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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第四章 勝つ支度ではなく、残す支度

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挿話 六湯 左近、朝湯を守る

三成から「生きて帰れ」と命じられた左近。

戦場なら迷わぬ男が、夜明けの湯場で出会ったのは、父の帰りを待つ小さな子どもでした。

今回は、第三十一湯の直後を描く挿話です。

挿話 六湯 左近、朝湯を守る


 小早川秀秋へ。


 北政所へ。


 そして、これまで石田三成が結んできた、いくつもの縁へ。


 数通の書状を携えた使者たちが佐和山の門を出たころ、東の空はようやく白み始めていた。


 島左近は城門の脇に立ち、その背を見送っていた。


 馬の蹄が、朝靄の向こうへ消えてゆく。


 最後の一騎が見えなくなっても、左近はしばらく動かなかった。


 耳の奥には、先ほどの主の声が残っている。


『生きて帰れ』


 死ね、ではない。


 勝て、でもない。


 生きて帰れ、と命じられた。


「……難儀な命を下さる」


 左近は低く呟いた。


 戦場で死ねと言われる方が、よほど容易い。


 敵陣へ斬り込み、槍を受け、最後まで立っていればよい。


 武士として恥じぬ死に場所を選ぶことなら、とうに覚悟を決めていた。


 だが、生きて帰るとなれば話は別だ。


 敗れても、生きる。


 味方が倒れても、生きる。


 泥をすすり、敵に背を向け、無様と笑われようとも帰らねばならぬ。


 そのうえ、己だけではない。


 一人でも多く連れて帰れと、主は言った。


「まことに、無茶を申される」


 口ではそう言いながら、左近の胸には、まだ熱いものが残っていた。


 先ほどの軍議で、主は机を叩いた。


 左近も負けじと声を荒らげた。


 勝ち目が薄いなら、せめて己が死地を引き受ける。


 そう言い張った左近に、主は怒った。


 家臣を駒として捨てるために、これほど足掻いているのではない。


 策を巡らせ、書状を書き、人の縁にすがり、悪名まで呑み込んでいるのは――皆が帰れる場所を残すためなのだ、と。


 あれほど感情を露わにした主を、左近は久しく見ていなかった。


 いや。


 石田三成という男が、あれほど必死に「生きろ」と言う姿を、左近は初めて見たのかもしれない。


「眠れるはずもないか」


 左近は城門を離れた。


 自室へ戻る気にはなれなかった。


 気がつけば、足は城内の湯場へ向かっていた。


     ◇


 朝湯には、まだ少し早い。


 それでも湯場には、すでに白い湯気が立ち昇っていた。


 山から引かれた湯が木の樋を伝い、湯船へ静かに注いでいる。


 年嵩の湯番が湯口へ手を差し入れ、湯加減を確かめていた。


「少し熱いな」


 左近が声を掛けると、湯番は飛び上がった。


「さ、左近様!」


「声が大きい」


「も、申し訳ございませぬ」


 湯番が慌てて頭を下げる。


 その足元、脱衣場の板の間には、小さな子どもが眠っていた。


 まだ五つか六つほどだろう。


 父親のものらしい古びた半纏を抱きしめ、壁際で小さく丸まっている。


 左近は子どもへ視線を落とした。


「なぜ、このようなところで寝ている」


「倅にございます」


 湯番が、申し訳なさそうに答えた。


「女房は夜明け前から朝餉の炊事場へ出ております。わしも朝湯の支度がございますゆえ、家へ一人で置くわけにもまいらず……」


「それで連れてきたのか」


「仕事が終わるまで、ここで待たせております。いつもは、もう少し暖かい場所へ寝かせるのですが」


 湯番は子どものそばへしゃがみ、ずり落ちていた半纏を掛け直した。


 子どもは目を覚まさない。


 ただ、父親の袖を探すように、小さな手を動かした。


「とうちゃん……」


「ここにおる」


 湯番は小声で答えた。


 眠っている子に聞こえたかどうかは分からない。


 それでも子どもの手は止まり、再び半纏を握った。


 左近は何も言わず、湯場の中を見回した。


 壁際には、夜番を終えた足軽たちが座っていた。


 順番を待つ間に眠ってしまったのだろう。


 鎧は外しているが、頬や腕には土がこびりつき、足袋は夜露に濡れている。


 別の隅には、城下の修繕に来た老人がいた。


 傷めた膝を抱え、湯気の近くで身体を温めている。


「ここは、兵だけが使う湯ではなかったな」


「はい」


 湯番が答えた。


「殿のお指図で、夜番を終えた兵も、普請に出る者も、炊事場の者も、決められた刻に使えるようになっております」


「揉めぬのか」


「初めのころは、少々」


 湯番は苦笑した。


「武具方が先だ、炊事方が先だと。ですが、小さき湯番様が札を作ってくださいまして」


 壁には何枚もの木札が掛けられていた。


 夜番。


 炊事場。


 普請方。


 女衆。


 子ども。


 誰が、いつ、何人で湯を使うのか。


 つたない字も混じっているが、一目で分かるよう工夫されていた。


「順を決めなければ、強い者ばかりが先に入ってしまいます」


 湯番が言った。


「小さき湯番様は、子どもと年寄りを後回しにするなと」


「なるほどな」


 湯はひとつでも、使う者は多い。


 限られた湯。


 限られた刻。


 限られた場所。


 誰を先に入れ、誰を待たせ、最後まで誰を忘れないか。


 戦場にも似ていた。


 限られた水。


 限られた飯。


 限られた退き道。


 順を誤れば、弱い者から帰れなくなる。


 左近が木札を見つめていると、木樋の奥から奇妙な音がした。


 こぽり。


 こぽり。


 流れる水の音に混じって、


「くくっ」


 子どもが喉を鳴らしたような、小さな笑い声が聞こえた。


 左近は素早く振り返った。


「今のは誰だ」


「は?」


 湯番も足軽たちも、顔を見合わせる。


「誰か、樋の向こうにいるのか」


「いいえ。あちらは水路と藪だけでございます」


 左近は木樋の先を睨んだ。


 薄暗い水路で、水面が小さく波打っている。


 人影はない。


 鳥や獣が逃げた様子もなかった。


 ただ、濡れた石の上に、小さな跡がひとつ残っている。


 幼子の足跡にも見えた。


 だが、指のような筋が、妙に長い。


 左近が近づこうとした途端、木樋から水がひと筋こぼれた。


 小さな跡は水に撫でられ、たちまち消えてしまった。


「……獣か」


 ちりん。


 湯口の近くで鈴が鳴った。


 誰も触れていない、小さな鈴だった。


 白い湯気が、ひときわ濃く立ち昇る。


 その奥に、幼い人影が立っていたような気がした。


 左近が目を凝らしたときには、もう何もいない。


 ただ湯の表面に、幾重もの波紋が広がっていた。


「左近様?」


「いや。何でもない」


 左近は湯船から目を離した。


 佐和山の水には、人には見えぬ何かがいる。


 今さら驚くほどのことではない。


 水の巫女に比べれば、少々笑う水が増えたところで同じことだ。


「父上……」


 板の間の子どもが身じろぎした。


 薄く目を開け、眠そうに父親を見上げる。


「まだ、おしごと?」


「ああ。もう少しじゃ」


「ちゃんと、かえってくる?」


 湯番は一瞬、困ったような顔をした。


 それから子どもの頭を撫でる。


「この湯を整えたら、すぐに帰る」


「きのうも、そういった」


「昨日も帰ったであろう」


「おそかった」


「すまぬ」


 子どもは父親の半纏へ顔を埋めた。


「はやく、かえろうな」


「ああ」


 湯番は静かに頷いた。


「一緒に帰ろう」


 何げない親子の言葉だった。


 だが左近の耳には、妙に重く残った。


 一緒に帰る。


 そんな当たり前の約束が、戦になれば当たり前ではなくなる。


 父が帰らぬ家ができる。


 子が帰らぬ家ができる。


 待つ者だけが残される。


 主は、それを少しでも減らそうとしている。


 だから勝つためだけではなく、帰る道を作ろうとしているのだ。


「左近様」


 湯番が木樋を見上げた。


「継ぎ目が緩んでおります。直してまいりますので、しばし湯口を見ていただけませぬか」


「わしに湯番をせよと?」


「ほかの者は井戸水を運んでおりますゆえ……」


 湯番は青ざめ、慌てて頭を下げた。


「申し訳ございませぬ。すぐに別の者を呼んで――」


「よい」


 左近は湯口の脇へ腰を下ろした。


「行ってこい」


「はっ」


 湯番が木樋の修繕へ走る。


 子どもが不安そうにその背を見送った。


 左近は腕を組んだまま言う。


「心配するな。そなたの父は逃げたのではない」


「しってる」


 子どもは眠そうな目で左近を見上げた。


「とうちゃんは、いつもかえってくる」


「そうか」


「おじちゃんも、かえってくる?」


「おじ――」


 左近の眉が動いた。


「わしは、まだそこまで老いておらぬ」


「じゃあ、おじいちゃん?」


「なぜ年を増やす」


 夜番帰りの足軽が、堪えきれず吹き出した。


「左近様、幼子に怒ってはいけませぬ」


「怒っておらぬ」


「顔が怖い」


「これは生まれつきだ」


 子どもも小さく笑った。


 その笑いに重なるように、木樋の奥から、


「くくっ」


 また、かすかな声が聞こえた。


 子どもが水路の方を見る。


「あ」


「どうした」


「みずのこも、わらった」


「水の子?」


「さっきから、そこにいる」


 子どもが木樋の下を指差した。


 左近には何も見えない。


 水が流れ、朝の光が揺れているだけだ。


「どのような姿だ」


「わかんない。みずのなかだもん」


「ならば、見えておらぬではないか」


「でも、いるよ」


 子どもは当たり前のように言った。


「とうちゃんが湯をなおすと、いつもわらう」


 ちりん。


 再び鈴が鳴った。


 今度は先ほどより、わずかに強く。


 それ以上聞くな、と誰かに止められたようだった。


「……佐和山は、にぎやかな城だな」


 左近は溜息をついた。


 湯へ流れ込む湯量を確かめる。


 多すぎれば熱い。


 少なすぎれば冷える。


 急に水を加えれば濁り、放っておけば溢れる。


「軍より面倒だ」


 左近が呟くと、眠りかけていた子どもが答えた。


「とうちゃんも、そういう」


「そなたの父もか」


「でも、湯がわるくなると、みんなが困るから、まもるんだって」


 子どもは欠伸をした。


「かえってきたひとが、あったかくなるように」


 左近は湯口を見つめた。


 夜番を終えた足軽。


 普請で身体を痛めた老人。


 朝餉を作り終えた女たち。


 冷えた身体で戻ってくる者たちを、この湯が迎える。


 戦場から戻る兵も同じだ。


 鎧を脱ぎ、泥を落とし、温かい湯に肩までつかって、ようやく帰ってきたのだと気づく。


 左近はこれまで、兵を死なせぬために策を練ってきた。


 だが、その先を考えたことがあっただろうか。


 生き残った兵が、どこへ帰るのか。


 帰った先で、誰が湯を沸かし、誰が飯を炊き、誰が「おかえり」と言うのか。


 主は、そこまで見ていた。


 だからこそ、勝つ支度だけでは足りぬと言ったのだ。


「さむい」


 子どもが小さく身を震わせた。


 抱えていた父親の半纏は、薄く擦り切れている。


 左近はしばらく子どもを見たあと、自分の羽織を外した。


「使え」


「いいの?」


「父親が戻るまでだ」


 子どもの肩へ羽織を掛ける。


 幼い身体には大きすぎて、足の先まで隠れてしまった。


「おっきい」


「わしの羽織だからな」


「あったかい」


 子どもは羽織の襟へ顔を埋めた。


「おじちゃん、ありがと」


「おじちゃんではない」


「左近様だよ」


 足軽が教えると、子どもは素直に言い直した。


「さこんさまも、ちゃんとかえってきてね」


 左近の手が止まった。


 子どもはもう目を閉じている。


 深い意味などない。


 父親に言った言葉を、そのまま左近にも向けただけだ。


 それでも左近は、すぐには答えられなかった。


 生きて帰れ。


 主の声が、再び耳の奥で響く。


 戦場で死ぬ覚悟なら、いくらでもできる。


 だが、帰ると約束するには勇気が要る。


 必ず守れるとは限らぬ約束だからだ。


 それでも。


 待つ者がいるならば、約束しなければならない。


「……善処しよう」


 左近が答える。


 ちりん。


 湯口の鈴が鳴った。


 弱い返事を叱るような、鋭い音だった。


「分かった、分かった」


 左近は誰もいない湯気へ言った。


「帰る。帰ればよいのであろう」


 湯船の水面が、嬉しそうに揺れた。


     ◇


「直りました!」


 湯番が戻ってきた。


 締め直された木樋から、湯が滑らかに流れ込む。


 父親の声を聞いた子どもが目を覚ました。


「とうちゃん!」


 左近の羽織を引きずりながら立ち上がり、父親へ駆け寄る。


 湯番は濡れた手を慌てて拭き、子どもを抱き止めた。


「こら、羽織を引きずるでない。左近様のものだぞ」


「とうちゃん、かえってきた」


「ああ。ただいま」


「おかえり」


 短い言葉だった。


 それだけで、子どもの顔が明るくなる。


 左近は黙って親子を見ていた。


 父親が、湯樋の修繕から戻った。


 ただそれだけのことだ。


 それでも待つ者にとって、帰ってきたという事実は、何より大きい。


「湯も整いました」


 湯番が頭を下げる。


「左近様、ありがとうございました」


「礼には及ばぬ」


 夜番帰りの足軽たちが立ち上がった。


 一人が湯船を覗き込み、左近へ尋ねる。


「左近様が、ずっと湯を守っておられたので?」


「そうなるな」


「敵でも参りましたか」


「来た」


 足軽たちの顔が引き締まる。


「どこに」


「湯冷めという敵だ」


 一瞬の沈黙のあと、湯場に笑いが起きた。


「それは恐ろしい」


「左近様がおられれば、朝湯も安泰ですな」


「馬鹿を申せ。さっさと入れ。次がつかえている」


「はっ」


 足軽たちは笑いながら湯へ向かった。


 泥にまみれた身体を洗い、強張った肩を湯へ沈める。


 老人もゆっくりと立ち上がり、そのあとに続いた。


 皆、それぞれの仕事を終えて、ここへ帰ってきた者たちだった。


 戦が近づいている。


 明日も、同じ朝が来るとは限らない。


 それでも今朝、湯はある。


 帰ってきた者を迎える湯気がある。


 左近は、羽織を受け取った。


 子どもの温もりが、まだ布に残っていた。


「殿」


 誰にも聞こえぬ声で呟く。


「生きて帰れとは、まことに難しいご命令ですな」


 戦場で死ぬことより。


 敗れてなお立つことより。


 帰る道を守り、一人でも多く連れ戻すことの方が、きっと難しい。


 だからこそ、その命を受ける者が要る。


「されど――」


 左近は腰の刀へ手を置いた。


「この左近、朝湯ひとつ守れぬようでは、殿の無茶には付き合えませぬ」


 ちりん。


 鈴が、今度は柔らかく鳴った。


 木樋の向こうからも、


「くくっ」


 小さな笑い声が重なる。


 左近が振り向く。


 濡れた石の上に、小さな足跡が並んでいた。


 丸い踵。


 人よりも長い指。


 足跡は水路へ続き、朝日が差し込む手前で、ふつりと消えている。


「みずのこ、かえったよ」


 子どもが言った。


「そなたには見えるのか」


「見えないよ」


「では、なぜ分かる」


「わらわなくなったから」


 子どもは不思議そうに首を傾げた。


 左近は足跡と子どもを見比べる。


 やがて追いかけるのを諦め、肩をすくめた。


「人も水の子も、帰る場所を知っているということか」


 答える者はいない。


 ただ、木樋を流れる水が、こぽりと音を立てた。


 白い湯気が朝の光へ昇ってゆく。


 生きて帰ると、まだ強く誓えたわけではない。


 死への覚悟が消えたわけでもない。


 それでも島左近は、この朝初めて――。


 己が守るべきものを、戦場の向こうに見た。


 父を待つ子どもを。


 仕事を終えて戻る者を。


 冷え切った身体を迎える、湯気の立つ場所を。


 関ヶ原まで、あと四十七日。

死ぬ覚悟よりも、生きて帰る約束の方が難しい。

左近にとって、この朝湯は小さくとも大切な戦場になりました。

そして、木樋の向こうで笑っていた「水の子」。

まだ姿は見せませんが、佐和山の水には、白那とは違う何かも潜んでいるようです。


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