第三十六湯 白那、帰り道をひらく
古井戸の底へ下りる湊一と白那。
二人を送り出す小さき湯番は、団子と鈴を用意します。
土と石に埋もれた水の道。
そして暗い水の奥には、古くからの“客”がいるようで――。
第三十六湯 白那、帰り道をひらく
翌朝。
空が白み始めるより早く、湊一は古井戸の前に立っていた。
井戸の周囲に伸びていた草は刈られ、傷んだ石組みには新しい縄が張られている。
滑車から垂らした太縄の先には、人が一人乗れる籠が結びつけられていた。
「父上。まだ乗ってはなりませぬ」
小さき湯番が、籠へ足をかけようとした湊一を止めた。
「何だ。縄に不具合でもあったか」
「これから、持ち物を改めます」
「持ち物?」
「はい。井戸へお入りになる前の、大切な確認でございます」
娘は小さな手を開き、指を一本ずつ折りながら確認を始めた。
「行灯」
「ある」
「火打ち石」
「ある」
「縄」
「目の前にある」
「手拭い」
「井戸の底で何に使う」
「泥がついた時に使います」
「帰ってから湯へ入ればいい」
「そのお姿で湯場へ入れば、板が汚れます」
「また板か」
「板は毎日、皆で磨いております」
娘は真剣な顔だった。
「父上が城主様でも、泥をつけてよい理由にはなりませぬ」
「井戸へ下りる前から、帰った後の叱られ方が決まっているのか」
「備えは大切だと、父上がおっしゃいました」
「自分の教えが返ってきたな」
「それから、飲み水」
「井戸の底へ行くのに、水を持っていくのか」
「井戸のお水と、喉を潤すお水は別でございます」
「正しい」
湊一は素直に水筒を腰へ結んだ。
娘が最後の指を折る。
「団子」
「それは要らないだろう」
「要る」
即座に答えたのは、白那だった。
籠の横に立ち、敷かれた布を小さな手で何度も押している。
「妾が力を使えば、相応の供物が必要となる」
「朝餉を食べたばかりだろう」
「あれは朝餉じゃ。供物とは別腹よ」
「神にも別腹があるのか」
「神ゆえにあるのじゃ」
小さき湯番が、布に包んだ団子を掲げた。
「二つ用意いたしました」
「二つも?」
「白那さまに一つ。父上に一つです」
「俺にもあるのか」
「父上だけ何もないと、井戸の底で白那さまの団子を欲しがるかもしれませぬ」
「欲しがらない」
「この愚か者なら、やりかねぬ」
「白那まで何を言っている」
娘は団子の包みを妻へ預ける。
「お戻りになってから、お渡しします」
「それでは携帯食にならないぞ」
「無事に戻るための目印でございます」
「目印?」
「帰ってこなければ、召し上がれません」
娘は当然のように答えた。
「ですから、必ず戻ってきてくださいませ」
明るい声だった。
だが、団子を包んだ布を握る指には、少しだけ力が入っている。
湊一は娘の頭へ手を置いた。
「ああ。団子を食べに戻る」
「わたしと板も磨いていただきます」
「それも忘れていなかったか」
「はい」
「妾は団子だけでよいぞ」
「白那さまにも、小さな板を用意いたします」
「なぜ妾まで働かねばならぬ!」
「水守は、湯場を守るのでございましょう?」
「そ、それと板磨きは別の話じゃ!」
娘が楽しそうに笑う。
妻も口元を押さえていた。
湊一が籠を見る。
底には、柔らかい布が何枚も重ねられている。
「俺の座る場所だけ、随分と立派になったな」
「それは白那さまのお席です」
「俺の分は?」
「父上は立ってお乗りください」
「不公平ではないか」
「水守を粗末な籠へ乗せるわけにはゆかぬからのう」
白那が得意そうに布の上へ座った。
「白那。さっきまで、この籠をぼろ籠と言っていたぞ」
「小娘が布を敷いたゆえ、神を乗せるに足る籠となった」
「ありがとうございます、白那さま」
「うむ。褒めてつかわす」
「俺には礼もないのか」
「父上には、手拭いを用意いたしました」
「やはり不公平だ」
湊一が籠へ乗り込む。
娘も井戸の縁へ近づこうとした。
「そこまでだ」
「わたしも下りてはいけませんか」
「駄目だ」
「でも、わたしは小さき湯番です。白那さまのお手伝いを――」
「だから、ここに残ってほしい」
娘は不満そうに唇を結んだ。
「道とは、入口だけあっても帰り道にはならない」
「出口も必要でございます」
「ああ。それから、戻ってくる者を待つ者も必要だ」
湊一は、娘の腰に下げられた鈴を指した。
「時々、その鈴を鳴らしてくれ」
「鈴を?」
「暗い場所では、声がどちらから聞こえるのか分からなくなる。お前の鈴なら、俺も白那も聞き間違えない」
「妾を迷子扱いするでない」
「白那さまは、迷われないのですか」
「当然じゃ」
「では、父上が迷わないように鳴らします」
「そうしてくれ」
「この愚か者だけなら、置いて帰ってもよいぞ」
「白那さま」
「何じゃ」
「父上を置いてきたら、白那さまの団子も半分にいたします」
「何?」
白那が目を見開いた。
「この男を連れ帰ることと、妾の供物に何の関わりがある!」
「父上の分の団子を、白那さまがお召し上がりになると思いましたので」
「妾は、そのような卑しい真似はせぬ!」
「本当ですか」
「……供物を粗末にするくらいなら、引き受けてやることはある」
「やはり食べるのではないか」
「細かいことを申すでない!」
笑い声が、朝の古井戸へ広がった。
妻の合図で、籠がゆっくりと下ろされる。
井戸の縁が遠ざかった。
小さき湯番が、こちらへ手を振っている。
「父上! 白那さま!」
「身を乗り出すな!」
「分かっております!」
「声を出すでない! 井戸の中で響くであろう!」
白那が怒鳴る。
その声が、井戸の内側で幾重にも跳ね返った。
『響くであろう……おろう……ろう……』
「白那の声が一番大きいぞ」
「黙れ!」
『黙れ……まれ……れ……』
上から、小さき湯番の笑い声が降ってきた。
◇
井戸の底は、夜のように暗かった。
水は、踝が浸かるほどしかない。
底へ下ろした行灯の火が、濡れた石の上で細く揺れている。
白那は籠から降りると、水の中へ両足をつけた。
小さな足の周りに、丸い波紋が広がる。
その直後だった。
もう一つ、別の波紋が生まれた。
白那から少し離れた、暗い石壁のそば。
誰も触れていない水面が、内側から押されたように揺れている。
「白那」
「騒ぐでない」
「今、何かいたぞ」
「水が動いただけじゃ」
「水が勝手に、こちらへ近づいてくるのか」
波紋は湊一と白那の周囲を一度だけ巡り、横穴の方へ消えていった。
ぺたり。
濡れた足か、手が石へ触れたような音がした。
湊一は行灯を掲げた。
苔の生えた石壁に、小さな跡が残っている。
子どもの掌ほどの大きさだった。
だが、人の手形にしては丸い。
短い指の間が、水か薄い膜でつながっているようにも見えた。
「これは――」
湊一が顔を近づける。
その前に、水が石壁を伝い落ちた。
小さな跡は、たちまち消えてしまう。
くすっ。
横穴の奥から、声が聞こえた。
幼い子どもが、悪戯を見つかった時に笑うような声だった。
「誰かいるのか」
返事はない。
水が、かすかに揺れているだけだ。
湊一が白那を見る。
白那は驚いていなかった。
だが、いつものように鼻で笑うこともせず、暗い横穴の奥をじっと見つめている。
「白那。今のは何だ」
「古い水の客が、久方ぶりの物音に騒いだだけよ」
「水の客?」
「詮索するでない」
「人ではないのか」
「さあな」
「知っている顔だぞ」
「妾は水守じゃ。水に客が来れば、迎えもする」
「どんな客だ」
「そなたのように、質問ばかりする客ではない」
白那は話を打ち切るように背を向けた。
「行くぞ。客の家を勝手にのぞくのは無礼じゃ」
「ここは客の家なのか」
「細かいことを申すでない」
白那が水を蹴る。
その雫が行灯の火へ飛び、湊一は慌てて身を引いた。
白那は何事もなかったように、横穴へ向かう。
「こちらじゃ」
白那が示した先には、石組みの一部が崩れた場所があった。
人ひとりが、ようやく身体を入れられるほどの隙間である。
「これが水の道か」
「入口の名残じゃ」
「狭いな」
「そなたが大きすぎるのじゃ」
「白那を基準にするな」
湊一は行灯を先へ差し入れた。
奥に、黒い空間が続いている。
水は、その暗がりから流れてきていた。
湊一は腹ばいになり、横穴へ身体を滑り込ませた。
白那は屈むこともなく、後ろから歩いてついてくる。
「その姿は便利だな」
「幼子扱いしたら、水を浴びせるぞ」
「褒めただけだ」
「そなたの褒め言葉は、まことに腹が立つ」
横穴の先は、少しずつ広くなっていた。
やがて湊一も、腰を屈めれば歩けるほどになる。
壁には、古い石が積まれていた。
石と石の間から、細い根が垂れている。
「自然にできた穴ではないな」
「昔の者が、水を逃がすために作った」
「どれほど昔だ」
「そなたが生まれるより、はるかに前じゃ」
「それでは、何も分からない」
「水は年号など覚えておらぬ」
白那は壁へ手を当てながら進む。
しばらく歩いたところで、急に足を止めた。
「ここまでじゃ」
行灯を掲げる。
道は、土と石で完全に塞がれていた。
上から崩れ落ちたらしい大きな石が二つ。
その隙間を、粘りのある土と細かな砂利が埋めている。
水だけが、石の下から細く流れ出していた。
「この向こうに、道があるのか」
「ある」
「人が通れるほどか」
「元はな」
「今は?」
「それを確かめに来たのであろう」
湊一は持ってきた小さな鍬を土へ入れた。
一度。
二度。
湿った土を掻き出す。
だが、少し掘っただけで、上の石が鈍い音を立てた。
「動くな!」
白那の声が飛んだ。
湊一は鍬を止める。
頭上から、砂がぱらぱらと落ちた。
「この石を先に外せば、上がすべて落ちてくる」
「では、どうする」
「水に尋ねる」
白那は、大きな石の前へ進んだ。
両手を、その表面へ当てる。
水音が変わった。
先ほどまで足元を流れていた細い水が、白那の周りへ集まり始める。
「白那」
「黙っておれ」
白那は目を閉じた。
「土の向こうに、空いたところがある。道は死んでおらぬ」
「出口まで続いているのか」
「水は、外の風を覚えておる」
白那が小さく息を吐く。
「されど、石が重い」
「人の手で動かせないのか」
「そなた一人では無理じゃ。外からも掘れれば早いが、出口がどこか分からぬ」
「白那なら分かるのか」
「水を通せばな」
その言葉に、湊一は白那の横顔を見た。
「どれほど力を使う」
「知らぬ」
「昨日は、相応に疲れると言った」
「妾が疲れるのではない。眠っておる水を起こすのに、少々骨が折れるだけじゃ」
「同じことだ」
「違う」
「力を使えば、また小さくなるのだろう」
白那は答えなかった。
力を失えば、姿は幼くなる。
さらに力を使えば、水へ還ってしまうかもしれない。
湊一は、白那の腕をつかんだ。
「いったん戻る」
「離せ」
「外から出口を探す。人を増やし、少しずつ掘ればいい」
「それでは間に合わぬ」
「まだ、戦が明日来ると決まったわけではない」
「戦は、決まってから支度を始めるものではなかろう」
「だが――」
「昨日、妾へ何もさせぬつもりはないと申したな」
白那が湊一を見上げる。
「妾は道具ではない」
「分かっている」
「ならば、妾の力を何に使うかは、妾が決める」
小さな手が、湊一の指を振り払った。
「この道は、そなたの妻子だけが通るのではない。幼子も、老人も、傷ついた者も通るのであろう」
「ああ」
「鈴が鳴ってから、道を掘り始めるつもりか」
「それは――」
「塞がった道は、誰も守らぬ」
白那は再び石へ手を当てた。
「妾は、石垣を守るためにおるのではない」
昨夜、妻へ告げた言葉だった。
「水と、水へ帰る者を守る。それが妾の務めじゃ」
「白那」
「そなたは、道をひらいた後の支度をせよ」
「後の支度?」
「木を組み、石を支え、二度と土に眠らぬようにするのは、人の役目じゃ」
白那は尊大に顎を上げた。
「妾がすべてしてやれば、そなたの出番がなくなるであろう。少しは働かせてやる」
「そんな気遣いは要らない」
「気遣いではない。命令じゃ」
湊一は、白那の目を見た。
白那は退かなかった。
幼い姿をしている。
団子があれば、供物だと屁理屈をこねる。
風に湯気を散らされれば、湊一に風を止めろと怒鳴る。
それでも白那は、この城の水を守ってきた者だった。
「……何をすればいい」
「その木を、石の両脇へ立てよ」
湊一は持ってきた二本の短い角材を取り出した。
崩れかけた石の下へ、慎重に差し込む。
「次は」
「縄を、上の石へ回せ」
「引くのか」
「まだじゃ。妾が申すまで、動かすでない」
言われたとおりに縄をかける。
白那は足元の水へ片膝をついた。
その小さな指先が、水面へ触れる。
「水よ」
声が、暗い横穴の奥へ広がった。
「いつまで眠っておる」
水面に、白い光が浮かぶ。
「道を忘れたか」
一滴。
また一滴。
石の壁から水が染み出す。
天井から落ちた雫が、白那の周りへ集まっていく。
「忘れたなら、妾が思い出させてやる」
白那が手を上げた。
「流れよ」
足元の水が逆巻いた。
冷たい風が、横穴の奥から吹きつける。
行灯の火が大きく揺れた。
石の向こうから、低い音が響く。
ごう。
ごう。
遠くで、眠っていた水が動き始める音だった。
「若旦那!」
「何だ!」
「縄を引け!」
湊一は両手で縄をつかみ、力いっぱい引いた。
石は動かない。
「もっとじゃ!」
「引いている!」
「飯を食うたであろう!」
「朝餉の前だ!」
「使えぬ男よな!」
「帰ったら白那の団子も食べてやる!」
「妾の供物へ手を出すでない!」
白那が両手を振り下ろした。
水が、塞がれた石の隙間へ一気に入り込む。
土が内側から押し出された。
石の下から、黒い泥が噴き出す。
「今じゃ!」
「うおおっ!」
湊一が縄を引く。
大きな石が、わずかに傾いた。
角材が軋む。
頭上から砂が落ちた。
「白那、崩れるぞ!」
「崩さぬ!」
白那の白い髪が、強い水の流れに巻き上がる。
小さな身体を包む衣が、水の中で白く揺れた。
「妾を誰だと思うておる!」
石と石の間を、水が駆け抜ける。
泥が流れ出す。
隠れていた石組みの弧が、少しずつ姿を現した。
「今度は下の石じゃ!」
湊一は縄を離し、足元の石へ鍬を差し込んだ。
梃子のように押し下げる。
一つ。
また一つ。
人の頭ほどの石が外れた。
その向こうから、冷たい風が流れ込む。
「風だ!」
「まだじゃ!」
白那は両手を前へ突き出した。
集まった水が、細い龍のように塞がれた土へ突き刺さる。
土壁の中央に、小さな穴が開いた。
穴の向こうに、淡い光が見える。
朝の光だった。
「出口だ!」
「騒ぐでない! まだ人は通れぬ!」
白那の声が震えている。
湊一が振り向く。
白那の姿が、先ほどより小さく見えた。
着物の袖から出ていた指先が、さらに幼くなっている。
「白那、もういい!」
「よくない!」
「出口は分かった! 後は外から掘る!」
「ここで止めれば、水が再び土を抱える!」
白那は歯を食いしばった。
「ひらくなら、今じゃ!」
光の向こうから、水が応える。
ちりん。
その時、遠くで鈴が鳴った。
井戸の上に残った、小さき湯番の鈴だった。
細い音が井戸の底へ降り、暗い水の道を走ってくる。
「聞こえたか、白那!」
「当然じゃ!」
白那の口元が、わずかに上がった。
「水よ。帰る音が聞こえたであろう!」
もう一度、鈴が鳴る。
ちりん。
「ならば、道をあけよ!」
水が弾けた。
土が崩れ落ちる。
大きな石が横へ滑り、湊一の張った縄に支えられて止まった。
朝の光が、一気に広がる。
人が一人、身を屈めれば通れるほどの穴が開いていた。
その向こうには、木の根と藪に隠された斜面がある。
城の外だった。
「ひらいた……」
湊一が息を吐く。
白那は、ひらかれた道をしばらく見つめていた。
それから、立ち上がろうとする。
だが、小さな膝が折れた。
「白那!」
湊一は水の中へ飛び込み、その身体を抱き留めた。
軽い。
あまりにも軽かった。
もともと幼かった姿が、さらに縮んでいる。
両腕で抱けば、すっぽりと収まってしまうほどだった。
「離せ」
「立てるのか」
「立てる」
白那が湊一の腕から下りようとする。
足が水へ触れた途端、身体がぐらりと揺れた。
湊一がもう一度支える。
「立てていない」
「水が勝手に揺れたのじゃ」
「地面まで揺れていたのか」
「この水は、まことに落ち着きがない」
「白那が疲れたのだろう」
「妾が疲れたのではない」
白那は息を切らしながらも、尊大に顎を上げた。
「水が愚図であっただけよ」
「はいはい」
「子どもへ言い聞かせるような返事をするでない!」
「ならば、自分で歩け」
「歩けぬとは申しておらぬ!」
「では、下ろすぞ」
「待て!」
白那の小さな手が、湊一の襟をつかんだ。
「……どうしてもと申すなら、背負わせてやらぬこともない」
「俺は申していない」
「帰り道をひらいた水守を、泥の上へ置いてゆくつもりか!」
「分かった、分かった」
「二度も申すでない!」
湊一は背を向けた。
白那を背負い、帯と布で身体をしっかりと支える。
白那の腕が、湊一の首へ回った。
短くなった足は、湊一の腰まで届かない。
「苦しくないか」
「誰へ物を申しておる」
「眠ってもいいぞ」
「眠るものか。妾が見ておらねば、そなたは出口で頭を打つ」
「もう打った」
「やはり愚か者ではないか」
湊一は、ひらいたばかりの穴をくぐった。
外へ出る。
朝の光が目に染みた。
そこは、佐和山城の裏手にある斜面だった。
上から見れば藪と岩にしか見えない。
城下からも、街道からも、出口があるとは分からないだろう。
流れ出した水は、草の根元を濡らし、小さな筋となって山裾へ向かっている。
「白那。道は、もう塞がらないのか」
「今すぐにはな」
「今すぐには?」
「妾が水を通しただけじゃ。土はまた崩れる。木を組み、石を支え、足場を作らねば、老人も傷ついた者も通れぬ」
「結局、まだ働けということか」
「当然じゃ」
背中の白那が、小さな鼻を鳴らした。
「ひらくのは妾の役目。道にするのは、そなたたちの役目じゃ」
◇
鈴の音を頼りに斜面を登ると、古井戸のそばで待っていた妻と小さき湯番が駆け寄ってきた。
「殿!」
「父上!」
「大丈夫だ。道はひらいた」
妻の顔に、安堵が広がる。
小さき湯番は、湊一の背中を見て目を見開いた。
「白那さま……?」
「何じゃ」
白那は湊一の肩越しに、尊大な顔を見せた。
「どうして、そのように小さくなられたのですか」
「力を慎みすぎただけじゃ」
「お歩きになれないのですか」
「歩けぬのではない。この愚か者が、どうしても妾を背負いたいと申すゆえ、仕方なく背負わせてやっておる」
「俺は一度も言っていないぞ」
「黙れ。今は妾が話しておる」
小さき湯番は心配そうに白那を見つめた。
それから、妻へ預けていた布包みを受け取る。
中には、団子が二つ入っている。
「父上。お約束の団子でございます」
「ああ。戻ってきたぞ」
「はい!」
娘は嬉しそうに笑った。
それから白那の分の団子を取り出そうとして、手を止める。
今の白那の手には、団子一つでも大きすぎる。
娘は団子を両手で半分に割った。
「白那さま。どうぞ」
「半分?」
「はい。今の白那さまには、こちらの方が持ちやすいと思いました」
「妾を幼子扱いするか」
「では、一つ全部になさいますか」
「当然じゃ」
娘が丸い団子を一つ差し出す。
白那は受け取ろうと両手を伸ばした。
だが、団子は白那の掌から転がり落ちそうになる。
「ぬっ……」
白那は慌てて抱え込んだ。
団子に顔を隠され、前が見えていない。
「白那。無理をするな」
「無理などしておらぬ!」
「半分の方がいいのではないか」
「これは、団子が大きすぎるのじゃ!」
「先ほどまで一つ全部と言っていただろう」
「人の作る物は、加減を知らぬ!」
娘は笑いをこらえながら、団子を受け取った。
もう一度、半分に割る。
「では、半分をどうぞ」
「仕方あるまい」
白那は半分の団子を受け取った。
今度は両手でしっかり持てる。
「白那さま。お味はいかがですか」
「まだ食べておらぬ」
「力をお使いになった後です。早く召し上がってくださいませ」
「妾は欲しいとは申しておらぬぞ」
「では、要りませんか」
娘が団子を戻そうとする。
「待て」
白那の小さな手が伸びた。
「幼子に怪しい物を食わせるわけにはゆかぬ」
「朝、皆でいただいた団子でございます」
「妾が見ておらぬところで、何があったか分からぬであろう」
「では」
「水守の務めとして、毒見をしてやる」
白那は団子をひとかじりする。
「いかがですか」
「まだ分からぬ」
もうひとかじり。
「毒はございますか」
「急かすでない」
さらにひとかじり。
あっという間に、半分の団子がなくなった。
「どうでしたか」
「うむ」
白那は、娘の手に残ったもう半分を見る。
「今のところは、毒はないようじゃ」
「よかったです」
「されど、そちらへだけ毒が入っておるやもしれぬな」
「では、こちらはわたしが毒見をいたします」
娘が残り半分を口へ入れた。
「待て! そなたにはまだ早い!」
「もう食べてしまいました」
「水守の務めを奪うでない!」
「白那さまにも、半分差し上げました」
「妾は、もう少し詳しく調べてやろうと思うただけじゃ!」
妻が口元を押さえて笑う。
湊一も、ようやく肩の力を抜いた。
「殿」
妻が古井戸を見た。
「人は、通れそうでございますか」
「ああ。一人ずつなら通れる。だが、まだ狭い。老人や負傷者を戸板へ乗せたまま運ぶのは無理だ」
「広げられますか」
「やる。天井を木で支え、崩れた石を組み直す。足を滑らせぬよう縄も張る」
「出口は」
「藪に隠れている。見つからぬよう残したまま、内側から開けられるようにする」
「水や布を置く場所も必要でございますね」
「ああ。途中で休める場所も作ろう」
「道はひらいたばかりじゃぞ」
白那が湊一の背で言った。
「できたつもりになるでない」
「分かっている」
「一度通っただけで、道を覚えたとも思うな。昼も夜も歩け。雨の日も確かめよ。幼子の足で何歩かかるか、老人がどこで休むか、傷ついた者を誰が支えるかも決めよ」
「ああ」
「鈴の音が、どこまで届くかもな」
小さき湯番が、腰の鈴へ手を置いた。
「今、鳴らしてもよろしいですか」
「一度だけじゃ」
「はい」
娘が、古井戸の縁に立つ。
小さな手で鈴を鳴らした。
ちりん。
澄んだ音が、井戸の底へ落ちていく。
しばらくして、ひらかれた水の道の奥から、かすかな響きが返ってきた。
妻が息を呑む。
湊一は目を閉じ、その音を確かめた。
暗い井戸の底でも。
土と石に囲まれた道の途中でも。
あの鈴が聞こえれば、帰る方角を見失わずに済む。
「白那さま」
娘が尋ねる。
「鈴は、道の向こうまで届きましたか」
「当然じゃ」
白那の声は、少し眠たげになっていた。
「妾がひらいた道ぞ。鈴一つ通らぬはずがなかろう」
「白那」
「何じゃ」
「ありがとう」
「礼は要らぬ」
白那は湊一の肩へ、小さな頬を預けた。
「妾は、水へ道を思い出させただけじゃ」
「それでもだ」
「礼を申す暇があるなら、湯場へ戻れ」
「湯へ入るのか」
「妾のためではない。力を使った後の水を休ませねばならぬ」
「団子も要るか」
「供物を捧げたいと申すなら、止めはせぬ」
「いくつだ」
「数を尋ねるとは無粋な男よな」
小さき湯番が笑った。
「白那さま。次は一つ全部、差し上げます」
「妾は欲しいとは申しておらぬぞ」
「はい。毒見をお願いいたします」
「そなたが、そこまで頼むなら仕方あるまい」
白那は満足そうに頷いた。
だが、湊一の背から下りようとはしなかった。
眠ってしまわぬよう耐えているのか、小さな指が湊一の襟をしっかりとつかんでいる。
湊一は、白那を背負ったまま歩き始めた。
妻が隣を歩く。
小さき湯番は鈴を手に、その少し前を進んだ。
古井戸の底では、細い水が流れ続けている。
城の内から、城の外へ。
そして、外から城へ。
それは、ただ逃げるための道ではない。
離れた者が、もう一度戻るための道。
傷ついた者が、湯と飯の待つ場所へ帰るための道だった。
白那は大きな力を使い、さらに幼い姿になった。
それでも、その小さな手がひらいた道は、佐和山に生きる者たちの命へつながっている。
湯場へ続く坂道を、鈴の音が先に進む。
ちりん。
ちりん。
その音を追うように、山の底で目覚めた水が、静かに流れ始めていた。
関ヶ原まで、あと四十二日。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
井戸の底で感じられた小さな気配。その正体は、まだ白那だけが知っているようです。
大きな力を使い、さらに幼くなってしまった白那。それでも、帰るための道をひらくことができました。
次回、小さき湯番が井戸の祠へ鈴を結びます。
その音は、離れた者たちをつなぐ合図になっていきます。




