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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第四章 勝つ支度ではなく、残す支度

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第三十四湯 島津、湯気を見ないふり

第三十四湯です。


伏見城は落ち、西軍は最初の勝利を手にしました。


しかし、同じ場所へ集まった諸将が、同じ方角を見ているとは限りません。


湊一は、歴戦の将・島津義弘へ勝つ策ではなく、「生きて帰るための道」を示します。

第三十四湯 島津、湯気を見ないふり


 伏見城が落ちた日。


 湊一が勝ち鬨より先に聞いたのは、傷ついた兵の声だった。


「水を……」


 前日、小早川秀秋との会談を終えた湊一は、佐和山へ戻らず、京近くの陣所で夜を明かしていた。


 秀秋へ託した使者の捜索も気になったが、伏見では夜明け前から鉄砲と鬨の声が続いている。


 やがて、城内の火が大きく上がった。


 鳥居元忠が守る伏見城は、ついに落ちた。


 西軍最初の勝利だった。


 だが、城から離れた寺の境内へ運び込まれてくる者たちに、勝者も敗者もなかった。


 血に濡れた者。


 火傷を負った者。


 泥にまみれた者。


 肩を貸す者。


 担架を運び終え、その場へ座り込む者。


 誰もが同じように汗を流し、同じように水を欲していた。


「飲み水と、傷を洗う水を分けろ!」


 湊一は境内を走った。


「井戸の水は飲む者へ回せ。傷と布を洗う湯には、川から汲んだ水を使う。必ず煮立たせろ!」


「薪が足りませぬ!」


「倒れた塀や家の木を、勝手に持ってくるな。寺へ頼み、使ってよいものを分けてもらえ!」


「大釜が一つしかございませぬ!」


「粥を炊く釜を借りろ。今は湯を先にする!」


 命令を飛ばしながら、湊一自身も桶を運んだ。


 目の前の傷兵が、水を求めて手を伸ばす。


 湊一は膝をつき、椀へ入れた水を少しずつ飲ませた。


「一度に飲むな。まだある」


「……三成様」


「何だ」


「城は」


「落ちた」


「では、勝ったのでございますな」


「ああ」


 傷兵は安堵したように目を閉じた。


 だが、その手は震えていた。


 勝ったからといって、痛みが消えるわけではない。


 失った腕も。


 帰らぬ仲間も。


 焼けた城下も、元には戻らない。


「寝ていろ。勝ち鬨は、傷を洗ってからだ」


「妙な殿様にございますな……」


「よく言われる」


 湊一が立ち上がった時、寺の門外が騒がしくなった。


 丸に十文字の旗が、煙の向こうから現れる。


 島津勢だった。


 先頭に立つのは、白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけた武将である。


 島津義弘。


 数え切れぬ戦場を生き抜き、後に関ヶ原で敵中突破を行う男。


 その半歩後ろには、三十ほどの若武者が続いていた。


 煤に汚れた頬。


 鋭い目。


 疲れを見せぬよう、背筋をまっすぐ伸ばしている。


 島津豊久。


 義弘の甥である。


 湊一の知る歴史では、後の島津の退き口で義弘を逃がすために殿となり、烏頭坂の辺りで命を落としたとも伝わる男だった。


 しかし今の豊久は、死者ではない。


 煙を浴び、汗を流し、伯父の背を守るように馬を進める若武者だった。


「島津勢、到着!」


 声が上がる。


 同時に、兵糧を預かる役人が帳面を抱えて駆けてきた。


「お待ちください! 島津勢へ回す水と馬草は、まだ割り振られておりませぬ!」


「なぜだ」


 湊一が尋ねる。


「島津勢がどの陣へ属するか、軍議での決定が届いておりませぬ。宇喜多勢の割り当てから出すのか、小西勢から出すのか、それとも――」


「水に、誰の家紋がついている」


「は?」


「この井戸は宇喜多のものか。あの川は小西のものか」


「いえ、しかし、帳面が――」


「人と馬の数を記せ。家紋で水を分けるな」


「勝手に割り当てを変えては、他の陣から苦情が出まする」


「苦情を言う口が渇けば、同じ水を飲ませろ」


「治部殿」


 低い声が、二人の会話を断ち切った。


 島津義弘が馬上から湊一を見下ろしている。


「島津は、施しを求めて参ったのではない」


「伯父上。水ならば、我らで探します」


 豊久が口を挟んだ。


「島津の兵を、他家の余り物へ並ばせることはありませぬ」


「豊久」


 義弘が名を呼ぶ。


 声は静かだった。


 だが、豊久はすぐに口を閉じた。


「施しではありません」


 湊一は答えた。


「ならば、歓待か」


「それでもありません」


 湊一は、寺の境内を指した。


「城攻めを終えた者へ、水と湯を渡しているだけです。島津だけを特別には扱いません」


「特別に扱わぬことが、そなたの歓待か」


「島津の兵も馬も、腹が減り、喉が渇く。それ以上でも以下でもありません」


「島津の兵を、他の兵と同じ列へ並ばせると?」


 豊久が尋ねる。


「同じ水を飲むのに、別の列が必要ですか」


「家ごとに軍は違う」


「喉の渇きまで違うとは知りませんでした」


 豊久の目が鋭くなる。


「治部殿」


「何でしょう」


「そなたは、いつもそのような物言いをするのか」


「もっと人を苛立たせると言われています」


 義弘が、わずかに目を細めた。


「随分と自覚があるのう」


「最近、友から何度も教えられました」


 義弘は水桶へ並ぶ兵を見た。


 家紋も、身分も関係なく、一人ずつ椀を受け取っている。


 湯気の立つ大釜のそばでは、軽傷の者が重傷者の布を絞っていた。


「馬へ先に水を飲ませすぎるな!」


 湊一が島津の兵へ声をかける。


「口をすすがせ、少し歩かせてからだ。熱を持った馬へ一度に飲ませれば腹を壊す!」


 島津の兵が義弘を見る。


 義弘は、わずかに顎を動かした。


「従え」


「はっ」


「伯父上」


「豊久。誇りで馬の渇きは癒やせぬ」


「……承知しました」


 それだけ言うと、義弘は馬を降りた。


 礼はなかった。


 笑いもしなかった。


 だが、水を断れとも命じなかった。


     ◇


 伏見城が落ちたとの知らせを受け、西軍の諸将が陣所へ集まった。


 城を落とした功を誰へ帰すか。


 次にどこへ兵を進めるか。


 誰が先陣に立ち、誰が兵糧を預かるか。


 軍議が始まる前から、声は幾つにも分かれていた。


「伏見を落とした勢いのまま、東へ進むべきだ!」


「いや、まず大坂と近江を固めるべきである!」


「誰の指図で動けと申す!」


「総大将のお考えを待たねば――」


「その総大将は、どこにおられる!」


 一つの城を落としたばかりだというのに、諸将はすでに別々の方角を見ていた。


 湊一は何度か口を挟もうとした。


 だが、そのたびに別の声が重なる。


 正しいことを大声で言えば、人が従うわけではない。


 第三章で、嫌というほど思い知った。


 湊一は口を閉じ、軍議の末席に座る義弘を見た。


 義弘は一度も声を上げていない。


 目の前の膳にも手をつけず、誰が誰の言葉を遮ったのかを、じっと見ている。


 その後ろでは、豊久が膝をついていた。


 諸将の怒声が上がるたび、豊久の拳に力が入る。


 何度か口を開きかけては、義弘の背を見て思いとどまっていた。


 目立たぬ場所に座りながら、何一つ見落としていない義弘。


 その義弘だけを見ている豊久。


 二人は同じ軍議の中にいながら、違うものを見ていた。


 長い軍議が、何も決め切れぬまま終わった。


 諸将が部屋を出ていく。


 最後に立ち上がった義弘へ、湊一は声をかけた。


「島津殿」


「何かな、治部殿」


「少し、見てもらいたいものがあります」


「また湯か」


「湯ではありません」


「ならば飯か」


「どちらでもありません」


「そなたは、それ以外の話もできるのだな」


「どういう意味です」


「そのままの意味よ」


 義弘は笑わなかった。


 湊一も笑えなかった。


 義弘が部屋を出ると、豊久も立ち上がる。


「豊久。そなたは兵のもとへ戻れ」


「伯父上がお聞きになる話ならば、俺も聞きます」


「誰が許した」


「お邪魔ならば、黙っております」


「先ほどの軍議でも、その顔で黙っておったな」


「……お分かりでしたか」


「分からぬと思うたか」


 義弘は小さく息を吐いた。


「好きにせよ」


「はっ」


 湊一は二人を見比べた。


「軍議を、どう見ました」


「わしの口から聞きたいか」


「はい」


「ならば申そう」


 義弘は、諸将が去った部屋を振り返った。


「西軍は、大きな一軍ではない」


「……」


「小さな軍が、一つの場所へ集まっておるだけよ」


 鋭い言葉だった。


「同じ旗の下に立っても、同じ方角を見てはおらぬ。兵糧を誰が出すかで揉め、水を誰へ渡すかで揉め、勝った功まで取り合う」


「分かっています」


「分かっておる者の軍議には見えなんだ」


 湊一は言葉を失った。


「伏見城は落ちた」


 義弘は続ける。


「されど、城を一つ落としただけで、皆が己を大将と思い始めた。十人の大将が十本の手綱を引けば、馬は一歩も進めぬぞ」


「ならば、島津だけで進めばよいのです」


 豊久が言った。


「他家の手綱に引かれるくらいなら、我らの道は我らで決めます」


「それでは、一つの軍にならない」


 湊一が答える。


「今の軍議が、一つの軍に見えましたか」


「見えなかった」


「ならば――」


「だから、一つにする方法を探す」


「言葉だけで、あの者たちがまとまると?」


「思わない」


 湊一は認めた。


「水や飯を分けることすらできぬ者が、命を預け合えるとは思えない。だから、戦場へ出る前に、分けられるものから分けます」


「ぬるい考えです」


「豊久」


 義弘が制した。


「この男の話を最後まで聞け」


「……はっ」


「島津殿は、東へつくつもりでしたか」


 湊一が尋ねると、義弘の目が細くなった。


「誰から聞いた」


「誰からも。ただ、島津殿が西へ心を決めているようには見えません」


「小早川殿にも、同じことを尋ねたそうだな」


「耳が早いですね」


「味方を信じておらぬ軍ほど、噂は早く走る」


「島津殿を疑っているわけではありません」


「信じてもおらぬ」


「はい」


 湊一は認めた。


「ですが、それはお互い様でしょう」


 義弘は、しばらく湊一の顔を見た。


「少しは、ものを正直に申すようになったか」


「以前の俺をご存じなのですか」


「人の心より、帳面の数字を信じる男だと聞いておった」


「誰からです」


「大勢からじゃ」


「吉継といい、皆、俺の悪口だけはよく覚えていますね」


「覚えやすいのであろう」


「そこまで言いますか」


「聞きたくないなら、見せたいものとやらへ案内せよ」


     ◇


 湊一が二人を連れていったのは、立派な客間ではなかった。


 寺の裏手に張られた、粗末な雨除けの下だった。


 筵の上へ、三枚の絵図が広げてある。


 一枚目には、京、近江、美濃へ至る街道。


 二枚目には、川、井戸、泉などの水場。


 三枚目には、山道、細道、橋、馬を休ませられる場所が記されていた。


 絵図の端は、風で飛ばぬよう石で押さえてある。


「これが、そなたの軍略か」


 義弘が尋ねる。


「一部です」


「赤い線が、兵を進める道か」


「はい」


「青い印は水場」


「はい」


「この白い線は」


「帰る道です」


「帰る道?」


 豊久が眉を寄せた。


 義弘の指も止まっている。


「勝つ前から、退く道に印をつけるか」


「逃げ道ではありません」


「同じであろう」


「違います」


 湊一は義弘を見た。


「逃げ道とは、戦場から離れるための道です」


「では、白い線は何だ」


「生き残った者が帰る道です」


「言葉を変えただけに聞こえるな」


「島津は、退き道など求めませぬ」


 豊久が言った。


「進む道は、敵を斬って開く。退く時も同じです。追手を引き受ける者がいれば、残る者は進めます」


「その引き受けた者は、どこへ帰る」


 湊一が尋ねる。


「それが殿の役目です」


「死ぬ者を先に決めた道を、俺は帰る道とは呼びません」


 豊久の目が鋭くなった。


「戦で、すべての者が帰れるとお思いか」


「思っていない」


「ならば、誰かが残らねばならぬ時もある」


「あります」


「その時は、どうする」


「一人へ背負わせない方法を、最後まで探します」


「見つからなければ」


 豊久は義弘を見た。


「守るべき者を帰すため、残る者が必要です」


 義弘の表情は動かない。


 だが、湊一には分かった。


 豊久は一般の話をしているのではない。


 帰すべき者として、初めから義弘だけを数えている。


 自分自身を、帰る人数へ入れていない。


「逃げる先には、何もなくても構いません。ただ敵から離れられればいい」


 湊一は白い線の先を指した。


「ですが、帰る先には、待っている者がいます」


「武士は、待つ者のために戦うのではない」


 義弘が言う。


「島津の兵には、家族がいませんか」


「おる者も、おらぬ者もいる」


「家族のいない者には、同じ釜の飯を食った仲間がいます」


「その仲間も戦場におれば」


「佐和山で、湯を沸かします」


「敗れた者のためにか」


「勝っても負けても、人は泥と血にまみれます。腹も減る。傷も負う」


 義弘の目が、絵図の白い線へ戻る。


「だから、帰った者が身体を洗い、飯を食べられる場所を残す」


「天下を争う話とは思えぬな」


「天下がどちらへ転んでも、人は飯を食べます」


「それで戦に勝てるか」


「勝つための策も考えます」


「ならば、なぜ先に退き道を見せる」


「勝つ策を見せれば、島津殿は欠点を探すでしょう」


「退く策なら探さぬと思うたか」


「いいえ。こちらの方が、もっと厳しく見ると思いました」


 初めて、義弘の口元がわずかに動いた。


 笑ったのかどうか、湊一には分からなかった。


「この井戸」


 義弘が青い印を指した。


「何人分の水がある」


「近くの村と寺を合わせ、五百ほどなら三日は」


「馬を入れておらぬな」


「馬は川へ回します」


「雨で濁れば」


「上流の泉を使います」


「敵が先に押さえれば」


「南の細道へ入った先にも、一つあります」


「一つでは足りぬ」


「だから三つ記しています」


「三つとも塞がれば」


「雨水を受ける布と桶を、荷駄へ積ませます」


「雨が降らねば」


「そこまで追い詰められる前に、道を変えます」


 義弘の指が、次の白い線へ移る。


「この道は狭い」


「一列でしか通れません」


「追われれば、後ろから斬られる」


「広い道より見つかりにくい。山を越えれば伊勢へ抜けられます」


「ならば、十騎を後ろへ残します」


 豊久が即座に答えた。


「狭い道なら、大軍を相手に足止めできる」


「その十騎にも、帰る道が必要です」


「治部殿」


「何でしょう」


「殿とは、最後に残る者です」


「最後に残る役目と、死ぬ役目は同じではない」


「追手が迫れば同じです」


「同じにしないため、道を二つ作る。組を替え、片方が支える間に、もう片方が下がる」


「それでも、最後に一人は残る」


「最初から、その一人を決めるな」


 豊久の顔から、わずかに感情が消えた。


「では、誰が残るのです」


「残らずに済む策を考え続ける。それが大将の役目です」


 湊一の言葉に、義弘が目を上げた。


「皆へ帰れと命じながら、己だけは最後まで残るつもりではあるまいな」


 左近にも。


 吉継にも。


 同じことを言われた。


「以前の俺なら、自分が最後に残ると答えたでしょう」


「今は違うのか」


「最後に残る役目も、先に決めます」


「誰にする」


「一人にはしません。道ごとに組を作り、交代させます」


「総崩れになれば、命令など届かぬ」


「だから、鐘と鈴の合図を統一します」


「音が聞こえねば」


「旗を使います」


「煙で見えねば」


「火を使います」


「雨なら」


「水路へ木札を流す」


「夜なら」


「松明の数を決める」


 義弘の問いは止まらない。


 湊一も、答えることをやめなかった。


 時折、豊久がさらに厳しい条件を加える。


 橋を焼かれた場合。


 馬が倒れた場合。


 負傷者が増えた場合。


 答えられぬ問いもあった。


 その時は誤魔化さず、絵図の端へ書き加えた。


 やがて義弘が尋ねる。


「なぜ、これを島津へ見せる」


「島津勢にも、生きて帰ってもらうためです」


「西軍へ力を貸せとは申さぬのか」


「力は貸してほしい」


「豊臣への恩は」


「あります」


「義は」


「あります」


「ならば、それを先に語るのが治部少輔であろう」


「以前は、そうでした」


 湊一は絵図を見つめた。


「正しさを並べれば、人は従うと思っていた」


「今は思わぬか」


「正しいだけでは、人は帰れません」


「では、何が要る」


「水と飯。それから、道です」


「まるで戦を知らぬ宿の主よな」


「否定はしません」


「城主をやめ、湯宿の主にでもなるか」


「今は、城主の役目を果たします」


 ちりん。


 小さな鈴が鳴った。


 湊一の腰に結んだ水筒が、かすかに震えている。


 佐和山を発つ際、白那から持たされたものだ。


 水筒の口から一筋の水が浮かび、雨除けの下に置かれた湯釜へ落ちた。


 じゅっ、と音がする。


 白い湯気が、突然大きく膨らんだ。


 湯気の中に、小さな影が浮かぶ。


 白い髪。


 幼い顔。


 偉そうに上がった顎。


「誰が勝手に、妾の話をしてよいと申した」


「白那」


「妾の名まで勝手に呼ぶでない、愚か者」


 湯気の中に現れた白那が腕を組む。


 湊一は義弘を見た。


 義弘も、間違いなく白那を見ていた。


 だが、何事もなかったように絵図へ目を戻す。


 豊久は、隠そうともせず白那を凝視していた。


「伯父上」


「何だ」


「湯気の中に、何かおります」


「湯気は湯気であろう」


「しかし」


「島津殿」


 湊一が尋ねる。


「見えていますよね」


「何がだ」


「妾を見ておきながら、挨拶もせぬとは無礼な男よな!」


 白那の怒声に合わせ、釜の蓋が跳ねた。


 義弘は一度だけ釜を見る。


「戦続きで、疲れておるらしい」


「何?」


「湯気が幼子の形に見える」


「妾を幻扱いするでない!」


「しかも、随分とやかましい幻じゃ」


「そなた、名を申せ!」


「先ほど聞いておったであろう」


「神へ名乗るのは、人の礼儀じゃ!」


「神が盗み聞きをするのは礼儀にかなうか」


「盗み聞きではない。水守の見回りじゃ!」


 白那が胸を張る。


「水守だと?」


 豊久が顔を近づけた。


「どこから見ても、ただの小娘ではないか」


 湯釜の湯が跳ねた。


 豊久の頬へ一滴の湯が飛ぶ。


「熱っ!」


「誰が小娘じゃ、無礼者!」


「湯気が人を攻めたぞ!」


「妾は水の巫女・白那じゃ。控えよ、若造!」


「誰が若造だ!」


「そなた以外に誰がおる!」


 豊久が言い返そうとする。


 義弘が片手を上げて止めた。


「豊久。湯気と争うな」


「しかし、伯父上」


「戦う相手を選べ」


「妾を湯気扱いするでない!」


 白那の怒声が、再び釜の蓋を跳ね上げた。


 義弘は相変わらず無表情だった。


 だが、その目は白那の姿だけでなく、白那が現れた水筒と、湯釜と、濡れた絵図まで見ている。


 白那が小さな鼻を鳴らした。


「見ておらぬふりをする者ほど、よく見ておる」


「島津殿のことか」


「そなたもじゃ」


「俺も?」


「それから、そこな若造もじゃ」


「俺が何を見ておらぬと申す」


 豊久が白那を睨む。


「道じゃ」


「見ておる」


「嘘を申せ」


「何?」


「そなたは先ほどから、道よりも伯父の背ばかり見ておる」


 豊久の顔が強張った。


「何を申す」


「伯父を帰すことばかり考え、己を帰る人数へ入れておらぬ」


「俺の役目は、伯父上をお守りすることだ」


「伯父だけ戻り、そなたが戻らねば、それを帰したとは申さぬ」


「戦を知らぬ小娘に、何が分かる」


「妾は水守ぞ」


 白那の声から、戯れが消えた。


「一滴だけ先へ流し、残りを涸らすような真似を、守るとは申さぬ」


 豊久は答えなかった。


 白那はふんと鼻を鳴らし、絵図の上へしゃがみ込んだ。


 小さな指が、南へ延びる白い線をなぞる。


「この青印は違う」


「違う?」


「夏には水が細る」


 白那の指先から、一滴の水が落ちた。


 水滴は青い印から離れ、山道の脇へ転がっていく。


 絵図の上で止まり、小さな丸になった。


「こちらじゃ」


「そこに泉があるのか」


「古い水の道が残っておる」


「街道から外れています」


「ゆえに残っておるのじゃ。人が大勢通る道の水は、先に濁る」


 義弘の指が、白那の示した場所へ近づく。


「山の西か」


「違う。南じゃ」


「峰を一つ越えることになる」


「近い道だけが、帰る道とは限らぬ」


「馬は通れるのか」


 豊久が尋ねた。


「大軍は無理じゃ」


「何騎ほどだ」


「水は人数を数えぬ。己の目で見てこい」


「ならば、伯父上の隊だけでも――」


「伯父ばかり数えるでない」


 白那が遮った。


「何?」


「そなたもじゃ。己を数え忘れるな」


「俺のことはよい」


「よくない!」


 小さな手が、絵図を叩く。


「帰る道を調べる者が、初めから帰らぬ顔をするでない。縁起が悪いわ!」


 豊久が白那を睨む。


 白那も負けずに睨み返す。


「神とは、存外、不親切なものよな」


 義弘が呟いた。


「妾へ供物も捧げぬ男に、なぜ親切にせねばならぬ!」


 白那の目が、絵図の重し代わりに置かれた包みへ動く。


 中には、湊一の昼飯の握り飯が入っている。


「それは何じゃ」


「昼飯だ」


「誰の」


「俺の」


「戦の道を教えてやった妾への供物であろう」


「違う」


「違わぬ」


「白那は佐和山にいるだろう」


「持ち帰ればよい」


「それまでに傷む」


「ならば、今食え」


「俺に食べさせるのか」


「妾への供物を粗末にせぬよう、そなたの腹へ預けるのじゃ」


「それは、ただの俺の昼飯だ」


「細かいことを申すでない!」


 豊久が吹き出した。


 白那の目がつり上がる。


「何がおかしい!」


「いや。神を名乗るわりに、言うことが握り飯ばかりだと思うてな」


「妾は水と食を粗末にせぬだけじゃ!」


「つまり、食いたいのであろう」


「供物じゃ!」


「食いたいのだな」


「この若造、妾を愚弄するか!」


 白那が勝ち誇った直後、風が吹いた。


 湯気の中の小さな身体が、大きく揺れる。


「ぬわっ!」


 白那は慌てて釜の蓋へしがみついた。


「白那」


「何を見ておる! 早く風を止めぬか!」


「無理だ」


「使えぬ男よな!」


 義弘が、絵図の端に置かれた板を立てた。


 風が遮られ、白那の姿が戻る。


「余計なことをするでない」


「消えられては、道の続きを聞けぬ」


「やはり、よく見ておるではないか」


「湯気の戯れに、少しつき合うただけよ」


「島津の男は、揃いも揃って素直ではないのう」


「そなたに言われたくはない」


「妾は常に素直じゃ!」


「握り飯が欲しいと申せぬ者がか」


「欲しいのではない! 水守への供物を求めておるのじゃ!」


 義弘が、今度こそ小さく笑った。


 低く、短い笑いだった。


 豊久が目を見開く。


 伯父の笑う顔が、それほど珍しいらしい。


 白那は頬を膨らませた。


「何がおかしい!」


「いや。佐和山の水守とやらは、随分と食い意地が張っておると思うただけよ」


「妾は水と食を粗末にせぬだけじゃ!」


「ならば、その供物は治部殿に食わせよ。腹を空かせた大将は、ろくな策を考えぬ」


「大将ではない。妾の使い走りじゃ」


「どちらでもよい」


「よくない!」


 ちりん。


 鈴が鳴った。


 白那の姿が湯気の中へ薄れていく。


「待て、白那」


「何じゃ」


「今示した泉は、確かなのか」


「妾を疑うか」


「道が変わり、土砂で埋もれているかもしれない」


「ゆえに、己の足で確かめよと申した」


 白那は義弘へ顔を向ける。


「そなたもじゃ。見た道を、絵図の中だけに置くでない」


「使うと決めたわけではない」


「使わずに済めば、それでよい」


 次に豊久を見る。


「若造」


「何だ」


「伯父の背だけではなく、帰る先も見よ」


「……」


「道を知らぬ者は、帰ろうと思うた時には帰れぬ」


 豊久は何も答えなかった。


「見ておらぬふりをするなら、勝手にせよ」


 白那が尊大に顎を上げる。


「その代わり、忘れるでないぞ」


 白い姿が湯気へ溶けていく。


 最後に、小さな声だけが残った。


「愚か者。握り飯は妾の分も残しておけ!」


「結局、それか!」


 返事の代わりに鈴が鳴った。


     ◇


 義弘は、湊一が差し出した絵図を受け取らなかった。


「写しは要らぬ」


「見ただけで分かるのですか」


「必要なら、島津の者が己で調べる」


「では、白那が示した泉も」


「湯気の戯れであろう」


「見なかったのでは?」


「見てはおらぬ」


 義弘は雨除けの外へ出た。


 空には、伏見城から上がる煙が残っている。


 境内では、島津の兵が馬へ水を飲ませていた。


「豊久」


「はっ」


「二人連れ、南の道へ出よ」


 豊久が顔を上げる。


「俺が、でございますか」


「山を一つ越えた先に、古い泉があるという」


「湯気の申したことを信じるので?」


「信じてはおらぬ」


「では、なぜ」


「確かめるのと、信じるのは違う」


「……承知しました」


「それから、伊勢へ抜ける細道も調べよ。馬が一列で通れるか。橋が落ちた場合の浅瀬も見ておけ」


「伯父上。俺は先陣を――」


「帰る道を知らぬ者に、先陣は任せぬ」


 義弘の声には、有無を言わせぬ響きがあった。


 豊久は唇を結ぶ。


 やがて、深く頭を下げた。


「承知いたしました」


「豊久殿」


 湊一が呼び止める。


「何です、治部殿」


「追手に道を塞がれても、一人で殿になるな」


 豊久の目が鋭くなった。


「誰かが残らねば、伯父上を帰せぬ時もあります」


「その時も、一人で敵を止めるな」


「では、どうする」


「道を狭め、組を替えながら退く。一組が支える間に、もう一組が下がる。最後の一人を、初めから決めるな」


「戦は、絵図どおりには動きませぬ」


「分かっています」


「それでも、全員を帰すと?」


「帰せる者は、全員帰すつもりで道を作ります」


「欲張りな策だ」


「帰る支度は、欲張りでいい」


 豊久は何も答えなかった。


 ただ、湊一の言葉を確かめるように、もう一度絵図へ目を向けた。


 義弘が馬の鞍へ手をかける。


「治部殿」


「はい」


「島津が、西軍の言うとおりに動くとは思うな」


「分かっています」


「軍議が戦場と同じ有り様なら、島津は島津の判断で戦う」


「それも、分かっています」


「そなたの命にも、従わぬことがある」


「その時は、理由を聞きます」


「聞いて、止めるか」


「必要なら」


「甘いのか、強情なのか。やはり分からぬ男よな」


「よく言われます」


 義弘は鐙へ足をかけた。


「勝つ前から帰る道を作る者は、臆病者と呼ばれるぞ」


「呼ばせておきます」


「武士の誉れを捨てるか」


「捨てません」


 湊一は、島津の兵たちを見た。


「生きて帰った者が、次の戦で誰かを守ることもあります。畑を耕すことも、子を育てることも、死んだ者を語ることもできる」


「死んだ者にしか残せぬ誉れもある」


「あります」


「否定せぬのか」


「死を軽く扱うつもりはありません」


 湊一は義弘と、その傍らに立つ豊久を見た。


「ですが、生きることを軽く扱うつもりもありません」


 義弘は、すぐには馬へ乗らなかった。


「逃げる道ではなく、帰る道か」


「はい」


「待つ者がおらぬ者は、どこへ帰る」


「佐和山へ」


「敵であってもか」


「刀を置き、傷を洗う間だけは」


「その後は」


「飯を食べてから考えます」


「戦の勝敗より、飯が先か」


「腹が減ったままでは、ろくな答えを出しません」


「なるほど」


 義弘は、ようやく馬へ乗った。


「では、治部殿」


「何でしょう」


「島津が帰った時にも、湯はあるのだな」


「沸かしておきます」


「豊久の分もか」


「もちろんです」


 豊久が、わずかに顔を上げた。


「俺は、自分の湯まで用意してほしいとは申しておりませぬ」


「頼まれていません」


「では、なぜ」


「帰ってくる人数に、豊久殿も入っているからです」


 豊久は答えなかった。


「約束はせぬ」


 義弘が言う。


「構いません」


「礼も言わぬぞ」


「求めていません」


「この戦で、そなたに従うとも申さぬ」


「はい」


 義弘が手綱を引く。


 馬がゆっくりと歩き始めた。


「それでも、道は使わせてもらう」


 湊一は、その背へ頭を下げた。


 豊久も馬へ乗る。


 湊一の前を通り過ぎる時、ほんの一瞬だけ手綱を止めた。


「治部殿」


「何でしょう」


「湯を冷ますな」


「豊久殿も、泉の場所を忘れないでください」


「一度見た道は忘れませぬ」


 豊久は馬を進め、義弘の後を追った。


 島津義弘は振り返らなかった。


 湯気の中に現れた白那のことも。


 絵図に引かれた細い白線のことも。


 礼を言わなかった。


 ただ、見なかったふりをしていた道へ、豊久を走らせた。


 湊一の知る歴史では、四十四日後。


 豊久は義弘を逃がすため殿となり、帰る道の途中で命を落としたと伝わる。


 だが今、豊久は生きている。


 伯父の身代わりになる場所ではなく、自分も帰るための泉と細道を確かめに向かっている。


 未来が変わったかどうかは、まだ分からない。


 後の世で「島津の退き口」と呼ばれる道も、まだどこにもなかった。


 西軍がどこで戦うのかさえ、決まってはいない。


 それでも義弘の目には、水場の青い印が残った。


 豊久の胸には、最後の一人を初めから決めるなという言葉が残った。


 伏見城から上がる煙の下。


 寺の境内では、湯釜から白い湯気が立ち続けている。


 傷ついた者が身体を洗い。


 疲れた兵が椀を受け取り。


 喉を潤した馬が、静かに鼻を鳴らす。


 城は落ちた。


 西軍は勝った。


 だが、一つの勝利だけでは、人の心を一つにはできない。


 それでも。


 湯気を見ないふりをした老将と、その背を追う若武者は、生きて帰るための道を覚え始めた。


 関ヶ原まで、あと四十四日。

お読みいただき、ありがとうございます。


今回は、後に「島津の退き口」で知られる島津義弘を描きました。


この時点では、関ヶ原の戦場も退却路も、まだ決まっていません。


そこで本作では、湊一が水場、馬を休ませる場所、伊勢へ抜ける細道を示し、義弘がそれを密かに記憶する流れとしました。


湊一と義弘の会談、帰路の絵図、白那が教えた泉は本作独自の創作です。


「逃げ道ではありません。生き残った者が帰る道です」


義弘は湯気を見ないふりをしながら、その道を確かに見ていました。


次回、第三十五湯「妻子に、帰り道を」。


湊一は戦場へ向かう者だけでなく、佐和山に残る妻子、女たち、子ども、老人たちのための道を作り始めます。

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