第三十五湯 妻子に、帰り道を
伏見城落城の報せを受け、佐和山へ戻った湊一。
待っていたのは、毅然と湯番を務める小さな娘でした。
今回は、戦うためではなく――大切な者たちが「帰るための道」を作るお話です。
第三十五湯 妻子に、帰り道を
伏見城が落ちた翌日の夕刻。
湊一は佐和山へ戻った。
馬を降りると、汗と泥に染みついた煙の臭いが立ち上る。
城門をくぐった途端、見慣れた者たちの声が耳へ戻ってきた。
水桶を運ぶ掛け声。
薪を割る音。
飯場から漂う味噌の香り。
そして、湯場から響く小さな鈴。
ちりん。
ちりん。
二度。
湯加減が整った合図だった。
「父上。そこで止まってくださいませ」
鈴の紐を握った娘が、湯場の入口に立っていた。
佐和山の小さき湯番である。
声は毅然としていた。
背筋も、きちんと伸びている。
だが、鈴の紐を握る小さな手は、指の節が白くなるほど力んでいた。
「戻って早々、父親を門前払いか」
「門前ではございませぬ。湯前でございます」
「白那に教わったな」
「はい」
娘はいつものように答えた。
それから、湊一の頭から足元までを何度も見た。
「父上」
「何だ」
「お怪我は」
「ない」
「本当に?」
「本当だ」
「お袖に、血がついております」
「俺の血ではない」
「こちらにも」
「それも違う」
「では、お背中は」
「大丈夫だ」
「お足は」
「何ともない」
湊一が両腕を広げて見せても、娘の顔から不安は消えなかった。
「傷がございましたら、隠さずにおっしゃってくださいませ」
「小さき湯番に嘘はつかない」
「本当に、どこも痛くないのですね」
「ああ」
湊一が頷く。
娘は、ようやく息を吐いた。
その途端だった。
丸い瞳から、涙が一粒こぼれた。
続いて、もう一粒。
それでも娘は鈴の紐を離さず、背筋を伸ばしたまま立っている。
「どうした」
「何でも、ございませぬ」
「泣いているぞ」
「これは……」
娘は唇を固く結んだ。
「湯気でございます」
「まだ外だ。湯気は来ていない」
「少しだけ、こちらまで流れてきたのです」
「見苦しい嘘を申すでない」
水桶の縁から、白那の声が飛んできた。
「白那さま」
「この小娘は、朝から馬の蹄が聞こえるたび、門まで走っておったぞ」
「それは言わないお約束です!」
「妾は約束した覚えなどない」
幼い姿の白那は水桶の縁に腰掛け、両手で団子を抱えていた。
口元には、しっかり餡がついている。
「父親が死んだのではないかと案じ、飯も半分しか食わなんだ」
「半分は食べたのか」
「父上!」
「すまない」
湊一が笑うと、娘の顔がくしゃりと崩れた。
「……遅うございます」
「ああ」
「昨日、お戻りになるかもしれないと聞きました」
「ああ」
「でも、お戻りになりませんでした」
「伏見の傷ついた者たちを置いてこられなかった」
「分かっております」
娘の声が震える。
「父上が、お役目を放り出して戻る方ではないことも、分かっております」
「すまなかった」
「ですから、わたしも小さき湯番として、泣かずにお迎えしようと思っておりました」
涙は、もう止まらなかった。
それでも娘は、鈴の紐をしっかり握っている。
湊一は泥の上へ膝をついた。
娘と目の高さを合わせる。
「ただいま」
その一言を聞いた瞬間、娘の手から鈴の紐が滑った。
ちりん。
鈴が一度だけ鳴る。
娘は湊一の胸へ飛び込んだ。
「父上……!」
小さな両腕が、泥と煤にまみれた衣を強くつかむ。
「お帰りなさいませ……!」
「ああ。ただいま」
「ご無事で、よかった……」
湊一は娘の背へ腕を回した。
細い身体が、声を殺して震えている。
「おい。着物が汚れるぞ」
「構いませぬ」
「先ほど、板が汚れると言っていなかったか」
「板は拭けばきれいになります」
娘は湊一の胸へ顔を押しつけたまま答えた。
「父上は、替えがございませぬ」
湊一は何も言えなくなった。
湯場の奥では、妻が目元を押さえている。
白那だけは、水桶の上で尊大に腕を組んでいた。
「まったく、揃いも揃って愚か者よな」
「白那さまも、心配しておられました」
娘が涙の顔を上げる。
「誰がじゃ!」
「父上がお戻りになるまで、団子を三つしか召し上がりませんでした」
「十分食べているではないか」
「あれは心配で食が細くなっておったのじゃ!」
「普段は幾つ食べるつもりだ」
「細かいことを申すでない!」
娘が涙をこぼしたまま笑った。
湊一も笑った。
妻も、今度は口元を隠さず笑っている。
泣き声と笑い声が、湯気の立つ佐和山へ一緒に広がった。
娘は湊一から離れると、涙を袖で拭った。
そして、小さき湯番の顔へ戻る。
「父上」
「何だ」
「まずは、外でお足を洗ってくださいませ」
「まだ入れてもらえないのか」
「決まりでございます」
「厳しい湯番だな」
「それから、お湯をお使いになった後は」
娘は、泥のついた自分の着物を見下ろした。
「一緒に板を拭いていただきます」
「城主に掃除をさせるのか」
「湯場を汚した者のお役目です」
「よかろう。妾が見張ってやる」
「白那も拭け」
「なぜ妾まで働かねばならぬ!」
ちりん。
もう一度、鈴が鳴った。
今度の音は、父の帰りを確かめた小さき湯番の、晴れやかな鈴だった。
◇
湯から上がると、湊一は妻だけを奥の部屋へ呼んだ。
三男と小さき湯番には、先に休むよう伝えてある。
長女はすでに山田家へ嫁いでいるが、夫と幼子とともに佐和山にいる。
次女は岡家へ嫁ぎ、この城を離れていた。
そして二人の息子は、大坂にいる。
長男は、大坂城に置かれた人質。
次男は、秀頼の小姓を務めている。
どちらにも、これから話すことは知らせていない。
部屋の戸を閉め、湊一は一枚の絵図を広げた。
佐和山城の奥向き。
湯場。
古井戸。
裏手の林。
城下へ続く道。
そこから外れ、山裾の村へ続く細い道まで描いてある。
妻は何も言わず、絵図を見つめた。
「伏見で、島津殿と話した」
湊一は言った。
「兵の進む道ではなく、帰る道についてだ」
「帰る道」
「ああ」
湊一は湯場の裏を指した。
「佐和山が危うくなった時は、ここへ来てほしい」
「湯場へ、ですか」
「表の門は使わない。湯場の薪口から裏へ抜ける。古井戸の脇を通り、林の中へ入る」
指を動かし、細い線をなぞる。
「この道は人が二人並んで歩けない。だが、兵を動かすには狭すぎるから、攻め手も見張りを置かない可能性が高い」
「その先は」
「山裾の村へ出る。村には、俺をよく思ってくれている者がいる。そこからは道を分ける。京へ出てもよい。北へ向かってもよい」
妻の指が、絵図の上へ置かれた。
「誰が、この道を使うのでございますか」
「お前と、三男、小さき湯番。それから、佐和山にいる長女と、その家族だ」
「殿は」
「その時の戦況による」
「お戻りになるのですか」
「戻るつもりだ」
「つもりではなく」
妻の声は穏やかだった。
だからこそ、湊一には答えられなかった。
必ず帰る。
その一言を、未来を知る自分が軽々しく口にしてよいはずがない。
「約束はできない」
「そうでございましょうね」
妻は怒らなかった。
泣きもしなかった。
ただ、絵図を見つめたまま尋ねる。
「大坂の二人は、どうなさるのです」
湊一の指が止まった。
「長男は人質だ。こちらの都合だけで佐和山へ戻すことはできない」
「次男は」
「秀頼様の小姓を務めている。あの子もまた、役目を捨てて戻ることはできない」
「戦になってからでは、迎えにも行けませぬ」
「ああ」
「ならば、あの子たちには帰り道がないのでございますか」
「違う」
湊一は大坂の方角へ指を置いた。
「あの二人には、別の道を残す」
「どのように」
「大坂にいる信の置ける者へ頼む。石田の名を守れとは言わない。ただ、生きて大坂を離れる時に、誰へ従うべきかだけを伝える」
「佐和山へ戻るなとも?」
「ああ」
湊一は拳を握った。
「俺たちの危機を知れば、あの子たちは戻ろうとする」
「そうでしょうね」
「だから戻してはならない。今は遠ざかることが、いつか家族と再び会うための道になる」
妻は静かに目を伏せた。
「帰ってくるなと、父親が伝えるのですか」
「生きるために必要なら」
言葉にすると、胸が痛んだ。
本当なら戻ってきてほしい。
同じ膳を囲み、同じ湯気の中で笑ってほしい。
だが、帰ろうとする道が死へ続くなら、閉じなければならないこともある。
「大坂の二人にも、帰り道を残す」
湊一は言った。
「佐和山へ戻る道ではない。生きた先で、もう一度家族と会うための道だ」
「承知いたしました」
妻が頷く。
その指が、再び佐和山の絵図へ戻った。
「それでは、こちらの道について伺います」
「ああ」
「この道を知っている者は」
「今のところ、俺と、道を調べた近習が二人。今夜からは、お前だ」
「三男は」
「全容は知らせない。元服前とはいえ、刀を取ろうとするかもしれない。鈴の合図があった時は、お前のそばを離れぬようにだけ伝える」
「小さき湯番は」
「危険のすべてを理解するには、まだ幼い。鈴の合図と、湯場へ人を導く役目だけを覚えさせる」
妻はしばらく黙っていた。
やがて、絵図から手を離す。
「要りませぬ」
「何?」
「私たちだけが逃げる道なら、要りませぬ」
湊一は妻を見た。
「何を言っている。お前たちが残れば――」
「湯場で働く女たちは、どうなさるのです」
「それは――」
「飯場の者たちは」
「できる限り――」
「子を連れて城へ逃げ込んできた女たちは。足の弱った老人は。傷を負い、駕籠がなければ歩けぬ者は」
妻の指が、絵図の湯場へ戻った。
「殿は、この場所を何のためにお作りになったのですか」
「皆が身体を休めるためだ」
「では、戦が来た時だけ、家族のための場所へ戻すのでございますか」
「そうではない」
「ならば、誰を家族と呼ばれるのです」
その問いが、湊一の胸へ突き刺さった。
妻子を逃がす。
それだけを考えていた。
未来に起きる佐和山城の落城から、せめて家族だけでも遠ざけようとした。
だが、湯場へ来る者たちを、湊一自身が何度も迎えてきた。
汗にまみれた人足。
傷ついた足軽。
腰を痛めた老人。
手を荒らした女中。
飯を炊き続ける者。
薪を割り続ける者。
湯の前では、誰もが同じように裸になった。
同じ湯気に包まれ、同じ場所へ帰っていった。
それなのに今、湊一は家族と、それ以外の者との間へ線を引こうとしていた。
「……俺の考えが足りなかった」
「はい」
「少しは遠慮してくれ」
「遠慮している間に、戦は待ってくれませぬ」
「それも、そうだな」
湊一は絵図へ向き直った。
「全員を一度に動かせば、かえって見つかる」
「ならば分けます」
「道が狭い。老人や負傷者は遅れる」
「先に出します」
「敵が来た時、先に動けるとは限らない」
「ならば、日頃から湯場の近くへ集めておきます」
「理由はどうする」
「傷の手当てと、身体を休めるため。殿がお決めになったことでございましょう」
妻の答えは早かった。
「布は湯場へ置けます。傷を洗うためのものに見せればよいでしょう」
「ああ」
「薬も分けます。一つの箱へ集めれば、奪われた時に何も残りませぬ」
「飯は」
「米俵を一か所へ積み上げるのは目立ちます。飯場、湯場、井戸の番小屋へ、日々使う分として分けて置きます」
「草鞋も必要だ」
「薪棚の下へ入れましょう。濡れぬよう、油紙で包みます」
「水袋は」
「空のものを、桶の修理道具に紛れさせます。合図があった時に井戸で満たします」
妻は絵図の上へ、次々と指を置いていく。
湊一が戦場の兵を帰すために考えた支度を、妻は佐和山に残る者たちの支度へ変えていった。
「暗い中で、子どもがこの道を歩けるか」
湊一が尋ねる。
「昼のうちに歩かせます」
「逃げ道だと知られる」
「薬草を摘みに行かせればよいのです。薪拾いでも構いませぬ」
「なるほど」
「殿」
「何だ」
「私も、城の中で暮らしてきたのでございます」
「知っている」
「今のお顔は、知らなかったと書いてございます」
「そんな顔はしていない」
「しておるぞ」
部屋の隅から、小さな声がした。
湊一と妻が同時に振り向く。
いつの間にか、水差しの横に白那が座っていた。
手には四つ目の団子がある。
「白那」
「誰が勝手に妾を呼んでよいと申した」
「いつからいた」
「そなたが、己の妻子だけ逃がせばよいと間抜けな顔で申しておった頃からじゃ」
「ほとんど最初からではないか」
「愚か者の話は長い。待ちくたびれたゆえ、供物を取りに行っておった」
「それは供物ではなく、子どもたちの団子だ」
「城の子は、妾の水を飲んで育っておる。すなわち、あの団子も巡り巡って妾のものじゃ」
「どこをどう巡れば、そうなる」
「細かいことを申すでない」
白那は団子を一口かじり、絵図をのぞき込んだ。
「古井戸の脇を通るつもりか」
「ああ」
「このままでは使えぬぞ」
「なぜだ」
「あの井戸の下では、古い水の道が眠っておる」
白那の指先から、一滴の水が落ちた。
水滴は絵図の上を転がり、古井戸から湯場の裏へ、細い筋を描いて止まった。
「水の道?」
「昔は、山の内から外へ水を逃がしておった。今は土と石で塞がれておるがな」
「人が通れるのか」
「知らぬ」
「知らないのか」
「妾は水守じゃ。穴熊ではない」
「では、確かめられないのか」
「誰が、できぬと申した」
白那の目が鋭くなる。
「されど、土を動かし、水を通せば、妾にも相応の疲れが出る」
白那の力には代償がある。
使えば使うほど、姿は幼くなる。
さらに力を失えば、水へ還ってしまうかもしれない。
「ならば、無理に使わなくていい」
「そなたは、すぐに妾へ命じようとするか、何もさせまいとする」
「心配しているんだ」
「妾を役立たず扱いすることが心配か」
「そうは言っていない」
「同じじゃ」
白那が団子の串を湊一へ向ける。
「道を作ると申したのは、そなたであろう。人の手で開けるところまで開けよ。水にしか開けぬところは、妾が見る」
「だが――」
「黙れ、愚か者」
白那は妻へ顔を向けた。
「そなた。古井戸までの道を、今夜見せよ」
「承知いたしました」
「妻まで勝手に決めるな」
「殿は、古い絵図をもう一枚お持ちください」
「何?」
「井戸の修繕をした時のものが、蔵に残っているはずです」
「今からか」
「戦は待ってくれないと、先ほど申し上げました」
妻と白那が、同時に湊一を見る。
どうやら、この部屋に味方はいない。
「分かった。取ってくる」
湊一は立ち上がり、戸へ手をかけた。
「団子は残しておけよ」
「早く行け!」
白那の怒声に追い出されるように、湊一は部屋を出た。
◇
蔵から古い絵図を探し出し、湊一が部屋へ戻る。
戸を開けようとした時、中から妻の声が聞こえた。
「白那様」
「何じゃ」
「もし、殿がお戻りにならぬ時も、子どもたちをお願いいたします」
湊一の手が止まった。
「妾を子守扱いするでない」
「子守をお願いしているのではございませぬ」
「では、何じゃ」
「道を、お願いいたします」
妻の声は震えていなかった。
「子どもたちだけではありませぬ。女たちも、老人も、傷ついた者も。私が皆をまとめます。白那様は、水の道をお示しください」
「あの愚か者を介さず、妾へ頼むか」
「殿がいなければ、何も決められぬ妻ではいられませぬ」
しばらく、返事はなかった。
水差しの中で、水が小さく揺れる音だけがする。
「顔を上げよ」
白那が言った。
「妾へ頭を下げたところで、水は速く流れぬ」
「では」
「妾は、石垣を守るためにおるのではない」
白那の声から、いつもの戯れが消えていた。
「水と、水へ帰る者を守るのが妾の務めじゃ」
「はい」
「妾が先で水を導く。そなたは後ろで、人の手を離すな」
「承知いたしました」
「幼子が泣こうが、老人が立ち止まろうが、置いてゆくでないぞ」
「一人も置いてゆきませぬ」
「大きく出たものよな」
「殿の妻でございますから」
「なるほど。愚かさが似てきたか」
妻が小さく笑う。
「それから」
白那の声が、わずかに小さくなった。
「あの愚か者の分も、道を残しておけ」
「もちろんでございます」
「戻らぬと決めつけて、先に閉じるでない。泥にまみれてでも這って帰るやもしれぬ」
「はい」
「帰ってきた時、湯がないと騒がしいからのう」
「その時は、白那様が叱ってくださいませ」
「言われずとも、百年は説教してやる」
湊一は、すぐには戸を開けられなかった。
自分が頼まなくても。
自分が命じなくても。
妻と白那は、同じものを守ろうとしている。
家の名ではない。
城でもない。
帰ろうとする者の命と、その者を待つ場所だ。
「いつまで盗み聞きをしておる」
白那の声が飛んできた。
「気づいていたのか」
「妾を誰だと思うておる」
湊一が戸を開けると、妻がわずかに目を伏せた。
白那は、なぜか得意そうに胸を張っている。
「話はまとまったようだな」
「そなた抜きでな」
「俺が考えた道だぞ」
「細すぎる。人数も足りぬ。備えも甘い」
「そこまで言うか」
「負け惜しみまで見苦しいぞ、愚か者」
妻が口元を隠して笑う。
湊一は古い絵図を広げた。
「ならば、三人で直そう」
「初めから、そう申せばよい」
白那の指から水滴が落ちる。
妻の指が、逃がす者たちの順番を決める。
湊一は、道の幅と必要な人数を書き加える。
妻子だけのために引かれた一本の線は、少しずつ枝分かれしていった。
女たちの道。
子どもたちの道。
老人と負傷者を運ぶ道。
水を汲む者の道。
最後まで湯場に残る者が、追いつくための道。
そして。
戦場から戻る者を迎え入れる道。
◇
湊一は、大坂にいる二人の息子へ、それぞれ短い文を書いた。
避難路については、一言も記さない。
佐和山が危ういとも書かない。
文が途中で奪われれば、妻子の備えまで敵に知られるかもしれない。
長男へは、こう書いた。
『軽々しく大坂城を離れてはならぬ。
変事あらば、あらかじめ定めた者の指図に従え。
佐和山へ戻ろうとしてはならぬ』
人質である長男が勝手に大坂城を離れれば、石田家だけの問題では済まない。
それでも父や母の危機を知れば、あの子は戻ろうとするだろう。
次男への文には、こう記した。
『秀頼様の御側を離れるな。
小姓の務めを果たし、変事あらば定めた者に従え。
母や兄弟を案じても、佐和山へ戻ろうとしてはならぬ』
最後の一文を書いたところで、筆が止まった。
帰ってくるな。
父が子へ送る言葉として、あまりに冷たい。
「殿」
そばで見ていた妻が呼ぶ。
「何だ」
「あの子たちなら、理由を尋ねるでしょうね」
「ああ」
「返事も待たず、戻ろうとするかもしれませぬ」
「ああ。だから、大坂の者にも同じことを頼む」
「殿の命令で、あの子たちを止めるのですか」
「違う」
湊一は首を振った。
「命令だけでは、あの子たちは納得しない」
二通の文の余白へ、同じ一行を書き加える。
『生きていれば、また同じ膳を囲める』
妻が、その一文を見つめた。
「これで、戻らずにいてくれるでしょうか」
「分からない」
「ならば、信じるしかございませんね」
「ああ」
湊一は二通の文を折り、それぞれに封をした。
大坂にいる息子たちへ用意できる帰り道は、佐和山へ続いてはいない。
今は遠ざかることが、いつか家族へ帰る道となる。
そう信じるしかなかった。
◇
三男と小さき湯番には、危険のすべてを教えなかった。
二人の前には、鈴が一つ置いてある。
「よく聞いてくれ」
湊一が言うと、二人は背筋を伸ばした。
「この鈴が三度続けて鳴った時は、危険が起きた合図だ」
「知っております」
小さき湯番が胸を張る。
「湯殿へ入ってはならない合図です」
「これからは、その後の役目も覚えてほしい」
「お役目」
「ああ。母上のところへ行き、言われたとおりに動く」
湊一は三男を見る。
「刀は持つな」
「しかし、父上」
「お前はまだ元服前だ」
「だからこそ、何かお役目を」
「ある」
湊一は三男の肩へ手を置いた。
「母上と妹から離れるな。歩けぬ者がいたら、大人を呼べ。自分一人で戦おうとするな」
「それは、逃げよということでございますか」
「違う。帰る者を守れと言っている」
三男は納得していない顔だった。
それでも、湊一の目を見て頷く。
「承知いたしました」
次に、小さき湯番を見る。
「お前は、鈴を聞いたら湯場へ来る者を導いてくれ」
「湯場は、誰が守るのですか」
「人を守るのが、湯番の役目だ」
娘は目を丸くする。
「お湯ではなく?」
「湯は、人が帰ってくるために沸かすものだ。人がいなくなれば、湯だけ残しても仕方がない」
「では、皆さまを湯場へお連れします」
「頼んだぞ」
「白那さまも?」
「妾を子どもの数へ入れるでない!」
水差しの陰から、白那が飛び出した。
「でも、白那さまは、わたしと同じくらいの背丈です」
「妾は力を慎んでおるだけじゃ!」
「では、白那さまが迷わないよう、わたしが手をつなぎます」
「なぜ妾が案内される側なのじゃ!」
「嫌なのですか?」
娘がしゅんと目を伏せる。
白那の口が止まった。
「……どうしてもと申すなら、握らせてやらぬこともない」
「はい!」
「ただし、妾が先じゃ!」
「分かりました」
「分かっておらぬ顔じゃな!」
三男が小さく笑う。
娘も笑った。
「いつ、三度鳴るのですか」
娘が尋ねる。
「鳴らずに済むのが一番だ」
湊一は答えた。
「だが、鳴った時に慌てぬよう、今から覚えておく」
「火事の備えのようなものですか」
「ああ。今は、そう思っていてくれ」
娘は鈴を両手で包んだ。
「怖くても、鳴らします」
以前にも、娘はそう言った。
失敗を恐れながらも、危険を知らせる鈴を鳴らした。
あの時より、少し背が伸びたように見える。
「頼んだぞ、小さき湯番」
「はい!」
元気な返事に、白那が鼻を鳴らす。
「まだ声だけは立派よな」
「白那さまも、一緒にお願いいたします」
「妾へ命じるでない!」
「では、供物を用意します」
「何を供える」
「団子を」
白那の目が輝いた。
だが、すぐに偉そうな顔へ戻る。
「そなたがそこまで申すなら、鈴の稽古を見てやらぬこともない」
「白那。子どもの団子を食べ尽くすなよ」
「これは稽古への礼じゃ!」
「まだ何もしていないだろう」
「神への礼は先に捧げるものじゃ。後では遅い!」
娘が笑う。
三男も、今度は声を立てて笑った。
戦の備えをしているとは思えない笑いだった。
だが湊一は、この笑いを守るために道を作るのだと思った。
◇
夜。
湊一と妻、白那は、実際に湯場の裏へ出た。
妻は水袋を背負い、両手に布の包みを抱えている。
湊一は負傷者を運ぶ時の幅を確かめるため、古い戸板を担いだ。
「狭いな」
薪口を通ろうとした途端、戸板の端が柱へ当たった。
「殿がお太りになったのでは」
「戸板が長いんだ」
「伏見で食べ過ぎたか、愚か者」
「白那まで乗るな」
白那は空の籠へ収まり、妻に運ばれている。
「なぜお前だけ歩かない」
「幼子を抱いて通れるか、確かめてやっておるのじゃ」
「都合のよい時だけ幼子になるな」
「妾を落とせば、水袋をすべて破ってやるぞ」
「白那様。揺れますので、少しお静かに」
「そなたまで妾を荷物扱いするでない!」
声を抑えながら進み、三人は古井戸へたどり着いた。
井戸は使われなくなって久しい。
石組みの一部は苔に覆われ、周囲には草が伸びている。
白那が籠から降りた。
小さな手を、井戸の縁へ置く。
「静かにせよ」
湊一と妻が口を閉じる。
風が木の葉を揺らす。
遠くで、城の夜回りが拍子木を打った。
その音が消えた後。
井戸の底から、かすかな水音が聞こえた。
とくん。
とくん。
眠った者の鼓動のような音だった。
「水はあるのか」
「ある」
白那は目を閉じた。
「細いが、生きておる」
「道も?」
「今は、まだ分からぬ。土が重い。石も幾つか落ちておる」
「人の手で掘れるか」
「明日、井戸の底へ下りて見る」
「白那が?」
「妾以外に、誰が水へ道を尋ねるのじゃ」
「力を使いすぎるな」
「指図するでない」
白那は井戸の縁から手を離した。
わずかにふらついた身体を、妻が支える。
「離せ。妾は倒れておらぬ」
「はい」
「今のは、石が勝手に妾へ寄ってきただけじゃ」
「石は動いていませんでした」
「見間違いじゃ」
「白那」
「何じゃ」
「ありがとう」
白那は目をそらした。
「まだ何もしておらぬ」
「それでもだ」
「礼を申すなら、明日の供物を用意せよ」
「団子か」
「妾は欲しいとは申しておらぬ」
「では、要らないな」
「供物を捧げぬとは申しておらぬ!」
妻が声を立てずに笑った。
古井戸の底で、水音がもう一度響く。
とくん。
眠っていた道が、目を覚まそうとしている。
湊一は城を振り返った。
夜の佐和山には、幾つもの灯がともっている。
妻の部屋。
三男の部屋。
小さき湯番が鈴を置いて眠る部屋。
長女と、その家族が過ごす部屋。
湯場。
飯場。
傷ついた者が休む小屋。
その一つ一つに、人がいる。
遠い大坂には、長男と次男がいる。
岡家へ嫁いだ次女も、別の土地で暮らしている。
すべての道を、一つへ集めることはできない。
同じ城に戻すこともできない。
だが、離れて生きる道もまた、いつか家族へ帰るための道になる。
守るべきものを数えれば、きりがない。
全員を救えるなどとは言えない。
だが、初めから誰かを道の外へ置くことはしたくなかった。
「殿」
妻が細い山道の先を見る。
「この道は、外へ逃げるためだけのものではございませんね」
「ああ」
「戻ってくる者も、ここを通るのでしょう」
「ああ」
湊一は頷いた。
「逃げ道ではない。帰り道だ」
白那が小さな鼻を鳴らす。
「水は、流れたきりでは終わらぬ」
井戸の底で、水が揺れる。
「空へ上がり、雨となり、また戻る。帰る道のない水などない」
「ならば、俺たちにも作れるか」
「作るのではない」
白那は湊一と妻を見上げた。
「見失うた道を、もう一度ひらくのじゃ」
遠くの湯場で、鈴が一度だけ鳴った。
風が鳴らしたのか。
眠った娘が触れたのか。
それとも、古井戸の水が応えたのか。
湊一には分からなかった。
ただ、その音は佐和山にいる者だけではなく、遠い大坂の息子たちへも、嫁いだ娘たちへも、帰る道を知らせるように、静かな夜を渡っていった。
関ヶ原まで、あと四十三日。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作では、長男・重家は大坂城の人質、次男・重成は秀頼の小姓として大坂にいる設定です。三男や娘たちの動向については伝承や諸説を踏まえ、物語として再構成しています。
戦場へ向かう者にも、帰りを待つ者にも、胸の内に抱えているものがあります。
次回、白那が古井戸の底へ。
途絶えた水の道を、もう一度ひらきます。




