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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第四章 勝つ支度ではなく、残す支度

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第三十三湯 小早川の湯は冷めている

第三十三湯です。


領地の筑前を離れ、すでに西軍の一将として伏見城を攻めている小早川秀秋。


しかし、その心まで西軍に定まったわけではありません。


東西から届く文と周囲の思惑に挟まれた若き当主へ、湊一は「裏切るな」と命じるのではなく、選ぶ責任を問いかけます。

第三十三湯 小早川の湯は冷めている


 大谷吉継が友を選んだ翌朝。


 佐和山へ、もう一つの知らせが届いた。


「小早川殿のもとへ遣わした使者が、戻りませぬ」


 兵糧蔵の勘定部屋で、湊一は顔を上げた。


「先触れは、昨日戻ったはずだ」


「はい。本使は返書を待つため、京へ残っておりました。昨夜、小早川様の陣所を出たことまでは確認されております」


「それで、どこへ消えた」


「今朝方、逢坂近くの道で馬だけが見つかりました」


 血の跡はない。


 争った形跡もない。


 使者が持っていた文箱だけが、なくなっている。


「それから……」


 近習が、懐から布包みを出した。


 包みを開く。


 中に入っていたのは、一枚の黒い羽だった。


「馬の鞍へ挟まっておりました」


 湊一は羽をつまみ上げた。


 黒い表面が、朝の光を弾く。


 これまで佐和山の水路や、歪められた文のそばで見たものと同じだった。


「小早川の陣所へ、もう一度使者を出す」


「それでは、また消されるやもしれぬぞ」


 背後から、大谷吉継の声がした。


 白い頭巾を巻いた友が、家臣に支えられて立っている。


「休んでいろと言っただろう」


「休んでおる。そなたが朝から騒々しいゆえ、様子を見に来ただけじゃ」


 吉継は、湊一の手の中にある黒い羽へ目を向けた。


「そなたが行け」


「俺が?」


「昨夜、そう決めたのであろう」


「だが、秀秋は今、京だ。伏見では、すでに戦が始まっている」


「ゆえに急げ」


 小早川秀秋は、領地の筑前にはいない。


 兵を率いて畿内へ入り、西軍の一将として伏見城を囲んでいる。


 表向きだけを見れば、すでに味方だった。


 だが、徳川方から密かに調略の文が届いていることも、湊一は知っている。


 秀秋は西軍の陣中にいながら、まだ自分が進む道を決め切れていない。


「何騎連れていく」


 吉継が尋ねた。


「二十」


「多い」


「伏見では鉄砲が鳴っているんだぞ」


「小早川を説き伏せるのに、槍を二十本並べるつもりか」


「護衛だ」


「脅しにしか見えぬ」


「では、何騎だ」


「二騎でよい」


「少なすぎる」


「友を信じろ」


「友になった途端、随分と勝手なことを言うな」


「友ゆえ、そなたの下手なところがよく見えるのじゃ」


 吉継は、広げられた絵図へ手を置いた。


 佐和山から大津を抜け、京へ至る道。


 その先には、徳川家の将・鳥居元忠が守る伏見城がある。


「小早川を責めるな」


「使者が消えたんだぞ」


「小早川が消したと決まったわけではない」


「だが、陣所を出た直後だ」


「決めつけて責めれば、相手は口を閉ざす」


 吉継の指が、絵図の上の京へ触れた。


「責める前に聞け。裏切るなと命じる前に、何を恐れておるのかをな」


「分かった」


「本当に分かった顔ではないのう」


「では、どんな顔をすればいい」


「人を苛立たせぬ顔じゃ」


「生まれてから一度もしたことがない」


「それは知っておる」


 ちりん。


 井戸の方角から鈴が鳴った。


 旅支度の包みの陰から、小さな白い頭がのぞいている。


 白那だった。


 両手には、湊一の道中食として用意された団子が握られている。


「それは俺の団子だぞ」


「毒見じゃ」


「もう半分食べているだろう」


「半分も確かめねばならぬほど、怪しい団子であったのじゃ」


「どこが怪しかった」


「形じゃ」


「普通の丸い団子だ」


「丸すぎる」


 白那は団子をもう一口かじった。


 小さな頬が、もぐもぐと動く。


「妾も行くぞ」


「駄目だ。京まで水脈を離れるな」


「誰が、そなたの馬の尻に乗ると申した」


 白那は井戸端に置かれた小さな水筒を指した。


 佐和山の井戸水が入っている。


 水筒の口には、古びた鈴が結ばれていた。


「それを持ってゆけ」


「これで声が届くのか」


「妾が呼べば届く」


「俺から呼ぶ時は」


「気が向けば答えてやる」


「便利な仕組みだな」


「神とは、そういうものよ」


 白那は残った団子を背中へ隠した。


「これは戻った後の供物として、妾が預かる」


「暑いぞ。傷むだろう」


「ならば今すぐ食う」


「結局、全部食べるのか」


「食べ物を粗末にせぬ、水守の務めじゃ!」


 白那の声と吉継の呆れた息に送られ、湊一は二人の供だけを連れて佐和山を発った。


     ◇


 昼を過ぎる頃。


 京の空には、灰色の煙が細く伸びていた。


 遠く、伏見の方角から鉄砲の音が響く。


 一つ。


 遅れて、また一つ。


 戦は、まだ関ヶ原へ到達していない。


 それでも、人はすでに傷つき、命を失い始めている。


 東寺の五重塔が見える頃には、街道を行き交う者の姿も変わっていた。


 荷を運ぶ人足。


 傷ついた兵。


 泥にまみれた馬。


 空になった水桶を抱える者。


 握り飯を積んだ荷車。


 勝敗を決める前に、戦は飯と水を食い始めている。


「小早川勢の陣所は、東寺の南にございます」


 案内の兵が言った。


 陣所へ近づくにつれ、掲げられた旗の数が増える。


 小早川の違い鎌の紋。


 並んだ槍。


 つながれた軍馬。


 干されている濡れた陣羽織。


 ここは、どちらへ進むかも決めていない者の宿ではない。


 すでに西軍として、伏見城を攻める軍勢の陣だった。


 若い兵が一人、肩を借りて陣内へ戻ってきた。


 腕に巻かれた布が、赤黒く染まっている。


「湯を沸かせ!」


 陣の奥から声が飛ぶ。


「傷を洗う湯を先にせよ! 飲み水を使うな!」


 湊一は足を止めた。


 命じているのは、小早川秀秋だった。


 若い当主は、自ら陣口まで出てきていた。


 まだ少年の名残がある顔。


 だが、その袖には泥がつき、目の下には眠れていない者の影があった。


「傷の深い者は、伏見から離せ。軽い者と同じ場所へ寝かせるな」


「はっ」


「飯を食える者には、先に食わせよ。戦の続きを命ずるのは、その後だ」


 若い兵が運ばれていく。


 秀秋は、その背を見送ってから湊一を見た。


「治部殿自ら来られるとは思わなかった」


「書状だけでは、会えなかったからな」


「会うなと命じたのは、わしではない」


「だろうと思った」


 秀秋の眉がわずかに動いた。


「なぜ、そう思う」


「俺の使者が消えた」


「何だと」


「昨夜、お前の陣を出た後、行方が分からなくなった。馬だけが逢坂近くで見つかった」


 秀秋の顔から疲労が消え、当主の表情へ変わった。


「確かに、使者は昨夜のうちに陣を出た」


「誰が見送った」


「宿直の者だ」


 秀秋が後ろの家臣を振り返る。


「昨夜の番を務めた者を呼べ。それから、使者が通った門と道を調べよ」


「はっ」


「見つけても、勝手に斬るな。生きたまま連れてこい」


 家臣たちが走り出す。


「わしを疑っておるか」


 秀秋が湊一へ向き直った。


「疑っていないとは言えない」


「正直だな」


「だが、お前が消したと決めつけてもいない」


「では、何をしに来た」


「話を聞きに来た」


「西軍の陣へ、わざわざ西軍の将を説得しに来たのか」


「お前がここにいることと、心を決めたことは同じではない」


 秀秋の目が細くなった。


 遠くで、また鉄砲が鳴った。


「中で話そう」


     ◇


 陣屋の一室には、二通の書状が置かれていた。


 一通は、湊一が送ったもの。


 もう一通には、徳川方の者の名と花押がある。


 徳川方からの密書を、秀秋は隠そうとしなかった。


「人払いを」


 秀秋が命じる。


「しかし、殿」


「治部殿がわしを斬るなら、この陣へ二騎だけで来るものか」


 家臣たちは不安そうな顔をしたが、やがて部屋を出た。


 小姓が二つの湯呑みを置く。


 茶ではない。


 ただの白湯だった。


「戦の最中ゆえ、茶を点てさせる余裕はない」


 秀秋が言う。


「湯で十分だ」


「佐和山の若旦那は、どこでも湯を飲むのだな」


「誰から聞いた」


「大谷殿だ」


「余計なことを……」


 秀秋の口元が、ほんの少しだけ動いた。


 だが、自分の湯呑みには触れない。


 白い湯気だけが、二人のあいだを上がっていく。


「まず、これを読まれよ」


 秀秋が、湊一の書状を押し出した。


 紙も、封も、自分が選んだものだった。


 前半の文字も、自分が書いたものに間違いない。


 だが、最後の一文が違っていた。


 ――伏見の後なお決せぬならば、豊臣への異心ありと見なす。


「これは、俺が書いた言葉ではない」


「そう言うと思った」


「俺が書いたのは――」


 湊一は懐から書状の控えを取り出した。


 二つを並べる。


 ――伏見の後、進退を定める前に、一度そなたの言葉を聞きたい。


 最後の一行だけが、書き換えられていた。


 秀秋が控えを手に取る。


「こちらが、後から作ったものではないと、どう証明する」


「今は証明できない」


「できぬのか」


「ああ」


 秀秋の目に苛立ちが浮かぶ。


「ならば、わしはどちらを信じればよい」


「今すぐ、俺を信じろとは言わない」


「治部殿は、ずいぶん頼りない説得をする」


「吉継にも、ぬるいと言われたばかりだ」


「大谷殿は、そなたを選んだそうだな」


「ああ」


「友だからか」


「ああ」


「うらやましいことだ」


 その声に、笑いはなかった。


 湊一は、改めて二つの文を比べた。


 最後の一行だけ、紙の表面がわずかに毛羽立っている。


 一度薄く削り、その上から別の墨を重ねている。


 よく見なければ分からない。


 文字の癖まで似せてあった。


「書き換えられている」


「それは、わしにも分かる」


 秀秋の指が、文の端を押さえた。


「分からぬのは、誰が、どちらのために書き換えたのかだ」


 秀秋は徳川方の文を開いた。


「こちらには、西軍の諸将はわしを信用しておらぬと書いてある」


 指が文面をなぞる。


「折を見て徳川方へつけば、小早川家の所領を守るとも」


 次に、書き換えられた一文へ触れる。


「その直後に、治部殿からこの文が届いた」


 ――決せぬならば、異心ありと見なす。


「信じやすい順番だな」


 湊一は呟いた。


「西軍はお前を疑っている。その証拠が、三成から届く。そう見えるように作られている」


「そなたが、本当に書いたのかもしれぬ」


「ああ」


「徳川方が書き換えたのかもしれぬ」


「ああ」


「西軍の誰かが、わしを試すために書き換えたのかもしれぬ」


「ああ」


「分からぬことばかりではないか!」


 秀秋の拳が畳を打った。


 湯呑みの水面が揺れる。


「わしは、すでに伏見へ兵を出しておる」


 秀秋の声が震えた。


「今も、わしの兵が城を攻めている。傷ついた者もいる。死んだ者もいる」


 遠くで聞こえる鉄砲の音が、その言葉へ重なる。


「それでも、西軍はわしを疑う」


「……」


「徳川方は、わしが疑われているから裏切れと言う」


 秀秋が湊一を睨んだ。


「治部殿。わしは、あと何人死なせれば、味方だと認められる」


 湊一は答えられなかった。


 ここへ来るまで、秀秋を迷うだけの若者だと思っていた。


 だが、小早川の兵はすでに血を流している。


 その血までなかったことにして、秀秋の迷いだけを責めることはできない。


「すまなかった」


「何に対する詫びだ」


「お前を、まだ何もしていない者のように考えていた」


「わしは伏見におる」


「ああ」


「西軍の旗の下におる」


「ああ」


「それでも、誰もわしを味方とは見ぬ」


 秀秋の声が低くなった。


「皆、わしがどちらへ裏切るかを見ておる」


     ◇


 湯呑みから上がる湯気が、少しずつ細くなっていく。


「治部殿」


 秀秋は二通の文を見つめたまま言った。


「そなたらは、わしに何になれと申す」


「そなたら?」


「豊臣の養子であったのだから、豊臣へ尽くせ。小早川家を継いだのだから、家を残せ。筑前を預かる大名なのだから、兵を動かせ」


 握られた文が、かすかに鳴る。


「皆、わしへ恩を数える」


 秀秋は続けた。


「生まれた家の恩。迎えられた家の恩。移された家の恩。領地を与えられた恩。戻された恩」


 湊一は黙って聞いた。


「わしは、太閤殿下の養子となった」


「ああ」


「されど秀頼様がお生まれになれば、小早川家へ入ることになった」


 秀秋の目が、わずかに伏せられる。


「養父隆景殿には、深い恩がある。わしを外から来た子としてではなく、小早川を背負う者として扱ってくださった」


「ああ」


「だからこそ、この家を潰すわけにはいかぬ」


 秀秋の指が、畳の目をなぞる。


「筑前を預かれと言われた。次には越前へ移れと言われた。そして、また筑前へ戻された」


「……」


「偉い方々の考え一つで、わしの居場所は何度も変わった」


 秀秋の目が、徳川方の文へ落ちる。


「今度は、いつまで西におるのか。いつ東へ移るのか。皆が待っておる」


「小早川殿」


「治部殿は、わしに何になれと申す」


 豊臣のために立て。


 家康の横暴を止めよ。


 吉継を死なせるな。


 言うべき言葉はいくつも浮かんだ。


 どれも湊一にとっては正しい。


 だが、それを並べれば、また同じことになる。


 秀秋の心を置き去りにし、正しさだけで縛ることになる。


 ――先に、そなたが聞くのじゃ。


 吉継の言葉がよみがえった。


 湊一は口を閉じた。


「何だ」


 秀秋が眉をひそめる。


「言いたいことがあるのであろう」


「一つ、尋ねてもいいか」


「何を」


「お前は、何が一番怖い」


 秀秋の顔から、感情が消えた。


「わしを子ども扱いするか」


「していない」


「ならば、もっとましなことを聞け」


「兵の数でも、領地の広さでもない。お前が何を怖がっているかを聞いている」


「怖がってなど――」


「俺も怖い」


 秀秋の言葉が止まった。


「吉継を死なせることが怖い。左近を死なせることが怖い。妻や子や、佐和山の者たちを帰せなくなることが怖い」


「治部殿が、そのようなことを口にするのか」


「以前の俺なら、言わなかった」


「今は違うと」


「ああ」


 湊一は二通の文を見た。


「お前に会う前、俺もお前を人として見ていなかった」


 秀秋の目が鋭くなる。


「何だと」


「味方を崩すかもしれない札として見ていた」


「それを本人へ言うか」


「言わなければ、話を聞きに来たことにはならない」


「ずいぶんな男だな、そなたは」


「よく言われる」


「大谷殿にもか」


「一日に何度も言われる」


 秀秋が息を漏らした。


 笑ったようにも聞こえた。


 だが、すぐに表情を戻す。


「わしが怖いのは――」


 言いかけ、口を閉じる。


 湊一は待った。


 急かさなかった。


 白湯の湯気が、さらに薄くなる。


「また、捨てられることだ」


 ようやく、秀秋が言った。


「家を誤れば、家臣は離れる。戦を誤れば、兵は死ぬ」


 秀秋の目が、伏見の方角へ向けられる。


「今日も、わしの命で人が傷ついた」


 今度は、徳川方の書状を見る。


「勝った側へついたとしても、用が済めば捨てられるかもしれぬ」


 次に、湊一の書状へ目を移す。


「負けた側へ残れば、すべてを失う」


「……」


「どちらも、わしを必要だと言う」


「ああ」


「だが、必要なのは小早川の兵であろう」


 湊一は否定できなかった。


「わしではない」


 その言葉は、怒鳴り声よりも重かった。


 西も東も、秀秋の心より、彼が動かせる兵を見ている。


 自分も同じだった。


 吉継の未来を変えるための駒として、小早川秀秋を見ていた。


「すまなかった」


「謝れば、わしを人として見たことになるのか」


「ならない」


「では、何が変わる」


「これから変える」


 湊一は、まっすぐ秀秋を見た。


「俺は、お前に西へ残れと命じない」


 秀秋の目が、わずかに見開かれた。


「味方であると、今ここで誓えとも言わない」


「では、何のために来た」


「自分で選べ」


 湯の冷める音など、聞こえるはずがない。


 それでも、その瞬間。


 部屋の中から、かすかな熱が一つ消えたように感じた。


「自分で……」


「ただし、選ばなかった責任も残る」


 秀秋の眉が寄る。


「迷うことも許さぬか」


「迷うなとは言わない。俺も迷っている」


「では、何を選ばなかった責任だと申す」


「誰かの命令を待ち、誰かの脅しに押され、最後まで自分では決めなかったと言い張ることだ」


 湊一は二通の文を指した。


「西から疑われたから東へ行く。東から所領を約束されたから裏切る。家臣に言われたから兵を動かす。そう言えば、自分の責任ではないように思える」


「……」


「だが、決めるのを待つ間にも、兵は傷つく。飯は減る。家臣の妻子は帰りを待つ」


 湊一は、伏見の方角から響く鉄砲の音を聞いた。


「今この瞬間もだ」


 秀秋の拳が固く握られる。


「ならば、今ここで西へ残ると誓えと申すか」


「違う」


「何が違う」


「今日、返事をしなくてもいい」


「先ほど、選ばなかった責任が残ると言ったではないか」


「返事を急がないことと、何も選ばないことは違う」


 湊一は、冷めかけた湯呑みへ目を向けた。


「誰を帰したいのか。何を守るのか。どこまでなら失う覚悟を持てるのか。それを、自分で決めろ」


「簡単に言う」


「簡単ではない」


「そなたには友がおる。帰る城がある。自分が何者かも分かっておる」


「俺も、分からなくなった」


「何?」


「石田三成として生きるのか。白瀬湊一として未来を変えるのか。今でも分からなくなる」


 秀秋は黙っている。


「だが、どちらの名で生きようと、目の前の者を腹の空いたままにしないことだけは決めた」


「湯と飯か」


「ああ」


「天下を分ける話をしておるのだぞ」


「天下が分かれても、人は飯を食う。汗をかく。傷を負う。帰る場所を探す」


「それで、戦に勝てるのか」


「分からない」


「また、それか」


「勝つ道は探す。だが、勝てなかった時に、すべてを失わない道も作る」


 湊一は一度、息を吸った。


「もし、お前が西に残るなら、死ぬために残るな」


「何だと」


「兵を一人でも多く帰す方法を考えろ。負傷者を運ぶ者を臆病者と呼ばせるな。退く道を、戦う前に作れ」


「武士に逃げ支度をさせるのか」


「帰る支度だ」


「同じであろう」


「違う」


 湊一は言い切った。


「逃げるとは、その場から離れることだ。帰るとは、待っている者のもとへ戻ることだ」


 秀秋は、すぐには返さなかった。


「では」


 やがて尋ねる。


「わしが東を選べば、どうする」


「敵として止める」


「斬るか」


「戦になれば、そうなるかもしれない」


「結局、脅しではないか」


「違うとは言わない」


 湊一は目をそらさなかった。


「だが、選ぶ前からお前を裏切り者とは呼ばない」


 秀秋の指が動いた。


「東を選べば、太閤殿下を裏切ることになる」


「そう呼ぶ者はいる」


「そなたも呼ぶのではないか」


「俺は、お前の選んだ理由を聞く」


「聞いて、それで許すのか」


「許すとは言えない。敵になれば戦う。吉継や左近を傷つければ、俺はお前を止める」


 湊一は続けた。


「だが、一度の選択だけで、お前が生まれてから今日までのすべてを、嘘だったとは言わない」


 秀秋の手が、膝の上で固く握られた。


「甘いな、治部殿は」


「吉継にも言われた」


「その甘さで、天下を取れると思うか」


「天下を取るために、ここへ来たんじゃない」


「では、何のためだ」


「一人の若者を、未来に書かれた悪名だけで見ないためだ」


 秀秋の顔が上がった。


「未来?」


「こちらの話だ」


「そなたは時折、妙なことを言うな」


「ああ。俺もそう思う」


 そのときだった。


 ちりん。


 湊一の腰に結んだ鈴が鳴った。


 風はない。


 戸も閉まっている。


 秀秋の前に置かれた湯呑みの水面が、丸く揺れた。


 水面の中に、白い髪の幼い娘が映る。


「まったく、話の長い愚か者どもじゃ」


 秀秋が後ろへ身を引いた。


「何者だ!」


「妾を知らぬとは、ものを知らぬ若造よな」


「白那」


「勝手に呼ぶでない」


 水面に映る白那は、佐和山の井戸端にいる。


 片手には、湊一の団子がまだ握られていた。


「それは俺の団子だぞ」


「今は関係なかろう!」


「食べながら話すな」


「妾は佐和山の水を守りながら、そなたらの話まで聞いてやっておるのじゃ。供物の一つや二つ、当然であろう」


 秀秋が、湊一と湯呑みを交互に見る。


「治部殿。これは何だ」


「佐和山の水守だ」


「これが?」


「誰が『これ』じゃ!」


 白那の怒声に合わせ、湯呑みの水面が跳ねた。


 秀秋の袖に、一滴だけ水がかかる。


「冷たい」


「当然じゃ。そなたがいつまでも飲まぬからであろう」


 白那は小さな鼻を鳴らした。


「冷めた湯は温め直せる。されど、冷えた心は面倒よ」


 秀秋が、冷めた湯を見る。


「わしの心は、冷えておると申すか」


「冷えるのを恐れ、器へ蓋をしておるだけじゃ」


「蓋などない」


「目に見える蓋の話をしておるのではない。愚か者」


 白那は団子をもう一口かじった。


「人に捨てられるのが怖い。誤るのが怖い。悪く言われるのが怖い。ゆえに、初めから誰かに選ばされた顔をしておる」


 秀秋の顔が険しくなる。


「神ならば、正しい道を教えてみせよ」


「嫌じゃ」


「何?」


「妾は水守ぞ。人間の軍議まで面倒を見るものか」


「では、なぜ口を出した」


「冷めた湯を放っておく者が嫌いなだけじゃ」


「それだけか」


「それだけで十分よ」


 白那は尊大に顎を上げた。


「水は流れる先を、他の水に決めてもらわぬ。されど、流れずに腐れば、妾が叱る」


 ちりん。


 鈴がもう一度鳴る。


 湯呑みの水面から、白那の姿が消えた。


 最後に、団子をかじる小さな音だけが残った。


「……何だったのだ」


 秀秋が呟く。


「俺にも、よく分からない」


「水守なのであろう」


「本人がそう言っている」


「そなたは、いつもあれに振り回されておるのか」


「毎日だ」


 秀秋は、初めてはっきりと笑った。


 ほんの短い笑いだった。


 すぐに消えたが、先ほどまでの張り詰めた顔ではなくなっていた。


     ◇


 しばらくして、使者を見送った宿直の者が呼ばれた。


 使者は確かに、昨夜、馬へ乗って東寺近くの陣所を出たという。


 一人だった。


 後を追った者は見ていない。


 だが、京を出る前の番所では、その姿を見た者がいなかった。


「陣を出てから、最初の番所までの間に消えたのか」


 秀秋が尋ねる。


「そのように考えられます」


「道沿いだけではない。寺、空き家、水路も調べよ」


「はっ」


「見つけても、勝手に口を塞ぐな。生きたまま連れてこい」


 秀秋は、書き換えられた文へ目を落とした。


「この書状を運んだ者と、受け取った者も確かめよ。誰の手を通ったか、一人ずつだ」


「承知いたしました」


「それから」


 秀秋は陣外へ視線を向けた。


「伏見の負傷者へ送る湯と布を増やせ」


「しかし、明日の攻めに使う水が――」


「飲み水は減らすな。京の井戸を借りる。銭を払い、桶ごと買え」


「はっ」


「飯を食えぬ者には粥を炊け。戦える者を先に食わせるな。傷の深い者からだ」


 家臣が深く頭を下げる。


 湊一は何も言わなかった。


 東か西か。


 秀秋は、まだ選んでいない。


 だが今、この若い当主は、自分の兵を一人でも多く帰す道を、自分の言葉で命じた。


 それもまた、一つの選択だった。


 家臣たちが下がり、部屋には再び二人だけが残る。


「返事は、まだできぬ」


 秀秋が言った。


「今日、返せとは言わない」


「わしが西へ残るとも限らぬぞ」


「分かっている」


「東を選ぶかもしれぬ」


「ああ」


「それでも、わしを裏切り者とは呼ばぬのか」


「選ぶ前からは呼ばない」


「選んだ後は」


「理由を聞く」


「聞くだけか」


「その後で、必要なら戦う」


「甘いのか厳しいのか、分からぬ男だな」


「それも、よく言われる」


 秀秋は、二通の書状を重ねなかった。


 徳川方からの文は右へ。


 書き換えられた湊一の文は左へ。


 どちらも破り捨てずに残した。


「治部殿」


「何だ」


「次に文を寄越す時は、使者を二人にせよ」


「分かった」


「二人とも、わしの前まで通す」


「ああ」


「そして返事は、わし自身の口から伝える」


 湊一はうなずいた。


「それでいい」


 立ち上がり、部屋を出ようとする。


 戸口で、一度だけ振り返った。


 秀秋の前には、東西二通の文と、一つの湯呑みが残されている。


「その湯は、沸かし直させるか」


 湊一が尋ねる。


 秀秋は、冷めた湯へ手を伸ばした。


 指先が、湯呑みの縁に触れる。


 だが、持ち上げなかった。


「まだ、決めておらぬ」


「そうか」


 陣の外から、伏見を攻める鉄砲の音が響いた。


 小早川秀秋は、すでに西軍の陣中にいる。


 その兵も、すでに血を流している。


 それでも、心の行く先までは、誰の文にも決められていなかった。


 秀秋は湯を飲まなかった。


 捨てよとも命じなかった。


 湯呑みは、東西二通の文のあいだに置かれたままだった。


 どちらの旗の色にも染まらず。


 ただ、透明な水だけが、若い当主の迷う顔を映している。


 冷めた湯は、温め直せる。


 だが、その湯を飲むか、捨てるか。


 それを決めるのは、湯を出した者ではない。


 器を手にした者自身だった。


 関ヶ原まで、あと四十五日。

お読みいただき、ありがとうございます。


小早川秀秋の領地は筑前・名島ですが、この時期の本人は畿内へ出陣し、西軍側として伏見城攻めに加わっていました。


今回は、すでに兵を戦わせている秀秋を、最初から卑怯な裏切り者としては描かず、豊臣家での立場、小早川家を守る責任、徳川方からの調略に揺れる若い当主として描きました。


三成との会談や、書き換えられた文、消えた使者、黒い羽は本作独自の創作です。


「自分で選べ。ただし、選ばなかった責任も残る」


秀秋はまだ、湯を飲むことも捨てることもできません。


次回、第三十四湯「島津、湯気を見ないふり」。


湊一は、簡単には心を開かない島津義弘と向き合います。

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