけ、一人ずつ連れ戻した。


 白那の籠を運んでいた湯番が、その後ろから声をかける。


「白那様は、どの組へお入りになりますか」


「妾は組へ入れられる側ではない!」


「では、お一人でお進みになりますか」


「妾は先導するのじゃ!」


「籠のままで?」


「これは水守の御座である!」


 湯番が、できる限り揺らさぬよう籠を運ぶ。


 白那は尊大に腕を組んでいたが、段差へ来るたび、籠の縁をしっかりつかんでいた。


 やがて三男が、皆を湯場の裏へ連れてきた。


「全員、揃いました」


「数を確かめたか」


「五人です」


「六人ではございませんか」


 小さき湯番が言った。


「どこに六人目がいる」


「そちらの戸板に寝ている方です」


 三男が振り返る。


 老人役の湯番が、戸板の上で手を振っていた。


「わしを置いてゆくところでございましたな」


「申し訳ない」


 三男が頭を下げる。


「横になっている者は、目に入りにくい」


 妻が静かに教えた。


「立っている者だけを数えてはなりません」


「はい」


「人を米俵のように数えるでない」


 白那が籠の中から言った。


「しかし、人数は――」


「六人おればよいのではない。誰がいないか分からねば、置いてきた者を迎えにも行けぬ」


 三男は、戸板に横たわる湯番を見た。


「数ではなく、名を呼べ」


 湊一が告げる。


「一人ずつ顔を見て、返事を聞くんだ」


 三男は悔しさを飲み込み、最初から確認を始めた。


 今度は、一人ずつ名を呼ぶ。


 返事を聞き、顔を見る。


 戸板の上にいる者の名も呼ぶ。


 最後に、小さき湯番へ顔を向けた。


「お前は」


「井戸の祠におります」


「今は目の前にいるだろう」


「本番では、こちらにおりません」


「では、井戸の方角へ向かって呼べばよいのか」


「聞こえなければ、鈴を鳴らします」


「声で返事をしろ」


「鈴も返事でございます」


「どちらでもよいから、必ず返事をしろ」


「はい、兄上」


 小さき湯番が元気よく答える。


 三男は、もう一度全員を見回した。


「今度こそ、揃いました」


「まだじゃ」


 白那が言った。


「まだ、誰かおられるのですか」


「妾の名を呼んでおらぬ」


 三男は白那を見る。


「白那さまは、ずっと籠の中におられます」


「姿が見えぬ時こそ、名を呼ぶのであろう」


「では……白那さま」


「聞こえておる」


「ご無事ですか」


「誰へ物を申しておる!」


 白那が籠の中で胸を張る。


「妾が水の道へ入れば、姿は見えぬ。されど、水音が返れば妾はそこにおる。耳まで使うて確かめよ」


「心得ました」


 三男が頭を下げる。


 先ほどまでの不満は、少しだけ薄れていた。


     ◇


 二度目の稽古を始めようとした時だった。


 井戸の向こうから、人足姿の男が現れた。


「これは、何の騒ぎでございますか」


 見覚えのない男だった。


 肩に縄を担ぎ、腰には小さな道具袋を下げている。


 身なりは、石組みの修繕に呼ばれた人足と変わらない。


 だが、男の目は働く者の目ではなかった。


 積まれた角材。


 油紙の包み。


 小祠。


 古井戸の中。


 仕事を探すのではなく、そのすべてを数えるように視線を動かしている。


 白那が籠の中で、小さく鼻を鳴らした。


「臭うのう」


「何がでございますか」


 小さき湯番が尋ねようとする。


「黙っておれ」


 白那が低い声で止めた。


 三男の手が、腰の刀へ伸びる。


「抜くでない」


 白那の声が飛んだ。


「しかし、あの男は井戸を――」


「ここで刀を抜けば、この井戸には隠す物があると教えるようなものじゃ」


 三男の手が止まる。


 妻はすぐに男の前へ出た。


「火事に備えた稽古でございます」


「火事の?」


「湯場は薪を多く使います。火が出てから人の動かし方を決めたのでは、間に合いませぬ」


 男は妻へ頭を下げた。


 それでも目は、井戸から離れない。


「使われていない井戸まで、直されるので?」


「火を消すには、水が要ります」


「しかし、この井戸は長く使われていないと聞きました」


「だから、使えるように直しております」


 男は小さく頷き、井戸の縁へ近づいた。


「中を確かめても?」


「お待ちくださいませ」


 小さき湯番が、その前へ立った。


「石が緩んでおります。落ちれば、助けられません」


「のぞくだけです」


「父上も昨日、頭をぶつけました」


「余計なことを言うな」


「本当のことでございます」


 娘は男から井戸を隠すように、両腕を広げた。


「それに、お祠へお参りする前は、手を清めなくてはなりませぬ」


「今は仕事の途中で――」


「汚れた手で触れてはなりません」


 娘は水桶を持ち上げた。


「どうぞ」


「いや、そこまでせずとも」


「遠慮なさらず」


 男が一歩、後ろへ退く。


 娘も一歩、前へ出た。


「手をお出しくださいませ」


「結構です」


「小さき湯番のもてなしを断るとは、無礼な男よな」


 籠の中から白那の声がした。


「今、何か聞こえませんでしたか」


 男が辺りを見回す。


 娘は素早く籠へ布を掛けた。


「古井戸にございます」


「井戸?」


「古い井戸では、ときどき声が響くのでございます」


 男は娘を避け、井戸の縁へ手をかけようとした。


 その時。


 ぎいっ。


 滑車が、ひとりでに軋んだ。


 誰も触れていない縄が、井戸の底へ強く引かれる。


 吊り下げられていた水桶が、勢いよく跳ね上がった。


「うわっ!」


 桶が男の肩へぶつかる。


 中に残っていた水が、頭から降りかかった。


 男は足を滑らせ、井戸から離れる。


 水は地面へ広がり、昨日の作業で残っていた濡れた足跡や、運び込んだ角材の跡を覆い隠した。


 井戸の底から、小さな笑い声が聞こえる。


 くすっ。


 小さき湯番が井戸を見る。


「今のは――」


「見るでない」


 布の下から、白那が低く告げる。


 男も井戸の中へ目を向けようとした。


「申し訳ない!」


 三男が、すぐに男と井戸の間へ入った。


「古い縄ゆえ、滑車が勝手に動いたようだ」


「勝手に?」


「昨夜も何度か引っかかりました。直したつもりでおりましたが、まだ緩んでいたようです」


 三男は湯番たちへ振り向いた。


「縄を外せ! 桶も片づけよ!」


「承知いたしました!」


「井戸の周りへ、もう一度水を撒け。滑る場所がないか、すべて確かめるのだ!」


 湯番たちは三男の意図を察した。


「まったく、古い井戸は手がかかりますな」


「若い者が確かめぬから、桶が飛ぶのだ」


「今度は、しっかり結んでおけ」


 口々に言いながら、日常の修繕作業へ戻っていく。


 小さき湯番が、濡れた男へ布を差し出した。


「お怪我はございませんか」


「水がかかっただけです」


「お湯をお使いになりますか」


「結構です」


「冷えてしまいます」


「要らぬと申しておる!」


 男は苛立った声を上げた。


「井戸の修繕と、火事の稽古。それだけでございますな」


「はい」


 妻が穏やかに答える。


「城内の者を守るための、日々の備えにございます」


「さようですか」


 男は一礼し、濡れた衣のまま人足たちのいる方へ戻っていった。


 湊一は近くにいた近習へ、目だけで合図を送る。


 近習は何も言わず、男の後を追った。


 姿が見えなくなってから、白那が布を押しのけて顔を出した。


「まったく、息苦しいではないか!」


「白那さま。ご無事ですか」


「布一枚で妾がどうにかなるものか!」


 白那は怒鳴りながら、男が立っていた場所を見つめた。


 石組みへ張った縄に、黒い羽根が一本引っかかっている。


 湊一は羽根を拾い上げた。


「もう、井戸を探られているのですね」


 妻の声は落ち着いていた。


「ああ。道のことまでは知られていないようだが、ここで何かをしているとは気づかれた」


 三男は井戸の滑車へ近づいた。


「本当に、縄が緩んでいたのでしょうか」


 跳ね上がった水桶を調べる。


 桶の側面に、小さな濡れた跡が残っていた。


 子どもの手ほどの大きさだった。


 だが、人の手形より丸い。


 短い指の間が、薄い膜でつながっているようにも見える。


「父上。これは」


 湊一も、その跡を見た。


 昨日、井戸の底で見たものと同じだった。


 ぺたり。


 水桶の内側から、小さな音がした。


 続いて、くすくすと幼い笑い声が聞こえる。


「白那。今のは何だ」


「知らぬ」


「昨日も、同じことを言ったぞ」


「古い水の客が、無作法な者を嫌っただけよ」


「私たちを助けてくれたのでしょうか」


 小さき湯番が尋ねる。


「勘違いするでない」


 白那は小さな鼻を鳴らした。


「あれは己の棲み処を、勝手にのぞかれたくなかっただけじゃ」


「でも、水の跡を隠してくださいました」


「桶の扱いが下手で、勝手に水をこぼしたのであろう」


 井戸の底から、また笑い声が聞こえた。


 くすっ。


「笑うでない!」


 白那が井戸へ怒鳴る。


 小さき湯番が楽しそうに笑った。


 三男も緊張を解きかける。


 だが、残された黒い羽根を見て、すぐに表情を戻した。


「古い水の客が動かなければ、井戸をのぞかれていました」


「だからといって、次も助けるとは限らぬ」


 白那が三男を見上げる。


「あれが作った隙を無駄にせず、道を隠したのは、そなたじゃ」


「私は、ただ火事の稽古だと偽っただけです」


「先ほど、そなたは刀を抜かなかった」


 湊一が言った。


「刀を抜けば、あの男は井戸を探る理由を得ていた。お前は戦わずに、ここにいる全員を守った」


 三男は、自分の手を見た。


 刀の柄ではなく。


 人へ指示を出し、水桶を運ばせ、道を隠した手だった。


「剣の腕は知らぬが、人の流れを切らさぬ目くらいは持っておるようじゃ」


 白那が言う。


「白那さま」


「褒めたのではない。今後も働けと申しておる」


 三男は、戸板に横たわっていた湯番を見る。


 先ほど、自分が数え忘れた者だった。


「次は、誰も見落としませぬ」


「次だけではない」


 白那が告げる。


「鈴が本当に鳴った時、一人でも置いてゆけば、その者にとって道はないのと同じじゃ」


 三男は、しばらく黙っていた。


 やがて、湯番たちへ向き直る。


「皆の名を、私に教えてください」


「名を?」


「私が導く者の名です。返事がなければ、誰を迎えに戻るべきか分かりません」


 湯番たちは顔を見合わせた。


 年かさの湯番が、ゆっくり頷く。


「では、まずわしの名から覚えていただきましょう」


「お願いします」


 三男が頭を下げる。


 湊一は、息子の横顔を見ていた。


 刀を取ることだけが、家を守ることではない。


 この子は今、自分の両手へ、別の役目を受け取ったのだ。


 列を途切れさせないこと。


 一人ずつ名を呼ぶこと。


 返事のない者を、決して置いていかないこと。


「父上」


 三男が湊一を見る。


「私には、刀は要りませぬ」


「そうか」


「幼い者たちの手を握れば、どちらの手もふさがります」


「ああ」


「その代わり、一人も離しませぬ」


 湊一は、静かに頷いた。


「任せた」


     ◇


 夕刻。


 人足たちが引き上げた後、小さき湯番は再び祠の前へ座った。


 母から受け取った麻紐を、鈴の金具へ通す。


 一度巻き。


 二度巻き。


 最後の結び目を作ろうとして、手を伸ばした。


 だが、小祠の軒には届かない。


 背伸びをする。


 もう少し。


 指先が、わずかに触れる。


「無理をするな」


 三男が、娘の前へ腰を落とした。


「乗れ」


「兄上の背中へですか?」


「鈴を結ぶのであろう」


「重くありませんか」


「白那さまの籠よりは軽い」


「誰が重いと申した!」


 白那が手籠の中から怒鳴る。


「白那さまは、とても軽うございます」


 小さき湯番が慌てて言う。


「では、なぜ兄上は途中で三度も休まれたのですか」


「坂が急だったからだ」


「妾が重かったのではないな?」


「違います」


「声が小さい!」


 三男は白那へ頭を下げてから、もう一度妹へ背を向けた。


「早く乗れ」


「はい、兄上」


 娘が三男の背へ乗る。


 三男はゆっくり立ち上がった。


「右じゃ」


 白那が下から指図する。


「もう少し右へ結べ」


「白那さまから見えておられますか」


「妾を誰だと思うておる!」


「籠の布しか見えていないようですが」


「小僧、余計なことを申すでない!」


 三男が小さく笑う。


「この辺りか」


「もう少し上です」


「お前が結ぶのだ。自分で決めろ」


「はい」


 娘は鈴へ結んだ紐を、小祠の軒へ回した。


 固く結ぶ。


 もう一度、結ぶ。


 鈴が夕日の下へ下がった。


「できました」


 三男が腰を落とす。


 娘は背から下り、結ばれた鈴を見上げた。


「これで、もうわたしの腰へは戻せませんね」


「戻したければ、ほどけばいい」


「それでは、ここへ来た方が困ります」


 娘は鈴を両手で包んだ。


「白那さま」


「何じゃ」


「もし、この鈴の音が聞こえないほど遠くへ行ったら、どうすればよいのでしょう」


 白那は娘を見た。


 いつものように、すぐ毒舌を返すことはしなかった。


 小さな手籠から下りようとして、身体が傾く。


 娘が慌てて両手を差し出した。


「白那さま」


「手を出すでない。妾は一人で――」


 白那の足が、もう一度ふらつく。


「……そこまで申すなら、支えさせてやる」


「わたしは何も申しておりません」


「申したも同じじゃ」


 白那は娘の手につかまり、祠の前へ立った。


 今の白那は、娘よりも小さい。


 それでも見上げる目には、水守の古い光が宿っていた。


「遠くへ流されようとも、水音を忘れるでない」


 白那が言った。


「水音を?」


「湯が桶へ満ちる音。雨が屋根を打つ音。釜の中で湯が踊る音。川が石を転がす音じゃ」


「雪の降るところでも、水音は聞こえますか」


「雪も水じゃ」


「でも、雪は静かです」


「長く黙っておるだけよ。春になれば解け、また流れる」


 白那は尊大に顎を上げた。


「水は、形を変えたくらいで己を忘れぬ」


「わたしも、忘れずにいられますか」


「それは、そなた次第じゃ」


「もし、忘れてしまったら?」


「妾が夢へ出て、朝まで説教してやる」


「毎晩ですか」


「思い出すまで毎晩じゃ」


「それは大変でございます」


「ならば忘れるでない!」


 娘が笑った。


 目の端には、少しだけ涙が浮かんでいる。


「白那さまも、わたしを忘れないでくださいませ」


「妾を誰だと思うておる」


 白那は小さな指で、娘の額をつついた。


「水守は、水を飲んだ者の顔を忘れぬ」


「本当ですか」


「そなたは妾の団子を半分にした不届き者じゃ。忘れようとしても忘れられぬわ」


「あの時は、半分こでございました」


「次は一つ、丸ごと捧げよ」


「はい。供物として?」


「水守の務めとして、毒見をしてやる」


「毒はないと、昨日分かったのではありませんか」


「日が変われば、毒も変わるやもしれぬ」


「そのような団子なら、父上に召し上がっていただきます」


「なぜ、この愚か者へ渡す!」


 白那が慌てる。


 娘は声を立てて笑った。


「お前が遠くへ行っても、俺がこの鈴を鳴らす」


 三男が言った。


「兄上は、皆さまのお名前を呼ぶお役目でしょう?」


「ならば、お前の名も呼ぶ」


「遠くて聞こえなかったら?」


「聞こえるまで呼ぶ」


 白那が二人を見上げる。


「やかましい兄妹よな。水音が聞こえぬではないか」


 言葉とは裏腹に、白那は二人を止めなかった。


「お祠が古くなったら、どうしましょう」


 娘が尋ねる。


「直せばよい」


 白那が答える。


「紐が切れたら?」


「結び直せ」


「鈴が錆びて、鳴らなくなったら?」


「新しい鈴を下げよ」


「それでは、わたしの鈴ではなくなってしまいます」


「愚か者」


 白那は小さな鼻を鳴らした。


「同じ物である必要などない。同じ場所で、帰る者のために鳴れば、それでよい」


 娘は、結んだ鈴を見上げた。


「では、誰かが結び直してくだされば、ずっと残りますね」


「ああ」


 妻が答える。


「お前がここを離れることがあっても、残った者が結び直します」


「兄上も?」


「俺が先に紐を切るような結び方はさせぬ」


 三男が答える。


「湯番たちも、この場所を覚えております」


 年かさの湯番が言った。


「われらがいなくなった後は、次の湯番へ伝えましょう」


 娘は、もう一度鈴の紐を確かめた。


     ◇


 最後の稽古が始まった。


 小さき湯番が、鈴を三度鳴らす。


 ちりん、ちりん、ちりん。


 危険を知らせる音。


 妻が湯場へ人を集める。


 湯番たちが戸板と水袋を運ぶ。


 三男は一人ずつ名を呼んだ。


 立っている者。


 戸板へ横たわる者。


 水を運ぶ者。


 最後まで湯場に残った者。


 返事を聞き、顔を確かめる。


 全員の名を呼び終えた三男が、古井戸の方角へ顔を向けた。


 井戸の祠に、小さき湯番だけが残っている。


 三男は、妹の名を呼んだ。


「――いるか!」


 娘が、大きな声で答える。


「ここにおります!」


 続いて、鈴を一度鳴らした。


 ちりん。


 井戸の底へ、白那の水が落ちる。


 とくん。


 音が、暗い水の道を進んでいく。


 まだ白那が道の途中にいる合図だ。


 三男は皆を止めたまま待った。


 誰も先へ進ませない。


 急かす声が上がっても、動かない。


「白那さまの合図があるまで、ここを離れてはならぬ!」


 三男の声が、湯場まで届く。


 やがて。


 古井戸の水が、もう一度揺れた。


 とくん。


 祠の鈴が、ひとりでに鳴る。


 ちりん。


 二度目の音。


 白那が外の出口まで水を通し、道の安全を確かめた合図だった。


「道は無事でございます!」


 小さき湯番の声が響く。


 三男は、もう一度全員の顔を確かめた。


「最初の組から進め!」


 妻が幼い者の手を取る。


 湯番たちが戸板を持ち上げる。


 三男は列の横へ立ち、進む者の名を一人ずつ呼んだ。


 返事がある。


 次の名を呼ぶ。


 また返事がある。


 一人も欠けていない。


「父上」


 三男が湊一を見る。


「全員、揃っております」


「ああ」


 湊一は頷いた。


「忘れるな。その言葉を、本当に言えるまで確かめ続けろ」


「はい」


 白那の膝が、ふらりと揺れた。


 小さき湯番がすぐに抱き留める。


「白那さま!」


「騒ぐでない。水が少々、鈍かっただけじゃ」


「お疲れになったのでは?」


「妾は疲れておらぬ」


「でも、お眠そうです」


「眠くもない」


 白那は大きなあくびをした。


「今のは、口から余計な風を出しただけじゃ」


「では、籠へお戻りくださいませ」


「仕方あるまい」


 娘は白那を抱き上げ、布を重ねた籠へ戻した。


 その上から、柔らかな手拭いを掛ける。


「幼子扱いするでない」


「冷えないためでございます」


「妾は水守ぞ。水で冷えるものか」


「では、外しますか」


 娘が手拭いへ手をかける。


「待て」


「寒いのですか?」


「違う。この布が、妾から離れたくないと申しておる」


「布が?」


「神には聞こえるのじゃ」


「では、そのままにいたします」


「うむ」


 白那は手拭いへ頬を寄せた。


 小さき湯番が懐から、小さな包みを取り出す。


「白那さま。鈴を結んだお祝いでございます」


 包みを開くと、団子が一つ入っていた。


 白那の眠たげな目が、すぐに開く。


「一つだけか」


「要らないのですか?」


「誰が要らぬと申した!」


 白那は籠の中で身体を起こした。


「祠へ供えた団子を、そのままにすれば傷むであろう。水守の務めとして、妾が片づけてやる」


「まだ、お供えしておりません」


「ならば、手間を省いてやる」


 娘は団子を白那へ渡した。


 今の白那の手には、一つの団子も大きい。


 両手で抱え、小さな口でかじる。


 その時、井戸の底で水が揺れた。


 とくん。


 くすっ。


 あの小さな笑い声が聞こえる。


 白那は団子を胸元へ抱きしめた。


「これは妾の供物じゃぞ」


 水面に、小さな波紋が浮かぶ。


「欲しがっても、やらぬからな」


 くすくす。


「笑うでない!」


「白那さま」


 小さき湯番が、団子を指した。


「半分こになさいますか?」


「するものか!」


 白那は急いで団子をひとかじりする。


「これは毒見じゃ。水の客へ怪しい物を与えるわけにはゆかぬ!」


「では、毒がなければ?」


「妾が責任を持って、すべて食べる」


「結局、白那さまがお召し上がりになるのですね」


「細かいことを申すでない!」


 笑い声が、古井戸の周りへ広がった。


 夕方の風が、小祠の軒を抜ける。


 ちりん。


 誰も触れていない鈴が、一度だけ鳴った。


 古井戸の底で、水が応える。


 とくん。


 その音は細い水の道を伝い、湯場の下を流れ、山の外へ向かっていく。


 たとえ祠の屋根が朽ちても。


 麻紐が切れても。


 今の鈴が錆び、別の鈴へ替わっても。


 帰る者のために誰かが結び直す限り、その音は残る。


 遠く離れた者へ。


 知らぬ土地へ流された者へ。


 雪の下で、春を待つ者へ。


 湯と飯と、待つ者のいる場所を忘れぬように。


 小さき湯番が結んだ鈴は、佐和山の夕暮れに鳴り続けていた。


 関ヶ原まで、あと四十一日。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


刀を持つことだけが、誰かを守ることではありません。


一人ずつ名を呼び、返事を確かめ、誰の手も離さない。三男もまた、この回で自分にしか果たせない役目を見つけました。


井戸の底にいる“古い水の客”の正体は、もうしばらく秘密です。


小さき湯番が結んだ鈴は、これからも離れた者たちへ帰る方角を知らせていきます。


次回も、佐和山に「残す支度」が続きます。

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