第三十二湯 吉継、友を選ぶ
第三十二湯です。
未来では、三成と共に関ヶ原へ向かい、命を落とす大谷吉継。
その最期を知る湊一は、友を救うため、自分を見捨てて生きてほしいと願います。
しかし吉継は、死ぬためではなく、共に生きて帰る道を作るために友を選びます。
第三十二湯 吉継、友を選ぶ
島左近が朝湯の湯口を守った。
そんな噂が佐和山城内を一巡するより早く、大手門へ一挺の駕籠が着いた。
夜明けから降り続く雨の中、供回りはわずかだった。
「申し上げます!」
濡れた近習が、兵糧蔵へ駆け込んでくる。
「越前敦賀より、大谷刑部少輔様がお着きにございます!」
湊一は、米俵へ結びつけようとしていた木札を取り落とした。
「もう来たのか」
昨夜届いた書状には、ただ一言。
――近く、佐和山へ参る。
そう記されていただけだった。
味方になるとも、ならぬとも書かれていない。
理由さえなかった。
それでも湊一には分かっていた。
大谷吉継は、答えを告げるために来たのだ。
そして、その答えを知ることが怖かった。
「殿?」
「ここを頼む」
湊一は羽織をつかみ、雨の中へ飛び出した。
◇
駕籠は門をくぐったところで止まっていた。
白い頭巾の男が、家臣の手を借りてゆっくりと降りてくる。
「吉継」
湊一が駆け寄ると、吉継は白布の奥で顔を上げた。
「朝から騒々しい男よ」
「知らせより早い」
「そなたの『近く』と、わしの『近く』が同じとは限らぬ」
「昨夜、文を受け取ったばかりだぞ」
「友がまた一人で何かを抱え込んでおる。そう思えば、道も少しは縮まる」
「道は縮まらない」
「相変わらず、つまらぬところだけ細かいのう」
吉継は雨に霞む城内を見回した。
「門番から聞いたぞ。左近が朝湯の番をしたそうじゃな」
「俺も、今初めて聞いた」
「水守の次は、軍師まで湯番にしたか」
「俺が命じたわけじゃない」
「ならば、自らしたのであろう」
吉継の声には、わずかに笑いが混じっていた。
「少しは、そなたの言葉が届いたらしい」
「まだ、帰るとは約束していない」
「武士が己の死に場所を捨てるには、時が要る」
その言葉が、湊一の胸へ刺さった。
左近も。
吉継も。
後の世に名を残した者たちは、皆、死に場所とともに語られている。
島左近、関ヶ原に死す。
大谷吉継、陣中にて自刃。
石田三成、敗走の末に捕らえられ、斬首。
文字にすれば、わずか数行だ。
だが今、目の前にいる男は雨に濡れ、息をし、軽口を叩いている。
死者ではない。
「吉継」
「話は中で聞こう」
吉継は城を見上げた。
「雨の中で友の顔を眺める趣味はない」
◇
湊一が吉継を案内したのは、客間ではなかった。
兵糧蔵の上に設けた、小さな勘定部屋だった。
下からは、米俵を運ぶ者たちの掛け声が響いている。
部屋の中央には、大きな絵図が広げられていた。
赤い線は、兵を進める道。
青い印は、水場。
黄色い印は、米、塩、薬を置く場所。
白い線は、負傷者や城下の者を帰す道だった。
吉継は絵図を見るなり、腰を下ろした。
「なるほど」
「何がだ」
「客を迎えるより、こちらを見せたかったのであろう」
「見せるつもりはなかった」
「ならば、なぜ客間へ通さぬ」
「客間には、こんな大きな絵図を広げられない」
「それを見せたかったというのじゃ」
湊一は言葉に詰まった。
吉継は絵図へ顔を寄せた。
白い布の隙間から伸びた指が、赤い線と白い線の交わる場所で止まる。
「ここは狭いぞ」
「山道だからな」
「違う。この道を、兵糧を運ぶ者と負傷者が同時に使うのであろう」
「ああ」
「兵糧は戦場へ向かい、負傷者は戦場から戻る。雨が降れば、道はさらに細くなる」
吉継の指が、二つの木札を同じ道へ置いた。
「どちらが退く」
「兵糧を運ぶ方だ」
「誰が、それを命ずる」
「道を預かる者を決める」
「決まっておらぬのか」
「これからだ」
「では、この道は使えぬ」
吉継は白い木札を一つ取り、別の細道へ動かした。
「負傷者はこちらへ回せ」
「遠くなる」
「じゃが、争わずに済む。人は苦しくなれば、自分の荷こそ先に通せと言い張るものじゃ」
「負傷者を後回しにする者も出る」
「ゆえに、戦の前に決める」
吉継は絵図の端へ手を伸ばした。
「筆を貸せ」
「まだ、お前の答えを聞いていない」
「筆を貸せ」
「吉継」
「話をしながらでも、線は引ける」
湊一は渋々、筆を渡した。
吉継は墨を含ませると、街道脇へ細い線を書き足した。
「この寺を、負傷者の集まる場所とするのだな」
「ああ。井戸と炊事場がある」
「湯は」
「湯屋ほどのものはない。だが、大釜を置けば身体と布を洗える」
「ならば薪を置け。米だけあっても、火がなければ粥は炊けぬ」
「薪を積めば目立つ」
「村ごとに分けよ。一か所を焼かれて、すべてを失う方が愚かじゃ」
吉継は次々と絵図へ印を加えていく。
負傷者を運ぶ担架。
水を入れる桶。
雨を避けられる小屋。
馬を休ませる場所。
道が崩れた際に使う迂回路。
まだ足りない。
これも要る。
そちらは分けろ。
指摘されるたび、湊一の胸にあった不安が、具体的な仕事へ変わっていった。
同時に、別の恐れが大きくなっていく。
「吉継」
「この川も危ういな。今日ほどの雨が続けば、渡しは使えぬ」
「もういい」
「よくない。水が増えた時の道がない」
「そうではない」
湊一は、吉継の手首をつかんだ。
「なぜ、そこまで考える」
吉継の筆が止まった。
「この絵図が、面白いからじゃ」
「嘘をつけ」
「友の絵図に穴が多すぎるから、塞いでおる」
「友として助言をするだけなら、ここまでで十分だ」
「十分かどうかは、わしが決める」
「ならば、先に答えろ」
雨が屋根を打つ音が強くなった。
兵糧蔵から聞こえていた掛け声も、いつの間にか止んでいる。
湊一は、吉継の白布をまっすぐ見た。
「お前は、どちらにつく」
吉継はすぐには答えなかった。
筆先から墨が一滴落ち、絵図の端に小さな染みを作る。
「その前に、一つ尋ねよう」
「何だ」
「そなたが寄越した文には、家康が諸将を率いて東へ下ったことも、上杉が容易には屈せぬことも書かれておった」
「ああ」
「豊臣の政が、このままでは徳川内府一人の手へ落ちるとも」
「そう書いた」
「されど、肝心の一言がなかった」
「肝心の一言?」
「力を貸せ、と」
湊一は答えなかった。
「昔のそなたなら、豊臣家のため、天下のため、義のためと、紙が尽きるまで書き連ねたであろう」
「かもしれない」
「そして最後には、正しいのだから従え、と命じた」
「そこまでは書かない」
「書かずとも、そう読める文を書く男じゃ」
「ひどい言われようだな」
「友ゆえ、よく知っておる」
吉継は筆を置いた。
「なぜ書かなかった」
湊一は拳を握った。
「書けなかった」
「なぜじゃ」
「お前を死なせるからだ」
吉継は動かなかった。
「俺には分かっている」
湊一は続けた。
「俺が家康へ逆らえば、お前は俺の側につく。勝ち目が薄いと諫めても、最後には来る」
「随分と自信があるのう」
「来るんだ」
声が震えた。
「そして、美濃で陣を構える。小早川秀秋の裏切りを警戒し、備えもする。お前の軍は何度も押し返す」
湊一の目が、絵図に書かれた小早川の名へ落ちた。
「それでも横から崩される。味方だった者たちが次々と敵へ回り、お前の陣は持ちこたえられなくなる」
喉が詰まった。
知っている。
その先を。
「お前は……そこで死ぬ」
雨音だけが残った。
吉継は長い間、何も言わなかった。
やがて、静かに尋ねる。
「それで、そなたはどうせよと申す」
「家康の上杉征伐へ加われ」
「ほう」
「そのまま徳川方に残れ」
吉継の指が、わずかに動いた。
「俺とは戦うな。佐和山へ来たことも、ここで話したことも忘れろ」
「できぬ相談じゃな」
「できる」
「できぬ」
「お前なら家康も粗末には扱わない。敦賀へ戻り、家臣と領民を守れ」
「そなたを売ってか」
「売れ」
湊一は言い切った。
「俺の首一つで、お前と敦賀の者たちが生きられるなら、売ればいい」
吉継の声から、わずかな温かみが消えた。
「三成」
「何だ」
「そなたは、自分が友を大切にしているつもりなのであろうな」
「違うのか」
「まるで違う」
「何が――」
「そなたは、わしから選ぶ権利を奪おうとしておる」
湊一の言葉が止まった。
「未来を知るのは、そなたであろう」
「ああ」
「その未来を変えたいのも、そなたであろう」
「ああ」
「ならば、なぜわしだけを、未来に書かれたとおりの男と決めつける」
「決めつけていない。だから死なない道を――」
「家康へつく大谷吉継なら生きる。三成へつく大谷吉継なら死ぬ。そなたは、そう帳面へ書いておるだけじゃ」
吉継の指が、絵図の上に置かれた二つの木札を弾いた。
「わしは札ではない」
「分かっている!」
「分かっておらぬ!」
吉継の声が、狭い部屋を打った。
下の蔵で、人が動きを止める気配がした。
だが吉継は構わなかった。
「そなたは昔からそうじゃ。人のためと言いながら、人の心を置き去りにする」
「お前を死なせたくないだけだ!」
「ならば、そなたも家康へつけ!」
湊一は息を呑んだ。
「佐和山で湯を沸かしておれ。徳川内府へ頭を下げ、二度と逆らわぬと誓え。そうすれば、妻子も家臣も城下の者も助かるやもしれぬ」
「それはできない」
「なぜじゃ」
「このままでは、豊臣の政が――」
「天下の話ではない」
吉継は遮った。
「わしを生かすためなら友を売れと申したな。ならば、そなたも皆を生かすため、己の正しさを売れ」
「できない」
「自分にはできぬことを、わしへ命ずるか」
「お前は俺とは違う!」
「違わぬ!」
吉継の手が、絵図を打った。
赤と白の木札が跳ねる。
「そなたには妻子がおる。家臣がおる。城下には、そなたを信じて湯を沸かす者も、飯を炊く者もおる」
「だから、帰る道を作っている」
「誰と作る」
その一言が、湊一の胸を貫いた。
「そなた一人で、何人を帰すつもりじゃ」
「それは……」
「左近一人に生きろと命ずるだけで、あれほど揉めたのであろう」
「どこで聞いた」
「門番が、朝湯の話と一緒に教えてくれた」
「城の守りより口が軽いな……」
「そなたが怒鳴れば、石垣の外まで聞こえるわ」
吉継は小さく息を吐いた。
「そなたは、一人で背負えば責を果たした気になる」
「俺が始める戦だ」
「まだ始まってはおらぬ」
「始めなければ、もっと多くが奪われる」
「それは、そなたの考えじゃ」
吉継は容赦しなかった。
「わしは、そなたがすべて正しいとは思わぬ」
「知っている」
「正しさを並べれば人は動くと信じておった」
「ああ」
「人の心を、帳面の数字のように扱う」
「ああ」
「嫌われておる」
「それも知っている」
「驚くほど嫌われておるぞ」
「何度も言うな」
「大事なことじゃ」
吉継の声に、ほんのわずかに笑いが戻った。
だが、すぐに真剣な響きへ変わる。
「勝ち目は薄い」
「ああ」
「味方となる諸将も、心は一つではない。毛利も、島津も、小早川も、同じ旗の下へ立てば同じ方角を見るわけではない」
「ああ」
「そなたの悪名は広がっておる。味方になっただけで、同じ悪人と見られる者も出よう」
「ああ」
「それでも戦うのか」
「戦う」
湊一は答えた。
「ただし、勝つために皆を使い潰す戦にはしない」
白い線へ指を置く。
「退く道を作る。負傷者を置き去りにしない。水を確保する。飯を残す。城が落ちても、戻ってこられる場所を残す」
「戦の前から、敗れた後を考えるか」
「考える」
「臆病者と笑われるぞ」
「もう十分、笑われている」
「それは違いない」
「だから、もう評判はどうでもいい」
湊一は吉継を見た。
「勝つ道は最後まで探す。だが、勝てなかった時にすべてを失う戦にはしない」
一度、息を吸う。
「吉継」
今度こそ、頼まなければならない。
正しさではなく。
天下でもなく。
自分一人の恐れでもなく。
「一緒に死んでくれとは言わない」
「言われても断る」
「俺が正しいから従えとも言わない」
「そなたがすべて正しい日は、雨が下から降るであろう」
「少し黙って聞け」
「聞いておる」
湊一は拳を開いた。
「一人でも多く帰すために、力を貸してくれ」
吉継は動かなかった。
「兵だけではない」
湊一は続ける。
「妻子も、城下の者も、荷を運ぶ者も、飯を炊く者もだ。傷ついた者を担いだために逃げ遅れる者も出る。ならば、その者まで連れて帰る道を作りたい」
長い沈黙が落ちた。
屋根を叩いていた雨が、少しずつ弱くなる。
吉継は、絵図の白い線へ目を落とした。
「ぬるいのう」
「何だと」
「そなたの頼みじゃ」
吉継の指が、白い線をなぞった。
「一人でも多く、では足りぬ」
「吉継」
「帰せる者は、すべて帰す」
吉継は筆を取り直した。
「最初から数を減らすな。十人のうち九人を帰せばよいと思えば、必ず八人になる」
絵図へ、もう一本の白い線を引く。
「負傷者の道は二つ作れ。一つが塞がった時、そこで諦めぬためじゃ」
「川が増水すれば、どちらも使えない」
「ならば、渡しを三つ決めておけ。舟だけに頼るな。浅瀬と、上流の橋も調べよ」
「兵糧は」
「進める米と、帰る者に食わせる米を分ける」
「戦う前から米を分ければ、足りなくなる」
「足りなくなれば、初めから兵の数を見直せ。食わせられぬ兵を集めても、味方にはならぬ」
吉継の筆は止まらない。
「水場では、飲み水と傷を洗う水を分けよ。血のついた布を、上流で洗わせるな」
「ああ」
「担架を運ぶ者を、その場で選ぶな。槍を持たぬ役目を恥とする者が出る」
「先に組を決める」
「敵の首を取った者だけを褒めるな。味方を一人担いで戻った者も、同じように褒めよ」
「分かった」
「退く合図も統一する。勝手に逃げた者と、命を受けて道を守る者を一緒にするな」
「吉継」
「それから、そなた自身の帰る道も書け」
湊一の筆が止まった。
「俺の?」
「まさか、自分だけは最後まで残るつもりではあるまいな」
「総大将が先に退くわけには――」
「そなたは総大将ではないであろう」
「まだ、誰が立つか決まっていない」
「ならば、なおさら一人で死ぬ役目を取るな」
昨夜の左近と同じだった。
帰れと命じるなら、お前も帰れ。
湊一は答えられず、絵図へ目を落とした。
「返事は」
「……善処する」
「今ここで病を忘れて殴ってやろうか」
「分かった。俺も帰る」
「声が小さい」
「俺も帰る!」
下の蔵で、誰かが米俵を落とした。
どすん、と鈍い音が響く。
「まったく、揃いも揃ってやかましいのう」
小さな声がした。
湊一と吉継が同時に振り向く。
雨漏りの雫が一つ、絵図の端へ落ちていた。
雫は紙へ染み込まず、丸い玉のまま白い線の上を滑っていく。
やがて、黄色い木札の陰から小さな白い手が伸びた。
指先がつまんでいるのは、干し飯だった。
「白那」
「誰が、勝手に妾の名を呼んでよいと申した」
幼い姿の白那が、木札の後ろから顔を出した。
白い髪も、小さな身体も、雨の向こうの景色のように淡く透けている。
それでも顎だけは、いつも通り偉そうに上がっていた。
「それは兵糧だぞ」
「知っておる」
「なぜ食べている」
「検分じゃ」
白那は干し飯を口へ入れた。
かり、と小さな音がする。
直後、その顔が固まった。
「……石ではないか」
「水で戻してから食べるんだ」
「先に申せ、愚か者!」
「勝手に食べたのは白那だろ」
「水守が水を加える前の状態を確かめてやったのじゃ。ありがたく思え」
白那は噛みきれなかった干し飯を頬に入れたまま、ふんと鼻を鳴らした。
吉継の肩が小さく揺れる。
「笑うでない、白布男」
「いや。水守殿の熱心な働きに、感心しておる」
「当然じゃ。兵糧に毒があれば、そなたらは揃って腹を壊すからのう」
「もう一つ、検分されるか」
吉継が干し飯を差し出す。
白那の目が動いた。
だが、すぐに顔をそむける。
「妾は欲しいとは申しておらぬ」
「供物じゃ」
「そこまで申すなら、受け取ってやらぬこともない」
「吉継、甘やかすな」
「病人と水守には、優しくせよ」
「誰が病人じゃ」
「誰が弱った水守じゃ!」
吉継と白那の声が重なった。
一瞬の沈黙。
湊一は吹き出した。
「似た者同士だな」
「どこがじゃ!」
「どこがだ!」
また、二人の声が重なった。
白那は怒って立ち上がろうとした。
だが、小さな身体がふらつく。
湊一が手を差し出すと、白那はその掌へ、ちょこんと腰を下ろした。
「座るのか」
「そなたの手が、勝手に妾の下へ入り込んだのじゃ」
「俺の手は動いていない」
「細かいことを申すでない」
白那は湊一の掌の上で干し飯を抱え、吉継を見た。
「それで、白布男」
「何かな、水守殿」
「そなたは、まだ難しい理屈を並べねば友を選べぬのか」
吉継が黙った。
白那は次に、湊一を見上げる。
「そなたもじゃ。友を守ると言いながら、勝手に遠くへ追いやろうとする」
「死なせたくない」
「ゆえに愚かだと申しておる」
白那は小さな指を二人へ向けた。
「一人は、友と共に死ぬことを美しいと思う」
「思うてはおらぬ」
「顔に書いてある」
「白布越しに見えるのか」
「神を侮るでない」
白那は胸を張った。
「もう一人は、一人で残って死ぬことを責任と思うておる」
「俺は――」
「言い訳をするでない、愚か者」
窓の外で、軒から雨水が落ちた。
一滴。
また一滴。
やがて細い流れとなり、地面を二つに分かれていく。
「友とは、共に死ぬ者ではない」
白那の声から、戯れが消えた。
「愚か者を生かして帰す者よ」
吉継が、静かに息を吐いた。
「随分と難しい役目を申される」
「死ぬよりは難しかろう」
「確かに」
「されど、その方が長く妾へ供物を捧げられる」
「結局、それか」
「何を申す。神を敬う心は、人を正しき道へ導くのじゃ」
「干し飯目当てだろう」
「これは兵糧の検分じゃ!」
白那は二つ目の干し飯を背中へ隠した。
吉継が、今度こそ声を立てて笑った。
その笑いが収まるまで、湊一は黙って待った。
久しぶりに聞く、友の笑いだった。
◇
「三成」
吉継は、絵図の前へ座り直した。
「わしは、そなたが正しいから味方するのではない」
「ああ」
「そなたの考えすべてに賛同したわけでもない」
「ああ」
「今のまま戦えば、負ける目の方が多いと思うておる」
「それも分かっている」
「そなたは人に好かれぬ」
「もう分かったから、それは言うな」
「大切なことじゃ」
「何度も聞いた」
吉継はわずかに笑った。
「じゃが、以前のそなたなら、この絵図に赤い線しか引かなかった」
白い線を指でなぞる。
「今のそなたは、負けることを恐れながらも、敗れた後に人を残そうとしておる」
「負けるつもりはない」
「分かっておる」
「勝つ道も探す」
「それも分かっておる」
吉継の手が、湊一の拳へ重なった。
「ゆえに、わしは己で選ぶ」
「吉継」
「豊臣家のためだけではない」
重ねられた手に力がこもる。
「正しさのためでもない」
雨が止んだ。
雲の切れ間から差し込んだ光が、絵図の白い線を照らす。
「勝てると思うたからでもない」
「では、なぜだ」
「友だからじゃ」
吉継は言い切った。
「わしは、友を選ぶ」
湊一の喉が震えた。
「それでは、お前を死なせるかもしれない」
「だから、死なぬ策を考えておるのであろうが」
「簡単に言うな」
「簡単ではない。そなたの友でいることは、昔から実に面倒じゃ」
吉継は絵図を引き寄せた。
「そなたが道を誤れば、わしが止める」
「ああ」
「わしが死に急げば、そなたが止めよ」
「ああ」
「どちらかが倒れれば、もう一人が起こす」
「ああ」
「そして、最後は二人とも帰る」
湊一は、すぐには返事ができなかった。
必ず帰れるとは言えない。
未来を知る自分には、その言葉の重さが分かっている。
だが、帰るつもりで戦わなければ、帰る道など作れない。
「分かった」
湊一は、吉継の手を握り返した。
「二人で帰ろう」
「初めから、そう申せばよい」
「言えなかったんだ」
「知っておる」
「お前は嫌になるほど、俺のことを知っているな」
「友だからのう」
吉継は筆を取り、二つに分けた白い線の先へ、小さな丸を描いた。
「ここへ、帰った者へ食わせる飯を置く」
「寺が近い。粥を炊ける」
「湯も沸かせるか」
「大釜なら置ける」
「ならば、傷を洗う湯と、身体を温める湯を分けよ」
「水が足りない」
「雨水をためる。飲み水には使わず、汚れた布を洗う」
「なるほど」
「それから、この道は島津へも知らせておけ」
「まだ味方になると決まっていない」
「だからじゃ。人は自分が捨てられぬと知れば、少しは話を聞く」
「小早川にも?」
湊一が尋ねると、吉継の手が止まった。
「小早川は、道だけでは足りぬ」
「では、何が要る」
「会うことじゃ」
「書状は送った」
「書状で心まで動かせるなら、そなたはこれほど嫌われておらぬ」
「まだ言うか」
「事実じゃ」
吉継は、小早川秀秋の名へ指を置いた。
「若い者は、何を得られるかより、誰に見捨てられるかを恐れることがある」
秀吉の養子となり。
秀頼が生まれれば、その立場を失い。
小早川家へ入っても、周囲から豊臣の血を引かぬ養子として見られる。
小早川秀秋は、大きな家と名を与えられながら、自分の居場所を得られなかった男なのかもしれない。
「責めるな」
吉継が言った。
「裏切るなと命じる前に、何を恐れておるかを聞け」
「ああ」
「そなたの得意なやり方でな」
「俺の得意なやり方?」
「飯を食わせ、肩の力を抜かせるのであろう」
吉継が兵糧蔵の床を軽く叩いた。
「そなたは今や、城主というより若旦那の顔をしておる」
「白那の真似をするな」
「誰が妾の真似じゃ」
湊一の掌の上で、白那が頬を膨らませた。
「若旦那とは、妾がそなたへ授けた由緒ある呼び名ぞ」
「いつ授けた」
「今決めた」
「由緒が一瞬でできたな」
「神の一瞬は、人の百年より重いのじゃ」
「便利な理屈だ」
「愚か者には理解できぬだけよ」
そのとき、階下から慌ただしい足音が聞こえた。
「三成様!」
近習が勘定部屋の前で膝をつく。
「小早川殿のもとへ向かった使者より、先触れが戻りました」
「返事は」
「書状は受け取られたとのことにございます」
「それで?」
近習は言いにくそうに顔を伏せた。
「小早川殿への直接のお目通りは許されず、返書もございませぬ」
湊一と吉継は、同時に絵図へ目を落とした。
小早川秀秋。
その名の上には、まだどの色の木札も置かれていない。
「会え、と申したであろう」
吉継が言った。
「簡単に言うな」
「難しいから、そなたが行くのじゃ」
「俺が?」
「そなたは今、わしへ正しさではなく、帰る場所の話をした」
吉継は小早川の名を指で叩いた。
「同じことを、あの若者にも話せ」
「聞くと思うか」
「聞かせるのではない」
吉継の声が低くなる。
「先に、そなたが聞くのじゃ」
湊一は、小早川の名を見つめた。
後の世に残る、裏切り者という呼び名。
だが今はまだ、何も選び切れていない一人の若者だ。
疑って斬れば、未来どおりの敵を自ら作る。
無条件に信じれば、吉継の命を危険へさらす。
正しい答えは、まだ見えない。
それでも、会わなければ始まらない。
「分かった」
湊一は白い木札を一つ取り、小早川秀秋の名のそばへ置いた。
「会いに行く」
「それでよい」
「吉継」
「何じゃ」
「一緒に来てくれるか」
「断る」
「なぜだ」
「友が隣におれば、そなたはまた、正しい顔をして説教を始める」
「そんな顔をしたことはない」
「しておる。今もな」
「どんな顔だ」
「驚くほど人を苛立たせる顔じゃ」
吉継が笑う。
湊一も、今度は笑い返した。
白那が呆れたように鼻を鳴らす。
「まったく、友とは面倒なものよ」
「白那が言うな」
「妾に友など要らぬ」
「小さき湯番が聞いたら泣くぞ」
「妾とあの者は、主と供物係じゃ」
「友ではないのか」
「断じて違う」
「では、団子を半分もらっていたのは?」
「あれは水守への年貢じゃ!」
白那の声が、雨上がりの兵糧蔵へ響いた。
階下で米俵を運んでいた者たちが顔を見合わせる。
誰かが、小さく笑った。
やがて、その笑いは蔵の中へ広がっていった。
戦は近い。
勝ち目は薄い。
友を選んだからといって、未来が必ず変わるわけではない。
それでも。
大谷吉継は、死ぬために友を選んだのではなかった。
愚かな友を生かし。
一人でも多くの者を帰すために、同じ絵図へ線を引いた。
二本の白い線は、雨上がりの光の中で、細い水の流れのように佐和山へ続いていた。
関ヶ原まで、あと四十六日。
お読みいただき、ありがとうございます。
今回は、三成と大谷吉継の友情を描きました。
吉継は、三成が正しいから味方するのではありません。
勝ち目の薄さも、諸将の不和も、三成の悪名も理解しています。
それでも、自分の意思で友を選びました。
ただし、それは共に死ぬための選択ではありません。
「友とは、共に死ぬ者ではない。愚か者を生かして帰す者よ」
白那の言葉どおり、二人は勝つ策と同時に、一人でも多く生きて帰す道を探し始めます。
次回、第三十三湯「小早川の湯は冷めている」。
湊一は、後に裏切り者と呼ばれる若者――小早川秀秋の迷いと向き合います。
引き続きお楽しみいただけましたら幸いです。




